中国哲学関連


利と義

「道」「徳」論

「道」「徳」論2

安岡正篤の人間学的論語・大学から

「道」「徳」論3

墨子の兼愛と仁など

慈悲と愛の綜合

 

利と義 


(93/05/16)

 

 論語には「利によって行えば怨み多し」というのがあります。「利」という経済原理のみにとらわれることで、「怨み」をつくって生きているということです。

 「春秋左氏伝」には、「義は利の本なり」、さらに「利は義の和なり」というのがあるそうですが、やはり、経済原理の追求にあたっては、「いかにすることが義か」という根本をいつも肝に命じていかなければならないのではないでしょうか。その「義」をないがしろにするがゆえに、本来の「利」のよいところさえも、なくしてしまうことの多い現状は悲しいものですよね。 

 この「利と義」については、これまた安岡正篤さんの「論語の活学」(プレジデント社)に非常に傾聴に値する考え方がありますので、ちょいと長めではありますが、とっても大切なところなので、ご紹介します。

 利というものは各人自己に都合のよいことでありますから、どうしても他とどこかで衝突するわけです。否、自分自身の場合でもやがて矛盾が起こる。すべて自然は自律的統一体で、各己が他己と相関連し、そのまま全体に奉仕するようにできておるものですから、自己のわがままを許しません。利はちっとも利にならないのです。

 世にいう資本主義の弊害というものは、あらゆる価値の標準を利己的・享楽的な金融的性向とでもいうべきものに置いたことであります。そのために、富める者よりもむしろ貧しい者に物質主義・利己主義を育てました。利一点ばりの考え方を育てました。利一点ばりの考え方を育てたものです。・・・かくして彼らの思想もほとんどまったく物質的になりました。彼らはより多い利潤の配分を要求しましたが、それはより善い生活のため、より道徳的な生活のためではなくて、実はより享楽的な生活のためでありました。・・・ 

 そこで、資本主義の実際の結果は、社会のあらゆる階級の人々に単なる経済的・物質的生活、すなわち利の生活、利ばかりを求める考え方を養ってしまったのであります。それがだんだん悪質な無秩序と革命とを養成したと申すことができましょう。・・・ 

 経済と道徳、利と義というものが両立しないもののように考えるのは、もはや笑うべき愚見であります。いかなる物質的生活問題も、すぐれた精神、美しい感情、たのもしい信用などにまたなければ、本当の幸福にはなれません。経済の安定、まことの成長というものになりません。・・・

 ・・・この経済ということになりますと、わかっておるはずの人でも、不思議なほど利己的であり、排他的・競争的になりやすい。道徳などといっておっては、義などといっておっては経済にならぬ、利にならぬ。礼節などは衣食足って後の話だ。飯が食えなくては何の教養も文化もあるか。----言わず語らず決め込んでおるのが、常人の心理であります。・・・

 それは経済というものも人生の重要部門でありますが、決して孤立的に行われるものではなくて、経済を左右するものは案外道徳・義であるというような理法に対して非常に無知なためであります。

 人は誰でも生まれたときから「礼」や「敬」を知っていると言われますが、この「敬」について、安岡正篤さんは「人間学のすすめ」(福村出版)は、このように言っています。 

敬という心は、言い換えれば少しでも高い境地に進もう、偉大なものに近づこうという心であります。それは同時に自ら反省し、慎み、至らざる点を恥ずる心になります。

 また、「運命を開く」(プレジデント社)にはこうあります。 

 いたいけな子どもは愛で育つと、今までもっぱら力説されておりました。「論語」や「孟子」などを読むと、それでは足らぬ。さらに「敬」が必要だと書いています。子どもは愛を要求すると同時に「敬」を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、敬する対象を持ちたい、そしてその対象から自分が認められたい、励ませれたい、という要求を持っています。その愛と敬が相まって初めて人格ができていく。愛の対象を母に求め、敬の対象を父に求めます。

