「映像論」ノート 1

暗闇との関係

2006.4.14

 映像は、物「そのもの」ではなく「うつし」で、そのものとは別の 場所に現れ
質量をもたない。物そのものは質量をもつので二つ同時に同じ空間を 占めること
はできないが、質量をもたない「うつし」は重ね合わせることができ る。人間は
想像力を働かせて、うつしに質量と運動量を加えて三次元空間を構成 することが
できる、など映像を定義するに必要な要素はたくさんあるのですが、 なによりも、
他の物の表面に映し出された「うつし」だと規定することが大事です。
 ということは、映像というものは「目をつぶったら見えない」とい うことであ
ります。
 目をつぶってもみえるおもかげや、夢や、心象とは、そこがいちば んのちがい
です。薬剤による幻覚や臨死体験もふくめて、目をつぶってもみえる ものを、脳
内イメージと名づけたのは、目をつぶったら見えない映像とはっきり 区別するた
めです。
 たとえばひとつの風景を思い出すのは、いま知覚していることと根 本的に別の
ことです。それは目をつぶって、視覚を遮断しても浮かぶのです。よ く「目をつ
ぶると、ある風景の映像が浮かんだ」などと表現されますが、映像と いう言葉を
ここまで広げるとその性質を考えにくくなりますので、目をつぶって もみえるも
のは脳内イメージと呼ぶことにしたいのです。
 こう分類すると、意外なとに映像は暗闇とは無縁のもの、というこ とになりま
す。
 それはおかしい、映画は映画館の暗闇のなかで見るものではない か、映画は映
像ではないのか?という反論が出るでしょう。
 しかし、映画館という密室の暗闇の中で映画を見る、という見物様 式は、その
再生のメカニズムの制約がもたらしたもので、本質的なものではありません。
・・・
 暗闇を母とするのは、目を閉じても見える脳内イメージのほうで、 ですから私
には、
 闇
 という感じが暗示的に思えるのです。
 眠って夢をみているとき、人は目を閉じています。目からの知覚は ありません。
しかし耳は閉じることができませんから、耳からの知覚はあるはずです。
(内田直哉『脳内イメージと映像』文春新書/P.25-27)

「表象する」と訳されることの多いvorstellenという言葉がある。
vor前にstellen置くということであり、
紹介する。思い浮かべるという意味でもある。
その際に、実際に前に置かれるときもvorstellenだし、
イメージとして置かれるときにもvorstellenである。

映像は、スクリーンなどに実際に映される像であり、
目を閉じると見えない像である。
それに対して、ここでいわれる「脳内イメージ」はそれとは異なり、
目を閉じても見える像/イメージであって、
直接的な意味では、光源に置かれるフィルム等は存在しない。
だから、映像の場合は、物理的な意味でのvorstellenであり、
脳内イメージの場合は、まさに心のなかに思い浮かべるvorstellenである。

映像がつくられるとき、その多くは、その前に「脳内イメージ」があって、
もしくは、そのイメージを顕現させるための理念や諸条件があって、
それを表現するための手段として映像がある。
その関係について、またその関係におけるさまざまなテーマとの関係について、
この「映像ノート」では、内田直哉『脳内イメージと映像』をガイドに考えてみたい。

脳内イメージは、暗闇を母としているというのはひどく示唆的である。
闇という、門のなかに音のある文字。
夢を見ているときのように、目を閉じても、
いやむしろ目を閉じているからこそ、
闇から浮かび上がりやすくなってくるものがある。
音は視覚に比べて多くの場合、二次的な情報になりやすい。
しかし、目を閉じたとき、音は全面にクローズアップされてくる、
そしてイメージ化されようとしている何者かがそこから立ち上ってくる。
それは、物理的に網膜に映っている像ではなくて、
闇のなかから生成してくる何者かである。

映像という「うつし」は、非常に幅広い射程をもっている。

カメラにしても、ビデオカメラにしても、
とくにデジタル化が進んでいる現在においては、
モニターで見ながら見たもの(だと思っているもの)が
簡単に映像記録として可能になる。
そしてそれは客観的な事実としての記録であると多くの人が信じている。
しかしその記録は映像化技術によって、
「見ている」と思っているものが特定の条件下において記録されたと思えるように
ある映像システムが構築されたものでしかない。
つまり、認識様態が特定の領域に固定されているということである。

なにを「うつす」のか。
その「なに」を、映像製作者は「意図」する。
ときには、CGという手法のみによって「うつす」ことさえ行なわれる。
その「脳内イメージ」の射程はさまざまであるけれど、
それがたとえだれもがひどく単純に思っているものであったとしても、
それは「闇」を母として立ち上ってくるのである。

その闇そのものを探っていくこともある程度は可能かもしれないが
その広大な領域を渉猟することはおそらく困難を究めるだろう。
ある意味で、アストラル界を旅することと等しいといえる。
だからせめて、その闇から映像へとうつされる(映す/移す)射影の仕方の一 端なりと、
見ていければと思っている。