女性・メタセクシュアリティ


女性の未来

メタ・セクシュアリティ
 

 

女性の未来


(92/01/10)

 

 秋山さんは最近ではもっぱら女性の生き方に関する軽い感じの著作が多くなってましたが、以前はなかなか内容のクロスオーバーした、しかも読みやすい書き方のものをエネルギッシュにだされてましたね。僕も、まだ何にも知らなかったころから、秋山さんの著作にはずいぶんお世話になったように思います。

 しかし、なによりも、こうした分野にはつきもののムズカシさという先入見を脱した、読者のことを考えた書き方というのには、大きな功績があったのではないでしょうか。風の谷のナウシカやその他、マンガの分野にも詳しかったようですし、その分かりやすさということで、ともすれば安易になってしまう傾向からは彼女の姿勢は遠かったように思えるんです。 

 僕は、秋山さんのことは、著作を通じてしか知りませんが、僕の知る限り、これからの女性の中ではもっとも尊敬すべき方の一人であったように思えます。というのも、彼女には、女性がともすれば陥ってしまうような母性のアブジェクシオンが見られなかったからで、あれだけの知性がありながら、しかも女性ならではの感性の部分に優れているなんて、なかなかむずかしいように思えるんです。

 この際、誤解を恐れずにいってしまうと、これからの女性に求められると思うのは、知性と女性的な感性の調和ということだ、と日頃から僕は思っていて、僕の知る限り(自分を棚にあげていうと)、母性に片寄り過ぎるか、知性や闘争心を過剰に押し出すかのどっちかに片寄った方が最近は特に多くなってきているように思えて、このままいくとどうなってしまうんだろう!というのが正直な気持ちです。

 最近の教育環境をみても、子どもを完全にスポイルしてしまっているお母さんが本当に本当に多いですよね。幼稚園の先生などともよく話すことがあるんですが、最近のお母さんというのは、子どもを自分の支配化に置くことだけを考えている人が多くて、その度合いはますますエスカレートしている。ただ救いは、自覚的な方が少ずつではあっても確実に増えてきていることだけらしいのです。 

 おそらく、これからの時代を良くするも、悪くするも、その大きな部分は女性たちの行方にかかっているような気がしてます。シュタイナーの「精神における自由」「法における平等」「経済における友愛」という3つの原理的な考え方がここでも重要になってくるように思えます。この考え方をベースにして、女性の感性的な部分や母性的な部分を調和的に発現していくような方向性についてもっと真剣に考えてみたいものです。 

 

メタ・セクシュアリティ


(92/01/11)

 

 女性論は同時に男性論でもあります。これは当然といえば当然のことすよね。陰陽の太極図のようなものでしょう。

 この問題を語るについてはわりと慎重にしないとコワイなというのがあって、あえて、あまりふれてきませんでした。FSHISOにフェミニズムのを議論するような部屋がありますけど、そこなんかのいろんな意見を聞いていても、やはりそのほとんどが社会論的なスタンスで、権利問題のような議論になってしまっているし、雑誌なんかでふつうとりあげられているのもそうしたテーマの延長線上にあるものが圧倒的に多くて、極論でいうと「セクハラ」の被害者のような議論しかない。そんなの読んでると、半分は興味本意でおもしろがってはいますが、やはり、悲しい気持ちになるのは僕だけではないと思います。

 要は、男性と女性の共通部分と「差異」の部分の相互理解であり、その「差異」の部分を「差別」ではなくて、プラスの意味での「違い」という方にシフトさせていくための、現状を認識した上での努力であろうかと思います。そして、男性原理と女性原理についていろんな角度から検討を加えながら、単に、「性」としての「女性」、「男性」とかいう議論を超えて、これもシュタイナーではないけれど、もっと宇宙進化論的なビジョンにまでもっていかなければいけないと思っています。 

 こうした考えかたについていろいろ考えさせてくれていたのが他ならぬ秋山さと子さんで、かなり昔になりますが、「メタ・セクシュアリティ」(週間本27、朝日出版社、1985)という本を書かれていています。おそらくこの本は絶版だと思いますので、簡単にその目次を紹介しておきますと、 

●第1章/女性英雄時代の到来/風の谷のナウシカ

●第2章/精神分析運動と新たな女性たち/フリーダ・ロレンスとアナイス・ニン

●第3章/無意識の罠/精神分析の危険性

●第4章/両性具有/性アイデンティティーからの解放

●第5章/新たな意識の誕生/21世紀の性

 ということで、女性の社会的な力がぐんぐん大きくなってきた現代のもとになった今世紀初等からのさまざまな女性像をとりあげながら、もっともそれらの「力」を調和的で力強い像として描いている「ナウシカ」的ビジョンを象徴的な参考にした上で、精神分析的に見た「セクシュアリティ」の問題についていろいろな考え方を提出されています。

 そして、「セクシュアリティ」の解放ということにまつわるさまざまな危険性を指摘しながらも、新しい可能性を「メタ・セクシュアリティ」に見ようとしているように思えます。 

