『インターネット的』ノート

ノート0●糸井重里『インターネット的』
ノート1●Only is not lonely
ノート2●リンク
ノート3●シェア
ノート4●フラット
ノート5●未完成・半完成
ノート6●お金ではない動機
ノート7●答えが見えないという価値
ノート8●魂の満足
ノート9●プライオリティ
ノート10●多様な人格が点滅する

 

    『インターネット的』ノート0   糸井重里『インターネット的』
2001.7.16
 
■糸井重里『インターネット的』(PHP新書/2001.7.27.発行)
 
糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』を、
いつもというわけではないけれど、以前からちらほら見ていて、
糸井重里が今度は何をしようとしているのかを気にしていたりした。
(現在では、このサイト、1日に35万件のアクセスがあるという。
http://www.1101.com)
仕事柄、どうも糸井重里は気になる存在だから。
とはいえ、ぼくはそんなに仕事関係の勉強を深くしているほうではなく、
けっこういい加減にアンテナを張っているというくらいに過ぎないのだけれど…。
 
で、今回の『インターネット的』である。
さりげないけれど、なかなか言い得ている。
さすがの「糸井重里的」である。
シンプルでやさしい表現だけれど、
するするするっと、時代の今とその先に入っていく。
名人芸のひとつだなと思う。
 
         インターネットと「インターネット的」のちがいというのは、字面では単に
        T的Uがあるかないかのことなんですが、これは重要なポイントになってき
        ます。
         「インターネット的」と言った場合は、インターネット自体がもたらす社会
        関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。
        もっとイメージしやすいたとえでいうなら、インターネットと「インターネッ
        ト的」のちがいは自動車とモータリゼーションのちがいに似ているでしょう。
        (P16)
 
         どうもこれまで、インターネットについて語られてきたことは、財務の会社
        のようなものに見えて、ぼくとしては、あまり魅力を感じることができません。
         ネットを囲む環境ごと見つめていかないと、人間が取り残されてしまい、流
        行の概念だけが次々に浮かんでは消えていくような気がします。
         インターネットそのものは偉いわけではない。インターネットは人と人をつ
        なげるわけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう
        思っているのかによるのだとぼくは考えています。極端なことを言うと、Tイ
        ンターネット的であるためにはパソコンすら必要ではないUということもあり
        得るわけです。(P11)
 
実際、インターネットについて語られていることの多くは、まったく面白くない。
それはおそらく、インターネットがさも実体のようなものとして語られ、
それそのものの価値を云々することに終始するか、
そうでなけれは、ほとんどいわゆるコンピュータ的なあれこれが
語られていることが多いからなのだろう。
そのとき、「インターネット」は死んでいるというか、
それを使って何をするのか、それは何を発想させ開いていくのか、
そしてそこにいる人たちがどういうあり方を創造しえるのか、
といったことがほとんど抜け落ちてしまうことになる。
 
この場所でも、「組織なきネットワーク」ということをいうことがあるが、
それは関係性そのもののあり方の変化と創造ということが重要なのであって、
まさにそれは「インターネット的」なものの可能性のことなのである。
 
さて、本書をいいな、紹介したいなと思ったのは、
「おわりに」の次のようなところだったりもする。
 
         もうこのへんで、書くのを止めておきます。いままでにぼくが書いてきた
        ものに比べて、ずいぶんと啓蒙臭の強いものになったような気がします。そ
        のことは、あんまりいいことじゃないと思っています。
         たまたま、インターネットの一番現場に近いところにいて、気がついたこ
        とを書いてみようと思ってはいましたが、誰かに何かを教えるようなことを
        書いてしまったとしたら、あらかじめ謝っておきます。(P234)
 
ぼくも、ここでいろいろ書いていて、
ひょっとしたらこれってずいぶん啓蒙臭が強いんじゃないか、とか思って、
すごく嫌な気持ちになることがあったりします。
もしそう感じられた方とかいらっしゃったとしたら、まさに謝らなくちゃいけない。
啓蒙したいなら、今のような職業を選びたいとは思わないし、
今の職業を続けていられるのも、そういうのからすり抜けたところで
生きていられるということでもあるのだから。
でもって、ここでも言いたいのは、次のようなことなのだと、
あらためて思った次第。
 
         ぼくの理想的な臨終の言葉は「あああ、面白かったーっ」です。これは、
        まだでしかありませんは、そう言いながら死にたいということだけは決めて
        います。(P236)
 
逆にいえば、面白くないことはしたくないっ!。
こうしてせっかく、インターネット時代に対応してHPやらMLやらやっているのだから、
今できることを面白くやっていきたい。
ここでやっていることも、「あああ、面白かったーっ」って思えるようでありたい、
そう改めて思っている今日この頃で、
そういう意味でも、この本はなかなかいいと思ったので、紹介させていただきました。
    『インターネット的』ノート1   Only is not lonely
2001.7.16
 