 「礼」についても、「楽」との関係で、「いかにして自分になるか」ということが、「人物を創る」(プレジデント社)では次のように述べられています。 

 「礼」とは今日の言葉でいえば、部分と部分、部分と全体との調和・秩序であります。人間は常に自己として在ると同時に、自己の集まっておる全体の分として、それぞれみな秩序が立っておるのでありまして、これを「分際」と言う。限界であります。これに対して自分の存在を「自由」と言う。人間は「自由」と同時に「分際」として存在する。これを統一して「自分」と言うのであります。したがって自己というものは、自律的統一と共に自律的全体であり、全体的な調和であります。これが「礼」というもので、あらゆる自己がそれぞれ「分」として、全体に奉仕してゆく、大和してゆく。それが円滑なダイナミックな状態を「楽(がく)」というのであります。「礼」と「楽」とは儒教の最も大切なものの二つであります。全体的調和を維持してゆくには、どうしても各々が「自分」にならなければならない。

 この「礼」と「楽」、そして「自分」という考え方って、とってもスゴイでしょう。相撲なんかでも、「自分の相撲をとる」とかいうのがよく言われますが、これを考え併せると、「礼」をしっかりと持ち、調和しながら、しかも自分ならではの最も力を発揮できる個性的なスタイルのことを言っているのだとなんとなくよく分かったような気になりますよね。

 

 

「道」「徳」論


(95/04/13)

 

 今度は、別の角度から、道・徳・仁・義・礼などに老子のようなちょっと逆説的な方向ではなく、正当な方向性でアプローチしてみることにします。

 こうした道や徳などという概念のなかで有名なものは、八犬伝などにもあるように、仁義礼智忠信孝貞とかいうのがありますが、とりあえずこのなかで苦手な「忠」「孝」「貞」などは除いた^^;、仁義礼智信という五つについて考えながら、まずわかりにくい「徳」とは何かということをについて。

 仁義礼智信を簡単に(ぼくの勝手な考えで)現代的に説明すると次のようになると思います。

仁とは、愛。

義とは、判断力。

礼とは、礼儀・礼節といった秩序。

智とは、知識を経験を通じて変容させた智慧。

信とは、信頼、信仰といった敬虔さ。

 「徳」とは、こうした「仁義礼智信」を兼ね備えることによって、醸成されていく人格なのではないかとぼくはとらえています。つまり、徳とは、人格力とか魂の総合力とでもいえるのではないでしょうか。 

 でもって、「道」とはなにかといいますと。そうした人格力、魂の総合力をベースにした生きざまというか、別の表現をすると、「自然(じねん)」の力とでもいいましょうか。

 親鸞は、如来の本願の働きによって顕現する道理を「自然(じねん)の理(ことわり)」と表現していますが、そういう「自然の理」こそが「道」なのではないでしょうか。

 以上のように「道」と「徳」をとらえてみました。

 

 

 

「道」「徳」論2


(95/04/14)

 

 人は「礼」から「道」へとたどり着くというとらえ方がありますが、孔子のような儒教的なアプローチからすれば、「逆説的」だというのは、老子的なアプローチは、その発想を逆転させた、というか半ば皮肉ともいえるものであるともいえます。いわゆる、有名な表現でいえば、「大道廃れて仁義あり」という表現です。

 では、なぜ「大道廃れて仁義あり」というような表現をとったのかというと、儒教は、礼節だとか義だとかいうことを口やかましくいう傾向にあったわけです。もちろん、「天」の発想だとかいうのは基本にあったのだけれど、孔子にしても、どうしてもあの戦乱の時代、現実の乱れた政治状況を現実的なあり方でなんとか正常化できないかという課題があったのだと思います。その分、どうしても目の前の、礼や義がないがしろにされている状況に対して、それを取り戻せということを強調せざるをえなかったのだと思うのです。もちろん、孔子の基本的な姿勢は「王道」の復活だったようなのですけど、現実はそれからはるかに遠いものだったわけです。無明の無明に落ち込んでしまった人の世を一から立て直そうとする必要があった。

 それに対するアンチテーゼとして老子的なアプローチがあったのだと思います。それは、老子が、おそらく現実的な政治状況などに直接的に関わろうという発想を度返しした視点からであるからこそ可能なものです。しかし、本来はもちろん「大道」が廃れたからこそ、あえて言う必要もない「仁義」について口にしなければならないわけです。 

 孔子と老子は、現実論と理想論の立場の違であるともいえます。もちろん、理想というのはそうであるのが本来的には当然なものです。しかし、現実は果たしてそうではないわけです。

