『海馬』ノート2

ストッパーをはずす


2002.6.27

 

        池谷 脳は、もともと新しいものに対して必ず警戒心を持ちますから。そう
        じゃないと、たとえばはじめて会ったヘビにサルは近づいていってしまいま
        す。それでは噛まれてしまいますからね。
         動物も人間もそこはおなじで、新しい文化が生まれた時には必ず叩かれま
        すよね?
        糸井 あ、でもその警戒心を発動させないようにするのは、おもしろい人に
        なるコツかもしれないですね。
        池谷 生存にとってはあぶないですよ。
        糸井 あぶないけど、でもアーティストって、基本はそういう人ですよ。
        池谷 あ、そうか。むしろ、楽しむ……。
        糸井 ただ、「警戒心を持たないで飛び込む」ということだけを売りものに
        しちゃうと、パターン化してつまんなくなるのでしょうけど、アーティスト
        が、「駄目になる」時に、そういう場合があると思いますね。単なる「冒険
        のようなもの」とか「非常識というルーティーン」とか、人はよく読みこん
        でいますからねぇ。
        池谷 ええ。
        糸井 でも、警戒心というか、ストッパーのなさには興味があります。        
        (池谷裕二・糸井重里『海馬/脳は疲れない』朝日出版社/P38-39)
 
〜すべきだ、〜してはいけない、というのはまさにストッパー。
「君子危うきに近寄らず」を卑小な仕方でとらえれば、
そういうストッパーを機能させよ、ということになる。
常識や慣例から逸脱するときに働く警戒心がないと
「生存にとってはあぶない」わけで、
「組織の論理」が働くのもそのためでもある。
 
そういうストッパーがまるで機能してないとしたら、
つまりストッパーをあえてはずすのではなく、
危うさのわからないままにやってしまうのだとしたら、
それはただ「生存にとってはあぶない」だけにすぎないが、
ストッパーのことがわかっていながら、
あえてそれを外してみる、さからってみる、という側面がないと、
いわば、単なる道徳人間のようになってしまう。
まさに、「〜すべきだ」「〜してはいけない」のオンパレード。
そこに「自由」はない。
 
自分がなにをしようとしているのかを意識しながら、
あえてストッパーをはずしてみる、
「〜すべきだ」は、ほんとうに「べき」なのだろうか、
「〜してはいけない」はほんとうに「いけない」のだろうか、
という疑問を投げかけてみる。
そういう側面がないと、創造性は生まれないのではないかと思う。
 
もちろん逸脱をルーティーン化してしまうと、
たんなるウケねらいにうんざり、という感じになるので、
ストッパーを外すというのは、
ルーティーンにならないような仕方で、ということになる。
 
気を付けなければならないのは、
集団でなされたストッパー外しだろう。
狂信的な集団のように、
ある教義に基づいてそれはなされがちだから。
その種のワークショップなどもその点において注意が必要で、
その場においてはそうすることが当然のように思えてくる、
もしくはその場だからOKというように思えてくる。
しかしそれは結局のところ
「〜すべきだ」「〜してはいけない」の単なる裏返しであって、
「自由」からなされるものではない。
「君子危うきに近寄らず」というのは、
そういう側面でこそ使われる言葉かもしれない。
「みんながするから」という論理こそが
往々にしてまさに「危うさ」でもあるのだから。
 


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