風のfragments

この「風のfragments」シリーズは、日々、読書などからの「断片」をご紹介などしながら、

それについて感じたことなどをお話するものです。「fragments」というのは「断片」という意味です。

1-10

(96/8/19-96/9/21)


1)和して同ぜず

2)からだ

3)匂いについて

4)風の博物誌

5)音楽

6)デカルトの復権

7)たったひとりの「ぼく」

8)心の巨人

9)気見(君)と田見(民)

10)脱・後悔と不安

 

 

風のfragments1■和して同ぜず


(96/08/19)

 

『論語』のなかに、----君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。とある。「君子は、それぞれが主体性をもって、他人と、あるいは組織のなかで、調和するものだが、小人は、ひたすら他人の意見に賛同し、他人の行動にならってごくだけで、自分の主体性をもっていない」ということである。(中略)もともと、日本の教育は、「同」をもとめてきた傾向が強い。これはどういうことかというと、たとえば、日本の大学から招かれた外国人の教師が、大学の教室へ一歩足をふみいれた瞬間、ゾッとするらしい。教室にあるのが、「水を打ったような静けさ」だからである。

日本の教師は、静かに授業をきき、おとなしい生徒を、良い生徒だといいがちである。しかし、外国人の講師からすると、それはもっともダメな学生になる。授業というのは、先生と学生とが、クラスを「和して」成り立たせるものであり、黙っている学生は、そのことに無関心であり、非協力的であるということだ。(宮城谷昌光「歴史の活力」(文春文庫)P115-115)

  教室が静かなのを必ずしも否定的にとらえる必要はないけれど、それが「自分の意見がない」、いや「あってはならない」ということであれば、それはかなり恐ろしい光景です。

 うわべでは、個性を尊重した教育だといいながら、日本の教育は、基本的に「同」しか求めていないといえます。「同」というのは、その場の空気を読みとってそれに逆らわないことでもあり、また、「みんなが同じ価値観を共有するべきだ」という強制でもあります。価値観を共有するということは重要ですけど、それが「べき」になると、話は違ってくるわけです。

 たとえば、「テストの点が全て」で、あとは落ちこぼれということにもなります。現代の、みんなが塾に通っている状況や登校拒否というような状況は、「同」を必死で追い求めている叫びのようにも聞こえます。流行に敏感で、みんなと同じ、またはみんなより少しだけ早いということを至上の価値観のように受け止める状態というのも、そうしたことの別の現われです。

 「和」するというためには、自分の意見を持つ必要があります。そしてそのうえで、それぞれが調和できる方向を模索する。そもそも日本は「大和」のくにを理想としていたはずなのに、「大同」ばかりが大手を振って歩き回るのはどうしたことなのでしょうか。

 「個」がないといわれる日本人。「個」があってこその「和」であるならば、日本は「大和の国」とはいえないのではないか。マスコミの叫ぶシュプレヒコールに右往左往しているだけならば、「大同の国」、つまり、まさに自分から進んで選ぶファッショの国でしかない。言論の自由が、わがままの自由になり、みんながわがままになって、結局みんなが同じになって喜んでいるようなそんな悲惨な国^^;。

 大和はくにのまほろば・・・大和はどこへ。はじめから大和はただの幻でしかなかったのか。大和はくにのまぼろし・・・ではあまりに悲しい。

   

 

 

風のfragments/2■からだ


(96/08/20)

 

男が男のからだのかたちしてしか

生きることのできないのはくやしい

かたちのないこころだけであったなら

もっと自在にあなたと交われるものを

  

だがことばよりくちづけで伝えたいと

そう思うときのこころのときめきは

からだなしでは得ることができない

いつか滅ぶこのからだなしでは

  

こころがどこをさまよっていようと

こころがいくつに裂けていようと

女がただひとつのからだのかたちして

いま私のかたわらにいるのはかなしい

  

(谷川俊太郎 からだ<「日々の地図」より>)

