「映像論」ノート6

未知との関係

2006.4.25

 なにかバカやってないかとテレビづけ

 ずいぶん前、新聞に投稿された川柳です。
 映像への多様な要求に応えることになったテレビは、たちまちこんな悪態を
つかれる体たらくになりました。
・・・
 映画館まで足を運んで入場料を払ってみる映像には、落胆し立腹することは
あっても、優越感をおぼえることはないでしょう。ところが、リコモンをオン
にすれば居ながらにしてみることができる映像には、自分でも気づかないでバ
カにし軽蔑してみている内容が多い。つまり優越感を抱いてみることがしばし
ばある。さきの川柳は、その事情をよく表現していると思います。
 これは映画とテレビを同列に並べての優越からではなく、それぞれの役割の
ちがいからおこる反応なのです。
 映画はその商業的施策からもっぱら劇映画に収斂し、俳優によって虚構を描
くことに専念してきた。その結果失った多様性と情報性をテレビが担うことに
なり、テレビカメラは社会に向かうことになったのですが、それはとりもなお
さず外界で未知をさがすことでありました。
・・・
 なにかバカやってないかとテレビづけ
 の一句は、この未知ーー既知の関係をうまくとらえ、冷笑、嘲笑、憐憫もま
た視聴率となるテレビの特性を、そして映像による視覚体験を求める脳の本性
の一面を、よくあらわしていると思います。
(内田直哉『脳内イメージと映像』文春新書/P.138-171)

映像の可能性に関していえば、まずわかりやすくいえば、
いままで見たことのなかったものを見せてくれる、
しかも絵ではなく、またスチールカメラでもなく、
動画としてビデオカメラで撮影されたリアリティのある形で
身近に(家に居ながら)見せてくれる、というところにあるだろう。

そこあるのは、作品を鑑賞するという姿勢ではなく、
いわば水平的な視点でののぞき趣味が基本姿勢となってくるところがある。
しかもその「のぞき」は違法行為ではなく、
きわめて横柄な態度で堂々と「のぞき」ができるのである。
そしてそれを視聴者に提供することを競って行なうようになる。

そこには、芸能人のゴシップなども雑誌などの印刷媒体に先駆けて
いちはやく芸能レポーターとか証する人間によって提供されていき、
非日常的であった芸能及び芸能人を、のぞくことが日常化される。
そして、それが事実であるか真実であるかどうかはすでに実質的にいって問題 ではなく、
そうした「のぞき」そのものを楽しむことが
メディアの提供する商品となっているということがいえる。

テレビカメラは、ひたすら「のぞき」を演出する。
事実には「事実」という札をつけ、
エンターテインメントには、「エンターテインメント」という札をつけ、
「未知」という名の視聴者の「のぞき」の対象を演出してみせる。
そういう類の「未知」というのは、もちろん
認識を拡大するための「未知」の発見や探求が目的ではなく、
「のぞき」ということを楽しむための道具以外の何者でもない。
そしてその「のぞき」によって得られるさまざまが視聴者に共有されていく。

多くの視聴者は自分にとって現状の認識範囲を超える「未知」を求めようとは していないのだ。
それは、みずからをふりかえらせることになりかねない「不安」につながるも のだから。
「のぞき」の対象としての「未知」は、「汝自身を知れ」の「無知の知」とは 矛盾する。

「なにかバカやってないかとテレビづけ」がらくちんなのであって、
「自分がバカと自覚させてくれとテレビづけ」はやはりむずかしい。
哲学が読まれないのも同様である。