中道論

■中道論1●中庸とは何か


 

 最初は、「中庸とは何か」からはじめたいと思います。

 「中庸」に関しては、ご存知の通り儒教で使われている言葉ですが、それは、孔子の言行録でもある「論語」の中に、

   中庸の徳たるや、それ至れるか。民鮮(すくな)きこと久し。

 というように使われているのが最初のようです。 

 「中庸の徳というのは最高のものである。しかし、人々はほとんどそれを顧みなくなって久しい。」そういう意味なのだと思いますが、これでは何のことかわからないので、儒教関係の解説を探してみますと、陽明学のもとになったのが王陽明であるように、朱子学のもとになった朱子はその「中庸の徳」について、次のように解説しているようです。

  偏らざる、これを中と謂い、易(かわ)らざる、これを庸と謂う。

  中なる者は天下の正道なり。庸なる者は天下の天理なり。 

 つまり、偏らないでバランスがとれていて、普遍的なあり方を「中庸の徳」といっているようです。でもこれだったら、かなり固定的なとらえかたになりかねません。

 今度は、孔子の孫の子思または孔子の高弟の曾子によってまとめられたといわれている「中庸」から見てみることにします。  

  君子は中庸す。小人は中庸に反す。

 これは、先の意味では、確かに立派な人は偏らないで普遍的だし、そうでない人は偏っていて普遍的なところがないということだから、半ば同語反復的でよくわからないのですが、次の「未発の中」、「中節の和」に関しての部分が少し参考になると思います。

喜怒哀楽のいまだ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る、これを和と謂う。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。 

 これをぼくなりに説明してみますと、次のようになるでしょうか。喜怒哀楽という感情が起こる以前の状態が「中」といい、発せられてもそれが節度をもったものであればそれを「和」という。中であるのは、天から与えられた本性であって、和であるのは、天の道に適った達人であるということである。

 この内容に少しばかり踏み込んでみましょう。「中なる者は天下の大本」なのですから、これこそ人間の核心であるといえます。つまり、自らの存在理由(由)である「自由」こそが「中」であるといえます。そしてそれは、「喜怒哀楽のいまだ発せざる」ですから、それが感情、つまり、アストラル体の影響を免れている自我であるともいえます。そして、その「中」がちゃんと統御された感情を通じて、人格的に働く場合、それが「和」であるというわけです。

 ですから、中庸の徳というのは、単に偏らないとかバランスをとっているとか普遍的だというだけではなく、感情に無闇にふりまわされて自らを失ってしまうようなあり方とは対象的に人間の本性をしっかりと見つめ、自らの「由」そのものを体現することによって得られるものだといっていいのではないでしょうか。

 儒教の核心といえば、「修己治人」ということ。つまり、修身、己を修めることで立派な徳を身につけ、それをベースとして人を治め、社会で立派にやっていくという考え方です。そこでいわれているような「中庸」の考え方は、政治ということが念頭に置かれますし、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」というようにどうしても秩序を大事にする考え方ですから、そこで説かれる「中庸」ということも、そのライン上になってしまいます。

 ですから、そこらへんが、儒教的な考え方での「中」をダイナミックなあり方から遠ざけてしまうことになります。もちろん、本来はそうではないのですけど。

 次回は、この「中」の本来のダイナミックなあり方を見るために

「易経」に関係した「中」を見てみることにしたいと思います。

  

■ 中道論2●易経における中 

前回は、「中庸」という儒教的な考え方をとりあげて、それが通常は、秩序的なとらえかたをされがちであること、しかしその本来は、人間の本性に関係していることをお話しました。

 それで、今回は、儒教の中でもっともダイナミックな側面をもっている「易経」の基本的な考え方としての「中」をとりあげてみたいと思います。

 易経というのは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」と「書経」「易経」「礼記」「詩経」「春秋」といういわゆる四書五経の「五経」のなかのひとつで、四書が朱子学の時代にまとめられるのに対して、五経というのは漢代から儒教の教典とされていたように古いもので、「易経」は孔子も論語のなかで「五十易を学べば、もって大過なかるべし」、つまり、人間、五十歳くらいになって易を学ぶほど勉強に心がければ人生に過ちをしなくてすむ、といったようなことを書いているほどの叡智に満ちた書です。

 現在では、易というのは、多く、通俗的な占いに堕していることもありますがそれは本来、無限の創造進化である宇宙の理法を学びながら、その法則に基づいてみずからを創造していく「立命」の叡智をまとめたものです。ですから、近代になって、西洋でも、「タオと易」という感じで、この「易」を重要視しすることも少なくはなくなってきていますし、いわゆるニューサイエンス系の方は、易を重視することが多いようです。

 それはともかくとして、易は「立命」のための実践的な法則でもありますが、この「立命」とは、みずから運命、「命」を創造していくとらえ方です。「命」というのは、いわゆる命(いのち)をふくむ天地創造、進化、造化などの絶対性を意味する言葉で、そこから「天命」とかいう言葉がでてきたりします。それに対して「宿命」とは「命」が外から創造されていくのだという消極的悲観的な人生のとらえ方です。この考え方は、カルマ論を問題にするときも同じで、それを過去に規定された消極的なものとしてとらえるか、未来創造のための積極的な踏み台としてとらえるかで、そのダイナミックな生かし方がまったく変わってくるということです。

 易というのは、その「命」の「数(すう)」という生命のなかにある神秘的な因果関係を法則化したものなわけです。仏教的にいえば、「因果の理法」「縁起の法」とでもいえるでしょうか。「数霊」というのもありますが、これはその法則を解明するためのほんとうに重要な考え方で、以前、FFORTUNEでインナーミラクルさんが取り組んでいらっしゃいました。

 また、日月神示でも「神は数で会話している」という内容が盛られていたと記憶していますし、カバラなんかでも、「数」というのは非常に重要ですよね。ここらへんの話は、ぼくにっても、今後アプローチしていきたい非常に重要なテーマなので、またあらためてお話してみたいなと思っています。

 さて、こうした「中」に関して非常な深い見識を提示されているのが陽明学者でもあり、大正から昭和も50年代までに渡って、実質的に日本の思想の骨格ともなっているといってもいいと思われる安岡正篤さんです。

 安岡さんは中国思想をベースに、東洋政治哲学・人物学を展開された方で、そのなかに、「易學入門」(明徳出版社)という易の根本思想から易経の解説までを総合的に展開している著書があり、そこで「中」に関しても、易の根本は「一」「無極」としての「太極」でありそれはいかなるものにも偏向・分裂・固定せず、常に全一・調和を保ち、生成育化していくことであり、それこそが「中」であるという見解を提示しています。この考え方は、儒教でも、王陽明の先駆者ともいえる陸象山以降力説されているというものでもあるそうです。