 この世はいってみれば「失われた世界」です^^;。そして、その「失われた世界」を否定的にとらえるか、その意義を、「本来的でない」ということをふまえて積極的にとらえるかが考え方の大きな違いとしてでてきます。

 本来は失われてなどないのですが、それを失われてしまった、もしくは最初からないのだと思いこんでしまった状況から、それを一つ一つ再獲得していかないといけないのが人間です。それは禅の十牛図の世界のようなプロセスにほかなりません。牛を追いかけている(と思っている)のは無明です。しかし、その無明故に、それを克服しようと努力することそのものに深い意味があるとぼくは思っているのです。

 ぼくらの毎日の生活というのは、少なくともぼくの場合、本来的ではないのは承知していても、日々さまざまな「学び」にあふれています^^;。しかし、「本来」的にいえば、「学ぶ」必要さえないわけです。それはすでに自分とともにあることなのですから、再獲得などする必要がない、そういう考え方もありえます。 しかし、「学び」は尽きることがありません。失われた(と思っている)「道」「徳」「仁」「義」「礼」「智」などを求めて、日々、無限ともいえる悪戦苦闘を繰り広げています。はるかな未来において、「実は最初から失われてなどいなかったのだ」、「すべては自然(じねん)なのだ」と気づくことができるときのために。そして、こうしてぼくが話しているのもその一コマなのです。

 

 

 

安岡正篤の人間学的論語・大学から


(95/04/16)

 

 儒教関係だけではなく、もっと他の中国思想についてもある程度理解しておくことが必要になると思うのですが、そのためのきっかけになったのが、シュタイナーに次いで、西田幾多郎などと同じくらい尊敬している安岡正篤の著作でして、そのおかげで付け焼き刃ではありますが、孔子や王陽明といった方々についてまったく認識を新たにすることができたわけなのでした。

 最近では、その王陽明や安岡正篤などの姿勢とシュタイナーの姿勢をその人間学の部分から共通点を見ようという著作もでてたりしまして、いまもそういう観点から少しずつ勉強しているところなのです。

 では、孔子の「仁」関連のものについて。安岡正篤さんの「論語の活学/人間学講話」(プレジデント社)から「仁」及び「忠」「恕」についての興味深い箇所をいくつかご紹介してみることにします。

 まずは、「仁」について。 

「仁」はいろいろの意味に用いられていますが、最もよく論語に出てくるのは、天地が万物を生成化育するように、我々が万物に対して、どこまでもよくあれかしと祈る温かい心・尽くす心を指す場合である。したがって、とにもかくにもその仁に志すようになれば、何事によらずその物と一つになってその物を育ててゆく気持ちが起こってくる。 (P214)

 さらに、「忠」について。 

「忠」とは、「中する心」である。「中」は、相対するものから次第に統一的なものに進歩向上してゆく働きを言う。「忠」とは、そういう心である。「中」は論理学でいうと、ちょうど弁証法がこれの一つの応用である。つまり正反合と進んでゆくのが「中「である。           (P181)

 続いて、「恕」について。 

恕は「如」プラス「心」であるが、如の口は口(くち)ではなくて、領域・世界・本分である。これを「ごとし」と読むのは、「天のごとし、実在・造化そのまま」という意味である。仏教では「にょ」と読んで、最も普及した語となっておりますが、造化そのままであるから、したがって仏そのままである。また如は「ごとし」と同時に、それと比較して接近する、しく、似るという字であり、ゆく、進行するという字でもある。宇宙・造化は絶えざる創造であり、変化であるからである。 (P182)

 こうした安岡正篤さんの説明というのは、通常の表面的な思想解説などに比べ根源的なものに還っての説明なだけに、ただただ感心するばかりです。こうした「字」の意味を知るまでは、儒教といえば辛気くさいイメージがかなり強かったのですが^^;、その後気持ちを新たにすることになり、かつては論語読まずの論語嫌いだったぼくが、論語読みの論語好きに、変身してしまって、今では、老子や荘子ととなりにちゃんとしっかり位置をしめるようになりました(^^)。ちなみに、最近、最後の砦のようだった聖書も、これまた最近尊敬するようになった内村鑑三さんのおかげで、その論語のとなりにデン!と置かれるようになりまして、少しずつ偏見を脱してきているようで、少しは進歩したようです(^^)。

