風のfragments

21-30

(96/12/6-97/1/29)


21)随所に主となる

22)善人の群れ

23)砂漠にて

24)理想と現実・霊と物質

25)クリスマス

26)源氏物語/美意識

27)精神の音楽

28)橋としての箸

29)いかに生きるか

30)遊

 

 

風のfragments/21■随所に主となる


(96/12/06)

  

清水 自分の身体の中のリズムと場から来る情報とが結びつくためには、自分と対象との境界を初めから定めない、という姿勢が欠かせないのだと思います。こういった姿勢は截相(きりあい)のみならず、学問上での新しいことを創造するためにも非常に大事なことだと私は考えています。しかし同時にそれは非常に不安なことでもあるのです。そういう状態でも相手と截り相い、そこで主導権をとらなければならないんですね。

柳生 自分の心が問題になってくるんですね。自分の心が決定(けつじょう)できない状態で相手に対しても、絶対的な自由自在を発揮することはできないわけです。「西江水(せいごうすい)」というのは、自分の心が何ものにも煩わされないで「随所に主になる」というか、主体性を常に確保できている心の状態をいうわけです。

(清水博「生命知としての場の論理/柳生新陰流に見る共創の理」(中公新書/1996.11.25発行/P177-178) 

*ここで「柳生」とあるのは、柳生新陰流を継承している柳生延春氏のこと。

*「西江水」というのは、截相に際しての心の持ち所であり、禅書「碧巌録」で、唐の馬祖とほう居士との禅問答に出てくるものです。

 視点を固定してしまえば、そこから見える景色は固定する。どんな眼鏡や双眼鏡や望遠鏡を用意したところで、見え方は変わらない。視野の広さが広大無辺でも、認識のベクトルがひとつだと、観点は偏見である。

 もっとも、視点を固定してしまえば、安心できる。鉄壁の城を構えた城主のようなものだ。けれどその安定性は、みずからを縛り付けるものともなる。そのとき、城は内部から周囲を見るものでしかなく、周囲から城を見る視点は想像の域を出ない。

 周囲から城を見るためには、城をでなければならない。けれど、城を出たらならば、どこから矢が飛んでくるかわからない。そんな危険をおかしたくないばかりに、人は自らに閉じこもり、その足場を固め、その場所をかぎりなく権威化しようとする。それが砂の城であることに気づかないまま。

 人は城の主でありながら、城の外にもあらねばならない。そして、その城はこの世の仮の住まいでしかない。本来、人はどこにいても主なのだ。すべての場所にみずからの目があるということを主という。

 それは固定された視点ではないから、ベクトルは無限である。けれども、その無限は「私」という主体のなかに内包されている。逆にいえば、無限のベクトルのなかに「私」という主体が内包されている。

 随所に主となるということはそういうことではないか。それは一即多、多即一ということでもあり、絶対矛盾的自己同一でもあり、また神と我の逆対応ということでもある。千手観音の千の手とは、そうした絶対的な自由自在の発揮された姿ではないか。

  

 

風のfragments/22■善人の群れ


(96/12/07)

 

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりのよい、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどういう結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。

(村上春樹「沈黙」より「レキシントンの幽霊」文芸春秋社/1996.11.30発行/所収)

 一番怖いのは、群れて迎合している善人だ。彼らは、自分のしていることにまったく気づいていない。自分で物事をきちんと考えたことがないくせに、無意識のうちに受け入れた権威に基づいて、自らの態度を決めている。そしてそこから、そうした権威から外れたものをためらわず平気で悪だと決めつける。彼らは、それを良識だと思いこんでいて、疑うことなど思いもしない。

 彼らのなかで、「なぜ」を発してはならない。「なぜ」は禁句なのだ。「なぜ」は、彼らのつくりあげたものが、途方もない怪物であることを露呈させてしまうからだ。「なぜ」を発するものを魔女狩りにしてきたのが人類の歴史だ。人類のほとんどが善人で、その善人こそが魔女狩りに熱狂してきたのだ。

