「映像論」ノート5

物語との関係

2006.4.25

 物語を描くのは、映像の得手とされております。
 それはたしかなことでしょうか。
 実は映画百年の歴史を誤解してそう思いこんでいるだけなのではないか、と
私は考えます。誕生以来、映画はつねに物語に密着してきた。そして確かに、
数多の文学作品を映像で描く試みをしつづけてきました。
 しかし、物語そのものに興味をもったから描いてきたのか、というとはなは
だ疑問に思われてくるのです。
 映画はこれまで、なにかを包む衣装として、あるいは意匠として、物語を描
いてきただけなのではないか。ほんとうに描きたいものも、また描くのが得意
なのも、その中身なのですが、はだかのままみせるわけにもいかないのでオブ
ラートとして、シュガーコートとして物語をまとってきた。それだけのことで
あって、物語ることが映像ほんらいの得意技である、などと早のみこみしては
いけないのではないか、と思います。
・・・
 映画百年の歴史とは、興行成績最優先のもとに劇映画だけを量産してきた歴
史です。それは言葉を経由した言いまわしの映像への翻訳のほかは、収入のあ
がるわかりやすい映像で構成されたものがほとんどでした。
 観客の脳が求める映像の多様性には、あえて目をつむっていたのです。
 多様性に応える役を担ったのは、映像の世紀もなかばをすぎてから本格的に
事業を開始した、テレビでした。
(内田直哉『脳内イメージと映像』文春新書/P.118-136)

映画が大きなマーケットとして成立しているということは、
人が物語を必要としているということと無関係ではないだろう。
人は物語を見るために映画を観る。
たしかに映画を観ることで喚起される喜怒哀楽は大きく、
ときに大笑いをし、ときに涙を流す体験をする。

有名な文学作品を映画化したものも多いが、
ときに、というかその多くは、ともすれば
文学作品を卑小化してしまうこともある。
というか、文学作品のもつさまざまな多義性が一義化されたり、
文学作品の卑小な解説に堕してしまうこともある。
つまり、映像化された作品は、その原典と無関係であるということはできない にしても、
文字で書かれた作品と映像によって描かれた作品とを安易に同一視しないほうがいい。

映画は映像による物語表現を事としている。
もちろん物語表現以外の映画も存在するのだけれど、
興行として成立しやすいのは、物語表現であるのは確かだろう。
しかも映画制作にはかなりの時間と費用が必要となる。
また、多くの場合、映画館という特殊な装置も必要である。
その点から考えても、そこに映像の多様性を受け入れる市場は希薄だろう。
映画における映像の多様性は、あくまでも興行を無視した幅を持ち得ない。

たしかに、映画と比較してとらえると、テレビというメディアにおける映像は、
各家庭ごとに受像器があるということで可能になるその受け手の幅の広さ、
迅速に、ときにはリアルタイムで伝えることのできるシステム、
費用面での安価さなどといった諸条件のために、
さまざまな意味で映像の多様性が可能になるところがある。

しかしテレビというメディアがもっている可能性と限界は、
その視聴者の可能性と限界でもあるのだろう。
ときにテレビメディアは、視聴者の見たいであろう映像を
ヤラセさえしてまで届けようとする。
倫理面でのことを別とすると、そうした見たいものを見せようとする姿勢は、
映像の多様性という観点からすれば、それもまた可能性であり、
また同時に限界だろうという気がする。
見たくないものは見せられたくないわけで、それは映像化されない。
そして見たいとされる映像のマーケットにメディアは過剰に殺到する。

また、見たいとさえまだ思えないような未知の映像の可能性に対しては、
視聴者は必ずしも積極的な創造者であるとはいえないだろう。
重要なのは、映像のもっている可能性を
多様化し広げていくということなのだろうけれど、
そのためには、見る人そのものが多様化しまたその見る力を高めていかなけれ ばならない。
それは単なる量的な視点ではなく、質としてのそれが必要とされる。

よくマーケットリサーチとして、さまざまなアンケートや聞き取り調査などが 行なわれるが、
それはあくまでも既存のものにおける傾向性を調べる以外のものではない。
それは何も創造することはできないのである。
視聴者はなにも創造することができない。
そのような映像の享受からはなにも創造されることはないだろう。
そしてそうした視聴者とそれに迎合しようとするメディアとのキャッチボールが続く。

もちろんインターネットという双方向のメディアは
それなりの可能性を開きはするだろうが、
それにしても、そこに必要なのは、既存のもののたんなる質量の増加ではなく、
いまだないものをそこに存在せしめようとする創造性だろう。

そしてそこには物語という要素も関わってはくるだろうが、
大きな市場性のなかで享受されるような物語性ではない可能性が
そこに見出されるかどうかが重要になってくる。