 さて、こうしたとらえ方を講義録という形で紹介している安岡正篤「易と人生哲学」(致知出版社)がありますので、そのなかから、少し長くなりますが、易と中についての箇所を引用紹介させていただくことにします。

人間を含む造化の世界というものは進歩向上してやまない。現実は万物の相対(待)する世界であると同時に、総合統一されて限りなく変化していく、あるいは進歩向上と観察することもできる限りない造化が進行していく、それが「中」であります。「中する」ということは、現実の矛盾を統一して新しくクリエートしていく働きをいいます。だから非常に総合的、統一的、進歩的な作用であります。だから中というものはそういうジンテーゼSyntheseです。矛盾を統一し、相対(待)的なものを限りなきクリエーションに展開していく、これが「中」であります。

そこでこの万物の世界というものは、偉大なる中の世界ということができます。そのことを説いた書物が「中庸」という書物であります。この「庸」の字は、「つね」という字で不変の法則をあらわしますからいろいろに用います。また「庸」には「用いる」という意味があって、にんべんをつけますと「傭う」という意味となって、いろいろと文字が変化しますが、その根本はやはり中であります。

易は、限りなき造化、つまり生命というものを把握して、その中に含まれておる数、複雑微妙な因果関係を明らかにして、どこまでも進歩向上発展にもっていくということであります。

そこでこの中というのは、相対立するもののまん中をとるというような単純な意味ではなく、もちろんそれもひとつの中には相違ありませんが、本当の中は、もっと動的な、いわゆるダイナミックな意味をもっております。「折中」という語があります。この「折」の字には「折る」という意味と「定める」という意味がありまして、折衷の二字は矛盾、対立、闘争する双方を処理して、総合統一して限りなく進歩向上させるこれが本当の折中の意味であります。論理学でいう正・反・合。正があって反があり、それを合わせ進めるので合といいます。

テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼというのは、論理学の三段論法といわれ、みなこれ中論であります。仏教も理論的には中論、儒教は中庸でありますから、東洋の儒教、仏教、老荘、道教は皆中論であり、中道、中庸であるということができます。

だから、この中というのは、あらゆる思想学問の極めて根本的な思想であり概念であります。普通は極めて簡単に解釈しておりますが、中というものはそういう非常に深い思想であり概念であるということを理解しませんと、間違いを生じます。そこで易は最も典型的な命、数の思想学問であると同時に中説、中論、中の学問といわれるゆえんであります。(P60-62)  

 「中」についての基本的な考え方はこれでおおよそはご理解いただけると思うのですが、やはり「中論」といえば、どちらかとえば仏教の専売特許(^^)。ということで、次回からは、いよいよ本家本元の仏教における「中」についてお話させていただきたいと思います。

  

■ 中道論3●不苦不楽の中道


 ここでは、仏教における「中道」の基本的なとらえ方についてお話してみようと思います。  

 釈迦は、釈迦族の王子として生まれ、快楽の生活を送りましたが、その生活から一転して、悟りを得ようと、苦行生活を6年ほど続けました。けれど、それでは悟れないことに気づき、その苦行生活も捨てました。そして、菩提樹の下で座るわけです。

 このように、「楽」にも「苦」にもとらわれない道が「不苦不楽の中道」といわれます。

 釈尊の時代には、方や快楽主義がもてはやされ、方や、悟りのためには苦行に苦行を重ねることが重視され、苦行の途中で死が訪れたとしてもそれは称讃されていたのです。苦行は悟りのためにするとはいえ、いつしかそれが自己目的化してしまい、エスカレートを続け、そのうちにそれがなんのためなのかがわからなくなります。もちろん、快楽主義は一刹那の感覚、感情の満足のためのものであって、それが悟りとは無縁のものであることはいうまでもありません。

 釈迦は、王子としての快楽的な生き方に疑問を抱き、それを否定して、苦行生活を続けたのですが、今度もそのあり方に疑問を持ち、それも否定します。このように、快楽主義も苦行主義も否定したなかから、本来の道を選ぶあり方を「不苦不楽の中道」として、仏教の修行方法としてのひとつの基準がここに確立することになります。

 現代の日本では、オウム真理教などに類するものや、密教、修験道など以外では釈迦の時代のような苦行主義はほとんどみられませんが、そうした非世俗的な世界に限らず、日常的にも快楽主義と苦行主義はみられます。というよりは、ほとんどがそのどちらかに偏している。そういってもいいかもしれません。

 現代日本で氾濫している快楽主義はあえてご説明するまでもないでしょう。人々は、眼耳鼻舌身意というすべてにおいて快楽を貪っています。「快楽」という言葉はもはやなんらの否定的響きをもたず、それはどこまでも肯定されています。それを肯定するために、現代文明はありとあらゆるものを用意しています。あげく、バーチャルリアリティなどというように、現実のものだけでは満足できないがゆえに用意されつつあるものもあるほどです。食の世界でも、「飽食の時代」であることはだれも否定できないでしょう。

 また、そうした快楽主義へのアンチの声もまたあげられています。オウム真理教への入信動機といった例を挙げるとわかりやすいでしょうが、快楽主義がアンチの方向に極端に向かうと、現世否定による苦行を通して「解脱」しようとする方々というのも少なくはありません。現代で注目すべきなのは、こういう苦行主義が、そのまま、実はドラッグなどを使ったバーチャルリアリティのような快楽主義が巧妙に入り込んでいるということではないでしょうか。

 そもそも、真の意味でいわれる「宗教は阿片である」というのは、宗教というのが依存すべき対象をつくりあげてそれを信仰しそれをドラッグとしてしまうということで、それがイエス・キリストであれ、イェホヴァであれ、なんであれ、偶像でないものもふくめ、すべての「信仰の対象」というのは用意にドラッグとなり、その宗教に応じたバーチャルリアリティを実現させてしまいます。そういうあり方を否定するために、臨済は「仏陀に会ったら仏陀を殺せ」などという物騒なことをいうわけです。そして、それは宗教的なバーチャルリアリティから抜け出させるためには非常に正しい方法なのです。

 このように、快楽主義と苦行主義というのは逆方向にありながら、どちらもその根っこは同じところにあるということがわかります。どちらも、この現実を直視しようとしていないところでは同じで、直視しないためにどちらかに偏しているというだけなのです。

 仏教では、こうした極端に偏することを「辺(アンタanta)」といいます。「一辺倒」というのも、この「辺」から来ている言葉で、まさに「辺」というのは、「中」とは逆のあり方にほかなりません。人は、「辺」から「辺」へと渡り歩いていきます。つまり、極端から極端へと渡っていくわけです。

