『自己教育』ノート4

全体から個へ


(2003.3.16)

 

         シュタイナー学校の授業では、すべての教科に「全体から個へ」という考え方が
        浸透しています。「最初はすべてはつながっており、そこから分かれて発展する」。
        この一見単純な考えは、アントロポゾフィー人智学の深い思想に基づいており、そ
        れがシュタイナー教育の出発点でもあるのです。たとえば算数では、全体としての
        栗を十二個もっている状態からはじまり、それをいろいろな方法で個に分けていき
        ます。
        …
         たとえ花一輪でも、めしべやおしべ、茎、葉が、機械の部品のようにつながって
        いるものとしてとらえるのではなく、全体としての花を取り上げるのです。シュー
        ベルト氏はその大切さを次のように表現しています。「対照的な思考である分析的
        な思考と合成的な思考をつなげてはいけません。なぜならばそれぞれにふさわしい
        使い道があるからです。アントロポゾフィー的な教育では、算数の授業を通して、
        まず分析的な思考(全体から個々へ)を身につけてから、その対極にある合成的な
        思考を身につけるよう試みています」。この合成的思考とは、まったくばらばらの
        部品が合成され、つながっていく考え方です。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P50-52)
 
「自由の哲学」は「一元論」である。
『自由の哲学』にはこうある。
 
        世界は二元性として(二元論的に)われわれの前に現われている。しかし認識行為
        がそれを統一性(一元論)に作り上げる。この基本原理から出発する哲学は一元論
        哲学又は一元論と呼ばれる。 
 
         いずれにせよ二元論者は、人間の認識能力に越えがたい壁を設けなければならな
        い、と思いこんでいる。一元論的世界観の信奉者は現象世界の解明に必要なすべて
        が、この現象世界の領域内にあることを理解している。ただそれを手に入れること
        ができずにいるのは、今の自分の在り方がたまたま時間的空間的にまだ制約されて
        いるからなのである。しかしそれは人間一般の在り方ではなく、自分の特殊な個的
        な在り方の問題である。
 
「全体から個へ」というのは、もちろん「全体主義」的な思考ではなく、
認識行為そのものが統一性(一元論)をつくりあげているという
「全体」と「個」との亀裂を生じさせない観点であるということができる。
「個」の「思考」そのものが宇宙思考へとリンクしているということでもある。
 
「最初はすべてはつながっており、そこから分かれて発展する」というのは
仏教の「縁起」と近しいようにイメージされる。
宇宙のあらゆる事象は、すべて「縁起」している。
ただ私たちの「無明」故にその「縁起」の関係性が理解できないだけなのだ。
 
宇宙の進化も、「一」なるものから展開する。
土星紀があり、太陽紀があり、月紀があり、地球紀がある。
人間は、動物、植物、鉱物を放出する。
あらゆる存在、事象は「最初はすべてはつながっており、そこから分かれて発展する」。
 
ある事物や事象をとりあげる際、
それをまったくばらばらのものとしてとらえるのではなく、
その関係性は未だ顕在化してはいないけれど、なんらかの関係性のもとにあったものが
そういう事物や事象として現象しているのだというふうにとらえることは、
認識行為そのものの「自由」の可能性そのものに関わってくる。
その「自由」は「全体」そのものに支えられていて、
しかもその「全体」を展開させるものにもなってくる。
 
そうなると、もちろん「悪」の問題さえも、
それを自分と無関係な「外」にあるものとしてとらえることはできない。
すべては「一」なるものからの展開なのだから。
その「縁起」についても、それが「外から」やってくるものであるとは夢想しにくくなる。
 
 


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