    

なんど思ったことだろうか

こころだけで生きていければいいなと

じぶんというかたちがあるばかりに

ぼくは自由でいることができないと

 

だからぼくは風でいたいとそう願ったのだ

かたちがないけれど空をわたれる風でいたいと

けれどぼくは男のかたちをして生きている

ひげだってそのうちに濃くなってしまった

 

そして女の子を好きになってしまった

ぼくは風でいることはできなくなってしまった

「ことばよりくちづけで伝えたい」と願ったからだ

でもだからこそこころだけで愛しあいたいともまた願ったのだった

 

かたちとかたちでしかふれあえないことがあり

かたちとかたちだからふれあえないこともある

その狂おしいまでの矛盾のなかでぼくは生きている

もちろんいずれこのかたちがなくなることも知っている

 

かたちのあるかなしみがあり

かたちのないかなしみがある

かたちのあるよろこびがあり

かたちのないよろこびがある

 

さて

とりあえずこのからだで

いつものように珈琲を味わってみようか

   

 

 

風のfragments/3■匂いについて


(96/08/20)

  

嗅覚に歪みや欠陥があったり、あるいは嗅覚を失った人々がいるように、嗅覚のスペクトルのもう一端には鼻の天才とでも呼ぶべき人々がいる。おそらくヘレン・ケラーがもっとも有名だろう。彼女はこう書いている。「嵐が来ることは徴候が目に見えるようになる何時間も前から嗅覚でわかる。まず、予測の鼓動が、かすかな振動が鼻孔に濃縮されてくることに気づく。嵐が迫るにつれ、鼻孔が広がる。量を増し、広がってくる大地の香りが洪水のように受けとめられ、ついに雨の飛沫が頬にあたり始める。嵐が遠ざかっていくと、香りも薄れ、次第にかすかになり、空のかなたへと去っていく。」(中略)

ヘレンケラーは、奇跡的な才能でわれわれの大半がしみとしか読めない重ね書きとなった香りの「層」を余すところなく解読できた。彼女には「田舎のある旧家を匂いで知ることができた。いくつもの家族や、植物や、香水やカーテンが残した層をなした匂いがあったからだ。」生まれながらにして盲目で耳も聞こえなかった人間が、われわれが喜ばしく感じたもののうちに現われる特徴は言うまでもなく、加えて人生のきめや外見をこうも理解できるとはどうしたことだろうか。大いなる奇跡だ。彼女は、大人ならば一人一人について区別できる「その人の匂い」は赤ん坊にはまだないことを知った。彼女の感受性は、匂いによって表現され、太古からの魅力に説明をつけた。「概して、男性が吐く息は、女性よりも強く、鮮やかで、大きく個人差がある。青年の匂いには、火や嵐や海水のように基本的なものがある。それは元気よく欲望にあふれて脈動する。力強く、美しく、喜ばしいものを思わせ、私の身体は幸せを感じる。」ダイアン・アッカーマン「感覚の博物誌」第1章「匂う」/河出書房新社/P65-66)

  ヘレン・ケラーの感覚は、閉ざされているがゆえに、生き生きと輝いている。それは、彼女が、きわめて宗教的でありながら、閉ざされたそれではなく、きわめて開かれた、生き生きとした宗教性をもっていたことと似ている。ちなみに、ヘレン・ケラーはスウェーデンボルグの説くキリスト教を深く理解していたが、周囲の多くはそれを理解しがたかったようだ。感覚が開かれているがゆえに、魂の三重苦に陥っていたといえよう。

 人の感覚は、通常、五感であるといわれているが、シュタイナーはそれを十二感覚あるとした。五感以外には、熱感覚や言語感覚などといったものも含まれていて、その説明は、たとえばこのヘレン・ケラーがなぜ、これほどに深い感覚性と魂の広い器をもっていたかということを納得させるものでもある。

