風のメモワール102

びーぐる


2008.11.26

「びーぐる」というのは、犬じゃなくて、
創刊された詩の雑誌、季刊びーぐる。
編集同人は高階杞一、細見和之、四元康祐、山田兼士の四人。

「詩学」の廃刊、
「ミッドナイト・プレス」そして「るしおる」の休刊という状況のなか、
若い詩人たちのでてくる場が必要だということで創刊されたようである。
今では詩の雑誌は「現代詩手帖」と「詩と思想」ぐらいになっているという。

詩の現在についてはほとんど知らないし、
上記編集同人のうち、詩を読んだことのあるのは
細見和之、四元康祐の二人くらいなので
この「びーぐる」をぱらぱらと読んでみても
いまひとつぴんとはこない。

お気に入りの詩人は何人かいて
それはそれでぼくの養分にはなっているものの、
だからといって、現代詩人をどんどん読んでみたい、
という気持ちはかつてほど、いまはあまりない。
おそらくぼくのなかで
「言葉」に対する姿勢が
しだいに変わってきているというのがあるのかもしれない。
言葉が新しいとか新しい表現とかいったことよりも
別のなにかを言葉に求めるようになっているのだろう。

たとえば、
蝶は宇宙の記憶、鳥は宇宙の思考、コウモリは宇宙の夢・・・
というようにシュタイナーが語る
高次の自然学を表現する言葉のほうに
むしろ深いポエジーを感じるようになったというのもあったりする。

とはいえ、詩の雑誌が創刊されたということで
少しのぞいて見る気になった。
詩といっても、いまだにぼくは詩がなにかはわからないし、
自分が詩のように書いたりしているものを
自分では詩とは思ってはいない。
「鳥は宇宙の思考」というような表現ができればとは思うのだけれど、
そんなことがやすやすとできるものではないわけだし。

ともあれ、
言葉というのは不思議で
言葉では表現できないといいながらも
それそのものが言葉にとらわれていたりもするわけで
言葉への不信感といっても
言葉から自由でありえるということでもない。
しかし、言葉の通常の働きのなかではとらえられないものを
「ポエジー」としてとらえられることができれば
ということはいつも思っている。
ノヴァーリスの
「すべての学はポエジーになる、哲学になったあとに」
という言葉のように。