自力・他力・祈り


自力門、他力門、そして法然。

悟りの段階論

利自即利他

宇宙進化論的祈りを

「ほんたうのさいはひ」を祈ること

宇宙愛の循環としての利自即利他

脱・他力への偏見

 

 

自力門、他力門、そして法然。


(91/12/20)

 

 浄土教には最近僕も非常に興味がわいてるんですよね。知的に見れば、浄土教よりも、禅宗や密教なんかの方がずっと興味深いのは確かですが、なぜか浄土教なんですね。

 僕が浄土教に関心がでてきたのは、キリスト教への関心と足並みを揃えてます。最初はぼんやりとしか理解できなかったのですが、今ではそれは、「祈り」という要素のためだと思うようになりました。

 「南無阿弥陀仏」というのは「アーメン」なんです。僕の勝手な考えでいえばね。単純にいえば、この「南無阿弥陀仏」という念仏によって救われるというのが、浄土教の基本的なコンセプトであるように思います。

 この浄土教のテーマはそれに関連して考えると調和した世界感情、世界についての内的な満足感をもった「妙好人」の存在の重要性に結びついてきますが、このことについてはまた別途の機会に考えてみることにしたいと思います。

 さて、法然について(調べながらですが)お話をする前に、やはり、浄土教の興った背景を踏まえるためにも、ある意味では日本の仏教の大きな2つの流れとしての「自力」と「他力」について簡単に、僕の理解の範囲内で、できるだけ簡単に説明しておくことにします。

 「自力」または「自力門」「自力聖道門」というのは、禅宗や密教などのように、基本的には、自分で修行を重ねて精進していけば悟りが開かれるという考え方です。自力による修行を重ねることによって高い悟りを得ようとする、いわゆるエリートの教えで、修行の成果に応じた悟りが得られるということで、結局、悟りには段階があるということになり、ある意味では差別的な考え方だといえます。基本的には「握一点、開無限」という言葉があるように、自分というものは修行することによって宇宙大の悟りさえ得られる、という非常に宇宙論的な考え方だともいえるような気がします。

 それに対して、「他力」または「他力門」というのは、「他力本願」というように、神仏の大いなる慈悲によって成仏できる、救われるという考え方です。神仏の偉大な力、慈悲の前での人間の存在の卑小さを認識し、ただただ「南無阿弥陀仏」と唱え、すがることで阿弥陀如来に救いを求める、という信仰の形態。

 ということは、極論をいえば、神仏の前にでたときの自分を考えたら、ちょっと悟ったとかたくさん悟ったとかいっても意味がない、大いなる神仏の前ではみんな平等である。だから、謙虚に、謙虚に、ただただ南無阿弥陀仏を唱えてすがれば救われる。努力したから救われるとか、しなかったから救われるというものではない。親鸞の悪人正機説のように、一番救われそうにない人だからこそ救われる。そんな考えが基本にあるように、僕は考えてます。

 この「自力」と「他力」の考え方ですが、僕なんかの考えは、宇宙の大いなる「カミ」の前で、謙虚になりながらも、できるだけ自助努力していくという、この両者の姿勢を折衷したくらいがいんじゃないかと思ってますが、昔は、どちらかというと「華厳経」のような宇宙論的な世界観をベースにした禅や密教などの自力的な考え方に圧倒的に魅力を感じていて、浄土教のような他力本願的な考え方を馬鹿にしてたところがありましたが、最近はどうも浄土教的な考え方の不思議な魅力にとらわれるようになりました。というのも、密教や禅のようなお坊さんの方が確かに頭よさそうで、話をしてても面白いのですが、人間と人間の本音の生の部分や行動的なところでは、浄土教系のお坊さんにはかなわないんです。

 ということで、浄土教、そして法然のお話に移らせていただきましょう。浄土教系というと、その基本的な系譜は、<法然の浄土宗→親鸞の浄土真宗→一遍の時宗>というのが基本です。僕は意外にこの一遍というのに妙にひかれてたりもしますが、今回は浄土教系の最も基本となる浄土宗を興した法然について。