 ですから、「中道」というのは、そうした「辺」をゆく道ではありません。けれど、またそれは「辺」と「辺」との間をゆけばよいというのでもありません。釈迦は、最初から中道を歩んでいったわけではないように、最初から「私は中道をゆく」と悟りすましていることはできません。もちろん、最初から、釈迦も快楽と苦行をともに経験したのだから、自分もそうした快楽と苦行をゆくのだというのも愚かなことです。

 人はだれでも、「辺」を生きざるをえません。人は、快楽的でありながら、苦行的であらざるをえないところがあります。その矛盾のなかに人は生きています。その矛盾に埋もれてしまうのでも、矛盾しているからといってどちらかの「辺」を選択するのでもなく、その矛盾を生きること、矛盾を包み込むだけの魂の力をもちながら、いってみれば、「辺」と「辺」で「面」を形成し、それを生きる、または「辺」と「辺」での「合力」を生きること。それがジンテーゼとしての「中」なる道なのだと思うのです。

 ちなみに、中道というときにの「道」というのは、原語では「パティパダー(プラティパダー)」で、それは「あるものに向かって」(パティ、プラティ)「歩んでいく」(パド)ということを意味していますから、「中道」というのは、まさに「中」に向かっていくということをいいます。ですから、単なる理論ではなく、実践であるということを忘れないようにしなければ、単なる詭弁に堕してしまいます。

 釈迦は、頭の中であれこれ考えただけではなく、まさに実践を通じてその叡智を培ったのですから、その「中道」を生きるということを我々は模索しなければならないわけです。

 今回は、非常に有名な「不苦不楽の中道」についてお話しました。次回は、これに続いて、「有無の中道」「断常の中道」について、お話しようと思います。

 

■中道論4●断常の中道/有無の中道 

 前回は、最も有名な「不苦不楽の中道」についてお話しましたが、これに続いて、これも仏教理解には欠かすことのできない「断常の中道」、「有無の中道」についてお話していきたいと思います。

 「不苦不楽の中道」というのはどちらかというと実践的な観点での中道ですが、今回の「断常の中道」、「有無の中道」は、認識的な観点での中道といえます。

 まず、「断常の中道」についてですが、これは、「私はずっと続いていくのか、そうではないのか」という問いに対し「ずっと続いていくのでもなく、またなくなってしまうのでもない」そういう観点を提供するものです。

 「断」というのは、早い話「死んだら終わり」というとらえ方で、いわゆる唯物論の考え方はまさにこれで、肉体がなくなれば私もいなくなる、ということです。「無我説」というのがあるのですが、これは後世誤解されて「私がないのだから死んだら終わりなのだ」というように短絡的に解釈され「自我」を「実体」としてとらえそれを否定する説が立てられ、唯物論のようなとらえかたをされる場合もあるのですが、これは本来、あくまでも「執着・我執・とらわれ」としての自我の否定であって本来の主体としての「自己」によって自我を否定し解放し超越するという意味でとらえられるべきだと思います。

 たとえば、『ダンマパダ』には次のようにあります。

実(げ)に 自己こそが 自己の 主(あるじ) 自己こそが自己の依りどころ  

ですから、単に「死んだら終わり」という考え方は否定されます。

 それに対して、「常」というのは、「死んでも今のこの私はこのまま存在する」というとらえ方です。喜怒哀楽のままに生きるこの「私」がそのまま続いていく、そういうことです。先の表現でいえば、「執着・我執・とらわれ」としての自我を永続する「実体」として肯定することにほかなりません。

 もちろん、仏教では、そうしたものは「無常」としてとらえます。そういう無常なあり方に執着してはいけない。「一切は空である」というのです。「諸行無常」というのは有名ですよね。「諸行」というのは「行」の複数で、「行」は「形成する力」とでもいう意味です。「無常」(アニッチャ)というのは「常住でない」、常に変化しているということを意味しています。ですから、「諸行無常」は「形成する力は常に変化している」ということ、つまり、「生ずるものはすべて滅する」「生者必滅」というわけです。だから、そういう無常−苦から離れねばならないということになります。

 このように、「私」というのは「死んだら終わり」とはいえない。しかし、また、「このままの私がずっと続いていく」ともいえない。真実は、その「中道」にあるというわけです。言葉をかえていえば、永遠なるものと無常なるものを見分けなければならない。そういうことなのです。

 さて、続いて「有無の中道」に関していいますと、これは「私はあるのかないのか」「物はあるのかないのか」ということについて「あるのでもない、ないのでもない」という観点を提供するものです。

 たとえば、「私はある」というとらえ方があります。通常は、みんな今ある自分を当然のように「ある」と思っていますし、確かに、自分をさわってみたらちゃんとさわれるし、こうして五感も働いているし、喜んだり悲しんだりしている自分はちゃんといる。しかし、そうした自分はほんとうに実体としてあるのかというと、たとえば、さわってみたら確かにあるけど、こうして五感で感じている自分はひょっとしたらバーチャルリアリティの世界にあるのかもしれない。また、昨日の自分と今日の自分とでは、厳密に同じだといえるだろうか、細胞だってどんどん変化していて、10年も経たないうちに、全身の細胞はほとんど入れ替わってしまうのだから、10年前の自分と今とはまったく別人なのかもしれない、いや、1分前の自分と今の自分さえ同じではない・・・というように「私」という存在は時間とともに絶えず変化しているわけです。厳密に、「これが私だ」とかいうように定義できはしません。これは、物質的な観点だけではなくて、昨日の自分と今日の自分では感じ方や考え方などの心の状態でも常に変化していますから、「こういう心が私だ」ということも実体的にはいえません。でも、だからといって、「私はないのだ」といってよいかというと、私は自分のことを私だと感じているし、身心ともに、それなりのアイデンティティを感じているわけで、他の人も私のことをひとつの個性ある存在として認知しています。

 しかし、私は無常な存在であって、常に変化のなかにあります。これを、存在は時間とともにある、いや時間は即存在なのだというようにとらえるということもできるでしょう。

 別の例を挙げてみましょう。

 「太平洋というのがあるのかないのか」ということに対しては、「太平洋はたしかにこうしてある」といえますし、地図にだって記載されています。しかし、その太平洋を見せてください、といわれて、太平洋の水を汲んで、「はいこれが太平洋です」とはいえませんし、太平洋に接している海岸に立って、「ほら、こうして果てしなく広がっている海がこれが太平洋なのだ」と言ったとしても、それは太平洋そのものではありません。また、地図を見せて、「ここからここまでの海を太平洋というのです」と言ってもそれが太平洋という実体を明確に説明しているとはいえないでしょう。もし、太平洋をまるごとなにかに包むことができたとして、「ほら、これが太平洋ですよ」と言ったとしても、まったく動きのない、海流の動きもないものが太平洋といえるでしょうか。それはもはや太平洋の抜け殻のようなものにすぎないといえないでしょうか。また、昨日の太平洋と今日の太平洋とでは確実に変化しています。ですから、今日の太平洋と昨日の太平洋は同じだとはいえません。

