「映像論」ノート4

音楽との関係

2006.4.18

 武満徹という作曲家はほんとうに映画が好きで、彼自身、数多くの映画音楽
をのこしています。そのスタイルもミュージック・コンクレートの手法あり、
ジャズあり、大編成の管弦楽ありと千差万別でしたが、ひとつの姿勢で首尾一
貫していました。それは、作曲家として、
「そこにきこえる音に耳をすます」
というものです。そして
「映像と協同(コラボレート)する音」
としての音楽の役割をたいへん重視していた氏は、映画ばかりでなくテレビで
もたくさんのすぐれた仕事をしました。
・・・
いつも私は武満氏の「映像につける、物語にはつけない」作曲の姿勢に脱帽し
ていましたが、残念なことに、そのほんとうの意味がわかったのは、氏が世を
去ってからのような気がします。
 彼は、映像に音をつけることによって、映像のなかにひそむ余分な音を削っ
たのです。
 無音の映像でも、映像はその性質上、どうしても余分な音を含みます。それ
を削って、響かせたい音をおもてに出す、それが武満氏の音楽演出だ ったのだ、
といまにして思うのです。
 映像にではなくて物語につけると、シュガーコートしたりお涙を加えたりす
る方向にどうしてもなる。武満氏が最も嫌ったのは「自己憐憫」の音楽でした
が、そのほとんどは、自己憐憫の物語から生まれます。考えると、氏 の方法は、
映像と音楽が互いにその空間を深めあうためにその空間を深めあうためのいち
ばんきびしい道だったのだ、と私は最近になって悟りました。
 ですからソマリアの、ウガンダの難民収容所の映像から余分な音を削って祈
ったのに、高名な音楽評論家に美と悲惨のちぐはぐ、の典型として受け取られ
たことは、どんなにショックだったろう、といまにして思うのです。
・・・
 最近、テレビのバラエティ番組を中心に、出演者の発言を画面下に、テロッ
プで視覚言語化して、「ここを笑え」と指示するような手法が流行してきまし
た。べつだん面白くない発言でも「デートのときとかあ……」「道に迷ったと
きとか……」と文字で強調され、笑いの効果音がはいると本物の笑いがとれる
というので、新しい表現手段と評価する向きもあるようです。
・・・
 報道番組でもバラエティ番組でも、画面に文字が多くなりました。それも、
同じ内容を聴覚言語と視覚言語の両方であらわすもので、かたちとしてはカラ
オケそっくりです。
 そして、映像として文字を表現するのに、その造形美をないがしろにしてい
るところも、報道、バラエティ、カラオケの三者ともまったく同じです。
 造形美ばかりではなく、漢字仮名交じり文という、世界の視覚言語のなかで
もきわめて特殊な、映像にちかい構造である日本語のもつアドバンテージを生
かす試みも皆無です。・・・聴覚言語をただ視覚言語にして、新しい表現方法
だと得意になっている現状はまことに淋しいと言わざるを得ないのです。
(内田直哉『脳内イメージと映像』文春新書/P.98-109)

映像に音をつけるということは、いったいどういうことなのだろう。
そのことをあらためて考えてみる。

映像が映像だけではもたないので、音を加えてもたせる。
そうすると、映像の物語性をセンチメンタルに増幅させることができる。
映像に迎合する音。
もしくは音によって助けられる映像。

武満徹の「映像につける、物語にはつけない」という姿勢の意味するもの。
映像空間に響かせたい音が無音であれば、それが理想なのかもしれない。
武満徹はタルコフスキーの音響演出を尊敬していたという。
タルコフスキーは『映像のポエジア』にこういう言葉を残している。
「映画は音楽をまったく必要としていない、と私は心の奥でひそかに信じている」
そしてこうもいう「けれども、私はまだ、そのような映画をつくっていない」
では、映像に必要とされる音楽はいったいどういう音楽なのか。
その答えが武満徹の「映像につける、物語にはつけない」なのかもしれない。

上記引用の高名な音楽評論家とは、吉田秀和のことである。
「多くの人が飢えの下に苦しみ絶望的な状況にいるという光景を見せる一方で、
こんな多感繊細な音楽を鳴らすとは、何という鈍感な残酷さだろう」という。
そこには「思いやる心の働きがない」とまでいう。

吉田秀和の大きな誤解はどこにあったのだろうか。
武満徹は「祈りを曲にしてあの映像につけた」という。
それが誤解されて「ちぐはぐな美しい曲が流れたと受け取られた」。
吉田秀和は、その音楽をいわば「情景の伴奏」としてとらえてしまったのだ。
まさに音楽が映像の物語につけられたと思いこんだ。
他の人ならまだしも、吉田秀和さえも誤解されせてしまったことに対し、
武満徹はあえて反論するとは避けたという。
それだけそのことに深い悲しみを感じたのだったろう。

映像を見せることそのもののデリケートさ、難しさ、
そしてそれに音をつけることのさらにむずかしさをそこに見た気がする。
音楽をこよなく愛する吉田秀和だからこそ、
映像と音楽の関係についてきわめて情緒的な反応をしてしまったのでもあろうが、
ひょっとして、ふつう、映像につけられた音楽を
映像を引き立てその情緒性を増幅させる道具のように感じている人ならば、
ある人は、その情緒的な物語のなかに過剰な感情移入をし、
またある人は、吉田秀和のように憤りを感じた可能性は高い。

だれしもが、武満徹のような「映像につける、物語にはつけない」という
音楽に対する倫理的とでもいえるような姿勢をもっているわけではないのだ。

さて、引用の後半部の聴覚言語をただ視覚言語にしてしまう問題。
これには、テレビを見る度毎にうんざりさせられてしまう。
映像表現に対するあまりの無神経さであると同時に、
音声表現に対するある意味冒涜でさえあるといえるような手法。
報道、バラエティ、カラオケがともに歩んでいる映像と音声の相互スポイル化。

もし話されている日本語が視聴者に理解できないために
字幕スーパーで解説する必要がここまで必要というのであれば、
視聴者レベルをそこまで馬鹿にする必要があるのか、とか
ほんとうに必要であるならば、日本語はいったいどうなってしまうのか、
とか柄にもない危惧さえいただせられてしまう。
しかし、実際、通常いろんな方と話していて
毎年、語彙を極度に制限しないと伝わらないことが多くなっていることは
実感させられているので、なおのことかなりコワイ状況ではある。

また、聴覚言語をただ視覚言語にして、
広告のキャッチフレーズのような画面の文字を
銃弾のように乱射することを映像制作者が新しい表現方法だと
勘違いしているとしたら、これもきわめて悲しい状況である。

ともあれ、映像と音声・音楽の関係というのは、非常に重要な問題であるということに
こうした状況だからこそなおのこと意識化してみる必要があるように思う次第。