「剣の思想」ノート1
歩くこと
2001.12.12
一体歩くというのは、あんまり普通の行為であって、誰しもこれに文化的な
色合いなど感じることはありません。けれども、たとえば現在の日本人が、現
在見られるような歩き方をしていることは、明治維新以後欧米から取り入れら
れた服飾、家屋、医療、軍事訓練、体育教育その他の要因と密接に繋がってい
る。明治期の日本人は、いつの間にか西洋人のスタイルで歩くことを身に付け
たと思われ、その学習はおそらく今でも続いているのでしょう。明治以降の日
本の社会で「よい姿勢」をして歩くとは、すなわち西洋人のスタイルで闊歩す
ることを意味しています。「胸を張って、腕を振って」歩こうとする。
(…)
言うまでもありませんが、四肢を持った哺乳動物の運動は、歩行がその基礎
になっている。人類の直立歩行は、手の自由のためにこの基礎を根っから不安
定なものにしてしまいました。後は、この不安定自体を、いかに習慣化してい
くかです。習慣は、絶え間なく分裂していく文化の歴史のなかで作られる。け
れども、どのような分裂のなかにあろうと、この習慣が目指していることは、
直立歩行がもたらした不安定を軽減させ、忘れさせることにほかなりません。
この目的こそ人類の歩行文化に普遍のものでしょう。言い換えると、直立歩行
の形態はさまざまな文化のなかに組み入れられましたが、歩行することそれ自
体は、依然として自然のなかの営みであるほかない。生命を維持し、展開し、
有効な行為を為す動作の基本であるほかない。
(…)
私たちが、一種の歴史的記憶のなかから懸命に呼び起こそうとしていた剣術
は、このような運動の一般法則を、まず歩行において根底から破る発明として
出現したに違いありません。歩行において破れば、他の一切の動作はそれに従
う。刀を斬り下げ、撥ね上げることも、身を沈め、回転させ、浮き上がること
も。これは、直立歩行の不安定を補う諸々の文化的なやり方ではありません。
作用/反作用の生物的回路から抜け出して、人間の身体が運動のもうひとつの
次元を開くまったく新たなやり方です。
(甲野善紀・前田英樹『剣の思想』青土社/2001.10.30発行/
前田英樹から甲野善紀へ/P9-12)
ずっと前に水前寺清子という人の歌っていた
「三百六十五歩のマーチ」というのがあって、
たしか、「腕を振って足を上げて、ワン・ツー・ワン・ツー」とか
歌っていたと記憶しているのだけれど、
その最後に「休まないで歩け!」とあって、
子供心にも、やだなあ〜、たまんないなあ、と思っていた。
なぜ、そんなに頑張って行進し続けなければならないんだろう、と。
その歌が流行る前から、どうも、学校で行進させられたりするのが、
どうにもいやでたまらなかった。
やっと最近になって、こういう行進とかいうものは、
明治期以降、いきなり導入されてきたものだということを知って、
けっこう納得させられた。
もちろん、それまでのナンバとかう歩き方がいいとか
そういうことを思ったわけではなくて、
ただ、みんなで足をそろえて元気よくいっしょに行進するとかいうのが
どうにも不自然でたまらなかったというだけなのだけれど…。
それはともかく、自分の歩き方、つまり、
なぜそういうふうに歩いているのか、を意識してみると、
そのあたりまえのように思えることが
とても不自然な感じになってくる。
小さい頃を思い出してみても、
その行進させられながら、
ふだんの自分の歩き方とのあまりものギャップに、
まるで自分の足を意識してしまって混乱した百足のように
手足がばらばらになってしまうことがよくあったのを記憶している。
いわゆる「かけっこ」とかいうのもそうで、
早く走れないこともなかったのだけれど、
なぜ早く走らなくてはならないのか、
なぜみんなでヨーイドンしなくちゃいけないのかもわからなかったし、
それよりなにより、いっしょに走っている子たちの足とか手とかを見てて
それに合わせようとしたりしているうちに、
なにがなんだかわからなくなってくることが往々にしてあった。
その後、少しだけ剣道をしたときに、
竹刀でなぐりあうのはあまり好きになれなかったけれど、
すり足というのはけっこう気に入って、
ふつう歩くときにもやってたりしていた。
エーテル的に過去の日本人の血が甦ったのだろうか(^^;)。
で、何がいいたいのかというと、
ふつうあたりまえのように歩いている歩き方にしても、
それは洗脳されたというか、慣習になっているというか、
それだからそのように歩いているのであって、
そのことを意識してみると、
歩くことそのもののなかにある制度のことや
それにともなって自分が縛られているさまざまのことを
意識してみることも可能になってくるのではないかということである。
で、そのように歩かないやり方や、
そのように感じないやり方、そのように考えないやり方を
いろいろと試してみることで、
それまでとは異なった世界とかも開けてくるのかもしれない。
そんなことを思った次第。
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