 インターネットを媒介にして、毎日何かを発信しているのが『ほぼ日刊
イトイ新聞』ですが、ここのサイトには、ぼくの考える「インターネット
的」をひとことでまとめたようなスローガンがあります。
 それが“Only is not lonely”です。
(…)
 人間にとって「孤独」は、前提なのです。「ひとりぼっち」は、当たり
前の人間の姿です。赤ん坊じゃないんだから、「何よりもあんたのために
生きている」というような母親のような人はいません。それでも、「ひと
りぼっち」と「ひとりぼっち」が、リンクすることはできるし、ときには
共振し、ときには矛盾し、ときには協力しあうことはこれもまた当たり前
のことのようにできます。
 つながりすぎないで、つながることを知る。こういう関係が、インター
ネットの上では、リアルに感じられるかもしれません。「ひとりぼっち」
なんだけど、それは否定的な「ひとりぼっち」ではない。孤独なんだけれ
ど、孤独できはない。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P41-42)
 
「ひとりよりふたり」という、広告のコピーが以前にあったと思うが、
「ふたり」でいるためには、「ひとり」でいることができる、
つまり「孤独」で「ひとりぼっち」でいることができる、というのが前提になる。
もしそれができないで、いつも群れていなくちゃならないなら、
その人は「ふたり」でいることなんかできないんじゃないか。
 
半円と半円を持ち寄って一つの円をつくるというのは、
一見、とても、なるほど、なんだけど、実はそれはとても悲しい。
ほんとうは、円と円が出会って、大きな円を描いて楽しむ、
というほうが、ずっと歓びが大きいし、
それは欠損を補い合うような発想でないだけに、
互いに影の部分を投影しあうことがない。
自分に欠損しているところを影にしてしまって、
それを相手に埋めてもらおうとすると、影は怪物になって襲いかかってくる。
そしてその怪物は自分なのに、まるで外から攻撃されたように見えてしまう。
 
Onlyというのはかけがえないということであり、個であるということ。
だから、それは欠損した円なのではなく、ひとつの円なのだ。
単なるlonelyな欠損した円じゃない。
lonelyかもしれないけれど、少なくとも欠損しちゃいない。
だから、そこに、逆説的だけど、「他者」の可能性が生まれる。
欠損した円としてのlonelyは、一見「他者」に補完してもらうことで、
「他者」をむしろ許容しているように見えながら、
その実、「他者」の可能性を拒絶することになる。
このことは非常に重要なことだと思える。
 
自我が円で表現できるというのは、まさにそういうことなのだ。
そういう意味で、「インターネット的」であるということは、
円であることによるネットワークの可能性を開くということだといえる。
欠損した円は、互いを補完するように見えて、
その実、互いを搾取してしまう関係性を形成してしまうことになる。
円は奪わない。
互いに共振することで、大きな円を創造する。
 
    『インターネット的』ノート2   リンク
2001.7.18
  
 インターネット的といったとき、軸になるもののひとつは「リンク」と
いう発想です。
 複雑な情報のカタマリどうしが互いにつながっていることが、インター
ネットの仕組みそのもの。いままでのつながり方というのは、有用な情報
どうしが互いに機能でつながっていることが多かったわけです。Tこれを
するために、こういう情報はないかUと要請があったときに、Tはい、そ
の情報ならここにありますッUと差し出すのが、いままでの「ジョイント」
的なつながり。いわば、問いと答えのセットのようなつながりですね。辞
書をひくのは、こういう感じだったと思います。
 しかし、「リンク」というつながり方はそういうものではありません。
もともと、「問い」のほうにも、「答え」のほうにも、たくさんの付属す
る情報があるのですが、それが有機的につながりあうというのが魅力的で
す。周辺情報だとか、リンク先のリンクにまで延々と深くつながってゆく
のです。これこそが、インターネット的の一番の鍵になるわけです。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P21)
 
「問いと答えの弁証法」という表現に魅力を感じたことがあった。
先生が答えをもっていて、生徒がその答えをみつける。
そういうあり方にはどうしても魅力を感じることはできなかったからだ。
 
問うことそのものにすでに答えが内包されていたり、
問うことそのもの、問題の発見ということが重要だということ。
そしてすでに決まった答えが用意されていているのではなく、
答えを見つけようとすることそのものが
また問うことそのものにもなるということ。
 
つまり、問いと答えは一対一対応ではなく、多対多対応であり、
しかもその多と多は互いに有機的に絡み合い影響しあいながら、成長していく。
 
宇宙は関係性の網の目(「縁起」)でできていて、
その「縁」を起こしていくことが、問うことであり、
また答えを見つけようとすることに他ならない。
 
    『インターネット的』ノート3   シェア
2001.7.18
 
 もうひとつの大切な鍵は「シェア」です。翻訳するなら、TおすそわけU
といったニュアンスでしょうか。
(…)
 人や企業が、シェアということを、もっと大事にしていくようになった
ら、いままでの社会の仕組みが、ガラッと変わってしまうかもしれません。
楽しみやごちそうを、上手に分け与えてくれる「おすそわけ」の上手な人
は、みんなによろこばれるし信頼もされますねよね。
 それと同じように、シェアの上手な会社は、これからの時代には、とて
も好感を持たれることになるのではないかと、ぼくは思っています。
(…)
 また、実は、情報はたくさん出した人のところにドッと集まってくるん
だ、という法則があるのです。もらってばかりいる人は、いつまでたって
も「少しもらう」ことを続けることになります。おすそわけをたくさんし
ている人や企業には、「これも、あなたが配ってください」という新しい
情報が集まる交差点のようになっていきます。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P25-31)
 