 けれど、価値観が変わると彼らは、新しいそれに気易く乗り換えて恥じない。そして、「自分はだまされていたのだ」と言い訳をする。いつも悪いのは自分ではなく、自分は「騙されやすい善人」の顔をする。そして、始末の悪いことに、それは悪意からではなく、善意からでている。彼らは、永遠の善人でありたいと願っているだけなのだ。

 なんということだ・・・。

 気づいた者、なぜを禁じることができない者よ。善人に気をつけるのだ。決して、「なぜ」の顔を向けてはならない。けれど、決して「なぜ」を手放してはならない。みずからの内にある「悪」に注意深くあれ。

 そして、どうしても譲れないときには、声を大にして叫べ!たとえ、火あぶりにされても怯むことはない。魂はそれによって、自由を勝ち取るのだから。

   

 

風のfragments/23■砂漠にて


(96/12/22)

 

今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。

(ルドルフ・シュタイナー「社会の未来」イザラ書房、P31-32)

  悪は外にあって、自分はそれに脅かされないように、自分だけは善人であろうとし、それができると思いこんでいる中にこそ、もっとも大きな悪が存在しているのだということを知らねばならない。なぜならば、自称善人は、幻想のうちに深く眠っているからだ。

 目覚めなければならない。深き眠りの底から目覚めなければならない。そのためには、みずからの内にある悪を自覚することだ。それは、みずからの言動すべてに「なぜ自分はそうするのか」という真摯で根源的な問いをぶつけるということをも意味する。人に「なぜ」をぶつける前に、まずみずからに「なぜ」をぶつけるのだ。そのことで、おのずと人の「なぜ」も明らかになる。

 「愛」は、甘ったれた博愛などではなく、むしろ、自他ともに砂漠に追いやることでもあるのだから。いや、砂漠にいながらそれに気づかぬ者に、自らが砂漠にいるということを気づかせることだ。

 砂漠にいる者に、「このまま、あるがままでいいのだ、こここそが楽園」などと言い、砂漠にいることに気づかせず、そして自らも気づかず、眠りこんだままでいいのだという動きには、よくよく注意深くあらねばならない。  

 

 

 

風のfragments/24■理想と現実・霊と物質


(96/12/23)

 

皆さんが真実を知ろうとするのでしたら、理想主義者か現実主義者、または唯物論者か唯心論者に留まり続けることはできません。そのいずれにもなれなければならないのです。皆さんは精神を徹底して探し求め、それを物質の中にも見いだせなければなりません。つまり物質を通して精神を見つけだすことができる程にまで、物質の本質を洞察しなければなりません。

(シュタイナー「社会の未来」イザラ書房刊/P73)

  霊的なことに傾倒していくと、肉体的な在り方を蔑視してしまうことになりがちです。「霊主体従」ということを「体は低次なのだ」と勝手に解釈してしまうのです。

 そうではなくて、「体」も本来霊的な本質を持ちながら、方便として、また供犠として、そのように現象しているのだということを深く洞察しなければなりません。

 「物質は光になろうとしている」にもかかわらず、あえて物質という形態をとっていることに対して、その深い意味を洞察しなければならないのです。

 「現実はそんなに甘いもんじゃない」を繰り返す人の「現実」がいかに空想的であるかを看破しなければなりませんし、「ぼくは理想に生きるんだ」を繰り返す人の「理想」が「現実」の単なる逃避的な裏返しでしかないということを看破しなければなりません。

 仏教ではそういう在り方を「不二」といいます。さらにいうと、「不二而二」。「二」であることを否定するのではなく、その「二」でありながら、しかもそれが「不二」であることを矛盾的に体現しなければならないということです。

 それが、「不二而二」の常なる統合のプロセスとしての「中道」なのです。

  

 

 

風のfragments/25■クリスマス


(96/12/25)

 

  人間の魂の根底に

  勝利に輝く精神の太陽が生きる。

  心情の正しい力が

  内面の冬の生命のなかで、

  心の希望の衝動を

  魂に予感させる。

  冬の深い夜のなかの

  最高の生命の象徴として、

  聖夜の祝福の光のなかに

  人間は太陽精神の勝利を見る。

  

