『自己教育』ノート5

権威


(2003.3.16)

 

         シュタイナー学校における先生の権威について、よく批判されます。先生がいわ
        ゆる「権威」をもっていると誤解されているのです。…
         この場合の権威とは、外側から強制されず、生徒が自分からそれを認め、尊敬し
        たくなる存在のことであり、そこから生まれる先生と生徒の信頼関係をさします。
       …
         担任の先生は、自己教育によって、子どもが必要とし、求めている存在になれる
        のです。それは、子どもたちが親しみを感じ、認める、つねに行動し、進歩する人
        間になれるということです。先生は、つねに学び続ける存在です。成長の過程に終
        着点などないと思い、自分が完成したと思わず、つねに学び続ける存在です。上か
        ら下に子どもや親を見下すような態度をとらないことほど、先生にとって大切なこ
        とはありません。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P105-107)
 
キリスト・イエスは弟子の足を洗う。
 
キリスト・イエスは人間となることで
いったい何を学ぼうとしたのだろうか。
 
かなり以前、あるチャネラーのソースに向かって、
「人間のところまで降りて来い!」と言った人がいた。
それ以外の発言はあまり共感しがたいところがあったのだけれど、
それだけは不思議に記憶に残っている。
 
ベルリン天使の詩のことも思い出す。
堕天使が人間になり熱いコーヒーを飲む。
モノクロームの世界が色を持つ。
 
シュタイナーの宇宙論のなかで印象深いのは、
第一ヒエラルキーが物質世界に関与できるということである。
それに対して第三ヒエラルキーが関与できるのは魂の世界。
高次の存在になるほど低次のものに関与しないような
そんなイメージが持たれやすいのだが、実際はその逆なのだ。
そこのところがわからないと、
人間になったキリスト存在ということもよくわからなくなる。
そして、キリストは弟子の足を洗う。
 
キリスト・イエスも「自己教育」していたのだろうか。
 
ところで、先日読んだ甲野善紀『古武術からの発想』
(PHP文庫/2003.20.17発行)に
「プラス思考」の危険性について述べられていた。
 
        (プラス思考の問題点は)
        プラス思考は、よほどその人の思想基盤がしっかりしていない場合は、
        無反省で我がままな人ほどよく実現してしまうということです。
        そして、…それが叶うと、それ以上の段階を志向することなく、そこ
        で、その人の精神的向上が止まってしまう場合がほとんどだ、という
        ことですね。
        (P203-204)
 
ニューエイジなんかでも、「あるがまま」というのが好まれる傾向があるが、
それがまさに、「自己教育」の必要性を拒否してしまうことにもなる。
「OK!」で、「何も問題はない」ということになってしまう。
導師(グル)などを奉ったり、自分がそうなってしまったりするのも同じ。
そういう世界でなくても、「先生」や「権威」であることに
つねに疑いをもっていないと、すぐにそういう状態になってしまう。
弟子の足を洗わなくなる。
自分の足さえ洗わなくなる。
 
少し学んで、というか学んだ気になって、
すぐに自分は教える側にまわる。
そのためにどこかでなにがしかの権威をまとう。
そして権威となった同士で「先生」と呼び合ったりする。
 
「権威」には需要があって、
求められてしまうために、それが正当化されやすくなる。
なにかをするとなったら試行錯誤する前に「権威」が呼ばれる。
「教えてほしい」人には「教えたい人」が必要なのだ。
そして需要ー供給関係が満たされ、それがマーケットになる。
事態は何も変わらないが、気分だけがなんとなく変わる。
ともすれば問題がそこですり替えられる。
自分の足の汚れも気にならなくなる。
うまくすれば足の洗い方の作法を教えてもらえるかもしれないが。
 
 


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