この「シェア」というのはおそらく愛の法則でもあって、
与えることが得ることになってくる。
だから、下さい下さいばかりでは成立しない。
また、もらえれば与える用意があるというせこさでも成立しない。
 
たしかに、HPをひらいていたりすると、
いろんなところから情報が集まってくるというのがある。
良質の情報だけではないけれど、傾向としては
こちらから出している情報に対応したものがやってくるように思う。
リンクさせてください、というのもそうだし、
いろんなところで、HPやMLを紹介してもらえるのもそうだし、
現在、佐々木義之さんがシュタイナーの翻訳を投稿くださっているように、
場所を提供することがそういう貴重な情報を得ることになることもなる。
 
実際、ぼくのつくっているHPというのも、これで何か利益をあげようとか、
情報を提供した人をチェックして役立たせようとかいうのではなく、
まさに「おすそわけ」であり、しかもそれは
ぼく自身が自分で好きにつくっているものの「おすそわけ」だから、
決しておしつけ(善意の押し売り)になったりもしない。
 
糸井重里の描く「インターネット的」社会の支えになっている思想のひとつが、
社会学者の山岸俊夫「信頼の構造」(中公新書)であり、
それは、「正直は最大の戦略である」という言葉に集約されているという。
相手をだましたり裏切ったりするよりも、
正直なプレーヤーのほうが結果として大きな収穫を得るということを、
科学的実験で結論づけたものだというが、これは確かにそうかもしれないと思う。
 
そういう意味では、「おすそわけ」を自由にネットワークしていく
インターネット的な世界は、「正直」と「信頼」を基礎とすることで、
その可能性を広げていく世界なのだろうという気がする。
 
    『インターネット的』ノート4   フラット
2001.7.18  
 インターネット的のキイワードとして、リンク、シェアときて、もうひ
とつ「フラット」という考え方があります。
 フラットというのは、それぞれが無名性で情報をやりとりするというこ
とと考えられます。情報のやりとり自体に意味があるので、そこでは、そ
れぞれのポジション、年齢、性別、価値などの意味が失われているわけで
す。失われるのはイヤだ、という人にとっては、ありがたくないことでし
ょうね。せっかく築いてきた地位が、意味をなさないような場が、インタ
ーネットの作り出す「フラット」な世界なのですからね。
(…)
 豊かな社会においては、経済も、文化も、いままでのような同じ価値観
で「価値の三角形(ヒエラルキー)」をつくっていくことが困難になって
いきます。いままでにも、価値が多様化しているとよくいわれていました
が、価値が多様化するというよりは、価値のT順序付けが多様化するU
T価値の順位組み替えは個人の自由になっていくUということでしょうか。
 価値の三角形はバタンと倒れて、平ら(フラット)になり、そこではそ
れぞれの人が自分の優先順位を大事にしながら役割をこなしている。そん
な、船の乗組員たちの集合が、ぼくのこれからの社会のイメージです。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P31)
 
インターネットでの匿名性を否定的にしかとらえられない人がいるようである。
おそらくそれは「フラット」であることへの拒絶感からくるものなのだろう。
人は、自分の社会的な出自を明確化しないかぎり信用できないとするもの。
 
それは価値観の固定化を暗に(ではなく明らかに)認めていることになる。
年齢、性別、職業、社会的階層云々から離れたところでは、
人はなにをするかわからない、という発想。
 
そういう発想のなかでは、インターネットは、
すぐにその否定面のほうが強調されてしまうことが多い。
どんなものにも否定面があることは確かなのだけれど、
だからといって、否定面を中心にしてなにかをとらえていくならば、
何かの可能性を見出すということはできないし、
自分の今いるところの価値観等に閉じこもっているしかなくなる。
それに、匿名性のなかでは人は何をするかわからないと思っている人こそ、
自分の匿名性ゆえの可能性をスポイルしているといえないだろうか。
悪くすれば、その人こそ人が見ていないと何をするかわからないというような、
外的な道徳を行動原理にしているといえるのかもしてない。
 
このMLにもさまざまな人が参加されているが、
参加にあたって一人ひとりの齢、性別、職業、社会的階層云々をチェックして、
ある基準を満たすということを条件にするとすれば、
この場所の可能性というのも、それによってスポイルされてしまうことになる。
もちろん、特定の目的を持って特定の人だけが参加する場所であれば別であるが、
そうでない場合、せっかくの「インターネット的」が
今まである「世間」の焼き直しにしかならなくなるだろう。
 
