『自己教育』ノート10

世界に対する興味


(2003.4.22)

 

         五年生はとても調和が取れていました。ところが、六年生で大きな変化の時期を
        迎えます。担任の先生は、子どもたちの急激な変化とそれにともなう課題について、
        自分でもまったく新しい気持ちで取り組まなければなりません。
        …
         担任の先生は、気持ちを引き締め直し、まったく新しい気持ちで力強くしっかり
        と最後の共同の三年間、子どもたちの年齢にふさわしい授業を作り上げていかなけ
        らばなりません。これから学ぶ物理学の授業は、先生と生徒の新しい関係を築いて
        いく上でとても効果的です。先生は自然科学に心から興味を持ち、自然科学の授業
        ではゲーテ的な方法で実際に観察した結果について考え、理解することを教えます。
        そのためには、先生が自分自身の学びを怠ってはいけません。先生が真剣に自然科
        学の世界に取り組み、深い興味を示すことで、子どもたちはふたたび先生を尊敬す
        るようになります。子どもたちが、幅広い興味をもち、「世界に対する興味」を抱
        くようにしたいものです。
         しかし、この時期に先生が世界に対する興味を感じなければ、子どもたちは何を
        通してそういった意識を持てるでしょうか。現代は、電気製品の時代、機械の時代
        です。すべての人間が電気製品やコンピュータの構造や機能を理解していれば、子
        どもたちも便利な生活に流されず、意識的に電気製品を扱うことができるでしょう。
        (ヘルムート・エラー『人間を育てる』P186-188)
 
そういえば、ネットをはじめたのが91年の6月のことだから、
ぼくは今年で12年生を終えることになるはずだ。
インターネットに移行したのが97年の6月なので、
ネットをはじめて6年生のときにあたる。
ある意味で「大きな変化」だったといえるのかもしれない。
 
その変化があったために、
自分にそれと知らずに起こってきていたのかもしれない「変化とそれにともなう課題」に
「新しい気持ちで取り組」むことができるようになったのかもしれない。
 
ネットに関連したことだけをとってみても、
この12年間に自分なりに考えてきたさまざまなことの変遷を辿ってみると、
シュタイナー学校での学年のようなプロセスを辿っているところもあって
けっこう興味深かったりする。
 
それはともかく、ネットをやっていても、
やはりけっこうなマンネリ状態になってきたりして、
閉塞状態になってくるときもあるのだけれど、
それを打開していくためには、やはり自分がどれだけ
「幅広い興味をもち、「世界に対する興味」を抱」けるか、
ということが常に鍵になってくる。
 
この「世界」というのを、世のオヤジたちは、
「社会」というふうに短絡してしまうことも多いのだけれど
(そういえば「世界」という名のなんだか肩の凝る雑誌もある)
やはりこの「世界」は、自然学的なものをふくんだ「宇宙」、
というふうにとらえたほうがずっと面白いし広がりがある。
 
そういう意味での「世界」を見る目を
どれほど「驚き」で満たすことができるか。
それがすべての出発点ともなるトリガーとなる。
「世界」に対する「驚き」がなければ、
私たちは「世界に対する興味」を抱くことができない。
 
そういえば、知恵を愛求するという「哲学」も、
アリストテレス(『形而上学』)がいうように「驚き」から始まる。
ちょうど、現代のソクラテスのような池田晶子も、
新刊の『あたりまえなことばかり』で次のように述べている。
まさに「あたりまえなこと」だけれど。
 
         たぶん、教育者と呼ばれる人々が陥りやすい誤りがこれである。彼らは「何かを」
        教えようとしているのだ。受験勉強の知識ならそれでいい。しかし、「生死」「宇
        宙」「善悪」等、完全に人間の本質としての知識について、人は人に何かを「教え
        る」ことなどできるのだろうか。
         たとえば私が、古今の哲学を学ぶことによって教わったことといえば、自分もし
        くは人間が、「いかに知らないか」ということに尽きていた。そして、知らないと
        いうことをはっきり知ることで、いよいよ考え始めることになるのでもあった。
         最近よく各方面から「どうすれば考えられるだろうか」「考えさせるにはどうす
        ればよいのだろうか」という質問を受ける。私は、この問いは、それ自体で誤って
        いると思う。人は、知らないという驚きによってのみ考え始めるものであって、そ
        うでなければ考え始める如何なる理由もない。
        「考えればよろしいじゃないですか」
        「どう考えればよいかわからない」
         つまり、「考えたい」という以前に、「知りたい」というモチベーションがない
        のである。人はいきなり考え始めるものではない。知らないから知りたいという欲
        求によって、それを考え始めるのだが、どうも人々はそこのところを理解しない。
        それで、哲学入門書を読んで覚えたり、それを覚えさせることが教えることだとい
        う勘違いになる。
        (池田晶子『あたりまえなことばかり』トランスビュー 2003.3.20発行/P22-23
 
 


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