雑誌en-taxi spring 2007の「The Last Waltz」という 
          追悼コーナーで紹介されていたので、 
          「中野幹隆」って?と思っていたら、 
          この人、『現代思想』や『エピステーメー』、『週刊本』などを 
          立ち上げた「伝説のアカデミ系編集者」で、 
          やがて朝日出版社を追われ、 
          哲学書房というたった一人の出版者を立ち上げたという。 
          そしてこの1月14日、63歳で亡くなった。 
        この記事の最後に 
          「あんな編集者、もう二度と出てこない」とある。 
          この追悼記事を書いているのは、ぼくとほぼ同世代の中森明夫。 
          ぼくの本棚には、いまでも『エピステーメー』や『週刊本』、 
          当時の『現代思想』などが、郷愁を伴いながら一群の場所を占めていたりする。 
          とはいえ、中野幹隆という編集者の名前は記憶になかったりする。 
          その理由を中森明夫はこう記している。 
          「松岡正剛、三浦雅士、安原顯らニューアカ・ブームを仕掛けたと称する 
          イモ連中と違って、幹隆さんは自己宣伝がヘタだった。」 
          「イモ連中」とは手厳しいが、 
          「その正体は知られていない」というように 
          ある種の孤高の美学をもっていたのかもしれない。 
        中野幹隆という人のことをほとんど知らないままではあるが、 
          30年ほど前の自分への郷愁も含めて、記しておくことにする。 
      しかし、中野幹隆は、なぜ朝日出版社を追われたのだろう?  |