「インターネット的」であるということは、そういう意味で、
「フラット」ななかに自分をおいてみることによって、
自分のなかのプライオリティ(優先順位付け)について
問い直していくプロセスであるということもできる。
「自分はいったいほんとうは何がしたいんだろう」と。
 
    『インターネット的』ノート5   未完成・半完成
2001.7.19  
 言葉になっていないものがひょいと出てこられる場所が、インターネッ
トなのだともいえます。
 人が思っていることの範囲は宇宙に匹敵すると言ってもいいくらいに、
とても大きくて、深くて、わけのわからないものです。人は、そのうちの
ごく一部の考えや思いをつなぎかえて「自分の思い」「自分の考え」とし
ています。しかし、あくまでも、発表されたり発言されたりした思いとい
うのは、その人の思いや考えの一部にしかすぎないのですね。
(…)
 考えたこと、やってみたいことを惜しみなく出し続ける。枯渇するので
はないかとか、後でもっといい使い道があるとかを考えずに、出して出し
て出し尽くして枯れたらそれでしかたがない、というくらいの気持ちがな
いと、日刊で曲がりなりにも「新聞」を出すことなどできません。おそろ
しいけれど、なかなか楽しいことでもありました。
 中学生の頃に読んだヨガの本に「息を吐きつづけると、出しきったとこ
ろで吸う息が自然に入る」というようなことが書いてあって、感心したこ
とがあります。それを、なるほどなぁと実感してから、ぼくはまずは出し
きろう、と考える体質になっています。
(…)
 アイデアやヒントがまだ幼いうちに、他者に向けて何とか出してみる。
そしてたくさんの相手が、「未完成だけれどポテンシャルを感じる」と言
ってくれたらしめたものです。自分ひとりじゃできないことでも、その受
け手の力に手助けされて、素晴らしい現実を生み出せるかもしれないので
すから。
 ぼく自身、インターネットに文章を書くようになって、あきらかに文体
も変わりました。何とか早く伝えたいということを大事にして、文章の完
成度を犠牲にするようになったのです。
 それがいいことばかりだとは思いません。しかし、半完成のアイデアを
とにかくまず投げかけてみて、もっといい考えが出てきたら、書き換えれ
ばいいのです。「まだ、ちゃんとまとめられないんだけれど」という但し
書き付きで、どんどん出してしまうことで、実行に移せることも増えてい
くわけです。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P48-52)
 
ぼくはたぶんこういうインターネットのような機会/場所がなかったら、
こんなふうに毎日のようにあれこれかなり個人的な文章を書くことは
あまりなかったのではないかと思っている。
 
いわゆる作文とかが大の苦手で、手紙やハガキの類も
今もって苦手中の苦手ではあるのだけれど、
なぜか、仕事で広告や企画書のコピーや文章は
比較的たくさん書くようになっている。
 
とはいうものの、仕事でのコピーとこうした文章は、
似て非なる(とまではいかないまでも)種類のもので、
まず、書き手の主体の設定が異なっていて、
こうしたインターネットでの書き方とはまるで異なっている。
 
ともあれ10年ほどまえにパソコン通信をはじめて、
その後まもなく、シュタイナーとかをテーマとした
こうした場所を設けることになって、
毎日のようにあれこれとこうして書くようになっている。
 
なぜこうしてなんとか書くことができているのだろうと思うと、
やはり、こうした場所では、論文のようなのとは違って、
完成されて、批判されにくい文章だとか、
ちゃんとした間違いのない文章とかを要求されてはいなくて、
「「まだ、ちゃんとまとめられないんだけれど」という但し書き付きで」
未完成・半完成のままとりあえず出してしまえるから、
ということが大きいんじゃないかと思う。
 
いかな鈍感(人のことをあまり気にしないマイペースのこと)なぼくとはいえ、
間違いのなさや完成度や行き届いた配慮や、そうしたものを要求されるとしたら、
ほとんど何も書けなくなってしまうだろうなと思う。
 
そういうことにおいて、こうしたパソコンというのは、
自分の稚拙な字を目にし続けたり、書きすぎて疲れたり、
そういう要素からも距離をとっていられるというのもあるので、
未完成・半完成の許容というのとあいまって、
ぼくにとってはとても助かっている。
それに、こうしたキー入力で書くというのは、
話す速度と比較的近い感じで書ける利点があるので、
(こうした出勤前の)ほんの短い時間でこうして書くことができる。
そして、そのために文体も必然的にそれなりのスタイルになってくる。
 
