小林秀雄メモ

その1 「ものがわかるということ」 (2007.7.24)

  凡そものが解るという程不可思議な事実はない。解るという事には
  無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールもいう
  し、会社員も言うのである。(「測鉛II」)
  (『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』(新潮新書/P.11)

「わかりました」というのは、
かならずしも「わかった」ということではない。

たとえば、ぼくがあるテーマについて理解していることについて説明し、
ぼくが意図している通りに(全部とはいわないまでもおおむね)
相手が理解しているとは限らない。

説明の仕方の問題もあるだろうが、
ときにひどく徒労に襲われてしまうのは、
ぼくと相手の「わかる」ということそのもの質の違いが
とほうもないまでの違いとして救いようもなく顕在化してしまうときだ。

もちろん、ぼくが説明される相手で
その理解があまりにも説明者と距離があるために、
どうしてもその理解がぼく風に勝手にアレンジされてしまうときにも、
その説明者もひどく徒労を感じるであろうし、
わからなさに身を置くぼくにしても、ひどく疲れてしまうことになる。

そもそも「わかる」ということはどういうことなのだろう。
考えてみれば、「わかる」ということそのものがよくわからない。
それは、問いと答えが一対一対応であり、
コンピューターで正解不正解がわかるようなことを意味しているのではないし、
一対一対応でないとしても、そもそもコンピューター上で云々できる話ではない。

しかも、「わかりました」と「わかりません」のあいだにさえ、
「無数の階段」があって、
ときにその両者はおなじものでさえありえることがあるのだから、
「わかりました」にも、そして「わかりません」にも、
「無数の階段」がある。
そして、その「無数の階段」は、ぼくのなかにもあると同時に、
ひとりひとりがさまざまな「無数の階段」にあるといえる。

困るのは、「わかりました」という人が、
自分の「わかる」ということに対してほとんど無自覚で、
「ひょっとしたらわかってないのかもしれない」とか
「自分はわかった気になっているだけなのかもしれない」とかいう
可能性に開かれていないときなのだろう。
「わかる」ためには、「わからない」に開かれてある必要がある。
そうでなければ、その独善はひどくややこしい状況をつくってしまいがちである。
その処方箋として、日本では「沈黙」や「笑顔」(わかったふり)が多用され、
西欧においては、「言葉のキャッチボール」(言い負かし)多用される。

また、「わかる」というのは、たんに考えであるだけではなく、
感情でもあり、また意志でもあるということも忘れてはならない。
「わかりたくない」ことを人は「わかる」ことができない。
このことを踏まえないと、コミュニケーションはひどくむずかしいものになる。
たとえば、シュタイナーのいうキリストとキリスト教のちがいがわからないというのも
おそらくはその多くが、感情や感覚レベルでの「わかった気」と
「わかりたくない」の二重唱にすぎないのである。
もちろん、あらゆる理解にはそういう二重唱が響き渡っている。

さて、「わかる」ということそのものの不思議を前にして、
「なぜわかった気になるときがあるのだろう」
「じぶんがわかりたくないことはどういうことだろう」と、
「わからない」ことをできるだけ「わかる」へと方向づけるための
問いをどこまでもつことができるだろうか。