  空間の広がりのなかで事物が

  感覚に語りかけ、

  時間の流れのなかで変容する。

  人間の魂は認識しつつ、

  空間の広がりに限定されず、

  時間の流れに到達されず、

  永遠の王国に突き進む。

 (ルドルフ・シュタイナー「瞑想と祈りの言葉」西川隆範編訳/イザラ書房)

   

  祈りよ届け

  私の奥底に

  そして

  生まれでよ

  内なる光

  

   聖なるかな

   聖なるかな

   内なる光が生まれる

   それは精神の勝利の歌

   やがて歌われる勝利の歌

  

  祈りが届く

  私の奥底に

  そして

  生まれでる

  内なる光

  

   聖なるかな

   聖なるかな

   内なる光が生まれる

   それは精神の勝利の歌

   やがて歌われる勝利の歌

  

  今はまだ闇の中

  けれど闇の胎内に生まれでようとしている

  大いなる精神の光が

  やがては永遠の王国を築く

  

   聖なるかな

   聖なるかな

   内なる光が生まれる

   それは精神の勝利の歌

   やがて歌われる勝利の歌

  

  今はまだ夢の中

  けれど夢の内に生まれでた

  大いなる精神の光が

  やがては夢を永遠に変容させる

  

   聖なるかな

   聖なるかな

   内なる光が生まれる

   それは精神の勝利の歌

   やがて歌われる勝利の歌

  

  クリスマスを祝して

  祈りが届きますように

  アーメン・・・

        

 

 

風のfragments/26■源氏物語/美意識


(97/01/06)

 

ここが近代と前近代の分かれ目ではないかと思うのですが、前近代というのは人間が心理を自分の外に置いていた時代ではないかと思います。心理は、人間の胸の中にあるのではなく、たとえば、散る花の中にあります。夕暮れの風の中に、朝霧に濡れる秋草の上に、夜空を照らし出す月光や篝火の中にある----そういうものだったと思います。

だからこそ、そういう情景を共有して、多くの登場人物達は和歌を詠むし、琴を弾くし笛を奏でる。「掛け言葉」という、情景と心理と二重の意味を持ったことばによって三十一文字の複雑な和歌が詠める。心理というものは、この時代、一人で持っているものではなくて、他人と共有するものだったのではないか----少なくとも、そういう前提でこの源氏物語という小説は出来上がっていると、私はそんな風に思いました。

愛の喜びというのは、その美しい情景を共有できることだし、愛の錯誤というのは、その情景の中で違う二つの旋律が縺れ合って離れるようなこと。別に男と女の愛情だけではなく、人間関係そのものが、こういう前提の上に乗っかっていたのではないかと思うのです。その前提があればこそ、どんな複雑で容赦ない残酷物語でも美しい絵になる----これが王朝美学に代表される日本の前近代の美意識の基礎ではないかと思うのです。

人間は、切れば血を流すような生臭い生き物ではあるけれども、しかしそれは同時に、月の光や花の影と容易に一つになってしまうような、抽象的で美しい生き物でもある。この両方から成り立っていることを忘れてはならないと思います。(橋本治「源氏供養(上)」中公文庫/P119-120)

 心を自然の情景のなかに置く美意識を持てることは限りない喜びです。

 けれどもその喜びから遠ざかろうとしているのが近代でそこには、常に「私」という点があって、面になろうとする美意識を阻害します。

 けれど前近代の美意識の中だけに安住することはたとえその美しさを一度は手放すことになったとしても許されないことなのではないでしょうか。

 日本人は、前近代の美意識の美点を捨て去りながら、その面としての集団的自我の側面だけを残し、さらにその上に、エゴだけを乗せることのできる自我を乗せてしまいました。

 それは点と面が互いに闘っているようなとても醜い景色です。点のエゴと無自覚な場の影響に依存する面としてのエゴと。そこには美意識などかけらほども残ってはいません。

 情景の中に自らをとけ込ませるような、そんな前近代の美意識を「個」としての自立した近代の意識のなかで活かすことのできるようなそんな新しい美意識の可能性はないものでしょうか。

