その5 「不安から得をする」 (2007.8.17)
   僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得を
    したと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影
    響しているかは、今日になったはじめて思い当たる処である。現実
    の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて
    不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えな
    い。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではない
    か。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである。
    (「僕の大学時代」)
    (『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』新潮新書/P.61)
学生時代にかぎらず不安が去ったことはないように思える。
  では、安心とはどういうことだろうと考えてみる。
その字のとおり、心が安らっている状態だろうか。
  心が安らっているということは、安定して平衡を保っている状態である。
  昨今はやりの「癒し」というのもそういう状態を求めているということだろう。
  心が安らっているのはたしかに気持ちのいいものだし、
  ときにはそういう状態を持てないとなかなかツライ。
  しかしいつもそういう状態にいるとどこにも行けなくなる。
  つまり自分は常に変化している存在であることを拒むようになってしまう。
もちろん変化するということは、かならずしもプラスであるとはかぎらない。
  ときに、またはしばしば、変化は大きな苦痛となって襲いかかってくる。
  しかしプラスであるとかマイナスであるとかいう評価は別として
  自分は常に変化を余儀なくされている、
  いや変化そのものが自分であるということを忘れてしまったとき、
  その人はみずからの生を否定してしまうことにもなる。
行く河の流れは絶えないのに
  その流れを否定してじっとしていようとすることはできない。
  むしろじっとしていることのほうに多大なエネルギーを要してしまう。
  もちろんそれが必要な場合もあるであろうが、
  変化を受け入れながら、そこで何かを得ようとすることのほうが得策である。
そういえば、ぼくの学生時代は、
  なにも見えずわからない類の不安とともにあった。
  突然のように家は破綻し経済的にも追い詰められながら
  学費と生活費をなんとか稼ぎながら生きていた。
  前途はまるで見えなかったので、
  むしろ、今自分が学ぼうとしているのは何かということのほうを
  毎日ぼんやり考えていたように思う。
  それ以前にも学校で教えられるような知識にはあまり興味がなかったが、
  それ以降、さらに本当に学ぶ必要のあることが何なのかを
  自分なりに真剣に考えるようになったのではないだろうか。
  本来ならそういうことを考えるような余裕のない状況だったからこそ、
  それをしないではいられなかった。
  だから、なんとか這うように卒業し、かろうじて就職先に転がり込んだ後にも、
  そしてその後、今に至るまで、そのことだけは真剣に考え続けているように思う。
  これも、ひょっとしたら「不安」のないまま行けば、
  むしろ曖昧にすませてしまっていたことかもしれない。
  「不安から得をする」というのは、たとえばこういうことではないか。