ぼくはあまり教育から影響を受けたほうではなく、 むしろそれに対するアンチの姿勢を持っていたりもするのだけれど、 シュタイナーの教育についての示唆からはさまざまに影響を受けている。 それは、人間学の集大成を応用したものでもあるからで、 実際、たとえば『教育の基礎としての一般人間学』などは、 『農業講座』や『精神科学と医学』と並ぶほどに、とても難しく、 ちょっとやそっとでは理解しがたいものでもある。 ぼくは、シュタイナーの教育についての示唆の基本は、「自己教育」、 つまり、教師は教えることそのものが自己教育であり、 また生徒は教師にサポートされながら自己教育を行なうのだ、 ということだというふうに理解している。 そして、その自己教育という基本は、私たちすべての人間の課題でもあって、 学校という閉じられてしまいがちな場所だけで云々されてしまわないほうが、 ずっと豊かな実りを生むのではないかとも思っている。 学校での教育云々はあくまでも自己教育のひとつの特殊形態だというふうに とらえたほうがいいのではないだろうか。 そこで、ちょうど、シュタイナー学校での1年生から8年生までの 学年別指導法が具体的に公開された ヘルムート・エラー『人間を育てる/シュタイナー学校の先生の仕事』 (鳥山雅代訳 トランスビュー/2003.2.20発行)を読みながら、 そのヘルムート・エラーの「教育の意味は、自分自身を教育することにある」 という言葉に力を得て、そのさまざまな示唆から、 学校という場所や教えるー学ぶという固定的なとらえ方ににとらわれない だれにでも可能な「自己教育」についてのあれこれを考えてみることにしたい。 ちょうど、甲野善紀『古武術に学ぶ身体操法』 (岩波アクティブ新書63/2003.2.5発行)のなかで、 原ひろ子という文化人類学者の『極北のインディアン』という本が 紹介されていて、そのなかで、 ヘアー・インディアンには「教える」「教わる」「学ぶ」という概念がなく、 みんな生活に必要なことなどを「自分で覚えた」とい言うのだそうで、 甲野善紀さんもそのなかでこう述べている。 子供はもともと自分で学ぶ力をもっているものです。必要なのは、子供が 学ぶためのほんの少しの工夫やアドバイスです。自転車だって学ぶ力を引 き出してやれば、だれでもうまく乗れる方法があります。(P145-146) これは子供だけのことではもちろんなく、 人間一般についていえることだし、 そうでなければ「一般人間学」にはならない。 そういう意味でも、「教える」「教わる」「学ぶ」とかいうことそのものにある、 なんだか不自由な発想というか囲いのようなものから外にでて、 まずは、人間はだれでも自分で自分を育てていく自己教育が可能で、 というかむしろ、そうでなければ何もはじまらないのだというあたりから あれこれ試行錯誤していったほうがいいのではないかと思う。 シュタイナーの示唆はやまのようにたくさんあって豊かで深いし、 ヘルムート・エラーのとても具体的な事例等も大変参考になるので、 ぼくのぼく自身のための自己教育についてのノートということで、 なにか少しメモをしてみることにしたいと思う。 |
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