 次に、「礼」についてですが、これについても、安岡正篤「人物を創る/人間学講話「大学」「小学」」(プレジデント社)から、「礼と楽」ということで、ご紹介することにしたいと思います。

 「礼」とは今日の言葉で言えば、部分と全体との調和・秩序であります。人間は常に自己として在ると同時に、自己の集まってつくっておる全体の分として、それぞれみな秩序が立っておるのでありまして、これを「分際」と言う。限界であります。これに対して自分の存在を「自由」と言う。人間は「自由」と同時に「分際」として存在する。これを統一して「自分」と言うのであります。したがって自己というものは、自律的統一と共に自律的全体であり、全体的調和であります。これが「礼」と言うもので、あらゆる自己がそれぞれ「分」として、全体に奉仕してゆく、大和してゆく。それが円滑なダイナミックな状態を「楽(がく)」というのであります。「礼」と「楽」とは儒教の最も大切なものの二つであります。 (P184)

 通常の「礼」の解説とくらべて、なかなかうがっているでしょ(^^)。部分と全体との調和・秩序であるからこそ、そこに「仁」ということが「おのれに克(か)ちて礼にかえる」ことであり、「礼に非ざれば・・・」ということが言えるわけです。

 ついでに、「孝」ということについても。これは「論語の活学」から。

 「孝」という字は、言うまでもなく「老」即ち先輩・長者に「子」を合わせたものであります。(中略)「疎隔・断絶」に全く反対の「連続・統一」を表す文字がこの「孝」という字です。老、即ち先輩・長者と、子、即ち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのです。そこから「孝」という字ができあがった。そうして先輩・長者の一番代表的なものは親であるから、親子の連続・統一を表すことに主として用いられるようになったのである。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・隔絶すると、どうなるか。個人・民族の繁栄はもちろんのこと、国家・民族の進歩・発展もなくなってしまう。 (p171-172)

 「修身」「斉家」「治国」「平天下」といえば「大学」で、これについてもご紹介していくと面白いのですが、またの機会に。また、「荘子」についても、長くなりますのでまた、追って。

 

 

「道」「徳」論3


(95/04/16)

 

 安岡正篤さんの「人物を創る」(プレジデント社)のなかから、「徳」「道」についての部分をご紹介してみることにします。

 とにかく「徳」とは「宇宙生命より得たるもの」をいうので、人間はもちろん一切のものは「徳」のためにある。「徳」は「得」であります。それには種々あって、欲もあれば良心もある。すべてを含んで「徳」というのであるが、その得た本質なるものを特に「徳」という。そして、我々の「徳」の発生する本源、己を包容し超越している大生命を「道」という。だから要するに「道」とは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以のもの、これなくして宇宙も人生も存在することができない、その本質的なものが「道」で、それが人間に発して「徳」となる。これを結んで「道徳」という。したがってその中に宗教も狭義の道徳も政治もみな含まっている。非常に内包の深い外延の広い言葉である。 (p47)

 

 この「人物を創る」という本は、いわゆる四書五経の筆頭でもある「大学」と「小学」を読むというテーマなのですが、「大学」の最初には「大学の道は明徳を明らかにするに在り」とあるように、「大学」の目的は、人間において発現する「道」としての「徳」をテーマに、それをきわめて人間学的に解き明かすということにあるように思います。

 さすが、古来、非常に尊重されてきた書であり、本来、非常に実践的であるはずのものですから、そこには無数の叡智が詰まっているように、この安岡さんの解説を読んだときに深く感心した記憶があります。

 名著というのは、ツンドクもので読む人は少ないといわれますが^^;、やはり温故知新といいますか、そういう古の名著から、多くを学んでいく姿勢というのも、大事にしていきたいなと思っているのでした。

 

  

墨子の兼愛と仁など


(95/04/20)

 

 安岡正篤さんの思想は、非常にすぐれたものだとぼくは思っていまして、ぼくの尊敬している、シュタイナー、西田幾多郎などとともに、常に上位を占めている方のひとりとなっています。機会があればぜひお読みいただきたいですね。その素晴らしさが実感できるのではないかと思います。ぼくのおすすめはプレジデント社から出ている「知命と立命」や確か致知出版社からでていたと思う「易と人生哲学」(ダッタカナ?)あたりでしょうか。

