風のダイアリー 1-5

(1999.9.6-10.17)


1●民俗芸能大会

2●地震をおさえる要石伝説

3●若乃花

4●自分の音

5●厄日の過ごし方について

 

 

 

風のダイアリー1

民俗芸能大会


1999.9.6

 先週の土曜日、中国・四国地方で毎年開催される「民俗芸能大会」があり、そのディレクターとして実施運営を行った。昭和34年に開催されて以来、今年で第41回目だということ。実施場所は、今年の春開通した「しまなみ海道」(広島県の尾道と愛媛県の今治を結ぶ)の関係から、その瀬戸内海の島々のひとつである伯方島。

 各地の代表的な民俗芸能の数々が、その本来のシチュエーションから切り離され、舞台の上で、決められた時間のなかで次々と演じられてゆくのは、とても不思議というか、異様な感じがする。「民俗芸能」の「大会」なのだ。まるでジャングルのなかでとらえられた動物たちがきちんと分類されて、動物園の檻のなかで飼われている感じがしてしまう。

 「長い歴史と伝統を誇る民俗芸能」の「文化遺産」を「永く後世に伝承」する。そうした目的をもって、こうした行事は開催されることになったというのはなるほどという感じもするのだけれど、よく考えるとよくわからなくなる。なぜ、そうした「文化遺産」を「永く後世に伝承」する必要があるのだろうか。そしてそれに値する「文化遺産」というのはいったい何なのだろうか。そうしてまた、そのために、なぜそれらが舞台の上で、こうして一堂に会した形で演じられなければならないのだろうか。

 おそらく、そうした動物園的な「民俗芸能大会」というのは、逆説的にいえば、「民俗芸能」の終焉を表しているのかもしれない。たとえ「民俗芸能」がこれからも「永く後世に伝承」されたとしても、それらはもはや、まさに飾られるための「文化遺産」でしかなくなるだろうから。そしてそれはそれでかまわないのかもしれない。

 実際に、民俗芸能の数々をまのあたりにしながら、ついついそれにひきつけられてしまうことが多かった。その踊りのかたちや声の不思議、まるで大地の底から湧きだしてくるかのような太鼓や笛、豊穣を祝う楽しさ、そしてディオニュソス的な怪しさと情念、それらひとつひとつがとても新鮮に感じられた。とくに、島根県の「三葛神楽」の凄さには震えのようなものさえ感じ、山口県の住吉神社のお船謡などの声の響き、張りなど、ぼくのなかにある声がそれらに呼応してようとしているのも感じた。そのように、そうしたひとつひとつに、ぼく自身のつながっているであろう大地的エーテル的な在り方が反応しているのさえ感じることができた。

 しかし、それらはすべてもはや消え去ろうとしている。消え去ろうとするために、ひたすら守られようとしている。なぜ消え去ろうとしているのかを問わねばならないだろう。そしてなぜひたすら守られようとしているのかを問わねばならないだろう。そしてそこに、それらの問いを超えるかたちで、それらの「民俗芸能」が生み出されてきたであろうその根源を見ていくことを始めなければならないだろう。たとえば、なぜ「神楽」はかつて神社などの神職によって伝承されてきたのか。そして「神楽」とはほんらいどういうものだったのか、と。

 おそらく、そこにも深い神秘学的なアプローチが必要となってくるように思う。

 

 

 

風のダイアリー2

地震をおさえる要石伝説


1999.9.6

 この3年ほど、仕事で、各地の石にまつわる話を取材し、それを新聞の紙面にしていく仕事をしているのだけれど、先日、9月1日の「防災の日」を記念して取材したものを少しばかりご紹介したいと思います。一般向けの紙面の原稿なので、あまりツッコミはないのだけれど、テーマは、地震を抑えるために神社に「要石(かなめいし)」を置いているというもので、こうした大地に関係しているネタはけっこう面白いかもしれません。

  

■鹿島にナマズはおるんかいのぉ?