 以下、紹介する法然については、「世界の宗教と教典」(自由国民社)をベースにすることにします。 

●生誕/1133年(長承2年)4月、美作国久米条稲岡荘(岡山県久米郡久米南町) ●幼名/勢至丸(せいしまる)

●父 /押領使(おうりょうし/地方官のような職)の漆間時国(うるまときくに)

●母 /秦氏

●1141年(保延7年)の春、9歳の時、父の時国は、明石源内武者定明と争いを起こして夜打ちをかけられ、このときの傷がもとで亡くなる。父の遺言で、出家。母の弟にあたる観覚得業(かんかくとくごう)の弟子に。5年後、比叡山延暦寺の西塔北谷持法房源光の門に。さらに2年後、阿闍梨(あじゃり)皇円(こうえん)のもとに。ここで、天台三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)をはじめとする天台宗の教義や戒律を学び、「末は天台宗の座主となるだろう」とまで言われたくらいの秀才だったようです。

●しかし、法然は比叡山が世俗の世界の延長にようになってしまっていることに落胆。18歳の9月、当時聖の住む所であった西塔黒谷に隠遁し、黒谷聖人として知られる叡空(えいくう)の教えを受ける。法然はこのときより「法然房源空」に。「われ聖教を見ざる日はなし(教典を学ばなかった日はない)」というほどに、真剣にで道を求めるが、どうしても納得ができなかったようです。

●1175年(承安5年)、43歳のとき、唐の善導(ぜんどう)の著した「観経疎(かんぎょうしょ)/「観無量寿経」の注釈)の散善義(さんぜんぎ)の一文にめぐりあい、積年の迷いが一瞬に晴れ、この後、ひたすら阿弥陀仏の名号をとなえる専修念仏(せんじゅねんぶつ)の宗教生活がはじまった。

 ◆観経疎の一文/この箇所はかなり有名です。解説にはかならず引用されてます◆ 

「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住座臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是れを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」(一心に阿弥陀仏の救いを求め、口に南無阿弥陀仏と唱えて、行住座臥のあらゆるときに、つねに仏を念ずるならば必ず浄土に往生する。それはすべての人々を救いとろうとする仏の本願にかなうからである) 

●1175年(承安5年)、法然は比叡山をおりて、京都西山の広谷に住んで念仏を広めた。そののち、賀茂の河原屋、小松殿、嵯峨二尊院に住み、ついで大谷の吉永に移り、ここを臨終まで居所とした。 

●主著/選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう) 

 以上が法然の生涯の簡単な流れですが、この法然を含む浄土教に関して最近読んだ名著がありますので、このなかから法然の生き方に関する部分を抜粋して法然の紹介のとりあえずの幕とします。

 紹介する本は、柳宗悦(やなぎむねよし):南無阿弥陀仏(岩波文庫)。引用箇所は、17章の「僧と非僧と捨聖」のP222〜223。

「法然上人は念仏の一宗を建てることによって、衆生経土への大きな道を開いた。彼の希いは何よりも仏法を在家に活かそうとすることにあった。彼はこの世の階級を問うことなく、上は王皇公達から、武士町人、下は漁夫遊女に至るまで、念仏の一道に温かく迎えた。しかし彼自らは出家の身である。どこまでもその契いを、生涯破ることがなかった。」

 

 

悟りの段階論


(91/12/22)

 

 僕の考えるところですが仏教の歴史の中で浄土教というのはそれまでとはかなり異質な要素を持ち込んだのではないかと思ってます。

 その端緒は最澄の天台宗系の思想にあったようにも思えるんですが、最澄は徳一(だったと思いますが)との「悟り」に関する論争で、かなりはしょっていうと、「悟り」には段階があるかどうかということに対して、段階論を否定する立場をとりました。

 日本の歴史の中での仏教の大きな発展要因というのは、この悟りの段階を否定したところにはじまるような気もしてます。ある意味では天台宗というのは、仏教的ではないといえるんじゃないでしょうか。

 キリスト教というのはもともとそういう要素が強いですよね。段階的な救済だということをいうと「異端」になってしまうし、キリスト教とが仏教を嫌う一番の要素は、その差別的なファクターに起因しているようだしね。

 で、何がいいたいかというと、「念仏」というのはやはりあの時代状況での大衆向けの方便として考案された手段だと思うんですよね。同じ念仏でも法然や親鸞などの念仏は、正直いって「レベル」が違う。崇高な祈りに近いものがあるでしょう?