 さて、これはかつての自分への反省ぶくみでいうのですが、「時間がない」というのならば、誰だってそうなのですが、それぞれの生活の中で、「時間」は創るものだというのが原則だと思います。

 もちろん、ほとんど徹夜仕事のような場合は1日の中で時間をつくるのは困難ですが1週間スパン、1カ月スパンで考えると、時間は必ず相当の量がつくれます。そして、そういう心がけでいると、仕事などもそれなりに効率化されてきます。もちろん、時間をつくろうといってしゃかりきになるのではなくて、一定の時間、静かに内省する時間をつくるのもふくめて、ある種のリズムをもった時間づくりということも可能だと思います。そうすれば、ほんの5分の時間でもけっこう有効に使えるようになります。

 それと、仕事なのでは、自分がどうしてもしないといけない部分と、誰かに任せる、または頼める部分とをちゃんとわけて、多くの仕事を一種のディレクター業務としてとらえると、その核の部分というのは、2割を超えないという場合が多いと思います。ですから、それまで100の時間していた仕事も20の時間で可能になると、原則としてそれまでの5倍の仕事はこなせるようになります。もちろんそうまですると身が持ちませんから、2〜3倍程度にしておいて、あとの浮いた40〜60の時間を、気分転換やコミュニケーション、そして読書などの自己啓発などにあてるわけです。もちろん、こうしてパソ通に(こっそり^^;)あてるというのもそのひとつです。ま、そんなところでしょうか。

 さて、老子が孔子のアンチテーゼとしての老獪な人生観を提示しているとすれば、荘子はさらにそれに諧謔を加え、洒落のめしているという感じでしょうか。さらにもちろん荘子はストーリーテラーの側面もありますよね。

 ま、どちらにしても、戦乱の世に荒んだ人心のなかで、理想論をベースとした処世を説いた側面のある儒家の「上から」の姿勢に対するアンチテーゼをしながら、もっと根源的な宇宙論を提示したという感じがあります。もちろん、老荘では現実の政治経済には対処できませんから、あくまでも儒教と老荘の綜合的な止揚とでもいうものが必要のように思います。

 それから、あの時代で忘れるとことのできなののが、「兼愛」ということを説いた墨子の存在だと思います。この墨子については少し前に酒見研一氏の「墨攻」という小説があり、またそれは漫画化されたので少しはお馴染みですが、この墨子にはキリスト教的な「愛」という側面とそれを政治的な働きかけを通して顕現させようとした側面があります。

 「兼愛」といえば、それと似た考え方に「仁」というのがありますが、「仁」というのはどちらかといえば「上から」のもの、仏教的にいえば「慈悲」的な側面がありますが、この「兼愛」というのは、キリスト教的な、水平的友愛的な「愛」のようであの時代に、そうした考え方を実践しようとした方があるのは驚きです。老荘関係がどちらかといえば厭世的傾向があるのに対して、墨子というのは非常にポジティブなんですよね。

 

 

 

慈悲と愛の綜合


(95/04/24)

 

 毎日のように事件のある昨今ですが、まるで小説でも読んでるようですね^^;。事実は小説より奇なりといいますが、ほんとうにそうで、こうした「混沌」のなかから「清水」を得るためには、なまじな想像力では間に合わないようです。

 かつては、ぼくもポスト・モダンだとかに凝ってたこともありますが^^;、そういうのの多くがが児戯にも等しい現実逃避にすぎなくて、そういう方々の想像力がいかに貧困なものだったかを思い知らされています。こういうときこそ、できるだけ広い視野と主体的な想像力が必要になるようです。それと、日々心身ともに健康で生活するということも、忘れてはなりません。 

 さてさて、読書量や時間の使い方などについてですが、ぼくはかつては相当なテレビっ子でしたが、相棒がテレビをあまり見ないというのの好影響で、特に結婚後、テレビを見ないでいっしょにお話したり、勉強したりすることが習慣になったのが大きいと思います。

 テレビを見ないということは、家のなかで静かに過ごせるということですから自然、心の波動は、「外から」ではなく、「内から」調律されていきます。そういう経験を通して、それまで自分がいかに「外から」の波動に、心乱されていて、少しも主体的でなかったかということを実感できました。