しかし、上記の糸井重里の引用にもあるように、
出し切ったところから始まるというのはいいかもしれない。
でもやってみたらわかるのだけれど、出し切るというのは困難なことで、
まずそこまではいかずに、むしろいろいろ出していると、
井戸を掘るようなもので、そこから何かが出てくるという感じのほうが強い。
(もちろん、仕事などでアイデアを出そうとしているときなどは、
すぐに出し切ってしまって、しかももう何も出ない状態が続くことが多い(^^;))
ま、何も出てこなくなったら、それはそれで、
こうした場所では何も書かなければ済むわけで、
仕事とは違ってとても気楽でいられる。
しかし、糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン」は、
「今日の」だから毎日何か書かなくちゃいけないのは、つらいだろうなと思うけれど、
毎日読んでると、さすがだと感心してしまう。
やはり、糸井重里は糸井重里なのだと、このところとくに感心している。
      『インターネット的』ノート6   お金ではない動機
2001.7.20
  
 当初、あちこちで「でも、どうやって食っていくんですか?」と聞かれ
るんです。
 つまり、目標になるものがはっきりしていて、その到達点から逆算して、
いまやることを決めるというのがビジネスの見方ですから、そういうもの
がぼくのやっていることには見あたらない、というわけです。困っちゃう
わけです。ぼくも、そう言われても。それはいままでの“工業化社会の事
業計画”としてはきわめて当然の疑問なんですが、ソフトのビジネスとい
うのがそのかたちになるとは言えないのですね。また、いわゆる流行して
いた言い方の“ビジネスモデル”が明確ならいいかといえば、明確にでき
るようなものはみんなが考えるわけだから、そこで過当競争が起きてくる
に決まっている。
 で、それに代わる戦略があるかといえば、これがあいまいだったわけで
す。
(…)
 とにかく、ビンボーでスタートするというのをゲーム化しよう。
 これは非常に重要でした。つまり、お金を払うからお願いしますという
ことをしないでやっていくと、動機が見えてくるんです。お金はすごい武
器ですから、それを支払ったら、考えが交流しなくても済んでしまうんで
すね。何でこんなことがやりたいんだ、という動機が見えてこない。何か
を頼むときには、お金以上の価値を相手に感じてもらえなければ、息詰ま
ってしまうわけですから、いつも真剣にならざるをえない。
 この仕組みは、『ほぼ日』を強くしたと思います。
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P75-76)
 
食うために働かなくちゃならない、というのは
ある程度仕方ないところもあったりするんだけれど、
それが中心になってしまうと、お金がどんどん絶対化していって、
お金のためならなんでもしなくちゃなんないことになってしまう。
 
でも、お金を得ることだけをビジネスの目的としてしまうと、
札びらで顔を叩かれて、「金だしてるから文句ないだろう」
という感じになってしまうんじゃないか。
そういうのって、やっぱりマズイと思う。
 
「インターネット的」であることによって、
そういう「ビジネス」のあり方が変わっていかないだろうかと思う。
でも、今のインターネットのビジネス的な扱いというのは、
「インターネットを使ってビジネスを成功させる」類のものが多い。
それらは「インターネット的」ではまるでなくて、
今までの発想とまったく変わらないのではないだろうか。
 
やはり、発想そのものを変えていく必要があるんだと思う。
お金のことはそれなりに大事ではあるけれど、
それを目的とするのではない動機。
何がしたいのか、それをすることで何を提供したいのか、
そういうことを動機におきながら、
インターネットという手段を活かして何かをしていく方向性。
 
ふと思ったのだけれど、人智学関係の銀行、GLSとかいうのがあるけれど、
そういうあり方をインターネットを使って新展開できないか。
利子をとっちゃいけない的なエンデのようなのではなくて、
どこにいても、自分が応援したい人や企業とかに対して、
投資信託のような自分の直接的な利益をリスク&リターンで計算する、
とかいうのではなくて、共感と信頼と「社会の未来」づくりのための
個人のネットワークとしての応援システムの構築。
法律的なことやら経済の常識とかいうのには疎くてわからないけれど、
そういうのを小規模でも展開していくシステムってできないのだろうか。
そういうシステムが可能であれば、経済という血液の流れに、
精神が流れ込むことができるようになるのではないかと思うのだけれど…。
 
    『インターネット的』ノート7   答えが見えないという価値
2001.7.20
  
 テレビは、限られた時間の中に詰めこむための「新鮮なネタ」として新
しい事件を追いかけます。考え続けるというようなことには、向いていな
いメディアなのかもしれません。学校でも、会社でも、「目標」や「目的」
を設定して、そこに到達するという仕組みで動きます。
 しかし、あっちもこっちもそうなっているので、「わけのわからないこ
と」を考える機会がなくなるんです。答えの見つからないこと、どこまで
考えても矛盾に突き当たること、自分で手に負えないこと。そういうこと
を話したり考えたりする時間がない。それは大人も子供も同じでしょう。
しかし、「わけのわからないこと」を考えるのを、人類がやめてしまった
わけではないようです。
 「わけのわかること」ばかりに囲まれていると、揺り戻しがくるんです
ね。
(…)
 問いがあったら答えがすぐ近くにある、というクイズのような問題ばか
りを、いままでのメディアはとりあげてきましたが、実際の人間たちは、
答えのない問題についてしゃべったり考えたりする場を求めていたのでは
ないでしょうか。(…)
 新しい時代には、答えの見えないことが、もっと価値を持つようになる
のではないでしょうか。  
(糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P91-93)
 