 やはり、念仏や祈りや「悟り」にはそれぞれの課題に応じた段階があるように思います。

僕は、どちかというと禅や密教の方が好きですが、あのキリストの「祈り」のような意味での「祈り」ははるかに「カミ」に近いような気がします。

 ただ、祈りだけをコンセプト化した宗教形態というのははっきりいって「カミ」と「人間存在」とを切り放した発想になりやすい。キリスト自体は決して切り放してるようには思えないんですが、やはりその2極化の弊害というのはあると思います。禅や密教では、マクロコスモスとミコロコスモスの同一化ということにその究極の修行目標があり、結局「内」を求めて自らが「仏」(カミ)になるということですから、やはり「悟りの段階論」が有効なように思えます。

 繰り返しますが、「念仏」や低次の祈りは、それだけを正当化することは決してできまいように思います。「毒矢のたとえ」というのがありますが、とりあえずの救済処置として、主に大衆をターゲットにしていたのでしょう。もちろん、その大衆救済こそが、仏の本願でもあり、キリスト教的にいえば、「愛」の実践でもあるのですが。

 ここでついでですから、悟りの段階論に関していっておくと、ここんとこちょっとしたテーマになっているマニ教的な視点でいうと、宇宙進化のためのダイナミックなカミのプロジェクトとしての「悪」という存在の役割を評価しています。

 要するに、人間がカミからでてカミに還るだけでは宇宙進化にならない。「悪」というファクターによって、人間はカミからでてこの地上で悪を救済する営為によって、宇宙を進化させていく存在だというのですが、シュタイナー的視点もこのマニ教の視点の延長上にあるようです。これだけではよくわからないでしょうから、マニ教/薔薇十字といった秘教主義が育み育て、そしてシュタイナーによって霊学または神秘学としてオープンにされた考え方についてはおいおいご紹介させてもらいますね。シュタイナーの仏陀に関する考えも、ある意味ではこの流れの中核にあります。もちろん、シュタイナーのメインテーマはキリスト教的ですから、視点はそっちの方にポジションがありますが。

 

 

利自即利他


(91/12/23)

 

 自分が今不幸であるとしても、その不幸ををしっかり見つめられさえすれば、それによって他者への感受性を育むことにもなるのですが、それがなくて、自分の不幸を実体化し、そのなかにどっぷりつかってしまい、自分の不幸を他に転嫁しはじめると事態は最悪になります。

 このところ、先日紹介した柳宗悦の「南無阿弥陀仏」をはじめ、いろんな浄土教関連のものを読んだり、お坊さんの話しを聞いたりするにつけ、法然をはじめとするあの時代の浄土教関連の方々の情熱というか使命感がなんとなくではあってもわかるような気がします。あの法然や親鸞というのは、あの時代の超エリートなんですよね。その超エリートが、そうせざるを得ないと思うその単なる知性を超えたものすごいエネルギーには脱帽してしまいます。特に親鸞さんなんかには、あのキリスト教を広めたパウロのようなものを感じたりもしますね。あの「天命」に基づいた祈りを前にしたら、近づけないくらいの崇高さに、思わずこちらも手を合わせてしまうかもしれませんね。あれこそ「自」と「他」といった分別知をはるかに超えた境地なのかもしれませんね。

 他人を見捨てるということは、結局、小さな我でしかない。大我にはほど遠い境地です。

最終的には、自と他を区別する分別知を超えていくことが大乗の基本なのかもしれません。

 でも、そこで気をつけないといけないように思うのは、他を生かすことが、他を甘やかすことになってはいけないということでしょうね。近視眼的にみてすぐに手を差し伸べてしまうことの弊害も考えにいれなければ。やはり、他にとっての進歩がどのようにすれば促進できるのかをもっと長期的な視点でも考えなくればならない。もちろん、それを言い訳に使うのはもってのほかですけど。要するに、他を生かすことは、即自分を生かすことでもあり、自と他との関係性のあり方もそれによって深いものになっていくということでしょう。