 それから、かつてはバーテンなどでアルバイトしていたこともあったりしましてお酒はいけないくちではないのですが、今ではつきあいでもないかぎり、ほとんどお酒の類を飲まなくなりましたので、会社から帰っても寝床につくまでは、あたまが比較的正常に働き続けている、というのもまた大きな要素かなと思います。

 ぼくはかつてより、ずっと睡眠時間は少なくなくても大丈夫になりましたが、それはおそらく、先に述べたように、かつてにくらべて、心の波動を「内から」調律できるようになったのが大きいかなと思っています。

 人は、なぜ眠るか、眠らなければならないかということですが、これは、おそらく、寝ている間に、霊的エネルギーを補給してるんです。ですから、そういうエネルギーを浪費しないようにすることと、起きている間にも、少しでも補給できるようだと、絶対に必要な睡眠時間というのは少なくてもすむのではないか、というのがぼくの考えです。体調についても、ここ数年は、かつてにくらべて格段に安定するようになりました(^^)。でも、会社の先輩後輩を見てると、年をとればとるほどボロボロになってるようです^^;。

 さて、仏教の「慈悲」とは「抜苦・与楽」だと説明している本が多いようですが、それについて、少し。

 まず、「抜苦・与楽」というのは、四苦八苦ということに対して、苦集滅道という四諦を説き、その四苦八苦の原因を遡って究明していいくことで、そこから「解脱」していくことができるということによって、悟りの世界に入る、つまり「楽」になれるということでしょう。(なんだか説明が短絡的だけど、まあこんなもんでしょう^^;)でもって、そういう悟りの世界に入るための正しい道を説き、その方向に導いていくというのが「慈悲」なわけです。逆にいえば、「引き上げてあげよう」ということです。そして、人間のなかには仏性というその可能性の種があるのだから、それぞれの努力ではいあがることができ、やがては悟りの世界へ・・・。

 ですから、慈悲は「教え」であって「垂れる」ものと決まっています^^;。お釈迦さまが、カンダタに蜘蛛の糸を垂らすように垂れるのです。仏教では、「悟り」ということが一番の要件になっています。そして、四向四果といわれるような悟りの段階というのが説かれるように、非常に階層的なあり方がその基本をなしています。もちろん、それだからこそ仏教は非常に知的な側面が強調されるわけです。

 イエスの説く愛というのは、大きく分けて二つではないかと思います。つまり、「神への愛」と「隣人愛」ということです。「愛」というのがなぜ説かれたのか。それは、「愛」というのが、切り離された個と個を結びあわす原理だからです。ですから、「愛」は「個」から発される切実な祈りになります。それに、賛美歌の歌詞などでは「友なるイエス」という表現がよくでてきます。なぜ「友」なのでしょうか。お釈迦さんは決して「友」ではなくて「師」ですよね。(「尊師」とかいう表現も最近けっこうなメジャーになりましたが^^;)イエスは、弟子の足を洗うということをしました。イエスには、上なるものは下なるものとされ、下なるものは上なるものとされる、そういう観点もあります。イエスの愛は、上から下に垂れるような慈悲の愛ではないのです。イエスの愛は、祈りの愛であり、隣人を愛し、与え尽くす愛なわけです。

 でもって、どうも最近はぼくにとっては、イエスがとても親しくなってきていて、「友なるイエス」に涙するようになったり、ね^^;。 

ちなみに、この仏陀の慈悲とイエスの愛。これはどちらが優れているとかいうのではなくて、現代的にいうならば、この両者の綜合がめざされなければならないのではないか、ということではないかとぼくはいまではとらえるようになりました(^^)。

 『嫌いでも理解、好きならもっと理解』というフレーズというのは、ぼくがこの会議室をはじめるころから、なぜか突然ぼくのなかで繰り返し繰り返し響き始めたもので、ことあるごとに、この原点を確認しながら、会議室を続けることになっています。たぶん、ぼくのなかにずっと眠っていたテーマなんでしょうね。

 このフレーズは、感情の快不快を超えて、魂の力を育てていくための基本を表現したもので、繰り返しこのテーマに戻ってさえいれば、たとえ道を過ちそうになっても、なんとか踏み外さないでもすむのではないかと思っています。実は、それこそが、「中道」という道なのだとぼくはとらえているのです(^^)。


 ■「中国哲学関連」のトップに戻る

 ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る