『韓国』ノート

2 道徳志向性


2002.4.13

 

         韓国とは、<道徳志向性国家>である。
         韓国はたしかに道徳志向的な国であるが、これは、韓国人がいつもすべ
        て道徳的に生きていることを意味するのではない。
        <道徳志向的>と<道徳的>とは異なるのである。
        <道徳志向性>は、人びとのすべての言動を道徳に還元して評価する。
         つまりそれは<道徳還元主義>と表裏一体をなしているのだ。
         現代の日本は<道徳志向性国家>でない。これが韓国との決定的な違い
        である。…
         日本人は没道徳的・現実主義的傾向が強いので、すべてを道徳に還元し
        ない。
        (…)
         日本の道徳は古くさく、韓国の道徳は青くさい。
         日本での道徳のイメージはといえば、「ジジムサイ/保守」というもの
        であろう。だが、韓国で道徳のイメージは、「青春/革新」なのである。
         日本の道徳は現実に追従し、韓国の道徳は現実をつくる。
        (…)
         記憶に新しい例でいえば、2002年ワールドカップ・サッカー大会の
        招致合戦においても、日本には道徳志向性が欠如していることが如実に示
        された。
         世界を舞台にした招致合戦で、韓国は「日本にはメッセージがない」と
        いい続け、日本は「共同開催は前例がない」といい続けた。
         メッセージとは大義名分である。メッセージのない者が世界を変えるこ
        とはできぬ。これが韓国人の主張だ。「W杯を韓国で開けば、南北統一と
        東アジアの平和に寄与する」という気宇壮大でグランド・デザインの意志
        に満ちた提言を韓国はした。翻って日本の「前例がない」とは、あらかじ
        めメッセージを放棄した者のものいいである。たとえば胥吏(小役人)な
        どは、このような愚昧な言葉をいって恥じぬであろう。
         国民レベルでも、道徳志向的な韓国人に対して、日本時は哀れなほど素
        朴で感覚志向的だった。「韓国が日本より優越であることを世界に示す」
        「日本を圧倒することにより日本人の『妄言』を封じ込める」「さらなる
        経済発展をして日本に克つ」などが韓国人の願望であり、「世界の一流プ
        レーヤーをナマで見たい」というのが日本人の欲望なのであった。
         日本人は自己の私的な欲望が公的なメッセージとなりうると誤解し、韓
        国人は私的な欲望を公的な道徳で隠さなければ自己は存在しえないと怯え
        ているのだった。
        (小倉紀蔵『韓国は一個の哲学である』/講談社現代新書/P10-14)
 
韓国は朱子学国家であり、
<道徳志向性>はそこからきている。
日本に<道徳志向性>がないとはいえないだろうが、
「道徳」は多くの場合、いわば「タテマエ」でしかない。
 
明治維新前後や第二次世界大戦前後の日本人の態度変容を見れば
重要なのは「現実」であり、「現実」が変われば「道徳」も変わるのがわかる。
「道徳」は手段であり、結果のためには手段は固定化されにくい。
 
日本では朱子学よりもむしろ陽明学が好まれる傾向があるように見えるが、
それは「知行合一」というよりも、「現実志向性」ゆえのものかもしれない。
その「現実志向性」の依って立つものである「現実」が
いったいどのような「現実」なのかがわからなくなった場合、
その根拠をひっぱりだしてくるのが、まさに「前例」なのである。
だから、「前例がない」ことに対するお役所的な反発は根強い。
 
現代のような「前例がない」ことばかりが跋扈するような時代になると、
「保守」だとか「伝統」だとかが好まれるようになるのは、
おそらくそれを「現実」の根拠としようとするしか術がないからなのだろう。
だから、現状を打破し「改革」を旗印に掲げたところで、
そこにはどのような「現実」を創造しようとするのか
そのビジョンが皆目見えてこない。
 
もっとも、<道徳志向性>によって「現実」をつくろうとするのも、
固定した「タテマエ」(だからそれは疑いようもないものとなる)に基づいて
そうしようとするものなので、そのつくられようとする「現実」は
「現実的」かどうかということになると疑問であり、
それがさまざまな可能性を封じ込めてしまう可能性も強いように思われる。
 
すべてを「道徳に還元」されてしまったら、
あらゆる創造性は凋んでしまうのではないかと
<道徳志向性>の欠如しているかもしれないぼくなどには思えてしまう。
とはいえ、「前例がない」とか、
それゆえにとりあえず「権威」を持ってきて安心する、
とかいうのでは話にならない。
 
政治の世界を見ていても、
そうした「前例」や「権威」が
いかにどうしようもない「現実」であるかは
だれが見ても明かであるにもかかわらず、
ただただ右往左往しているだけのように見えてしまう。
しかし、右往左往しているのがいけないからといって、
<道徳志向的>になってしまうのは危険だろう。
 
おそらく日本の「没道徳的・現実主義的傾向」が生かされるのは
「前例」や「権威」に依らず、
しかも「改革」というような抽象への雄叫びでもなく、
まさに「自由の哲学」的な在り方からなのではないかと思えるのだけれど、
かなり困難な道なのかもしれない。
 
 


■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る