「デザインのデザイン」ノート4

「が」と「で」


2004.8.27

 

	 無印良品が目指す商品のレベル、あるいは商品に対する顧客の満足度のレ
	ベルはどの程度のものなのだろうか。少なくとも、突出した個性や特定の美
	意識を主張するブランドではない。「これがいい」「これじゃなきゃいけな
	い」というような強い嗜好性を誘発するような存在であってはいけない。幾
	多のブランドがそういう方向性を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を
	目指すべきである、すなわち「これがいい」ではなく「これでいい」という
	程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しか
	しながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルを
	できるだけ高い水準に掲げることが目標である。
	 「が」は個人の意志をはっきりさせる態度が潔い。お昼に何が食べたいか
	と問われて「うどんでいいです」と答えるよりも「うどんがいいです」と答
	えた方が気持ちいいし、うどんに対しても失礼がない。同じことは洋服の趣
	味や音楽の嗜好、生活スタイルについても言える。嗜好を鮮明に示す態度は
	「個性」という価値観とともにいつしか必要以上に尊ばれるようになった。
	自由とは「が」に近接している価値観かもしれない。しかしそれを認める一
	方で、「が」は時として執着を生み、エゴイズムを生み、不協和音を発生さ
	せることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっ
	ているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に
	突きあたっている。そういう意味で、僕らは今日「で」の中に働いている
	「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」を評価すべきである。「で」
	は「が」よりも一歩高度な自由の形態ではないだろうか。「で」の中にはあ
	きらめや小さな不満足が含まれるかもしれないが、「で」のレベルを上げる
	ということは、この諦めや小さな不満足をすっきりと取りはらうことである。
	そういう「で」の次元を創造し、明晰で自身に満ちた「これでいい」を実現
	すること、それが無印良品のヴィジョンである。
	(P108-109)
 
ふつうは「で」ではなくて「が」がいわれるけれど、
「が」ではなく「で」。
 
先日、ハンナ・アレントの「複数性」と「公共性」について
いろいろ考えていたのだけれど、
それもまた、「が」ではなく「で」、に
とても近い考え方なのではないかとふと思った。
「複数性」と「公共性」の重要性というのは、
まさに「「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」」ではないか。
そして、「「で」は「が」よりも一歩高度な自由の形態」でもあるということ。
 
いついかなるときにも、「で」ではなく「が」でなければならないというのは
とても苦しいことだし、それがうれしい人がいたとしたら
そのまわりの人というのはとても迷惑をしてしまうのではないか。
もちろんいついかなるときにも「が」ではなく「で」、というのも
今度はあまりに主体性がなくて流されてしまいすぎることになる。
 
だいじなのは、「が」と「で」を
うまくバランスさせることによって
「複数性」と「公共性」をふまえた
あらたな主体性を持っていくということなのだろう。
 
さらにいえば、「が」にもレベルの高低があり、
また、「で」にもそれがあるといえる。
わかがままな「が」もあれば、主体性のある「が」もあり、
優柔不断な「で」もあれば、和を重んじる「で」もある。
 
従って、「が」と「で」をうまくバランスさせながら
そのバランスを高次のものへとシフトさせていくことが
とても重要なことになるように思う。
 
 


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