 しかし、だからといって、「太平洋はない」ともいえません。確かにそう名づけられた存在はあって、みんながそう認知していますし、そこを通る船も人もそこに住んでいる人もたくさんいます。ですから、太平洋を実体としてとりだしてみせることはできないけれど、みんながそう呼んで認識している太平洋なるものは変化のなかにありながらそれなりに存在しているともいえるわけです。

 こうしたことは、わたしたちの身の回りにあるありとあらゆるものについても同じことがいえます。すべてのものはあるということもないということもできない。すべてのものは時間の変化の相のもとにある「無常」なものだということだできるのです。

 このように、すべてのものが変化のなかにあるということを「一切は空である」というふうにいいます。「色即是空空即是色」の「空」です。ここでいう「色」というのはいわゆる物質的世界のことをいいます。

 このように、すべてのものはずっと続いていくのでもなくまたなくなってしまうのでもない、すべてのものはあるのでもない、またないのでもない。このように一切のものは空であるということにおいて認識上の「中道」ということが非常に重要な観点として提示されるわけです。

 では、次回は、仏教的な中道論においてはその核にもなっている天台大師の「三諦円融」の考え方をみてみることにします。

 

中道論5●三諦円融


 

前々回、前回と、「不苦不楽の中道」、「断常の中道」、「有無の中道」という仏教的な意味での中道の基本的なところについてご説明しましたが、今回は、それらをさらに大きく包括した、仏教における中道論の総論として、天台大師の説く「三諦円融」ということについてお話したいと思います。

少しばかり難解な部分はでてくるかもしれませんが、非常に大事なところですし、中途半端に説明すると理解しにくいですので、そこらへんをよろしくお願いします。

また、天台大師についてや、その後の日本への影響なども興味深いのですが、今回は、テーマを「三諦円融」に絞ることにします。ちなみに、主に参照してあるのは平川彰「仏教入門」(春秋社)ですが、ここでは、その説明を利用させてもらいながら、その記述ではとらえられてないものをいろいろ展開させることにします。

さて、天台大師は「摩訶止観」の第三上で、こう述べています。 

仏智、空を照らすこと二乗の見る所のごとくなるを、一切智と名づく。

仏智、仮を照らすこと菩薩の見る所のごとくなるを、道種智と名づく。

仏智、空仮中を照らし、皆実相を見るを、一切種智と名づく。

ゆえに三諦を一心中に見るを得るなり。  

「二乗」というのは「声聞乗」「辟支仏乗」のことで、阿含経で「一切とは十二処である」と説かれているように、眼耳鼻舌身意の六内処と色声香味触法の六外処という認識するものと認識されるものの「一切」を知る智が「一切智」ですが、なぜ「空」を照らすというのかというと、「一切法」の本性は「空」ですから、諸法の本性が空であることを悟れば、一切法を悟ったといえます。ですから、空智は一切智だというのです。

それに対して、「道種智」というのは、本来、菩薩の修する道である六波羅蜜・三十七道品・十力・四無所畏などを行じて得ますから、「道」の「智」だというふうに表現されます。

また、「種」というのは、「形相(ぎょうそう)」とも訳すことがあるように心が外に現われる相をいいますので、修行の種類を表わしています。菩薩というのは衆生の教化を事としていますから、そのためにはこの「仮」の世界のすべてに通じていなければなりませんが、その仮の世界を照らすためにはそうした「仮名」を知ることが必要ですから空に即した仮名を知ることを「道種智」というわけです。

ちなみに、「仮名」というのは、実体ではないけれども、空性に裏付けられて「有」として成立している、「認識できるもの」のことです。

 そして、「一切種智」ですが、これは、先の「一切智」つまり「空智」と「道種智」つまり「仮智」とを総合したあり方で、それを「中道智」だというのです。

でもって、「三諦」とはなにかというと、「空」「仮」「中」の三つの「諦」、つまり「真理」が、「一心中」に得られるというのです。

 また、同じく「摩訶止観」の第三下にはこうもあります。 

円教にはただ一実諦を明かす  

実には是れ一諦なれども、方便して三と説くなり  

ちなみに、「円教」に関してですが、天台大師は蔵通別円の四経のうちの「円教」であって、無作の四諦を示す中道の立場です。「無作」というのは、つまり、作為を用いない意味で、日々の生活そのものが中道の生活であるということになります。禅などでいう「平常無事」だとか「平常底」だとかいうのもそれです。 

で、「一切智」としての「空智」、「道種智」としての「仮智」、「一切種智」としての「中道智」は、三智として区別されながらも、「一心中」にあるのですから「一智」でもあって、その「一智」で「一実諦」を悟るということになります。しかし、方便としては「三」と説かれているのだというのです。 

「一実諦」は、三智の相をもってあらわれているわけですけどその三智は即、一智でもありますから、空諦には仮諦と中道諦が含まれていますし、仮諦には空諦と中道諦が含まれていますし、中道諦には空諦と仮諦が含まれているといえます。そのことを「三諦」、つまり、「空という真実」、「仮という真実」、そして「中という真実」が「円融」していると説くわけです。 

以上、「三諦円融」についてご説明しましたが、これでは、仏教の専門用語の羅列になってしまっていますので、少し、わかりやすく説明をしてみたいと思います。 

私たちは、この日常世界を、五感や心を使い、それを認識しながら生きています。この日常世界においてはそれがすべてなのです。しかし、それはほんとうはすべてではありません。それらの、通常の感覚で認識できる世界としての現象世界というのはあくまでも「仮の真実」でしかないのです。 

その「仮の真実」に対して、「空の真実」があります。「空」というのは「実相」ということ、つまり「霊的真実」です。私たちは本来、霊界の住人であって、霊的本性が私たちの本来の姿なのです。それを気づかなければ、自分がほんとうはどういう存在なのかがわかりません。私たちは生と死を越えて存在し続ける存在なのです。

しかし、この霊的真実が実相であるからといって、この世界に生きている私たちは、日常性を無視しては生きられません。私たちは意味なくこの世界に生まれそして生き死んでいくのではないからです。ですから、この世にあって、この世にとらわれず、また霊的存在であるかといってそこへ逃げ帰ろうなどというようなそんな馬鹿げたことをするのであってもならないのです。そこに「仮なるもの」にもとらわれず、「空なるもの」にもとらわれない、そんな「中道」が必要になります。