 それから、話しはちょっと飛びますが、マニ教は、悪を救済することこそ人類進化の原動力であるような考え方でもあるようですが悪人正機説ではないけれど、悪だからこそ救われる、救われねばならない、そして、その救済行為こそが人類そのもの進化へと向かうベクトルでもあるという視点も、非常に気が遠くなるようなスパンではありますが、せっかくシュタイナーがテーマですから、見ていきたいものですね。

 やはり、自も他も生かしていくということが、全体としてみても、進化への道であるという視点。それを忘れないようにしたいと思います。 

 

 

 

宇宙進化論的祈りを


(91/12/27)

 

 「祈り」についての話、とても有意義だと感じています。他力派の方はやはり、神への絶対的帰依、そして神の前での絶対的平等ということから、人間の営為の無力さということをなによりも考えているのに対し、自力派の方は(といってもいろんな立場があって、一概にはいえませんが)、極論すると、神と自分を切り放して考えず、宇宙のミクロコスモスとしての人間観から自助努力によって、ふたたびマクロコスモスとしての「神」に合一することを修行目標にし、現在現れている自分の状況は過去のカルマの現れであって、それ自体が自分の修行課題であると考えるため、本来神の前では平等でありながら、段階的な悟りということを説く。(最澄なんかは、これを否定したわけですが)

 で、どちらがいいとか悪いとかいうことではないのですが、どちらにも真実はあると思うんです。それに、前述の親鸞派の方も、あさはかな人間知とかいうわりには、親鸞さんと同じく非常な努力の人で、非常に行動的なんです。どちらかというと、自力派の人の方が、理屈が先にたって、行動があまりない。キリスト教は、やはり浄土教的なスタンスにきわめて強くて、理屈よりもまず行動、そしてそのベースとしての祈りが重要になっているようです。

 僕は、以前は完全な自力派でしたが、実践力&救済力、謙虚で純粋な心を取り戻すための祈りということから、今では、他力の重要性に開眼しているというのが正直なところです。

 でも、この他力というのは、密教などの説く世界観というか宇宙観をベースにしないと宇宙進化的な視点がどうしても欠け落ちてしまうのも、大きな事実だと思います。それに、他力派の方のある種の「排他性」ということも、その世界観からどうしても強く出てこざるを得ないのも事実のようです。(あのキリスト教の征服欲の根元エネルギーにもなってるようにも思えます)それから、「救い」ということに対する考え方が明確でないのもいえるでしょうね。どういう状態が「救い」なのかということは、宇宙観が明確でないと、やはりよくわかってこないと思うんです。その場、その場での気分的な救済はむしろ救済ではなく、単なる「堕落」でしかないですから。

 神智学などの説明によると、(これは僕の解釈も入っていますが)救われてない状態というのは、低次アストラル(つまり、感情部分の粗雑な要素)に呪縛されているということでその度合いがひどいといわゆる「地獄行き」なわけです。しかも、それは自分が選択してその状態になっているのであって、他から「地獄行きだ!」となるわけでは決してないのです。この、誰でも自分で現実を選択しているという点は忘れてはいけないと思います。

 念仏で救われたかのようにみえても、多くの人は自分の心のあり方を修正するためにはそういう状態が必要な場合が多い。その念仏がほんとうに自我の消え去った、清らかな状態であればおそらく低次アストラルを容易に脱ぎ捨てることができるのだと思いますが、やはり低次の自我を捨て去った祈りの状態にならないとなかなかむずかしいようです。

 世界にさまざまに残っている宗教の目的というのは、この低次アストラルを容易に脱するための方法論(方便)であり、また積極的にいえば、本来神よりでてきた人間存在がふたたび神へと向かい、存在の根源としての神がそれ自体としてさらに進化を遂げていくためのものであるような気がします。

