『海馬』ノート6

脱専門家


2002.7.3

 

        糸井 専門家を自覚してつまらなくなっていくという過程を、ぼくは、こ
        んなふうに思っているんです。
         たとえば、簡単に「お使い」という仕事をしていたとしましょう。会社
        を出て買ってくるまでが速い、という取り柄があったとしますよね。だけ
        どある日「インターネットで買えるからお前は要らない」と言われた時に
        は、頭が真っ白になっちゃうんですよ。
         今まで安定して「自分の取り柄」にしていたものがぜんぶ台なしになっ
        て、存在意義がなくなってしまうから。そこで必死になって自分の正当性
        を主張したりする。「自力で買うことがいかに大事か」とか。……そうい
        うことと「専門家のだめな人」とは、似ているような気がします。
        池谷 さきほど話した、海馬のない人がつくり話をしてしまうことに似て
        います。
         脳には両極端の性質があって、理性を保つために新しい局面に適応しま
        すが、その反面、可塑性を拒否するような「自分に都合のいいように頑固
        に現実を解釈してしまう」ということも本能として備わっていますから。
         ただ、海馬が発達していれば新しい局面に適応はできるんです。
         …海馬は新しいことを処理する能力に長けている。
        (池谷裕二・糸井重里『海馬/脳は疲れない』朝日出版社/P164-165)
 
いわゆる「専門家」には、
「新しい局面に適応」できるというか、
むしろそうした応用可能性ゆえにその「専門」が生きてくる場合と、
その「専門」を自己目的化して閉じている場合があるのではないかと思える。
 
その「専門家」を、すべての人が自分がそうであると思っているもの、
いわばアイデンティティ的な意味でとらえてみる。
すると、自分がそうであると思い込んでしまい、
そこから抜け出せなくなってしまう状況が
いかに自己閉塞的であるかということがわかる。
 
職業、身分、性別、役割、所属する団体、宗教などなど。
そういったものを自分だと思ってしまっていて、
それでない自分を考えることが難しい状態がそう。
 
まず、人は人ー間というように、関係性の存在で、
たとえば「お母さんであること」とかいうのも、
子どもに対するお母さんであって、
子ども以外の存在に対するお母さんではない。
その他さまざまなも多くはそういう関係性のなかで
とりあえず役割をそう呼んでいるにすぎない。
そうした役割を自分だと思い込んでしまうと、
そこから抜けるのは、宗教的な洗脳状態から抜けるのにも似て困難を極める。
 
そのように人間は関係性のなかで
自分をとりあえず位置づけてみたりもするのだけれど、
重要なのは、そういう関係性が変化したときに、
その変化に適応できるだけの「自由」に向けて
開かれているかということなのだろう。
もちろん、関係性のなかに自らを解消するのではなく、
関係性における動的な「中」としての「自我」として
自らを位置づけるということ。
 
シュタイナーは毎日でも「人智学」という名称を変えたいといってうたそうだけれど、
おそらくそれを自己閉塞的なものにしたくなかったのだろう。
ともすれば、というか、常に固定的なものを脱そうとしないかぎり、
あらゆるものは「そういうもの」として自己閉塞的なものになってしまう。
 


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