『自己教育』ノート6

すべてのことから学ぶ


(2003.3.16)

 

         シュタイナー教育では基本的に何を重視し、何を目的とするかという問いに対し
        て、驚くべき答えが返ってきます。それは、すべてのことから学ぶ、つねに学びつ
        づけることを学ぶ、という答えです。それは生徒だけでなく、先生にも当てはまり
        ます。つまり、子どもにとっても先生にとっても、学ぶということに終わりはなく、
        同じところにもとどまらないということです。そこでは、目標に到達しても、そこ
        にとどまるのではなく、つねに学び、つねに新しい目標に向かって進むことが大切
        です。この考え方は、どれだけすぐれた人にとっても、きっと人生の大切な目標に
        なるでしょう。
         担任の先生は、大学やセミナーなどでも学んだことのない分野の授業をすること
        になります。たとえば、郷土学、歴史や神話、鉱物学、農業やパンづくりなどの授
        業もあります。そういった内容を三週間か四週間かけて授業のなかで集中的に深め
        ていくなかで、先生はつねに学ぶつづける人として生徒の前に立ちます。担任の先
        生が授業の内容に関心をもち、知識を深め、広げていく姿勢は、子どもの教育に欠
        かせません。担任の先生があらゆる分野に関心をもてば、子どもたちにもその気持
        ちが伝わり、多様な領域にわたる授業のなかで、自分の興味や関心を深めていける
        のです。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P107)
 
精神科学の基本姿勢は、この
「すべてのことから学ぶ、つねに学びつづけることを学ぶ」
ということに尽きるのではないかと思っている。
 
ぼくもこうしてネットで91年に会議室をはじめたときの基本姿勢として、
「なにからでも学べる」
「嫌いでも理解」
という二つのことを挙げるようにしていた。
 
それさえ忘れなければ、
「道」はどこまでも続いていくことができるからだった。
 
それは、認識に限界を設けない「自由の哲学」からくるものでもあった。
カントのように認識に限界を設けてしまうならば、
「何からでも学ぶ」ことにはあらかじめ制限が設けられてしまう。
また、反感をもってしか受けとめられないものを避けてしまうならば、
その部分は魂の欠落部分としてずっと残ってしまい、
その部分も認識の限界領域として残ってしまうことになる。
 
だから、専門領域でないからといって、
その部分をあえて避けようとする態度なども、
学ぶことを制限し、魂を育てることも怠ってしまうことになる。
 
だから、このMLもHPも「精神科学的」であろうとはするものの、
「人智学」という特定の名称はできるだけ使わないようにすることにした。
ネットでの検索においても、シュタイナー、神秘学、精神科学等は登録したが、
人智学という、団体と関連しそうな名称の登録は避けることにした。
 
そうして、扱うテーマにも制限を設けることはせず、
重要なことは「人智学」が扱っているかどうかではなく、
その認識が精神科学的に方向づけられているかどうか、
ということを常に念頭に置くことにしようと思った。
 
「学び続ける」ということ。
そのためにあらゆることに関心を持とうとする姿勢を失わないこと。
 
シュタイナーは「教育の基礎としての一般人間学」の
「はじめに」で、こう述べている。
このことを「自己教育」におきかえてみてもまったく同じことがいえるだろう。
 
        私たちは私たちの大きな課題をよく自覚しなければなりません。私たちは
        教育者であるばかりではなく、最高の意味での文化的な人間でなければな
        りません。私たちは今日の時代に行なわれているすべてに対して、生きい
        きとした興味を持てなければなりません。そうでなければ、この学校にと
        って悪い教師になってしまいます。教育という私たちの特定の課題だけに
        取り組むのでは不十分なのです。世界中の出来事に生きいきとした関心を
        寄せる時にのみ、良い教師であり得ます。
 
 


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