 どちらにせよ、本来私たち人間は神の部分集合であり、私たちが日々真剣に生きていくことの総体が神そのものの進化であると、僕は思っています。「物質は光になろうとしている」と先日ちょっとだけいいましたが、鉱物も植物も動物もそんなあらゆる存在が「神」へと帰還し、その総体を進化させていくというヴィジョンって、とってもファンタスティックじゃないでしょうか。

 そんなビジョンさえあれば、自分のまわりにあるゴミや汚れや障害物を克服することなんて、たいしたことないような気になってきませんか。祈ることも、そうした意味でとらえかえせば、もっとステキな感じになってくるように、僕は思ってます。たとえ、ほんとうに祈らずにはいられない状況でも、あらゆるものが自分にとって必要で、意味深いものだという観点が何よりも大切なように思えます。

 

  

 

「ほんたうのさいはひ」を祈ること


(92/03/09)

 

 昨夜、毎回お涙頂戴の「知ってるつもり」の特集「キング牧師」の巻がありまして、黒人の人権獲得のためのデモ行進のとき、自分達を銃や放水などで待ちかまえる警官隊の前で、みんなして祈るシーンが紹介されていました。そして、警官隊もその前ではなすすべがなくなってしまう・・・。

 ガンジーも自分を殺そうとする者に対して祈ったそうですし、あのイエスキリストも、「神よ、この者たちは自分がいったい何をしているかわからないのです」とか祈ったということですが、祈りというのは、他の業を悲しみながら発せられるときに限りなく崇高なものとなっていくような気がします。もちろん、自分を高きにおいて、他をおとしめるような祈りは限りなく醜いものでしかありませんが。多くの間違った宗教者は、こういうの多くありませんか。「私が、救ってやる!」とかいう類なんか(^^;)。

 大乗とかキリスト衝動といわれるものの本質がここにあるような気がします。単に特定の存在にだけ向けられる「祈り」ではなく、全存在に向けられた「祈り」が、「慈悲」「愛」と呼ばれるのだろうと思います。そのときには、限りない自己犠牲、つまり「供犠」という行為がそこに捧げられているのでしょう。キリストのあの十字架の意味の一端はそこらへんに隠されているように思います。

 宮沢賢治の童話にはこの「自己犠牲」のことがたくさんでてきます。「銀河鉄道」の終わりのあたりにも、ジョバンニがカムパネルラに「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸いのためなら僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」というシーンがあります。カムパネルラも「うん、僕だってさうだ。」と答えるのだけど、さらにジョバンニは、「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」と問います。すると今度は、カンパネルラの方は「僕わからない」とぼんやり答える。

 ここらへんが、とっても難しいテーマで、この「自己犠牲」が「ほんたうのさいはひ」のために捧げられる、その「ほんたうのさいはひ」というのが、シュタイナーのいう宇宙進化論的視点をみていくとなんとなく、ぼんやりとではあれ、わかるような気がしてくるのですが、単なる錯覚に過ぎなかったりしてね(^^;)。

 この「ほんたうのさいはひ」とは何かを探求していくその方法論の違いが信仰型宗教と神秘学との違いとなって現れてきているのだとも言えるかもしれませんね。

 その探求の方法論には、グルジェフなんかによれば、「思考」「感情」」肉体」という各センターそれぞれの方向からアプローチしていくやり方があって、比較的万人向けのいわゆる「宗教」的アプローチが、「感情」センターを使い「感情」を高次のものにもっていく「信仰」をベースとしたものです。ちなみに、「肉体」をベースにすれば、いわゆる「行者」さんですね。で、「思考」をベースにするのが「ヨーギの道」と呼ばれる学者バカ、ということですが、グルジェフによれば、「世間にありながら世間に属さずに」いる人間のための第4の道を提唱しているわけです。

 神秘学というのもそれに近くて、シュタイナー的にいうと、薔薇十字の道といえばいいのでしょうか。僕は前回も言いましたが、やはり信仰の道というのは、どう考えても向いてそうにないから、やはり神秘学徒でいきたいですね。