さらにいうと、仮の真実を理解するためには、仮の真実、中道の真実を理解しなければ、その仮の真実を十二分に生きたとはいえないでしょう。また、空の真実を理解するためには、仮の真実、中道の真実を理解しなければ、その空の真実を体得したとはいえないでしょう。もちろん、中道の真実を理解するためにも、仮の真実、空の真実をちゃんと見定めていなければ、形だけの中道になってしまいます。 

このように、「空」と「仮」と「中」はそれぞれ他をも含みこんでいます。「三諦」が「円融」しているわけです。そして、そういうあり方であってこそ、「一」を悟ることができるのです。 

さて、この「中道論5」で、仏教的な「中道」についての考え方をひとまず終わりまして、次からは、これまでのことを踏まえながら、「中道としてのキリストの道」についてお話していこうと思ってます。

 

中道論6●中道としてのキリスト


 

前回までは、主に仏教における中道の考え方をご紹介しながら、それに少しだけエッセンスを加えてみたという感じなのですが、今回から、ぼくのメインテーマでもあるシュタイナーの思想を引きながらこれまでみてきた「中道」の考え方を展開していこうと思います。 

それで、今回は、「中道としてのキリスト」をテーマにお話していきたいと思っています。 

さて、いわゆる悪魔なる存在について、シュタイナーは主に二つのタイプを挙げています。ルシファーとアーリマンです。(この場合、第三のタイプの「アスラ」については除きます) 

人間にこの世は物質がすべてだというように思いこませ、唯物論的な世界観を浸透させようとする悪魔がアーリマンで、ゾロアスター教で、アフラ=マズダという太陽霊に対抗する悪魔として描かれている存在です。 

それに対して、人間を霊的な方向に逃避的に導こうとして、いわゆる解脱病的な方向性やトランス、熱狂などを煽る方向に向かわせる悪魔がルシファーで、聖書にも登場したりする有名な堕天使で、その名前は「光をもたらす者」を意味している、そんな存在です。

では、こういう存在は悪魔だから邪悪で危険で否定すべきかというとそうでは決してなくて、その二つのタイプの悪魔は、人間が人間であるためにはむしろ必要な存在でもあるのだといいます。

アーリマンは、人間に厳密な思考方法を与え、それによって科学、学問をもたらした存在でもあるのだけれどその傾向が行き過ぎると人間は機械のようになってしまいます。また、ルシファーは、人間に自由と自我の独立性を与え、それによって自ら努力して進化していこうという情熱を与えたのだけれど、その方向を誤ると、いわゆるエゴの暴走になってしまいます。

ですから、その二つの影響に対して意識的でありながら、その両者のまさにバランスするところを歩むことこそが人間が進化していくためには必要だというのです。

さて、そのようにアーリマンとルシファーの「中」を歩むことをもここでは「中道」の本質を突いたものとしてとらえたいと思います。シュタイナーは、アーリマンとルシファーの「中」を歩むあり方を「キリスト的」であると言っています。つまり、「キリストの道は中道の道」ということです。

ここで、シュタイナー「悪の秘儀/アーリマンとルシファー」(イザラ書房)から病気を例にとって、このことを説明している部分をご紹介します。

キリストという人物は、現代の人々が描写しているような存在ではありませんでした。本来キリストという人物は、「アーリマン的なものとルシファー的なものの間に均衡、つまりバランスを保つということを可能にするような教義をすべての人間に伝える」という意図を持っていました。「キリスト的である」ということは、まさにアーリマン的なものとルシファー的なものの間に均衡を求めることを意味しているのです。・・・

例えば、肉体的な意味においてキリスト的であるということは、何を意味するのでしょうか。肉体的な意味においてキリスト的であるということは、私が人間についての正しい知識を身につけることを意味します。人間は病気になることもあります。例えば人間は胸膜炎に罹ります。「人間が胸膜炎に罹る」ということは何を意味するのでしょうか。これはすなわち、「人間の中にルシファー的なものが多すぎる」といこうことを意味します。ある人間の中に、あまりにもルシファー的なものが多すぎる、ということが分かったら−−要するに人間が胸膜炎に罹るときには、その人の中にあまりにも多くのルシファー的なものが存在していることになるわけですから、私は次のように言わなくてはなりません。「仮に私が秤を手にしているとして、秤の一方が跳ね上がったとすると、私は錘を取り除かなくてはならない。一方が沈んでしまうときには、私は錘を乗せなくてはならない。」さらに私はこう言います。「ある人が胸膜炎に罹ったら、この場合はルシファー的なものが強すぎ、アーリマン的なものを幾らか加えてやらなくてはならない。そうすれば再びバランスが回復するはずだ」(中略)

キリスト的なものとは、均衡にほかならないからです。私がいま皆さんにお話してるのは、「人間を肉体的に治療する際に、キリスト的なものはどこに存在するか」という問題です。キリスト的なものの本質は、「人間が均衡を求める」ということの中にあるのです。(P34-38) 

さて、このアーリマンとルシフェルについて話し始めると、これだけで一年はかかってしまいそうですので、ここではスケッチ的に述べるだけに留め、今回はアーリマンとルシファーの中を行く道こそが中道としてのキリストの道であるということだけをお話しましたが、次回は、これを展開させて、「キリスト的中道とカルマ」についてお話してみたいと思います。 

 

中道論7●中道とカルマ


 

この「中道論」に関しても、ご無沙汰してましたが、引き続き、飽きもせず続けてみたいと思います。

前回は、(半ば覚えてないのですが^^;)たしか、キリスト即中道って感じのことをお話したのではなかったでしょうか。ルシファーとアーリマンの中道をゆく人間こそが、キリスト衝動に貫かれた理想の姿だというわけです。パウロが「私の中に生きているキリスト」とか言ったようなあり方です。 

それで今回はというと、それを踏まえまして、「カルマと中道」ということについて、少しばかりお話させていただこうかなと思います。 

まず、「なぜカルマがあるのか」という極めて重要なポイントについて、シュタイナーの観点をご紹介させていただきます。

アトランティス時代の半ばから、アーリマンの霊の集団が人間に働きかけるようになりました。このようなアーリマンの霊の群れは、何を目指して人間を誘惑したのでしょうか。アーリマンの集団は、人間が周囲の世界に存在するものを物質的に受け取るように、すなわち人間がこのような物質的なものを通して、物質的なものの真の根拠である霊的なものを洞察することがなくなるように人間を誘惑しました。(中略)

