『自己教育』ノート3

お話の時間


(2003.3.15)

 

         子どもたちは「お話」が大好きです。…担任の先生は、子どもの前で話すお話
        を家で慎重に準備します。そのお話には、さまざまな気質の要素がすべて入って
        いるよう注意します。そして、本を見ず、子どもの前で、子どもの目を見て、話
        して聞かせます。…
         先生は、お話の時間に話す内容を暗記しなければなりません。
        …
        大切なのは、お話の時間に本を読み上げないことです。そうすることによって、
        先生は一つひとつの言葉を意識的に話し、子どものなかに刻印していきます。子
        どもの目を見ながら話せば子どもと直接的な交流ができ、子どもの様子をじっく
        り観察することができますが、本を読んだのではそんなことはできません。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P38-40)
 
この「お話の時間」のことがでてくると
いつも思い起こすのがプレゼンテーションである。
仕事柄クライアントの前で、
そのプレゼンテーションなるものをしなければならないときがあるが、
ぼくのようなものぐさものには荷が重いことがよくある。
 
まさに企画書を読み上げるようなことをしていては伝わらない。
優秀なプレゼンテーターは、事前にそのプレゼンのシミュレーションをし、
そのプランをクライアントに「刻印」できるようにするらしいが、
ぼくにはそういう芸当はなかなかできなかったりする。
ましてクライアントの「様子をじっくり観察する」にはほど遠い。
企画書を読み上げるような無粋は少なくともしないけれど。
 
なぜぼくにそういうすぐれたプレゼンができないかというと、
根本的な問題として、人前で話すのが苦手というか嫌いだというのがあるが、
それよりもやはり、事前に「慎重に準備」することを怠っているというのがある。
やはり悪いのは、プレゼン内容を信仰できないということがある。
どうしても、「どうせ」とか「所詮」という気持ちをどこかで引きずっている。
もっと老獪になれれば、自分を信者にしたてあげることもできるのだろうが、
そういう境地にはまず立てそうもない。
 
しかし、シュタイナー学校の先生方は、
そうした境地よりもずっとずっと進んだところで
日々を過ごさなければならないらしい。
ぼくが先生とかになれないしなろうとも思わないひとつの理由もそこにある。
そもそも記憶力のきわめて悪いぼくが
「お話の時間に話す内容を暗記」などできようはずもない。
 
ところで昨今流行っているらしい「読みきかせ」。
なんだか好きになれなかったりする。
いつのまにだれがそんなものを流行らせるようになったのだろうか。
人に「読んで」あげるというのもなんだけれど、
「きかせ」るというような垂れ方もなんだかなあ、である。
五味太郎さんという絵本作家もその「読みきかせ」については
異議を唱えていたように記憶しているけれど、
少なくともぼくが子どもだったらそんな「読みきかせ」とか
されたくはないなという気がする。
テレビとかじゃなくて、せっかくそこに人がいるのに、
読むだけというのはあまりにも貧しいではないか。
そういえば、日本のいろんな儀式には
そういう「読みきかせ」的なものがとても多いのに気づく。
そういうのも「読みきかせ」の源流なのだろうか。
 
ぼくがクライアントでプレゼンを受ける立場だったとしても、
そういう「読みきかせ」的なのをやられるのはたまったものではないと思う。
・・・というふうに、プレゼンをしなければならない立場のぼくは
あらためて反省していたりもする・・・やれやれ。
 
 


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