「映像論」ノート3

言葉との関係

2006.4.17

 私の考えでは、言葉と映像は「競技種目」がちがうのです。
 それを同じだと錯覚したところから、さまざまな混乱がおこってきました。
映像作品はある特定の顔かたちを押しつけるから、想像力を減退させる、と
いう非難などもその一つです。この論法を押しすすめると、実在の人物、い
や眼前の現実そのものも想像力を圧殺することになってしまう。
 視覚言語を読む脳と、映像を見る脳は別なのです。
 比喩的にではなく、脳のさまざまな部有為に受けた損傷によって生じる障
害のちがいからして、脳科学的にもそう言えるようです。
・・・
 見る、聞く、読む、書く、というような運動に、二十世紀になってから、映
像を見る、という運動が加わったわけです。むろん、脳内にイメージを浮かべ
る、という運動は昔からあります。
 私は、映像というのは、脳が脳自身を維持するのに目の前の現実を見るだけ
では不足なので、その要求をみたすために生み出したものなのだ、とひそかに
思っております。・・・
 それは、他の聞く、読む、話す、といった運動とパイの奪いあいをするもの
ではありません。もともと競技種目がちがうのです。
 パイの奪いあいどころか、言葉のサポートなしに映像が脳の要求をじゅうぶ
んにみたし得る、などと考えると、また迷い道に踏みこむことになる でしょう。
 たとえば、映像には否定形がありません。
 一つのコップを映し出すことはできても、「これはコップではありません」
ということはできないのです。
 「これはコップです」ということも、厳密にはできない。「ここにコップが
あります」「ここにあるのはコップです」どれも、言葉の領分です。映像はコ
ップを示すことしかできない。
・・・・
 そのかわりに映像は、ヴァーチャル・リアリティーとしての役目をはっきり
と目指すべきでしょう。・・
 ヴァーチャル・リアリティーという言葉は、なぜか「仮想現実」と訳されて
しまって定着しつつありますが、これは大きな誤解を生むと思います。
 virtualという形容詞はもともと、「事実上の」とか「実質的」という意味で
すから、「じゅうぶん現実の役割を代行し得る」映像という意味なのです。
 それこそ、脳が映像に期待している区別だと思います。それを日本では、仮
想現実と訳しているものですから、妙にズレた議論が起こっている。この概念
のズレから大きなまちがいが起こらなければいいと思います
(内田直哉『脳内イメージと映像』文春新書/P.75-78)

まだ、読む、書くということが成立していなかった時代もあったが、
それが成立するようになって、それまでの
見る、聞く(もちろんふれる・嗅ぐ・話す)ということが主だった時代の現実は、
大きく変化していったと思われる。
そして、前世紀以来、映像という技術が普及し、
日常的にその映像を見るということを行なうようになり、
私たちの得る「現実」はまた大きく変化してきているように思われる。

引用にもあるように、ヴァーチャル・リアリティーというのは「仮想現実」と 訳されているが、
その実際の意味は「じゅうぶん現実の役割を代行し得る」映像という意味であることを
あらためて深く受け止めてみる必要がある。
「仮想現実」としてとらえられてしまう映像は、果たして「現実の役割を代行 し得る」だろうか。
むしろ、「仮想現実」だから「現実」ではない、現実感覚がなくなってしまう。
そのようにとらえられがちであるように見える。

見る、聞く、読む、書く、というような運動に、映像を見るという運動が加わる。
そのことは、見ることだけで聞くことが不要になるのではないように、
それらの映像を見るということが加わっても、
それ以外のことが不要になるというのではない。

従って、映像を見るということによって、
新たなリアリティを獲得する可能性を得るのではなく、
それまでの現実感覚が広がるのではなくむしろ狭くなり
また「想像力を減退させる」云々ということがでてくるとすれば、
それは、映像を見るという以外の「運動」能力がスポイルされることが
その原因になってくるのだろう。

そういう意味では、映像を見るという「運動」の獲得は、
それ以外のそれまで行なってきた運動を拡張する方向で
その可能性のもとに映像の可能性を検討していく必要があるといえるだろう。

しかし、その際に検討する必要があるのは、
「運動」の基礎となる感覚のヒエラルキーだといえる。
つまり、まず獲得されなければならない運動は「見る、聞く」であり、
次にそれを基礎とした上で獲得される必要のあるのが「読む、書く」、
そしてその上で、「映像を見る」である。