では、人間を絶えず進化させようとするあの霊的な存在たちは、このような誘惑に対抗して−−つまり感覚的なものから生じる誤謬や幻影に対抗して−−どのような手段を講じたのでしょうか。人類を進化させようとする霊たちは、誤謬と罪と悪を克服する可能性を感覚的な世界の中から再び獲得することができるような状態に、人間を置くことを試みました。(中略)つまり人間を進化させようとする霊たちは、「カルマを担い、それを作用させる可能性」を人間に与えたのです。人類を進化させようとする存在たちは、ルシファー存在たちの誘惑によって生じた損害を埋め合わせなければならなかったので、世界に悩みと痛みを、そしてまたそれと結びついた死をもたらしました。それと同じように、人類を進化させようとする存在たちは、感覚的な世界に関するアーリマン的な誤謬の中から流れ込んでくるものを修復しなければなからなかったので、人間に「みずからのカルマによってあらゆる誤ちを再び取り除き、自分自身が世界の中に引き起こしたあらゆる悪を再び消し去る可能性」を与えたのです。もし人間が悪のみに、誤謬のみに陥っていたら何が起こったでしょうか。そのときには、人間は少しずつ、いわば誤謬と一体となり、進化することができなくなったことでしょう。(中略)カルマの恵みは、どこから来るのでしょうか。私たちの地球の進化において「カルマが存在する」というこの恵みは、いったいどこから生じるのでしょうか。進化全体においてカルマを生じさせる力とは、キリストにほかなりません。 

      (「悪の秘儀/アーリマンとルシファー」(イザラ書房)P64-74) 

ルシファーは人間を感覚的な欲望に陥らせようとします。その危険性を防止するために、人間には病気や苦痛が与えられました。子供がストーブにふれて火傷するようなものです^^;。ですから、そうした病気や苦痛を悪魔が与えているわけではなく、いわゆる高次の天使存在によって与えられているのです。ですから、それを「恵み」ととらえなければなりません。その「恵み」がなければ、大変なことになるわけです。

また、上記引用で説明されているように、アーリマンは人間に唯物論的な衝動を与えましたがこの世の物質的な世界に溺れないように、キリストによって人間に「カルマ」が与えられたというわけです。病気や苦痛が高次の天使存在の「恵み」であるように、「カルマ」はキリストの「恵み」そのものなのです。

さて、キリストの道は「中道」であり、それは、正反合という弁証法的発展のことであり、さらにいえば、矛盾を総合して行く大いなる道のことでもあります。ということは、カルマの作用というのは、「アーリマン−カルマ−キリスト」という「正反合」であるともいえます。 

アーリマンは人間を唯物論的にさせてしまう悪魔ではありますが、その働きがないと、人間は物質的な外界を認識することが困難になります。科学的なあり方にしても、基本的にはアーリマンの働きによるものです。しかし、その働きのなかに沈み込んでしまうと、人間は、本来霊的な存在であることを忘れ去ってしまい「人間止めますか、それとも・・・」なんてことになってしまいます^^;。そのための重要な反作用として、「カルマ」が与えられました。そういう意味で、「カルマ」は、中道への道しるべだともいえます。自らのカルマ的連関を深く認識し、その課題を克服するべく実践すること。その実践こそが「中道」であるともいえるわけです。

さて、次回からは、このテーマを少しだけ置いといて、また仏教的なものに少し戻ることにして、先日来の般若心経についてのあれこれに続いた展開とこの「中道論」をクロスさせていただくことにます。テーマは、ぼくの大好きな「維摩経」(^^)。これは、仏教のお経のなかでもいちばん中道的かなとぼくは思ってますので、そのなかで説かれている「不二」を中心に、その中道的な考え方をについていっしょに考えていくことにしたいと思います。

 

中道論8●風説維摩経1


 

ということで、「維摩経」に描かれている中道的な考え方について、これから何回かに渡ってお話させていただければと思います。 

名づけて「風説維摩経」(^^)。

般若心経では「風釈般若心経」というように「風釈」とつけましたが、今回は、「風の便りに聞いたけど・・・」というような感じを込めて、「風説」というのをつけてみました。これで、維摩経について勝手な話ができるという言い訳ができます^^;。(最初から言い訳してどうするんだ) 

ま、維摩経そのものの一言一句にこだわらず、ぼくなりにそこから「中道」に関する重要な視点だと思われるものをとりだして展開させることができればということですが、基本的には、「不二法門」と「中道」との関係ということがその焦点にはなってくると思います。

それで、一応、ぼくの参照するテキストを挙げておきますと、 

■世界の名著2「大乗仏典」(責任編集長尾雅人/中央公論社)より「維摩経」

■「大乗仏典」(中村元編/筑摩書房)より「維摩経」

■鎌田茂雄「維摩経講話」(講談社学術文庫)

というあたりで、どれも比較的手に入りやすいものです。もちろん、手元にこうしたテキストがある必要もありませんし、このテキストでなければ云々ということもありませんので、お気軽に、「ふんふん、そんな話なのかぁ」とか「勝手なこと言ってらぁ」とかいろいろ思いながら、読んで下さればと思います。 

では、最初に維摩経とはどんなお経かということについて、鎌田茂雄「維摩経講話」からその内容の概略について引用紹介させていただきます。

この『維摩経』は全部で十四品(十四章)からなる。最初は仏国品(ぶっこくほん)から始まる。第一仏国品では仏が毘耶離城(びやりじょう)の庵羅樹園(あんらじゅえん)で説法することから始まる。つぎの方便品にいたって、始めてこの経の主人公である維摩が病気になって現われる。第三弟子品では舎利弗(しゃりほつ)や目連(もくれん)など仏の十大弟子に、維摩の病気を見舞に行かせようとしたが皆辞退したので、第四菩薩品になって、弥勒菩薩など八千の菩薩に命じたが、これも辞退してだめとなり、最後に文殊菩薩が承諾した。そこで第五問疾品(もんしつほん)では智恵の文殊と、破天荒の維摩との竜虎あい対する大問答が展開する。この問答を見ようと沢山の菩薩が維摩の部屋へやってきたが入りきれなくなった。そこで維摩のいる小さな部屋に広大な講堂を入れて、そこに入らせようとしたのが第六不思議品である。須弥山(しゅみせん)を芥子の中に入れたり、大海水を毛孔の中に入れたりするのがこの章の面白さだ。