「北条鹿島・地震をおさえる要石伝説」

北条ふるさと館館長 竹田覚

取材場所 北条市鹿島

 ここ北条市の鹿島いいましたら、有名な河野水軍の海城もあって、城址も残っとります元々この辺りは、東予の越智氏に始まる水軍の覇者・河野氏が治めとりましたのよ。それから伊予の水軍時代が始まりまして、源平合戦やいろいろな戦で戦功を挙げて、道後一帯を治めたことは皆さんもご存じでしょうがねぇ。

 で、この鹿島ですが、昭和三一年に国立公園に指定され、今は観光地として有名になりまして、若い人らが海水浴にもよう来られますが、ここには昔の常陸の国(茨城県)にある鹿島神宮の分社があるいうんは、余り知られとらんようでして、昔から水運海運の守り神として信仰を集めておられますよ。

 この鹿島さんの境内には、「要石」いうんがデンと祀られとります。この石には凄い力があって、地震を起こす大ナマズの頭をグッと抑えて地震を防いどるいうんです。

 茨城の鹿島神宮にも要石があるんですよ。日本のヘソをグッと抑えて地震を起こさんように土地の要として建てられたいうんですが、起源は誰も知らんらしいんです。面白い話がありまして、あの水戸光圀公、黄門さまが、あるときその要石を掘らせたところ、石は不思議なほど深く埋められていて、掘っても掘っても根っ子に届かなかったんじゃそうです(笑い)。あの辺は昔から地震が多い土地柄ですが、関東大震災の時は鹿島神宮さんはあまり被害がなかったんですと。

 愛媛県にも瀬戸内海から九州に向かって火山帯、中央構造線が走っとりますが、この北条の鹿島さん付近には地震の被害は出とらんのですよ。鹿島にナマズがおるかどうかは知りませんが(笑い)、要石さんの押さえが効いとるんでしょうか。 

 それにしても昔の人たちの自然との共存を願う信心の心というか、神や自然に対する謙虚な心には感心させられます。こうして歌碑にも刻まれとるように、それがこうした要石の伝説として伝えられたんでしょうな。 

ゆるぐとも よもやはずれな 要石

鹿島の神の おわすかぎりは

 そういえば、このところ妙に地震が多いのが気になりますね。9月1日は関東大震災の防災の日とやらになっとりますが、私らも先人の知恵にあやかって、北条鹿島の神社にある要石を大切にしながら、上手に自然とつきあっていかんと大変なことになりましょうな。人間のわがままは通用せんのですけん。

 

 

 

風のダイアリー3

若乃花


1999.9.26

 大相撲秋場所で、横綱の若乃花が負け越した。10日目の闘牙戦で左足を痛めてから千秋楽まで連敗を続けた。「今は苦しいけど逃げたくない。一生懸命苦労していきたい。」と語る。相撲協会も、理事長も、親方も、若乃花の意志を曲げることはできなかった。

 相撲は日本の国技、そしてもっとも権威ある地位が横綱。だからこそ、「横綱だからみっともない相撲をとってはならない」のだが、若乃花はあえてその「権威」よりも、自分の意志を重視した。

 相撲界で最も注目されているといえる若乃花、貴乃花の兄弟に、その兄弟そして夫婦間の争いがことあるごとにクローズアップされている。

 こういう現象をどのように見ればいいのだろうか。この日本という地場に訪れているキリスト衝動と関連づけてとらえることはできないだろうか。地縁、血縁から自由になるための「個」の衝動。

 大地は揺れ、権威は揺らぎ、血は引き裂かれ、夫婦は争う。しかしなぜ、大地はれ、権威は揺らぎ、血は引き裂かれ、夫婦は争わなければならないのだろうか。偶然が、認識力の欠如でしかないとすれば、そのなぜを認識しようとする営為こそが求められているといえる。そのなぜが認識されたとき、そうした現象の意味が顕わになり、否定的に見える現象そのものが起こる必要がなくなる。無理解が理由で争っていた夫婦が、理解を通じ、争う必要がなくなるように。

 「今は苦しいけど逃げたくない。一生懸命苦労していきたい。」と語る若乃花。横綱の権威よりも、個の意志を優先させる態度。お国のために死ぬのではなく、人のために自分を犠牲にするのではなく、みずからのために、苦しみを選択するという意志。

 そこから、キリストが十字架上で磔刑に処された事件を見ることもできるかもしれない。キリストは、なぜあの苦しみを選択したのだろうか。人類への単なる自己犠牲だったのだろうか。しかし、キリストは人間として生きた、そして、「父」と「子」と「聖霊」は三位一体なのだ。キリストは人間の未来のイデアであるともいえる。従って、キリストにおける自己犠牲の「自己」を未来をもふくめた人類そのものであるととらえることもできるだろう。キリストは決して自分ではない他者だけのために磔刑にされたのではない。磔刑にされたのは、私でありあなたである人類すべてなのだ。そして、それは集合魂的な類としての人類というのではなく、それぞれが「個」となった人類の未来である。

 みずからのために、苦しみを選択するという意志。自分を見いだせないまま自分を投げ出すのではなく、とにもかくにも、自分を見出し、そこで受苦しようとする意志。若乃花の顔に、世紀末日本が未来に向けて歩み出そうとする意志の象徴を見ることはできないだろうか。

