風のメモワール100

冒険へのレッスン


2008.11.25

「冒険へのレッスン」というのは
coyoteの12月号の特集。
ここでいう「冒険」というのは
主に「秘境や異国や海洋へ」のものだけれど
もちろん冒険は外にばかり向かうものではなく
内的世界へ向かうものでもある。

シュタイナーは、たとえば『感覚の世界から霊の世界へ』
(筑摩書房「シュタイナーコレクション2・内面への旅」)
という連続講義の最初の講義で
「世界は二つの側から見ることができ」るといっている。

外側から見ると、
「外なる世界は、その一面を私たちの眼や耳その他に開示していますが、
その同じ世界が、その同じ世界が、人間を通して全面的に開示され
ている」、
「神々は宇宙のあらゆる側から働きかけ、
その働きの中心点に人間を起きました」
ということができるのに対し、
内側から見ると、
「宇宙の輝かしさ、すばらしさが外から人間を貫いて働きかけてく るように、
私たちの魂の内部にも、それと同じように圧倒的に働きかけている ものがあります。
それは愛と熱情が人間の道徳理想、道徳目標と結びつくときに生じます。
それは、巨大な熱となって私たちの心に流れ込みます」
ということができる。
とはいえ、そういう理想の力を深く感じ取ればとるほどに
自分がそういう理想からいかに遠く離れてしまっているか、
その卑小さを感じ絶望せざるをえない。

シュタイナーは、「なぜ、同じ神的根源に発するこの二つが、
こうも互いにかけ離れてしまっているのでしょうか」と問いかけ、
「これこそが、人間存在の謎」であるといっている。
そしてその両者に橋を架けることについてさまざまに述べている。

実際、「冒険」というのを考えてみると、
おそらくその向こうに見えてくるのは
「人間存在の謎」なのではないかとぼくには思えてくる。

「人間存在の謎」というのは、
じぶんという存在の謎でもあって、
ひとときはその矛盾を忘れ去ることはできたとしても、
やがてはだれしもその矛盾に引き裂かれざるをえないのだろうと思う。
そしてそこから出発することなくしては、おそらくはどこにも行け ないし、
その問題をだれかに向かって放り出すことなどはもちろんできず
じぶんで引き受けざるをえない。
ユングのいう「個性化」というのもそのひとつ。
「対立物の結合」というのもそう。

終わることのないプロセスとしての「人間存在の謎」。
そして、「冒険へのレッスン 」の第1章は
それに気づくことなんだろうと思う。
最終章はもちろんはるかに見えない彼方の謎のまた謎。