糸井 人って、つくづく見たいようにものを見るんですねぇ……。 池谷 そうなんです。それと「頭のよさ」って、関係あるんじゃないかと思 うんです。 何かのヒントにはなるのではないでしょうか。 つまり、固定観念を持っている人は頑固で「頭が悪い」と捉えられて、今 までの因襲から自由な目でものを見る人は、「頭がいい」と捉えられます。 最初に「頭がいい」ことの定義のひとつを、ぼくは「正確に判断できるこ と」、つまり、「記憶を参照しながら分類できることだと思う」と言ったの ですけれども、分類できるということは、別の側面から言うと「いつでも決 まったただひとつのものの見方しかできない、かぎられた狭い考え方しかで きなくなってしまう」ということだとも考えられます。 糸井 あ、そうだ。 池谷 「それは、むしろ頭がいいとは言えないではないか」と、自分で思い 直したりもします。 脳はもともと思い込みの強い性質があるから、それをいかに崩せるかが、 「頭がいい」ことのひとつのヒントかと思います。 (池谷裕二・糸井重里『海馬/脳は疲れない』朝日出版社/P100-102) 図式的にものごとをとらえないよう シュタイナーは繰り返し注意し続けていたようだけれど、 図式的にとらえるということは、 なにかを固定的な仕方で見てしまうということ、 つまり、「見たいようにものを見る」怠惰に陥ってしまうということなのだろう。 それは、それはいつも答えが回答欄に書かれてあるような問いのことでもある。 次のもののなかから正解を選びなさい。 空欄(または、カッコ)のなかに適切な語句を入れて、 次の図(または文)を完成させなさい。 そこには、正解か不正解だけがある。 ふと、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』に 述べられている「水の試練」を思い出した。 この試練は「水の試練」とよばれる。なぜなら底に足がとどかぬ水中では、 どこにも足場がないように、この試練の場においても行為する人間を支えて くれるものがどこにもないからである。 正解があるという思いこみは、 人に安心感を与えてくれるけれども、 その正解という図式に人は縛られてしまうことになる。 その図式から自由であるためには、 正解という足場を自分でなくしてみることを学ぶ必要があるように思う。 守破離、といういわば認識や行動のプロセスがあるが、 守は正解があると思い込んでいること。 破は正解ー不正解という図式を崩してみること。 離は、もはや図式を崩そうということからさえ自由になること。 そう捉えてみることもできるかもしれない。 |
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