 

 

 

風のダイアリー4

自分の音


1999.10.9

 NHKドラマ館「オルガンの家で」(1999.10.9.21:00-22:45)を見た。ドラマそのもののストーリーも演出も特にすぐれたものとはいえないと思ったが、オルガンの「笛」が「風の音」「息」であるということを久しぶりに思い出させてくれたこと、それから、ドラマのなかでのテーマの「自分の音を見つけること」からあらためて「自分の音」ということについて考えるきっかけをもった。

 「オルガン」といえば、新潮社のファンタジー文学大賞とかの作品、オルガニストが奇妙な経緯でパイプオルガンそのものになってしまうという「オルガニスト」というストーリーを少し前に読んで、「オルガン」の魅力についていろいろ考えたことがあった。

 ちなみに、今、オルガン奏者で有名なヘルムート・ヴァルヒャのバッハ「トッカータとフーガニ短調」を聴きながらこれを書いている。そういえば、ここ数年、武久源造のオルガン演奏やBCJの鈴木雅明の演奏などを聴いたりもしていた。

 その度ごとにオルガンというのはとても不思議な楽器だと感じていた。そういえば、息をたくさんの管に吹き込んで鳴らす「笙」という楽器もとても興味深い。これは金属ではないけれど、まるでミニパイプオルガンのような感じで、そばで聴いているとその場そのものに光が散乱しているように感じる。

 Organというのは、ドイツ語の辞書によると、器具、器官という意味のほかに、特に歌手、俳優などの声という意味もあるらしい。もちろんOrganistというのはパイプオルガン奏者のこと。先の自分がパイプオルガンになってしまうOrganistの話もそこらへんのイメージからきているのかもしれない。

 ところで、「自分の音」ということについて。

 音楽家はおそらく「自分の音」を見つけるとかいうことに意識的なことが多いのではないかと思うのだけれど、それは音楽家だけのことではなく、すべての人のテーマなのかもしれない。

 人間であるということを、宇宙が奏でる楽器であるととらえるとどうだろう。「宇宙言語の協和音としての人間」ということでもいいのだけれど。

 自分はいったいどういう「音」を奏でているのだろうか。それをいろんな側面からとらえてみると面白い。まずは、自分が日々作り出している音でもいいかもしれないし、自分の「声」ということについて意識的になってみるのもいいかもしれない。「声」は外から内に取り込まれた「空気」をもう一度外に吐くときに声帯をふるわせることで出る音であるが、その外と内とのダイナミックな交歓としての「声」がさらに精妙なかたちでダンスをするときに、それが「歌」になる。というよりも、かつて人の声はすべて「歌」だったのかもしれない。まるで人間の身体をパイプオルガンのようにして歌われる歌。その「歌」がやがて言葉としての声と化していったのかもしれない。

 もちろん「自分の音」はそれにとどまらない。また、「自分の音」のなかで、「自分だけの音」ということをさまざまに模索してみるとさらに興味深い。

 さて、あなたにとって「自分だけの音」というのは、いったいどんな「音」だろうか。

 

 

 

風のダイアリー5

厄日の過ごし方について


1999.10.17

 厄日といっても、運勢上の凶なのではなく、運の悪い日、なにをやってもうまくいかない日、トラブルばかりの続く日という意味。

 まさに、ぼくにとって昨日はそういう意味での厄日。これはパソコンを使っていたらだれにとっても経験があることなのだろうけど、パソコンが動かなくなった、だが原因がよくわからない、というもの。

 これまでにも度々あったことなのだけれど、ソフトの不具合を解決しようとしていろいろ試みてみると、それがきっかけになったのか、パソコンが機嫌を損ねてしまうことがままある。昨日も、きっかけは、日本語変換システムとして使っているATOK12の単語登録の具合がおかしいので、知人から聞いた「クラリスワークスが原因で起こっている不具合である可能性が高いので」云々という助言にしたがってやってみたところ、それは解決。しかしその後にトラブルは待っていた(^^;。システムが起動できなくなってしまったのだ。

 なぜ、どうして・・・という煩悶にも関わらず、事態は一向に進展しない。ノートンユーティリティというそういうときのトラブル処理のためのソフトも何度も試してみるのだけれど、異常はまったくない、という。異常がないのになぜ起動できないのだろう。こんなことははじめてで、これまでトラブルの時は少なくともまずノートンユーティリティで、異常部分を発見してから対処を考えてきたのだけれど、それがまるでわからない。

