「デザインのデザイン」ノート1

わからなくなるという深み


2004.8.23

 

	 何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりする
	ことではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリ
	アリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋が
	る。たとえば、ここにコップがあるとしよう。あなたはこのコップについて
	分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてみてく
	ださいと言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなた
	に示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少
	しわからなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの
	容れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなす
	その容器の中で、どこからがコップでそこからが皿であるか、その境界線を
	示すように言われたらどうだろうか。様々な深さの異なる容器の前であなた
	はとまどうだろう。こうしてあなたはコップについてまた少し分からなくな
	る。しかしコップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対
	する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないで
	それをただコップと呼んでいたときよりも、いっそう注意深くそれについて
	考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようにな
	った。
	 机の上で軽くほおづえをつくだけで世界は違って見える。ものの見方や感
	じ方は無数にあるのだ。その無数の見方や感じ方を日常のものやコミュニケ
	ーションに意図的に振り向けていくことがデザインである。
	 本書を呼んでデザインというものが少し分からなくなったとしても、それ
	は以前よりもデザインに対する認識が後退したわけではない。それはデザイ
	ンの世界の奥行きに一歩深く入り込んだ証拠なのである。
	(『デザインのデザイン』(岩波書店/2003.10.21発行)/「まえがき」より)
 
何かを分かっているということは、ほんとうははなはだ心もとないものだ。
それが問われるまでは分かっていると思っているのだが
いざ問われてみるとそれがいかに未知のものであることかがわかる。
どんなにあたりまえのように見えているものでも
それは決してあたりまえのものではない。
 
もちろん人はいちいちあらゆるものを問い直し続けていると
とても生きていられないものだから
まあいいじゃないか、わかったことにしておこう、とばかり
とりあえず世界を既知のものとしてとらえていることが多い。
いわば妥協して生きているわけである。
 
しかしたまには既知がいかに未知であるかを
問い直してみることはやはり必要なことではないかと思う。
 
とくに、ファッショ的なまでに固定観念化してしまっている
さまざまな観念については、よくよくゆさぶりをかけておくようにしないと
そうした固定観念の世界のなかで
人はほとんど「すでに死んでいる」状態になってしまう。
その人のなかではあらゆるものが自明のものになっていて
あらゆるものが類型化した定義できるものになってしまっているのだ。
 
そういう人に関わり合うときがあると、
かなりつらい思いをしなければならなくなるときがある。
男は男らしくなくてはならないし、女は女らしく、
日本人は日本人らしくなくてはならなくなる。
そういうなかでヒコクミン的な発想も生まれる。
「そういうものであるべきである」という人の前にいると
自分が見えない糸でがんじがらめにされてしまっているような感じになる。
 
もちろんぼく自身も気づかずに
いろんな「べき」に縛られているところがあって
「そうでなくてもいい」ということが理解できたとき
とても自由な気持ちになることもできる。
「そうでなくてもいい」というのは
「それがわかった」というよりも
「わからなくなった」ということへの積極的な喜びなのだろう。
 
神秘学的な視点を得るというのも
その「わからなくなった」という感じに近いものがある。
それまで当然のように思えていることも
常識的にはわからくなくなることで
問いを深めることができるようになる。
 
問いをもつことではじめて
既知だったものを未知のものとして位置づけることができ
そのなかで問いを深めていくことが可能になる。
ますますわからないことが増え続けるだけなのだけれど
それは「認識が後退したわけではな」く、
「世界の奥行きに一歩深く入り込んだ」ということなのだ。
 
 


■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る