シュタイナー学校における先生の権威について、よく批判されます。先生がいわ ゆる「権威」をもっていると誤解されているのです。… この場合の権威とは、外側から強制されず、生徒が自分からそれを認め、尊敬し たくなる存在のことであり、そこから生まれる先生と生徒の信頼関係をさします。 … 担任の先生は、自己教育によって、子どもが必要とし、求めている存在になれる のです。それは、子どもたちが親しみを感じ、認める、つねに行動し、進歩する人 間になれるということです。先生は、つねに学び続ける存在です。成長の過程に終 着点などないと思い、自分が完成したと思わず、つねに学び続ける存在です。上か ら下に子どもや親を見下すような態度をとらないことほど、先生にとって大切なこ とはありません。 (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P105-107) キリスト・イエスは弟子の足を洗う。 キリスト・イエスは人間となることで いったい何を学ぼうとしたのだろうか。 かなり以前、あるチャネラーのソースに向かって、 「人間のところまで降りて来い!」と言った人がいた。 それ以外の発言はあまり共感しがたいところがあったのだけれど、 それだけは不思議に記憶に残っている。 ベルリン天使の詩のことも思い出す。 堕天使が人間になり熱いコーヒーを飲む。 モノクロームの世界が色を持つ。 シュタイナーの宇宙論のなかで印象深いのは、 第一ヒエラルキーが物質世界に関与できるということである。 それに対して第三ヒエラルキーが関与できるのは魂の世界。 高次の存在になるほど低次のものに関与しないような そんなイメージが持たれやすいのだが、実際はその逆なのだ。 そこのところがわからないと、 人間になったキリスト存在ということもよくわからなくなる。 そして、キリストは弟子の足を洗う。 キリスト・イエスも「自己教育」していたのだろうか。 ところで、先日読んだ甲野善紀『古武術からの発想』 (PHP文庫/2003.20.17発行)に 「プラス思考」の危険性について述べられていた。 (プラス思考の問題点は) プラス思考は、よほどその人の思想基盤がしっかりしていない場合は、 無反省で我がままな人ほどよく実現してしまうということです。 そして、…それが叶うと、それ以上の段階を志向することなく、そこ で、その人の精神的向上が止まってしまう場合がほとんどだ、という ことですね。 (P203-204) ニューエイジなんかでも、「あるがまま」というのが好まれる傾向があるが、 それがまさに、「自己教育」の必要性を拒否してしまうことにもなる。 「OK!」で、「何も問題はない」ということになってしまう。 導師(グル)などを奉ったり、自分がそうなってしまったりするのも同じ。 そういう世界でなくても、「先生」や「権威」であることに つねに疑いをもっていないと、すぐにそういう状態になってしまう。 弟子の足を洗わなくなる。 自分の足さえ洗わなくなる。 少し学んで、というか学んだ気になって、 すぐに自分は教える側にまわる。 そのためにどこかでなにがしかの権威をまとう。 そして権威となった同士で「先生」と呼び合ったりする。 「権威」には需要があって、 求められてしまうために、それが正当化されやすくなる。 なにかをするとなったら試行錯誤する前に「権威」が呼ばれる。 「教えてほしい」人には「教えたい人」が必要なのだ。 そして需要ー供給関係が満たされ、それがマーケットになる。 事態は何も変わらないが、気分だけがなんとなく変わる。 ともすれば問題がそこですり替えられる。 自分の足の汚れも気にならなくなる。 うまくすれば足の洗い方の作法を教えてもらえるかもしれないが。 |
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