つぎの第七観衆生品と、第八仏道品においては、天女と舎利弗との問答などをいれながら、維摩が衆生に仏道を説き、第九入不二法門品に至って、大乗仏教の真髄である不二に真理を説いた。しかも究極の真理は口で説くことはできないとして黙然として一語も発しなかった。これが有名な「維摩の一黙響き雷の如し」と言われたものだ。さらに維摩が不思議を現わし、大衆に衆香国の香飯を授けたのが第十香積仏品である。第十一菩薩行品においては維摩が部屋を出て、文殊と連れだって仏のところに行き、第十二見阿(あ)しゅく仏品では維摩の故郷である妙喜国について語り、最後の第十三法供養品と第十四嘱累品(しょくるいほん)では、この経典をどのように弘めるかについて語っている。(P29-30)

こうしたストーリーでは、経の内容はわかるはずもないのですが、一応、この流れだけはある程度覚えておいたほうが、理解しやすいかなと思います。ちなみに、維摩が病気になってそれを仏が弟子たちに見舞うようにいうのを次々に断わるシーンが第三・第四品あたりで続きますが、これは、何も維摩がどうしようもないヤツだから断わるというのではもちろんなくかつて維摩が仏の弟子たちに、その小乗的なあり方をこてんぱんに批判されたがゆえに、恐がって行きたがらないということでで、ここらあたりの話が、とっても痛快で、またとても為になるところでもあります。 

さて、ぼくはかつてけっこう仏教関係のものをいろいろ読んだりしていて、最近ではその限界部分が見えてきた関係もあって、遠ざかっていたわけですが、先日からの般若心経の話の流れのなかで、ひさびさ維摩経関係のものを手にとってみたところ、この維摩経だけは、やっぱりとくにすごくて、他の仏教関係のものには見られないうがった視点があふれているように感じました。 

つまり、この維摩経は大乗仏教の真髄でもあると同時に、仏教がトーンとしてもっているものへの痛烈なアンチテーゼでもあるということです。これほどのアンチテーゼがありながら、なぜ仏教がああなってしまっているのだろうと不思議な感じでいっぱいなのですが、それはともかくとして、この維摩経に盛り込まれている「中道」的な視点を中心に、これからいくつかポイントをしぼってお話していくつもりですので、ぜひお付き合いいただければと思います。

 

中道論9●風説維摩経2


 

「維摩経」は、全部で次の14の「品(ほん)」つまり「章」で構成されています。 

1)仏国品 2)方便品 3)弟子品 4)菩薩品 5)問疾品 6)不思議品

7)観衆生品 8)仏道品 9)入不二法門品 10)香積仏品 11)菩薩行品

12)見阿すく仏品 13)法供養品 14)嘱累品 

これらを順に説明していくのもいいのですが、面倒なのと^^;、ここでのテーマはあくまでも「中道」ですので、それを理解するために参考になりそうなところをピックアップして、主に、鎌田茂雄「維摩経講話」(講談社学術文庫)に添いながら、それをガイドとして、話を進めていこうと思います。 

まず、最初の1)仏国品では、まだ維摩は登場してきませんが、昆耶離(びやり)の庵羅樹園(あんらじゅえん)というところで、仏の話を聞くために、大比丘衆八千人と菩薩三万二千人をはじめとしたたくさんの人が集まっているという設定からはじまります。

そうした舞台で、昆耶離城の長者の息子の宝積が登場し、仏に浄土の国土をどうやったらつくることができるのかを質問します。これに対してまず仏は「衆生の類、これ菩薩の仏土なり」と答えます。つまり、浄土というのは、人の心の中にあるのだから、人の心を浄土にしないと理想世界はできないというわけです。この人の心の浄土のあり方についてもあれこれあるのですが、そこは省略して、仏が「心浄なれば仏土浄なり」ということを説いた仏にその有名な弟子の舎利弗(シャーリプトラ)がこんな質問をします。 

仏は心が浄ければ国土もしたがって浄くなるとおっしゃるが、もしそうであれば仏が住んでいるこの娑婆世界そのものが、必然的に浄土でなければならないはずではないか 

これに対して、仏はこう答えます。 

このように考えたらどうであろう。太陽や月は清浄である。けれども盲者はこのことを知ることができない

でも、現実主義者の舎利弗は納得できません。そこで、螺髻梵王(らけいぼんのう)という梵天がこう説明します。

螺髻梵王「このような心をもって、この仏土を考えて、不浄だと言ってはいけない。わが釈迦牟尼仏の国土の清浄なことは、たとえていえば自在天宮のようだ」舎利弗「自分がこの国土をみていると、丘陵でも、坑坎(あな)でも、荊刺(いばら)でも、沙礫(いしころ)でも、土石(いわ)でも、山でも、あらゆる穢れが一杯になっています」

螺髻梵王「お前さんの心には高い低いがあって、一切を平等にみる仏の智慧によらないので、この国土をみて不浄だと思うのだ。舎利弗よ、菩薩はどんな衆生に対してもすべて平等にみて、その心も清浄である。仏の智慧からみれば、この仏土は清浄にみえるのである」  

世界が不浄に見えるのは、そう見る心に問題があるのだというわけです。もちろん、これを「すべてが主観である」「観念の世界である」というふうに一面的にみることは避けなければなりません。この世界が汚れてみえているそのことそのものにこそ、意味を見出さなければならないわけです。

そうそう、霊主体従という話が以前よくでてましたよね。霊と体という現われは、どちらも同じく大事なものではあるのだけれども、みずからが霊的存在であるということを認識することがまず重要なのだということです。つまり、「心の優位」というわけです。 

ここらへんの話を敷衍しておきますと、この霊主体従ということでは、霊を高級なもの、体を低級なものというふうにとらえてしまうのはちょっとした落とし穴でして^^;、霊と体とは「二」として現われているのだけれども、それは「不二」としてとらえなければならないというあたりの捉え方が、言ってみれば、この「維摩経」における「不二法門」の基本的な考え方です。問題にしなければならないのは、なぜ霊を高級なもの、体を低級なものというふうにみてしまうかというその認識のあり方にほかなりません。

これを中道論的に説明しますと、こうなるでしょうか。 

霊というあり方がある。体というあり方がある。それはどちらも真実であるが、どちらかだけが正しいとか、どちらのほうがより正しいというわけではない。霊というあり方と体というあり方の統合された「中」というあり方にこそ真実を求めなければならない。 

さらに、いうと、霊という真実、体という真実、そしてその中という真実。それらすべての真実を生きるということに新たな次元の真実が開けてくる。霊という現象はそのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、体という現象もそのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、また、その霊と体の結びとして生きる人間という現象も、そのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、そうしたことを深く体得することを通じて開けてくる真実があるのだ。そいうことがいえるのだと思います。 