 感覚どうしは、相互に連関しあっていて、決して孤立してはいない。また、それらは魂のゆりかごに揺られていて、そのなかのいくつかが、機能的に閉ざされていたとしても、その閉ざされた窓の奥では、そうした感覚の根源とでもいえるものがあるように思う。だから、重要なのは、窓そのものではなく、それを深め、相互連関のもとに置くことのできる魂の力なのだ。

 さて、匂いだが、ぼくも匂いにはかなりなこだわりをみせる。だから、過剰で無粋な匂いをまき散らす向きには辟易させられる。とくに、最近の若い女性たちの判で押したような画一的で、鼻がもげるほど振りかけられた香水の匂いには怒りさえ覚えたりもする。特に、エレベーターなどで乗り合わせたときなどは、窒息しそうになる。まさに、息を止めてじっと耐えているからなのだ。

 それはともかく、匂いというのは、おそらくは人間の感覚のなかで、もっとも太古からあったものではないかと思われる。それが、人間の進化とともに、他の感覚器官の先鋭化に反して、きわめて退化した感覚となってしまっているように思う。

  この夏、雨がきわめてすくないが、こうしたときの雨の予感のような匂いを欲している自分がわかる。前線が近づいてくるときには、匂いにかぎらず、あらゆる感覚器官が、それを知らせるべく、振動を始めるのがわかったりするときもある。そうした感覚を磨滅させ、デジタル記号のようにさせる傾向にある現代だが、人間は、本来、もっと深く繊細な感覚をもっているはずだ。だから、おりにふれて、そうした感覚をみがくことを心がけたい。感覚は世界への窓であり、そこから魂にその鼓動を伝えてあげることで、魂はまた世界へとみずからの声を伝えることができるのだから。

 

 

 

風のfragments/4■風の博物誌


(96/08/21)

 

 今、テレビ朝日系で、ライアル・ワトソンの「風の博物誌」(河出書房新社/1985.11)をベースにしたシリーズが放送されているので、興味深く見ています。ライアル・ワトソンは、少しばかり節操のないところがあるので、批判されることもありますが、ぼく個人としては、その著書などは、けっこう気に入ってよく読んでたりします。

 この「風の博物誌」が邦訳されてもう10年以上経つことになりますが、この本は、この地球上のありとあらゆる風をいろんな角度から取り上げていて、興味深く読んだことを覚えています。ちなみに、今回、このテレビ放映を記念してだと思いますが、この本が文庫化されたようです(^^)。

 序章から少し引用してみることにします。 

風がなければ地球の大部分は誰も住めない場所になってしまう。熱帯地方は生きものが何も棲息できないほど暑くなり、残りの地球は逆に凍りついてしまう。湿地は海だけに封じ込められ、細い温帯沿いに位置する大きな陸地の周縁部、すなわち沿岸地帯以外はみんな砂漠と化す。腐食作用も起こらなければ土壌と呼べるものもなく、たとえこうした過酷な条件にもめげず進化した生物共同体があったとしても、それらはみずからの廃棄物で窒息してしまう運命にある。ところが風のおかげで、地球は真に生きた存在たりえている。風は地球という名の惑星の血液循環系と神経系をなし、エネルギーと情報の分配、熱と覚醒した意識の配給を司って無から有を作りだしている。風の特性と言われているものはすべて借り物だ。われわれの風についての知識はどれも間接的にしかもたらされないが、それにしても風の印象は強烈だ。不可解ながらも否定できない存在−−風のこの二重性こそが人間の精神活動を誘発したのである。そのとき、宇宙の裂け目が開き、意識の潮流が迸り出た。われわれは風の子供である。風の才覚によって種蒔かれ、水を与えられ、はぐくまれてきた。本書はその消息をめぐる博物誌だ。(P9-10)