 マニ教とキリスト教の相違ということにもそれはあたっていて、あのアウグスティヌスは、最初、バラ十字的なマニ教を信奉していたのに、「権威」と「組織」という理由でキリスト教に寝返ってしまうことからも宗教的あり方が、組織や権威をベースとした「信仰」ということと切っても切り放せないことは理解できるのではないでしょうか。といって、別にアウグスティヌスのその選択が是か非かという問題ではなく、あくまでもそれはどちらが適しているかという問題なのですが。

 まあ、どちらをとるにせよ、やはり個人の認識力の差によって、自ずと開けてくる世界は限界づけられているわけだから、どちらがいいとかはいえないのは事実ですけど。

  

 

 

宇宙愛の循環としての利自即利他


(92/03/16)

 

 「慈悲」、「大悲」(大慈悲心)、「悲願」とかいったときに使われる「悲」という言葉がありますが、この「悲しみ」というのこそ、崇高なる「祈り」にふさわしい動機であると思えます。ゾシマ長老の「救いは一つ」でもふれましたが、すべての存在たちに向けられた、救いの悲しみこそが、大いなる「宇宙愛」というものだと感じますね。大いなる悲しみこそが宇宙愛の原動力となっているのかもしれません。宮沢賢治の「うちうの あひのはどう」ってことです。

 ご利益信仰の危険性というのは、「祈り」のベクトルの問題と密接に関連していて、悪くすれば、エゴの力を増幅させてしまいかねない一方通行の形態だから、「宇宙愛」を循環させることにならないために、エネルギーの閉塞状態を誘発しやすいのではないでしょうか。

 あらゆる「祈り」は、宇宙を循環しているんだと思うんです。だから、「利自即利他」といわれるような大乗的な理想形態こそが、その「宇宙愛」の循環の理想像ともいえます。

 だから、「自分さえよければ」というのでは、結局のところ、宇宙愛を運ぶパイプラインを目づまりさせてしまいます。崇高な行為ではあるけれど、「自分はどうなってもいいから、他を生かしたい」という祈りも、こうした観点から考えてみると、やはりどっかで無理が生じるから、グローバルな意味での「生かす」行為とは言い難いのかも。やはり、理想は「自分も他も生かす」という「利自即利他」というのが望ましいでしょうね。「犠牲」をどこかにつくってしまう、なんて悲しいから。

 とはいっても、なかなか理想と現実というのは遥か遠いものがあって、宇宙進化のなかでも、「供犠」を捧げる存在というのがあって、「進歩と調和」という原理のなかで、いろんなドラマが繰り広げられているんだろうななどどいうファンタジーを夢想したりもしています。

 キング牧師もそうでしたし、同じ「知ってるつもり」で少し前に特集していた韓国の孤児たちの母、「田内千鶴子さん」(でしたよね)も、ほんとうに「利他」「愛他」「自己犠牲」犠牲の極限のような人で、えてして、そういう人の方が、ああいう生き方や死に方をしたりしますよね。なんか、生き方そのものがキリストの秘儀を体現したかのような、ね。

 それに比べて「利自即利他」のお釈迦さんは、死ぬときには「豚肉」かなんかにあたって苦しみはしたものの、(この死に方にも意味がある、というのがシュタイナーの考え方です。 「秘儀を漏らした罪」とかいうのですが、そこらへんは省略します。)かなりの長寿で、祝福に囲まれた円満な死を迎えることができたようです。

 どちらにせよ、せいいっぱいの「生」を生き、多くの人に大きな感動を与えることのできたことは限りなく素晴らしいもので、「長生き」してもらった方がいいのは確かかもしれないけど、それぞれの人にはそれぞれの意味あるドラマがあるような気がしています。

 

 

 

脱・他力への偏見


(92/04/15)

 

 柳宗悦さんからはこの数カ月非常に学ぶものが多くて、「他力」についても、以前の「偏見」に近いもの(^^;)から「理解」への方向性へと向かっているように自分では思っていたのに、やはりすぐにそれを???としてしまう自分に反省です。