 そこでもしや、のときのために、まず考えたのは、データのバックアップ。このMLやHPの最新のデータなどがなくなったら、これはちょっとまずい。ということで、バックアップをとろうとしたのだけれど、バックアップをとるには、パソコンにつないでいるMOが動かないとだめで、パソコンが起動しないのだから、MOが動くはずもない。悪い予感が走る・・・。ここで、感情を爆発させてしまうと、後先のことが見えなくなって「もうダメだ、みんな初期化しちまえ!」となるのだけれど、とにもかくにも、MOを働かせるためのあらゆる可能性を模索。やっとMOが動いたのが、トラブル処理を始めて約4時間後。とにもかくにも、HDのなかのデータを2時間ほどかけて整理しながらバックアップ。とりあえず、MLやHPなどのデータは確保。

 けれど、問題はまるで解決していない。パソコンはエラーを告げるばかりで相変わらず起動しないのだ。いろいろやってみたおかげで、あるインターネット関係のソフトに原因があることはわかったのだけれど、それを新しくするには、システムを入れ替えなければならない。で、データバックアップ後1時間ほどして、仕方ないと判断。清水の舞台から飛び降りる感じで、HDを初期化。ぼくのあたまのなかでは、花吹雪が舞っていた・・・。現在使っているパソコンはかなり前のもので、3年ほど前に買ったMACのPerformaだけれど、初期化までに到ったのは始めてのこと。そろそろ新しくでた、この10/16に発売のi-macの購入をと考えていた矢先のこと。けっこう感慨深いものがあった。

 気を取り直して、システムのインストールから始め、ソフトのインストール、バックアップしたデータのコピーなど、坦々とした時間が数時間に渡って繰り広げられた・・・が、やっと(^^)/、パソコンが正常に動き始めたときにわかったのが、今度は、ATOK12が動かない・・・が〜ん!なんだか、振り出しに戻った気がして、意気消沈。いろいろやってみるのだけれど、使い物にならないMACのことえりしか動かない。けれどここであきらめるわけにはいかない。会社でも同じATOK12を使っているので、ちゃんと動いているのとどう違うのか休日の会社に出かけて検証。原因がわかって、やっとATOK12が正常に作動!それが、やっとこのお昼過ぎのこと。

 やれやれ。長い苦闘が終わってみれば、パソコンの処理スピードがかなり向上していた。やはりHDの中が3年ほどの間に、ぐちゃぐちゃになっていたのだろうと愛機へのねぎらいのことば、よしよし(^^)。

 なんとか、最悪の事態に陥らずにすみ、むしろ結果的に使用環境が整備されたことになったともいえる一日だった・・・が、実は、最初にパソコンが起動しなくなってしばらく模索した後、実は、昨日は、ちょっと遠出をして岩石鉱物採集に出かける予定だったのだが、それに出かける前、ガソリンなどを入れようとしたところなぜかパンクしてることに気づき、愕然(~_~;。

 悪いことは重なるものだ・・・と一瞬投げやりな気持ちになったのだけれど、タイヤも古くなっていたのだしと、タイヤを思いきって2つ同時に交換。気分転換、気分転換・・・とつぶやきながら、岩石鉱物採集へ。という感じで、車を走らせていたら、昨日は各地で盛大なお祭。目的地までには、大きなダンジリが競い合って練り歩くいくつかの町を通り抜けなければならないのに気づく・・・やばい(^^;。しかしそんなことで初心貫徹しないわけにはいかない。yuccaと前々からぜひ行きたいと思っていた岩石鉱物採集なのだ。そこでまたお祭りもまたよし!と気分を変えて、目的地へ。

 ・・・やはり来て良かった!と思わずにはいられないような素晴らしい石たちが迎えてくれた\(^o^)/(この画像は、そのうち「風のミュージアム」でご紹介したいと思います)で、帰ってきてからが、先のパソコンの修復への長い道のり(^^;。

 たしかに厄日ではあったのだけれど、厄日であるからこそ身につけることができたこと、理解できたことというのは、かなりあったように思える。

 そこで、教訓。「愛とは決してあきらめないこと」(「ある愛の詩」という映画でもありましたね・・・変な映画だけど(^^;)「トラブルが教えようとしているのは何かを 感情をおさえながらじっくりと考え、行動してみること」「いいことも同時にあることが多いので、トラブルが起こったからといって、 そのいいこと、楽しいことのほうをスポイルしないようにすること」

 ということで、学ぶことの多い一日でした。やれやれ、やっとこうしてインターネット環境が復活しました(^^)。


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