小林秀雄メモ

その4「一線を飛び越える」 (2007.8.16)

   平和とは休戦期の異名だ、と誰かが言った。それは本当の様だが
  嘘である。頭の中で平和と戦とを比較してみた人の理屈である。だ
  が実際の平和と実際の戦とは断然とした区別があるのではあるまい
  か。人間は戦うまで戦というものがどういうものか知らぬ。どんな
  に戦の予想に膨らんだ人もほんとうに剣をとって戦うまでは平和た
  らざるを得ない。人間は戦う直前に何か知らない一戦を飛び越える。
  (「満州の印象」)
  (『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』新潮新書/P.72)

何かをするというのは大変なことだ。
ぼくのような鬱人間は、日々のあらゆることを大変なことだと感じる。
朝起きるときから、人と会ったり話をしなければならないということや
食べなければならず、眠らなければならない等々、
あらゆることが大変なことになる。

ましてや、戦うことが
大変なことでないわけがない。
相手を殺してしまいかねないのだ。
積極的に人を殺す。
しかも、戦争は、集団的なエゴのもとに
それに善の旗を立てて、である。

ある意味、ぼくは平和ボケだといわれても
仕方ないところがあるのだろうけど、
ぼくにとっては、平和的な日常などないし、
あったとしても「休戦期」などではない。

それはともかく、
なにかをするとき、人は「一線」を超える。
超えざるをえない。

その超えるということに無頓着な人もいる。
むしろ超えないことを非難さえするようなこともある。
超えなければ居ても立ってもいられない人もいる。
ひとりでじっと鬱をむさぼっていることができないのだ。
それはもちろん、ある種の「愛」の発露であろうし、
そういうふうに、あらゆる「一線」を超え続けていないと生きていられない人がいて
世の中は成り立っているということもできる。
ぼくにせよ、ときには、消極的にせよ超えざるをえないこともある。

戦うことのできるという条件は何だろうか。
剣をふりかざすことのできるという条件は何だろうか。
仮想にせよ、何かを守ろうとする、という状況は考えられる。
ぼくのような鬱であったとしても、
ぼく自身または守りたい人から
剣をもって襲う者がいれば、戦うこともあるだろう。
もとより、そんなに惜しい命でもない。

しかし、どんなに頭が妄想や独善や集団的狂気に駆られていたとしても、
こちらから剣をもって戦うことになるというのは、
ぼくのちっぽけな想像をはるかに超えている。
そのとき、人はいったいどんな「一線」を超えているのだろうか。

臆病者のぼくにも、超えたい「一線」は確かにあって、
ときにはその決断をせざるをえないときもあるのだが、
剣をとって人を殺そうとでもするような、
決して超えたくない「一線」もある。
そして、そんな「一線」を超えざるをえなくなったとしたら、
いったいそのときぼくは、どういうぼくになっているのだろう。