 以前、「祈り」について話してたときにも感じたのですが、やはり自分の指向するスタンスを離れたところの「理解」というのは、頭でっかちの「わかったふり」になってしまいかねないですよね。そもそも「他力門」というのは「頭」の部分の教えではないことをもっとハートで理解しなければ・・・今後の課題にしたいと思います。

 「妙好人」にしても、柳宗悦さんの「美の宗教」にしても、それを通じ、この世界、つまり此岸を彼岸化するという大いなる悲願という考え方が基本的な背景になっていることは理解できます。それが「月を指す一本の指」「宇宙進化への一本の道」だということも(^^)。もちろん「違和感」というのは基本的にあるかもしれませんけど(^^;)。

 ただ、疑問が残るのは、親鸞や法然、そして柳宗悦さんといった方は「他力」といってもどっちかというと、かなり学識のある思索的な方であって、その限界を突破するための「他力」の導入といった要素が濃厚のような気もします。

 つまり、「他力」はその根元においてかなり「自力」をベースにしているのに、そのベースの部分を無化して枝葉の部分を「衆生」に撒いていたようなところがどうしても???っていうことにもなるわけです。

 「無学の人にも開かれた」というのは、それを「契機」にできるという点でも常に優れたものではありますが、それを「自己認識の放棄」、「なにも考えなくていい、その必要性がない」へと転化すると危険ですよね。「妙好人」についても、そのプラスの側面には感動させられますが、そのマイナスの側面、つまり為政者側に利用されやすいということをきちんと「見る」必要性もあるのではないでしょうか。

 それからもうひとつの点。「現実の柳は物凄いエゴイストで気難しい人でもあったそうですよ。」ってことですがこれは僕の偏見かもしれませんが、「他力」をベースとしている方というのは「他力」のわりには「他」を見ない、つまり、見たいものしか見ないエゴイストの側面って強いような気もします。おそらく、その「エゴ」の部分からの救いということから「他力」へというのが、特に他力思想をベースに運動を起こす方の中には多いのではないでしょうか。そういう意味では、自分の中の「闇」の部分というのはかえって大きいような気もしますね(^^;)。

 とか何とかいって、また「他力」の理解から遠くなったかも(^^;)。しかし、この柳宗悦さんですが、「他力」とかいいながら、けっこう「自力」の塊のようなイメージがしますね。すごくラディカルな方のようだし。それに、「美」ということを「世俗」に解き放つ(?)スタンスのわりにはかなり特権的なイメージも見えかくれっていう感じも濃厚ですよね(^^;)。しかし、その「美」ということを探求する趣旨というのを考えたときその重要性というのはおとしめられるべきではないとは思います。

 「茶道」ということに関連して、柳宗悦さんは「型」ということをいっていて、「茶道を想う」というエッセイで、個人を超えた力としての「型」の真意について述べてますが、やはりこの「型」というのは個人のはからいを超えた真の他力のことを言っているのではないかと考えたりもしています。

 この「型」ということについては、先日も書名だけ紹介させていただいた源 了圓:「型」(創文社、叢書・身体の思想2)が興味深いのですが、「序・破・急」「守・破・離」ということに注目したいと思っているところです。能学や剣法でいわれるそうした考え方というのは奥が深くて武士道や日本精神の核を成しているような気もしてます。この「型」と「道」という2つのキーワードをめぐって日本精神を見ていくということに、今非常な魅力を感じはじめているところです(^^)。

 さて、話をもとに戻して・・・・、たぶんその思想家のレベルでの「他力」「自力」というのは、それぞれ「他へのポジティブな働きかけ」「自へのポジティブな働きかけ」という認識の指向性のことといった方が適切かもしれません。そういう意味ではどっちも同じくらい重要な方向性にま間違いないと思います。問題があるとすれば、その「他力」「自力」を「契機」と考えないで「逃避」の手段としてしまう可能性なのかもしれません。

 ということで、どちらにせよ柳宗悦さんからはこれからも多くのものを学べるのではないかと確信しているのでした。


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