 悟りとは、「超個の個」を有することだという考え方があります。それは血を流す肉体を持ちながらその内に個を越えた真我を自覚するという在り方ではないかと思います。

 個として世界の内に日本の足でしっかりと立ちながらそれでいて、自然の情景とともに美しく生きることのできるようなそんな美意識を育てたいものだと思う。

 

 

 

風のfragments/27■精神の音楽


(97/01/09)

 

ところで、音楽会はロストポーヴィチのチェロ独奏で、曲はバッハの<無伴奏組曲>第二、三、五番。私はバッハの<マタイ受難曲>を西洋音楽の最高と信じてきた人間だが、同じ人の器楽に限れば、チェロのための<無伴奏組曲>がその精髄だと思う。構造の簡潔堅牢、創造的精神の豊かさ、気品の高さ、どこから見ても西洋芸術の精華である。(中略)

ロストポーヴィチも今年七十歳。十年近く前とは違いがでてきた。(中略)といっても今は「細部の傷」が耳につく瞬間が生まれてきた。ただ、この巨人はそんな時でも豪放と奔放の狭間を往来しながら至高の難曲をひき続ける。私はその姿に「肉体の悲しみ」----つまり審美的技術的次元を超えた、もっと大きな精神全体の高揚を感得して、この人こそ大バッハをひくにふさわしい器量の人と思った。

(吉田秀和「ロストポーヴィチ演奏会/至高の難曲を華麗で重厚に」朝日新聞1997/1/8 17面より)   

 肉体の衰えを嘆くのではなく、精神の衰えこそを嘆くべきである。

 人は肉体を持って生まれ成長するが、精神を持って生まれてくるわけではない。

 その萌芽はあるが、それは自らが見出し成長させてはじめて顕現するものなのだ。

 肉体の衰えはむしろ精神を輝かせるための条件だとはいえないか。

 どんな素晴らしい技術で美しく音楽を奏でることができても、そこに精神が高揚しているとは決していえない演奏が多い。やはり、音楽は精神の表現でなければならぬ。そうであってこそ、音楽は神への捧げものたりうるのだ。

 バッハの「マタイ受難曲」を聴いて、自分のなかの何かが変わったような感動を覚えた。少なくともそれまでの音楽の聴き方を一変させるに充分だった。それまで、自分はいったい何を聴いてきたのだろうかと自問せざるをえなかった。それまでは「精神」を聴きとっているのではなかったからだ。

 バッハがますます面白くなってきた。音楽がますます面白くなってきた。もちろん、その音楽とは精神の音楽である。

 ・・・こんなことを書きながら、自分がかつては「精神」という言葉にどうしてもなじめず、むしろ教育的な臭みさえ感じて、嫌悪していたのを思い返さざるをえなかった・・・かつての自分の愚かさの証明なのだけれど^^;。

 

 

風のfragments/28■橋としての箸


(97/01/18)

 

中国の古代というと、目もかすむほどにはるかな昔という感じだが、いまわれわれの目の前にある箸が、中国の古代では食物をつまむための道具であると同時に、食物のある場に、神を降ろすためのハシゴであったにちがいない、と気づいたときのおどろきは大きく、そのときから私としては、中国の古代と日本の現代との距離をあまり感じなくなった。

(宮城谷昌光「春秋の色」(講談社文庫/1997.1.15/P19)

 言われてみれば、そうかもしれないと思うのだけれど、「箸」は「橋」とおなじく「はし」である。「橋」は此岸と彼岸を渡す架け橋、「箸」は食べ物を私たちに渡してくれる架け橋なのかもしれない。

 そう思うと、手づかみではなく、箸を使う意味がおのずと知れる。食べ物は、神の恵みであり、ある意味で神の身体なのだから、それを降ろしてくるための橋が必要なのは当然なのだ。