矛盾を生きる。
というのが、シュタイナーの社会論から受けた重要な示唆だった。
 
教育なんかをノウハウにしてしまって、
教師が解答をもっていて生徒に答えさせるようにしてしまうと、
その生徒はどこかに答えのあることしか求めなくなる。
 
でも、生きてると当然のごとく実感するのだけれど、
いちばん重要なのは、答えのみつからないことなのだ。
こうしたほうがいい、こうなったほうがいい、とは思っても、
だからこうすればOKということにはなかなかならない。
こうしたらこうできるのだけれど、この点はこうなってしまう…とか。
 
自分で考える、ということが重要なのは、
答えが見えなくてわけがわからなくなってしまったときにも、
その矛盾を生きていくことができるということでもある。
でないと、すぐに「こうしたほうがいいんでしょうか」
「これで正しいんでしょうか」とかいうQ&A的な発想になってしまって、
その答えを自分の期待する権威筋に振ってしまうことになる。
 
もちろんいろんなところにガイドを見つけることはできて、
シュタイナーの精神科学もそのガイドとしてすごく頼りになるんだけれど、
少なくともそれを理解しようとしないとノウハウになってしまうし、
そこに直接ふれられていないことに対して
すぐに、わけがわからなくなってしまったり、
権威筋が自分の独断と偏見で教えを垂れたりしてしまうことになる。
 
でも、そういうときこそ、ぐっとふんばって、
わけのわからないというカオスのなかを
しっかりと歩いていくことが大事なんじゃないかと思う。
 
  『インターネット的』ノート8   魂の満足
2001.2.21
 
         脳はすべてではなく、単に神経系に過ぎなくて、筋肉系と消化器系との
        コラボレートによって、内臓、筋肉、脳というバランスを保って生きてい
        る。自分という存在もそうだし、他人もそういう存在ということです。で
        すから“人が人を第一印象で好きになる”などということも、脳のしわざ
        として説明することもできるのでしょうけれど、もっと違う要素が潜んで
        いるのかもしれません。食べ物の好き嫌いだとか、自然の風景への感動と
        か、神経系の脳の中で処理できる理屈を超えているのだと思うのですが。
         これからの「知性」の仕事というのは、脳的な知性だけではなく、それ
        以外の感覚の可能性を探る必要があるのだと思います。そこが整理できな
        い部分でもあるわけです。脳だけで考えると、ぜんぶ、言葉に直せるはず
        だ、というふうになってしまいます。これでは、感動というようなものに
        たどり着かないのです。
        (…)
         人間の社会は、食を中心とした内胚葉的な農業社会に始まり、やがて工
        業化社会(中胚葉・筋肉系)の時代が長く続いて、いつのまにか情報化社
        会(外胚葉→神経系)に移行してきました。そして、情報化社会は、脳の
        権力を過大に膨らませすぎてきている。いわば、人間全体を「国」だとし
        たら、脳という政府が中央集権的に力を持ちすぎているのが、現代社会で
        あるとも言えそうです。
         しかし、それでは身体や内臓に、脳の奴隷になれと言っているというこ
        とです。バランスのとれない政治をやっているようなものです。きっと、
        いまという時代は、「政府(脳)の横暴は許せない。地方(筋肉や内臓)
        に権力を分散させろ」という反乱が起こり始めている時期です。精神や肉
        体の病気は、脳の命令を身体(肉体としての脳も含めて)が聞けなくなっ
        た状態でしょう。
         さて、中央集権のまったく逆の発想ーーつながっているひとりひとりの
        力が強くなるのがインターネットです。人間の身体までが、「インターネ
        ット的」な流れになっていると言ったら、言いすぎでしょうか。
         ぼくらは、「インターネット的」になっているのだと思います。
         さて、筋肉系の工業化社会→神経系の情報化社会ときて、そのあとには
        どんな社会がくるのかということも、なかなか興味深いことです。ぼくは、
        それは「魂(スピリット)の社会」なのではないか、と一見オカルトに聞
        こえますが、思っています。
         感動とか、センスとかいうものがどんどん価値をあげていくのだとした
        ら、それは「魂の満足」を求める社会でしょう。
        (糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P109-113)
 
「魂」という言葉が、
若干の抵抗感を持たれながらも、
少しずつ積極的に使われ始めているように感じる。
 
なぜか、日本のシュタイナー教育とされるものにおいては、
「魂」をわざわざ「心」と置き換えたり、
「霊」や「霊性」を「いのち」と置き換えたりも
されようとしているようだけれど、
やはり、「魂」は「魂」でないとダメだと思う。
 
人は、やはり霊魂体の存在なのだから、
それを「いのち」「こころ」「からだ」と言い換えてしまうと、
「いのち」や「こころ」と「からだ」の違いがあいまいにされてしまったまま、
結局は、現在の科学主義的で唯物論的な認識様態から抜けられなくなってしまう。
「脳」が「心」を生み出すというような錯誤からさえ自由になれなくなる。
 