  本の内容としてはかなり広範に、テーマ別にさまざまな風が扱われ、最後には、「風の哲学」や「風の神話」、「息としての風」などまでが扱われているけれど、テレビは、さまざまな動物の生態などを通じて、わかりやすく編集されているようですので、興味のある方はテレビをどうぞ。 

 

 

 

風のfragments/5■音楽


(96/08/29)

 

私たちは音楽的法則によって、宇宙からアストラル的存在として創造されたのです。アストラル的存在であるかぎりにおいて、私たちは宇宙との音楽的関係を有しています。私たちは一個の楽器なのです。(シュタイナー:人類の芸術的発展のための変容衝動「シュタイナー 芸術と美学」(平河出版社/1987.5)より) 

 人は、それぞれ固有の音色をもっている。人と人がふれあうことは、だから、一種のセッションだといえるし、多くの人が共同でなにかをするということは、そのことそものがオーケストレーションだといえる。

 けれど、その奏でる音楽の質はさまざまだ。聴くに耐えないものもあるだろうし、その反対に、心からの感動を呼ぶものもある。

 そういう目で、いや耳で、人と人の相互作用を聞き分けてみると、日々がとてもスリリングにならないだろうか。 

 

 

 

風のfragments/6■デカルトの復権


(96/09/03)

  

デカルトは、われわれが身体と一体となって生きる「日常の生」というものは、科学的知性によっては理解できない独自な次元であると認めた。デカルトの『情念論』という書物はそのような見地から書かれ、そこでは身体についての生理学的記述のあと、実践道徳の見地からの個々の情念の具体的な解明が展開されている。(中略)

デカルトはまた自分自身を医者と任じながらも、ある書簡で「生を保持する手段」よりも確かな「死を恐れないという方法」を発見したと語り、その限りで道徳を医学に専攻させた。

このようにデカルトは、一方で自ら近代科学を推進する見地を切り開きながら、他方で科学的知性の射程と限界をも十分に見極めていたのである。(小林道夫「生誕400年・デカルトと現代」/朝日新聞1996.9.2所収)

  デカルト生誕400年らしい。

 昨今は、「デカルト的二元論」というレッテルで、批判されることばかりが多くなっているが、よくみていると、そういうワンパターンな批判は、デカルトを知らない人ばかりがそうしているのに気づく。つまり、そうした単純な批判をしている人こそが、そうした知の陥穽にはまりこんでしまっているのだということに、気づかなければならないと思う。

 このデカルト生誕400年ということで、そこらへんの誤解が見直されることを期待したい。

 何を隠そう、ぼくは、このデカルトが、けっこう好きで、「日常の生」などを重視するところなどとても気に入っているのだ。それに、なにより、けっこう破天荒に生きてたところなんかもいいし、それから、変な話だが、朝起きが苦手だったのもなかなか憎めないところだ(^^)。

 とにもかくにも、こうしたデカルトの例から、わけのわからないままに、批判だけしていい気になってるような軽薄な知識人とやらの姿勢が少しでも変わってくればいいなとも思う。

 ま、朝日新聞なんか、無理だろうな。嘘だらけだから(^^;。こういう記事が朝日新聞なんかに載るのも皮肉といえばいえるかな…。  

 

風のfragments/7■たったひとりの「ぼく」


(96/09/04)

   

「どこへ?」と彼女が言った。

「どこへでも」

僕はすべての場所へ行くことができる。

すべての場所に僕の答えは用意されている。

僕は無数の僕のなかから、たったひとりの僕を選びとるために歩き出す。

(薄井ゆうじ「青の時間」/文芸春秋/P287)

   

「ぼく」はひとりではない。

けれど、たったひとりの「ぼく」が選び出されなければならない。

「ぼく」はどこにでも行くことができる。

けれど、たったひとつの場所にしか行くことはできない。

たったひとりの「ぼく」がたったひとつの場所で、ある答えを見つける。

無限の可能性のなかからひとつの答えを見つける。

「きみ」はひとりではない。

けれど、たったひとりの「きみ」がいる。

「きみ」には、どんな可能性だってあったはずだ。

けれど、たったひとりの「ぼく」と出会ってしまった。

たったひとりの「ぼく」とたったひとりの「きみ」がたったひとつの場所で、出会う。

無限の可能性のなかからひとつの出会いがある。

  

