「デザインのデザイン」ノート2

クリエイティブであるために


2004.8.25

 

	 「デザイン」とは一体何なのか。これは自身の職能に対する基本的な問い
	であり、この問いのどこかに答えようとして僕はデザイナーとしての日々を
	過ごしている。二一世紀を迎えた現在、テクノロジーの進展によって、世界
	は大きな変革の渦中にあり、ものづくりやコミュニケーションにおける価値
	観が揺らいでいる。テクノロジーが世界を新たな構造に組み換えようとする
	とき、それまでの生活環境に蓄積されてきた美的な価値は往々にして犠牲に
	なる。世界は技術と経済をたずさえて強引に先へ進もうとし、生活の中の美
	意識は常にその変化の激しさにたえかねて悲鳴をあげるのだ。そういう状況
	の中では、時代が進もうとするその先へまなざしを向けるのではなく、むし
	ろその悲鳴に耳を澄ますことや、その変化の中でかき消されそうになる繊細
	な価値に目を向けることの方が重要なのではないか。最近ではそう感じられ
	ることが多く、その思いは日々強くなっている。
	 時代を前へ前へと進めることが必ずしも進歩ではない。僕らは未来と過去
	の狭間に立っている。創造的なものごとの端緒は社会全体が見つめているそ
	の視線の先ではなくて、むしろ社会を背後から見通すような視線の延長に発
	見できるのではないか。先に未来はあるが、背後にも膨大な歴史が創造の資
	源として蓄積されている。両者を環流する発想のダイナミズムをクリエイテ
	ィブと呼ぶのだろう。
	(P2)
	 二一世紀は、見たことがないようなものが生み出されて、何を次々と蓄積
	していくのだろうと考えていたが、そういう発想はむしろ二〇世紀に置いて
	くる方がいい。新しい時代は、知っているはずの日常が次々に未知化される
	ように現われてくる。…
	 テクノロジーの変革が生活の根幹に影響を及ぼし、世界を席巻していくと
	いうイメージもまた幻想である。テクノロジーは生活に新しい可能性をもた
	らしてくれるだろうが、それはあくまで環境であり創造そのものではない。
	テクノロジーがもたらす新たな環境の中で、何かを意図し、実現していくの
	は人間の知恵である。
	(P57-58)
 
人間と動物の違いはどこにあるのかという問いに、
火、言葉、道具、そして笑いだという答えがあるが、
道具をいくらふやしてみてもあまり賢くはなりそうもない
ということが切実にわかりはじめたのが二〇世紀なのだろう。
二〇世紀は原子爆弾という大量殺人の道具さえつくりあげてしまった。
アインシュタインはそれに関わったことを悔いる後世を送ることになる。
 
テクノロジーはますます加速しているが
私たちは新しい道具をどんどん使いながら
その代償として何かを破壊し、失い続けているのかもしれないのだ。
それはクリエイティブではなくてその逆のもの、デストラクティブである。
 
新しい道具を否定する必要はない。
それがつくりだす環境のなかで
クリエイティブであるためにはどうすればいいのか。
そのことを考えていかなければならない。
 
個人的にいって携帯電話というのは好きになれないでいるが、
携帯電話そのものはとても便利な道具であり
またたくまに日常的なツールの中心の位置を獲得しているが
携帯電話で話したりメールをしたり写真をとったりすることが
クリエイティブであるということはできないだろう。
むしろ私たちからクリエイティブである機会を奪ってしまうような
そんなルーティーンツールになってしまっていることも多いだろう。
 
現代は日々快適さのための道具も生み出され続け
それが新商品として次々に消費されるようになっている。
快適であるということは重要なことだも思うのだけれど、
その快適さを代償として失ってしまうもののことを
忘れてはならないのではないだろうか。
あたりまえのようになってしまうことのなかで
さまざまなものが見えなくなってしまう。
 
単に直線的な「先」へと自動機械のように走るのではなく、
その見えなくなってしまおうとしているものたち、
聞こえなくなってしまおうとしているものたち、
感じとれなくなってしまおうとしているものたちへと
みずからの底へ、深みへ、虚空へと
向かう必要があるのではないのだろうか。
 
あたりまえのような表現になるが
道具は使うものであって使われるものではない。
使われたときにそれはすでにクリエイティブの反対の方向へと
私たちを追い立ててしまっている。
 
 


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