『自己教育』ノート9

方言


(2003.4.16)

 

         五年生の終わりを飾るとてもよい体験になるのは、ドイツのさまざまな風土を
        学び、観察するエポック授業です。この授業で、子どもたちは地方によっていろ
        いろな方言があることを学びます。ドイツ語には、風土によってまるで色彩が変
        化するように、さまざまな方言があります。私は、子ども時代からいくつかの方
        言をうまく話すことができます。そこで、子どもたちといっしょに九つの方言を
        練習し、ユーモアあふれる物語をつくって、月例祭で発表することにしました。
        外国語の授業のように、さまざまな方言やその地方の独特の生活を体験すること
        によって、それらをよりよく理解し、畏敬の念をもつことを学ぶことを目標にし
        ました。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P181)
 
四コマまんがだったと思うが、こんな話を読んだことがある。
入社試験の面接で、ある人が何カ国語も話せることをアピールしたのに対して、
ある人はいくつも方言が話せるということをアピールしたというもの。
笑いながらもこの話にはけっこう深いものがあると思った。
 
方言はいわゆる標準語に対するものだけれど、
それと似ているのが地方と中央だろうか。
日本語のなかで「地方」という言葉は不思議な使われ方をする。
東京も東京地方なのに、東京が中央で、地方と区別されたりすることがよくある。
ぼくなどもよくネットで「なぜ地方で」ということを言われたりもした。
そういう発想というのはとても根強いものがあるような気がする。
新聞にも中央紙と地方紙があったりする。
たとえばドイツなどでは、日本のような中央紙ー地方紙ほどの
発行部数の圧倒的な差は存在しないようなのだけれど。
 
今ではテレビなどで標準語が使われることが多いので、
テレビ世代以降だとかなりの人が標準語を話せるようになっているれけど、
同時に各地の方言についても典型的なものについては
多くの人がその特徴を知ることができるようになっている。
 
現在のようないわゆる標準語的な日本語は
明治以降さまざまな試行錯誤のなかで成立してきて、
たとえばそのなかで「お父さん」「お母さん」のような言葉もつくられて
教科書で教えられるようになったらしい。
 
井上ひさしに、『國語元年』という、
「全国統一話言葉」の制定をめぐる大騒動(大事業)についての戯曲があるけれど、
明治以降、日本語が「統一」をめざしてつくられながら
さまざまな言葉が切り捨てられもしてきた。
そのためもあって標準語というのはどこか嘘っぽいところがあるのだけれど、
脱色していていたり欧米の翻訳語のような部分もあるだけに、
いわゆる客観的というか説明的な表現には適しているとはいえるのかもしれない。
しかしそのことで、いわゆるアカデミックな言葉と
日常的な言葉との間にかなり距離ができてしまったという側面もあって、
哲学的な用語などにもそれは典型的なかたちで表われているように思う。
 
さて、上記のまんがの話だけれど、
ぼくのなかではテレビやラジオのことばと平行して
生まれた高知などをはじめいくつかの方言のなかで育ったこともあって、
おそらく東京弁的標準語のなかで育った人に比べて
いろんな方言が話せるというのをアピールできるところがあったりして
そのぶん、けっこう言語感覚を育てていくうえで得だったのかもしれない。
逆に、「中央」的な言語感覚しかない場合には
とても貧しい言語的土壌のなかで、
ともすれば言葉感覚が貧困になってくるところがあるのかもしれない。
 
ところで、言葉の自己教育というのがこのノートのテーマなのだけれど、
自分のなかに生きている日本語なるものをその多様性や矛盾などを踏まえながら、
いかに豊かに育てていけるかということがとても重要なことなのだろうと思う。
しかし、実際に支配的なのは、いまだに
中央ー地方というような硬直した死んだ発想のほうであって、
少なくともそういう発想からは自由になる必要があるのだろう。
 
ちなみに、ぼくが小さい頃から使っていた方言で
けっこう気に入っていることばをご紹介してみたい。
たぶん、かなり古い言葉が残って使われているようにも思う。
 
たとえば、「おつくばみ」
いわゆる正座のことなんだけれど、
子どもがちょこんとかわいく座っているような感じの言葉。
 
それから、「おもやいこ」
分け合うということ
「おもやいこにしようやぁ」というと、
二人の場合だと「はんぶんこ」ということになる
 
「だんだん」
ありがとうということ
 
「かるう」
担ぐというか背に負うこと
リュックをかるう、とかいう
 
こういう言葉を標準語は別に生きて使えることで、
見えないところで育まれていくものは
思いのほかたくさんあるのかもしれない。
 
 


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