 

 

風のfragments/8■心の巨人


(96/09/06)

 

誰の心にも巨人は眠っている。

その目覚めを願わない者はひとりもいないはずだと。

(薄井ゆうじ「星の感触」(講談社/P259)

  

 ぼくは1メートル74センチだけれど、その大きさのリアリティは、心の巨人を思うとき、幻になる。

 けれど、心の巨人が目覚めないなら、ぼくはやはり、ただの1メートル74センチの人間なのだ。

 目覚めを願わない人間はいない。本来は、そうだ。だれだってその目覚めを願っているはず。

 けれど、実際のところ、幻に生きている者たちは、目覚めることなんか望んじゃいない。おそらく、幻を幻だと認めることが恐いんだろう。

 幻を幻として認めたときに、その幻は確かなリアリティへと変容する。

 幻は無意味なのではなく、認識されていないだけなのだから。

  

 

 

風のfragments/9■気見(君)と田見(民)


(96/09/08)

  

いいか、かつて古代においては、明日の天気を読む人は神に近いとされていた。

気を見る。つまり気見−−それが『きみ』という尊敬語の起源なんだ。そして

その啓示を受けて田を耕作する人のことを『田見』つまり『民』という。

(薄井ゆうじ「台風娘」(講談社/P94)

  

 ここのところ、薄井ゆうじの不思議な小説の世界にはまっていているけど、また今日も、「台風娘」という奇想天外な話を読んだ。重要な登場人物に「風さん」という人がでてるのも、あはは、だったのだけれど(^^;。

 この話は、天気予報と関係した話なのだが、それは別として、この引用箇所には、ううむ、と考えさせられてしまった。

 「田を耕作する」といえば、やはり「米」。「コメ」というのは、日本人にとって重要なもので、だから、気を見る人の啓示を受けて田を見ることの重要性に思いを馳せてしまった。

  

 

風のfragments/10■脱・後悔と不安


(96/09/21)

 

学びについて罪悪感を感じてはいけない。叡智について罪悪感を感じることもない。それが覚醒というものだ。あなたは、自分に必要だったことをしてきたという点を理解しなくてはならない。すべては必要だったのだ。そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきた。すべてにおいてである!あなたは明日も生き、次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。そのとき、この今日という日に知っていたよりもずっと多くのことを自分は知っていることがわかるだろう。だが、この今日という日は「間違い」ではない。それはあなたを永遠へと導いてくれる道である。(ラムサ「ラムサ−−真・聖なる預言」(角川春樹事務所/1995.10.10)

  人生は後悔と不安だらけだ。「間違ってしまった」「失敗してしまった」・・・そして「間違ったらどうしよう」「失敗したらどうしよう」・・・この後悔と不安のためにこの「今」を十分に生きることができなくなっている。

 人生に間違いなどないのだ。たとえ、どんなに辛いことや悲しいことが降り注いできているとしても、すべては自分が意味深く創造していること。

 すべては必要だから起こっているということを、人は認めることができない。だから、自分が自分でいるということから逃避してしまうのだ。それは「今」を生きられないということ。

 「今」を生きるとき、すべては輝いてくる。攻撃と見えるものはすべて花びらに変わる。けれど、間違ってしまったと自分で思うとその思った通りにすべては「間違い」に変容してしまう。

 もっとも、まさに自分が選択、創造していることをある種の開き直りで「あるがまま」を吹聴する向きは、やはり魂にとってかなり悲しいことですので、避けたいのですけどね^^;。「私が間違っているはずはない。なんでもOKだ」というのは、また「不安」の一バリエーションにすぎないのですから。


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