 以下、ちょっと長くなりますが、そこらへんのことについての引用を。

 長いこと、男性が思考の面を司っていて、女性が感情の面を司っていた。それで思考が常にリードしていて、感情が後からごそごそとついていくという、そんな時代だった。

 ところが今や、男性と女性の区別は余りないんです。感覚というのは、男性も女性ももっている。とくに、合理性とかそういうものと関係ない。非常に瞬間的、即時的で即物的な時代なんです。だから、男女の別はどんどんなくなってきています。

 そういう意味で女性の感性の方が男性の感性よりも流れをつかむのは早いし、それよりも子供の感性のほうが早いということになる。流行でも風俗でもなんでも、現代は女性や子供が主導権を握っているわけですね。 

 人間が一番最初に発達させるのは、恐らく感覚なんです。もう1回その感覚から見直して、これからどういう思考が出てきて、世の中がどういうふうになるかわからないけど、さしあたり、今の時代を突っ走っているのは、正にこの感覚なのです。 

 (中略/ナウシカのような女性の英雄についての話がこの間にあります)

 こういう女性の英雄が非常にもてはやされる時代というのは、そういう方向を示していることは確かです。ただし、私は人間というのは、感覚だけでは済まないと思います。だから、まだまだ変わっていくでしょう。感性という言葉は、単に感覚だけではないわけです。そこにもちろん、形而上学的なものも心情的なものもある程度含まれているんです。これからは、もっともっと女性も形而上学を語るようになるだろうし、男性も感情とか、そういうものをもっと発達させるようになってくることでしょう。 

 現在のところは、どこか自閉的で幼稚な感じがしますが、そこから新しい意識を持った人間が出てくるのではないでしょうか。たとえば、一人の女性が、ある時にはまったく女らしく、やさしく、美しく、目もくらむほど魅力的で、また別の時には、まったく男性的で、仕事もバリバリこなして、頭が鋭く、勇敢であるとうような、バイ・セクシュアルを持ち合わせた人間であるというような・・・。[・・・]バイ・セクシュアルというと誤解があるから、メタ・セクシュアリティとでもいった方がいいかもしれません。これは、自分の意志で、どちらでの役割でもできる人間のことです。 

(中略)

 精神分析に危険が伴うように、この新しい人間像のあり方も、危険だらけのようですが、しかし、危険を恐れていたら、なにごとも前には進まないし人間の自覚と意識化はできません。新しいメタ・ケクシュアルな人間像の出現に期待したいと思います。

 これはあくまでも、秋山さんのビジョンなわけで、この他にもさまざまなセクシュアリティに関する議論はつづけていかなければいけないと思いますが、ユング心理学をベースとした秋山さんの考え方については僕なんかは、大きな賛同の拍手を送りたいと思います。もちろん、その他のビションを切捨てるわけではありませんが。 

 僕個人でいうと、秋山さんと同じことをずっと僕のパートナーとも考えてきていました。

ちなみに、僕のパートナーは大学のときの同級生でそれ以来15年ほどのつきあいで、こうした問題はことあるごとにクローズアップされざるを得ない問題で、その話の中でも、こうした秋山さんのメタ・セクシュアリリティという考え方は非常に大きな可能性を秘めているのではないか、とよく話していたものです。ただ、最近では、やはり地域性、文化性などといった要素や本来の男性や女性の「霊性」といったさまざまなファクターについても考慮にいれるべきではないか、とかいうようにはなっていますが。  

PS 

 「アブジェクシオン」について。僕の理解の範囲で説明しておきます。 この用語は、フランスの精神分析学的記号論(とでもいえばよいのかわかりませんが)のクリステヴァの用語で、アブジェクト(abjekt)というのは「おぞましきもの」とでもいうような意味の言葉ですが、詳しくいってると結局煩雑になりますから、誤解をおそれず単純化していうとするならば、子供は最初の母との一体的な状態から分離して母親の外部に自立して存在するようにならなければならないのに、その「母なるもの」との分離を阻止し、母・子の一体状態を保持しようとする母性の働きのことを、僕はアブジェクシオンという言葉で説明したような気がします。つまり、それはユング風にいうならば、グレートマザーが否定的に出ることといってもいいような気がしますし、母性の原型のようなものがマイナスエネルギーとして外化すること、といってもいいような気がします。 

 よく、悟りの境地について、太初に帰るとかいう言い方をしたりしますが、そのためには禅の十牛図ではありませんが、ひとまず母的な一体感を離れ、自らを外化するというプロセスを経なければいけないと思うのです。トランス・パーソナル心理学のケン・ウィルバーもいっているように、「前」と「超」ということは混同しやすいけれども、これを同一視しるのはカテゴリー・エラーであると、その混同に警告を発しているようです。 

 で、最近の母親の傾向として、子どもを自立させないで、自らの中に取り込んでしまおうというような無自覚な傾向性がかなり強くなってきているんじゃないか、というのが僕の観察の結果、というわけです。


 ■「女性・メタセクシュアリティ」のトップに戻る

 ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る