糸井 専門家を自覚してつまらなくなっていくという過程を、ぼくは、こ んなふうに思っているんです。 たとえば、簡単に「お使い」という仕事をしていたとしましょう。会社 を出て買ってくるまでが速い、という取り柄があったとしますよね。だけ どある日「インターネットで買えるからお前は要らない」と言われた時に は、頭が真っ白になっちゃうんですよ。 今まで安定して「自分の取り柄」にしていたものがぜんぶ台なしになっ て、存在意義がなくなってしまうから。そこで必死になって自分の正当性 を主張したりする。「自力で買うことがいかに大事か」とか。……そうい うことと「専門家のだめな人」とは、似ているような気がします。 池谷 さきほど話した、海馬のない人がつくり話をしてしまうことに似て います。 脳には両極端の性質があって、理性を保つために新しい局面に適応しま すが、その反面、可塑性を拒否するような「自分に都合のいいように頑固 に現実を解釈してしまう」ということも本能として備わっていますから。 ただ、海馬が発達していれば新しい局面に適応はできるんです。 …海馬は新しいことを処理する能力に長けている。 (池谷裕二・糸井重里『海馬/脳は疲れない』朝日出版社/P164-165) いわゆる「専門家」には、 「新しい局面に適応」できるというか、 むしろそうした応用可能性ゆえにその「専門」が生きてくる場合と、 その「専門」を自己目的化して閉じている場合があるのではないかと思える。 その「専門家」を、すべての人が自分がそうであると思っているもの、 いわばアイデンティティ的な意味でとらえてみる。 すると、自分がそうであると思い込んでしまい、 そこから抜け出せなくなってしまう状況が いかに自己閉塞的であるかということがわかる。 職業、身分、性別、役割、所属する団体、宗教などなど。 そういったものを自分だと思ってしまっていて、 それでない自分を考えることが難しい状態がそう。 まず、人は人ー間というように、関係性の存在で、 たとえば「お母さんであること」とかいうのも、 子どもに対するお母さんであって、 子ども以外の存在に対するお母さんではない。 その他さまざまなも多くはそういう関係性のなかで とりあえず役割をそう呼んでいるにすぎない。 そうした役割を自分だと思い込んでしまうと、 そこから抜けるのは、宗教的な洗脳状態から抜けるのにも似て困難を極める。 そのように人間は関係性のなかで 自分をとりあえず位置づけてみたりもするのだけれど、 重要なのは、そういう関係性が変化したときに、 その変化に適応できるだけの「自由」に向けて 開かれているかということなのだろう。 もちろん、関係性のなかに自らを解消するのではなく、 関係性における動的な「中」としての「自我」として 自らを位置づけるということ。 シュタイナーは毎日でも「人智学」という名称を変えたいといってうたそうだけれど、 おそらくそれを自己閉塞的なものにしたくなかったのだろう。 ともすれば、というか、常に固定的なものを脱そうとしないかぎり、 あらゆるものは「そういうもの」として自己閉塞的なものになってしまう。 |
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