小林秀雄メモ

その0(2007.7.24)

少し前(といっても4月だけれど)、
『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』(新潮新書)という
小林秀雄の言葉のなかから、年代別に引いてあるものが出ていて、
それを通しで読むでもなく、持ち歩きながら、
おりにふれて拾い読みなどをしてみている。

そういえば「人生」という言葉は、苦手である。
以前であれば、「人生の鍛錬」などという言葉を前にすれば、
そういうものにはできるだけ近づかないようにしたことだろう。
今でも平気で真正面から対することは憚られる。

小林秀雄の書いたものにしても、敬遠してしまうところがあった。
理解がむずかしいというのもあったのだが、
それ以上に、国語の授業や試験などにもでているというのが、
どうも厭味な感じがして敬遠してしまっていた。
最近になって読み直してみると、
(というよりも、はじめてちゃんと読んで、といったほうがいい)
けっこう味わいがあって、一気に距離が縮まった。

そんなところに、『カラマーゾフの兄弟』が来た。
以前読み通しはしたもののほとんど記憶にのこっていない。
ちょうど「光文社古典新訳文庫」なるものがではじめて
先日全5巻が完結したのもあって読み始めてみると面白い。
『21世紀ドストエフスキーがやってくる』とかいう本もでていて
なにやら小さなドストエフスキー・ブームにもなっているらしい。

小林秀雄には、『ドストエフスキーの生活』、
『ドストエフスキーの作品』があるが、
結局のところ、キリスト教がわからないということもあって、
ドストエフスキーについてはそのままになってしまったようである。
ぼくにも「いわゆるキリスト教」については感覚的には距離があって
腑に落ちるという感じはしないものの、シュタイナーのおかげもあって、
「いわゆるキリスト教」ではない「キリスト」への距離はぐんと近づいてきて いている。
『カラマーゾフの兄弟』を面白く、スリリングに読めるようになったのも、
おそらくそこらへんの影響があるのだろう。

「日本人にとってのキリスト教」をテーマにした文学者の遠藤周作が
自作を語る『人生の同伴者』(聞き手/佐藤泰正・講談社文芸文庫)には、
小林秀雄とキリスト教についてこんなふうに語られている。

  佐藤 (…)ドストエフスキーの背後にあるキリスト教を見なきゃ
  ドストエフスキーはわからないよと言われた小林さんが、最後は、
  やっぱりキリスト教はおれにはわからないよ、もうこれで打ち切り
  だ、とおっしゃった。そしてその翌年から延々と『本居宣長』がは
  じまって、じゃあ『本居宣長』が完成したから、小林さんは最後に
  そこに帰られたのかとおもったら、数年後に例の絶筆となった『正
  宗白鳥の作について』で、「白鳥の最後のアーメンというのは何だ」
  という無意識の世界に、もういっぺん筆をもどして突っ込もうとな
  さった。これもまたべつな意味ですごく象徴的に感じました。
  遠藤 私も、ドストエフスキーを卒業されたあと、小林さんに残さ
  れた問題は、信ずるということだと。それを『本居宣長』を書くこ
  とによって、<認識することと信ずること>というテーマをあのな
  かで見つけようとされた。(P.65)

幸いにして、かどうかわからないが、
神秘学は、「認識することと信ずること」との距離が
とても近いというか、「信じずる」ことを「無意識の世界」ところで
云々しなくてもするというところはあるのだが、
それにしても、小林秀雄のそうしたあれこれについて、
少しずつメモでもとってみようかという気になったので、
『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』という引用集から(安易に)あれこれと引きながら、
さらにそこから、ドストエフスキーやら
「日本人にとってのキリスト教」などについても飛び火させながら、
従って、小林秀雄について云々というのではないままに、
小林秀雄が残した言葉から思いついたことをあれこれメモしていきたいと思っている。