 箸ひとつをとってみても、その意味は思ったよりも深い。ほとんど無意識のうちに身につけている慣習のなかには、本来深い意味をもっているもので、それが形骸化して、形だけ残っているものは多い。 

 日本は、中国から多くのものを取り入れている。そのことを知るのは、自分自身を知る意味でも興味深い。もちろん、今自分の身につけている慣習が古くからのものであるからといってそれが意味深いものであるとは限らない。大事なのは、なぜその慣習があるのかを問うという姿勢なのだ。

 私たちは、無数の慣習を身につけている。それは自分の一部として働いているといえる。それを知ることは、ひとつの自己認識の道でもあるのではないか。

  

 

 

風のfragments/29■いかに生きるか


(97/01/21)

 

今日の価値の頽廃は、「いかに生きるか」ということが問われずに、ただ「生きている」ということだけで価値がある、生命の保存が善である、と考えることからはじまったのです。

それは価値判断の停止だけではありません。あらゆる人間の価値にたいする冒涜であり、美意識の破壊です。(中略)

生きている、そのことだけで、人には人権があり、人は自由であり尊ばれるべきだとなった時、生命の先にある、より本質的な問題である生き方の問題は問われなくなった。問われないというよりも、問うことのしんどさから逃げたのです。

(福田和也「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」(角川春樹事務所)

 生命がそのままで価値あるものだというドグマが疑われなくなって久しい。人権も、自由も、与えられるものではなく、獲得するものだということが忘れ去られて久しい。

 永く生きることを目的にするがゆえに、医療費は増大するばかりであり、いかに生きるかという議論を遠ざけることになっている。人間の尊厳は、生きる量にではなく、その質にある。その質が問われなくなったとき、人間の尊厳は地に落ち、誇りは嘲られることになった。

 誇りを理解できなくなったがゆえに、日本は謝罪を続けている。しかし、プライドは極大化した。それも、ブランドを持ち、高級車を持つという類のプライドだ。

 弱者というハイエナが王者になる時代がきた。弱者もまだブランドなのだ。弱者はその弱者というブランドを持てば、何を言っても許されることになった。そのプライドはとどまるところをしらない。そのブランドをもてば、言語統制さえ容易なことなのだ。

 生きることに尊厳を取り戻さねばならない。そしてそれは逆説的に、死を恐れないことによって獲得される。「誇り」のない生には値打ちはない。それを公言できる社会をつくらなければ、その社会は根元から腐りはじめ、やがては生のすべてを腐敗させてしまうだろう。

 

 

風のfragments/30■遊


(97/01/29)

 

遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

幽顕の世界に自在に往来することが、遊であり、逍遥である。それはまた真と仮との間であるといえよう。

(白川静「文字逍遥」平凡社ライブラリー/P10-21)

 神秘と遊戯との関係についてこの会議室の名前をつけたときに思いを巡らせたことがあった。神秘学はなぜ遊戯しなければならないのか。

 「遊」という言葉がなぜか好きだった。それは、松岡正剛の希有の業績である雑誌「遊」の影響もあったが、遊ぶことなくして、存在は存在たりえないのではないかという思いもまたあったのではないかと思う。

 白川静の漢字に関する話を読んでいると、はっとすることが多い。今回もそうだった。

 神秘学はなぜ遊戯しなければならないのか。そうなのだ、「幽顕の世界に自在に往来すること」、そして、「真と仮との間」であるがゆえに、神秘学なのだ。

 空仮中の三諦があり、それが円融する。そう、その円融することは遊でもある。そして、それは神としてではなく、人間としての遊でなければならない。「学」としての神秘学なのだから。

 シュタイナーの神秘学は人智学であった。それはまた、人智遊学であるということもできよう。

 シュタイナーは、人智学という名称にしても、それが固定的に受け取られることを避けるために毎日でもその名称を変えたいとさえ言ったという。

 そのひとつの名称の候補として、「人智遊学」というのも粋でいいのではないかと、「遊」の字の意味を知って思ったことである。


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