さて、人体は、精神活動に関わる頭脳=神経系、物質活動に関わる代謝=運動系、
そして両者の働きを相互に調和的に結びつける呼吸=循環系という
三分節化された働きを持っている。
そしてそれぞれの組織に思考、意志、感情という
三つの魂の目標があるのだということができる。
 
また、社会有機体三分節化のコンセプトでいうとすれば、
精神活動に関わる精神生活、物質活動に関わる経済生活、
そしてその両者を相互に調和的に結びつける国家=法生活をもち、
その三つの生活形式に、それぞれ
自由、友愛、平等という目標が与えられているといえる。
 
そういえば、インターネット的であるということは、
自由、友愛、平等というコンセプトに近しいイメージがないだろうか。
「魂の満足」ということを考えると、
それはやはり思考、意志、感情の総合的な満足のことだろうし、
「「魂の満足」を求める社会」ということでいえば、
それを踏まえた、自由、友愛、平等が実現された社会ということになるだろうか。
 
そういう意味でいえば、
シュタイナーの「社会有機体三分節化」の実現のために、
この「インターネット的」であるということが有効なのではないかと思える。
もちろん、ここでは「インターネット」と「インターネット的」との違いは
ちゃんと踏まえておかなければ誤解のもととなるのだけれど。
 
「インターネット的」であることによって、
「脳死」という判断による「臓器移植」の錯誤も明らかになる。
そこにはまさに「魂の満足」が欠如していることになるからだ。
いわゆる「脳」が停止して「心臓」という臓器がとりだされ
他の身体に移植されるというのは、
いわば「物質活動に関わる経済生活」だけが特化されてしまっている
現代の生活スタイルが象徴されていたりしないだろうか。
 
  『インターネット的』ノート9   プライオリティ
2001.7.21
 
         プライオリティという言葉を、最初に耳にしたとき、ぼくは感激しまし
        た。
         価値にはいろいろな種類があって、そのうちで一番大事だと思うものは
        何かを決めていくことが大事なんだ、と、知ったからでした。バカみたい      
        ですけれど、ぼくは、この言葉を聞くまで、そういう考えを持てなかった
        のでした。いろいろあるけれど、どれが一番いい?と決めるのが「プライ
        オリティ(優先順位)という考え方ですよねぇ。イイとワルイの二種類じ
        ゃなくて、イイと思うほうから順番をつけていくという考え方ですよね。
         そんなこと、誰でもわかっていたのでしょうが、ぼくはかなり感激した
        のです。
         で、このプライオリティという言葉が、ごくふつうにあちこちで聞こえ
        てくるようになったこの時代、プライオリティを決定することが、ものす
        ごく微妙になってきています。漠然と、数種類だけ提案されている状態な
        ら、いま選ぶための優先順位も、つけることができます。しかし、面白い
        ことがたくさん増えたり、会うべき人がたくさんいたり。限られた時間の
        中で、たくさんの提案を受けているのが現実です。
        (…)
         いろいろありすぎる「提案」を知れば知るほど、決断はしにくくなる。
        しかし、たくさんの提案から逃れて決断をしやすくすると、決まったこと
        しかできなくなるかもしれない。かなり悩むところです。
        「インターネット的」な発想では、「網羅的」であるということはあんま
        り価値がなくなると言えます。どのみち、情報は無数に生まれ蓄積されて
        いるのです。しかも、インターネットという網の目をたどれば、そのすべ
        ての情報は理屈としてはすべてつながれるはずなのです。
         そういう状況の中で、「優先順位」を決めていくというのは、どういう
        ことでしょうか。
         ここからは、かなり、ぼく個人の方法論なのですが。「やりたければや
        る」「選びたいものがあったら、もっといいものを待つよりも、すぐにや
        る」というのが、インターネット的なのではないかと考えています。網羅
        的でもなく、情報選択の幅を狭くするのでもないやり方とは、やりたいこ
        とを逡巡しないでやってみて「まともに間違う」こと、そして次の何かを
        待っているよりも早く成功なり失敗なりをして「何度でも試す」という方
        法なのではないでしょうか。
        (…)
         つまり、自分の「やりたいこと」な何なのかを探すことが、実は一番難
        しいことで、それを探したらもう失敗なんてあり得ないとさえいえるので
        す。
        (糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P114-119)
 
10年ほどまえにいわゆる「パソコン通信」を始めたのだけれど、
そのときから気になっていることのひとつに、
「なにがしたいかわからない」人が、
それゆえに集まっているという奇妙な現象があった。
 
「なにがしたいかわからない」から集まる。
最初はそれが不思議でならなかったのだけれど、
しだいにわかってきたのは、
そうした人たちが、何かを人に決めてもらいたがっている、ということだった。
もちろん、だれでもいいからというのではなくて、
自分が認める「権威」に決めてもらうことで安心したいということ。
 
しかしその「権威」はいつまでもぞの座にいるわけでもなく、
その都度捨てられながら新たな「権威」を探す。
人や催事のお世話だけをしたがるというのもそういう人に多い。
 
たぶん、「インターネット的」であるということで、
中心にいる人とそうでない人というイメージは
だんだん曖昧になっていくというか、
その都度の役割が随時変わっていくということが
当然のようになっていくことなんだろうと思う。
 
だから、そのなかでいちばん重要になってくるのが、
この「プライオリティ(優先順位)」ということなのだろう。
自分は今何をしたいのか。
そのことをあいまいにしたままにしないということ。
もちろんいつでもそれが看板のようにはっきりしている、
というのではなくて、「こういうのがいいな」とかいうのを
意識しながらやっていくということ。
そうしたトライ&エラーのなかで、
少しずつでも自分のプライオリティをつかんでいくこと。
 
そうしていくことで、
現在の情報の氾濫状態のなかで溺れてしまうことを
避けられるんじゃないかと思うし、
いつまでも群れのなかの一人として
主体を預けている状態ではなく、
たとえ集団のなかにあっても、
自分が群れにならないことができるのではないかと思う。
しかも、自分を他者との関係の中での中央集権的な権力であると
錯誤することからも自由であることができるのではないかと思う。
 
  『インターネット的』ノート10   多様な人格が点滅する
2001.7.21
 
         送り手と受けての区別がつかない。売り手どうしが売り買いしているの
        が、現在の市場だとも言えるし、同時にそれは、買い手どうしが売り買い
        しているとも言えるのです。みんな、ある立場というのが点滅しているよ
        うなものなのです。たとえば、ある母親が“わたしはお母さんです”とい
        う立場の演技をするときがあります。
         でも、それは次の瞬間には消えている。“わたしはお母さんです”の状
        態が点灯していたというわけです。子供が寝てしまったら、お母さんであ
        る状態が消えて、“テレビを見ている人”になったりするわけで、そのと
        きにはテレビを見る人というランプが点灯しているわけです。
         (…)
         役割は、点滅しているのです。
         ぼくも、これを書いている間、何度も「ペットボトル入りのお茶」の消
        費者になったり、夫になったり、新聞の購読者になったり、野球ファンに
        なったり、いろんな人格を点滅させています。それを、わかろうとしても、
        無理でしょう?
         科学でスカッと整理できると思わずに、わかりあえない者どうしが、ど
        うやって信頼を結んでいけるのかを考えたほうが、これからの社会に合っ
        ていると思うのですが。
         以上のことは、「本音と建前」という二元論とは、ちがいます。揺るが
        ない本音があると考えること自体が、「点滅」を認めないことだからです。
        (糸井重里『インターネット的』PHP新書/2001.7.27.発行/P135-136)
 
自分のひとつの役割を絶対化して、
そこから逃れられなくなるのはけっこうキツイし、
それを思い込んでしまっている状態は、
かなり危険なことなんじゃないかと思う。
 
性別や職業や社会的役割等は
あくまでも「私」の一つの属性にすぎないのであって、
そうした属性が自分であると思ってしまったら、
その人はそこでしか生きられなくなってしまうし、
実際のところ決してそうではないのだから、
その矛盾の中で自分をがんじがらめにして苦しんでしまうことにもなる。
もしくは、その思い込みのなかで宗教的洗脳状態になり
そこから出ないままロボットのようになってしまう。
 
「インターネット的」であるということは、
そうした一つの属性、役割に自分のアイデンティティを得ることから
脱するということもである。
 
生まれてから死ぬまでに
私たちはそれなりのパーソナリティ(人格)をもつわけだが、
そのなかでさえ「多様な人格」があるのだから、
死後、再び人格を得ることになることもふくめて考えると、
そうしたペルソナとしてのパーソナリティを
固定的なものとして考えすぎないほうがいいんじゃないかと思う。
 
宮沢賢治もいうように
 
        わたくしといふ現象は
        仮定された有機交流電燈の
        ひとつの青い照明です
        (あらゆる透明な幽霊の複合体)
        風景やみんなといっしょに
        せはしくせはしく明滅しながら
        いかにもたしかにともりつづける
        因果交流交流電燈の
        ひとつの青い照明です
        (ひかりはたもち その電燈は失はれ)
 
なわけです。
 
仏教に刹那滅という考え方があるけれど、
時間は流れているのではなくて
刹那の間に点滅しているのだともいえます。
つまり、私というパーソナリティは
常に灯ったり消えたりを繰り返しているということ。
 
もちろんだからといって、
パーソナリティは多重人格のようであっていいというのではなくて、
その表面的に明滅するパーソナリティの向こうにある
いわば、たもたれている「ひかり」のほうへ
目を向けていく必要があるということでもあります。
 
そうとらえることで、
インターネット的であることによる
さまざまなパーソナリティ間のネットワークも
自由、平等、友愛というコンセプトを
もっと活かしていけるのではないかと思う。
 


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