さて、維摩経に戻りますと、この世界が不浄に見えるのは、それがそいうふにあらわれている真実を理解しないがために、世界をそのように一面的に見てしまうということです。それは、「浄」と「不浄」を「二」とみてしまう無明にほかなりません。浄と不浄を「不二」としてみる智慧を身につけなければならないというわけです。

しかし、その「不二」というのは、浄のために不浄を排除するというのではもちろんなく、浄は浄としてのあらわれのなかに真実があり、不浄は不浄としてのあらわれのなかに真実があるのであって、その「二」としてのあらわれを融合してしまうというのではなく、本来の浄と不浄の不二性という智慧の目で世界を見るという言ってみれば「中」ということが重要だということです。 

ちょっとくどくなりましたが、自分を観るということにしても、世界を観るということにしても、その観るという枠組み、窓によって「二」を観、それぞれに真実を観ると同時に、それが本来は「不二」であるというふうに観なければならないというわけです。

そうでないと、自分を正当化することに終始したり、反対に自分は情けない奴だ、ダメなやつだとマゾになったり、また、自と他をちゃんとわけて考えられずにマザコン的な無責任になったり、わけすぎてその共通項を見いだせずに孤立したり、エゴになったり・・・そういう状態に陥ってしまうように思うのです。

 

中道論10●風説維摩経3


 

さて、「維摩経」の第二品の「方便品」では、やっとこさ維摩が登場するのですが、ここでは、実際に登場するのではなく、維摩とはこんな人ですよ、という人物紹介がなされています。人徳のある人だという説明などもありますが、そういうのを紹介してもつまらないので、肝心なところを二つばかり。

  資材無量(しざいむりょう)にして、諸(もろもろ)の貧民を摂し、

  奉戒清浄(ぶかいしょうじょう)にして、諸の毀禁(きごん)を摂し、

  忍調(にんじょう)の行を以て諸の恚怒(いかり)を摂し、

  大精進を以て諸の懈怠(けたい)を摂し、

  一心禅寂(いっしんぜんじゃく)にして諸の乱意(らんい)を摂し、

  決定(けつじょう)の慧(え)を以て諸の無智を摂す。  

財産がたくさんあって、貧しい人をサポートする。いかなる破戒行為をしてもそれで汚れるということはない。怒りは堪え忍びによって、怠慢も努力によって克服する。乱れた心も静めるだけの瞑想的な状態にあり、明晰な叡智で無智を覆いつくす。 

とまあ、すごい人なわけです。このすごさは、通常の仏教者の限界を簡単に超えていくものです。維摩は在家にありますから、自分だけが山の中になどこもって、環境を整えて心を乱さないようにするとかいうのとは根本的に異なっています。

お金が執着になるからいけないとか、汚れるから破戒行為はだめだとか、そういうことはない。そうしたもので堕落してしまうという恐れから、仏教修行者は隔離された状況で修行するなどとというきわめて不自然なことになってしまっているのであって、いかなる環境にあっても、それを堕落の要因にしないのであれば、どこにいてもいいわけです。環境への依存を高めてしまうことこそ、問題になる。 

環境に依存しなければ、お金もさまざまな欲も、それそのものが清浄なものになっていきます。お金が悪いわけではない。欲望が悪いわけではない。悪くなるとしたら、それを使う心のあり方こそが問題なわけです。つまり、いかに隔離された状態で修行していても、そうした心の足腰を鍛えていなければ、そんな修行は無意味だといえるのです。 

  諸(もろもろ)の婬舎(いんしゃ)に入りては欲の過(あやまち)を示し、

  諸の酒肆(さかば)に入りて能(よ)く其(そ)の志を立つ。

だから、維摩は、女郎屋や歓楽街にも行くし、酒場にも行く。他のところでは、賭博場にさえ行ったということが書かれています。通常は、そうしたところに近づかないのが修行だとされますが、維摩の場合はそうではなく、進んでそういうところに出かけていくわけです。

どこに行っても、それで心乱すとかいうことがないからこそ、そういうことができ、そこでもその「欲」についてその間違ったあり方を諭すことができるのです。酒を飲んじゃだめだというのは、酒に飲まれるからですから、いかに飲んでも飲まれなければ問題ない。

こういうような維摩の境地になるのはとても難しいというかほとんど無理だともいえるわけですが、少なくとも、こうした維摩のあり方からは学ぶものがたくさんあると思います。

人はすぐに環境が悪いからできない、環境のせいでこうなった。そういうことで、自分の心の弱さをなんとかするのではなく、それを棚に上げて、その環境のほうを先になんとかしようとします。そこから逃避したり、弱者と称する団体が環境を告発したり・・・。もちろん、環境の問題を解決しようとする努力は必要なことですが、それはそれとして、自分の魂の足腰を強くするということをしないならばどんなに環境をよくしたとしてもそういうのは隔離病棟でしかないわけです。

これは、「中道」というあり方についての重要な視点を提供してくれるポイントです。「なにごともほどほどに」とか「中位がいい」とかいうのはある意味では、一種の逃避にしかならないことは多いと思うのです。そうではなく、いかなる環境にあっても、自らを失わない。つまり、みずからの「中心」を失わないだけの魂のダイナミックな足腰を鍛えていく「道」というのが、「中道」であるといえます。

 

中道論11●風説維摩経4


 

続いて、「維摩経」の第三品「弟子品」にはいります。ここでも、維摩そのものが登場するのではなく、第二品の「弟子品」に続き、さらに深く維摩が紹介されます。 

紹介といっても、維摩が仏の弟子をやりこめたというエピソードを仏の弟子たちが語るという形での紹介で、これがなかなかに面白いわけです。 

まず、最初に、その話の設定について簡単にご説明しておきますと、維摩が病気になったということで、さまざまに見舞客が訪れるのですが、その維摩の病気というのは、病気になったふりをしているだけで、実は見舞客に教えを説くというのが目的でした。しかし、在家の人たちには教えを説くことができたけれども、まだ仏と仏の弟子たちはまだ病気見舞にやってきません。 

で、そうした維摩の意図を知った仏は、十人の弟子たちに維摩を見舞うように言いますが、その誰もが、見舞にはいきたくないといいます。なぜかというと、その弟子たちはかつて維摩にやりこめられたことがあって、それで維摩を苦手としており、行きたいくないというのです。

その弟子たちというのは、舎利弗(しゃりほつ)、大目けん連(だいもくけんれん)、大迦葉(だいかしょう)、須菩提(しゅぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんねん)、阿那律(あなりつ)、優波離(うぱり)、羅ご羅(らごら)、阿難(あなん)ですが、それぞれが、かつて維摩に痛いところを指摘された経験を語るというのが、この「弟子品」です。 

まず、最初に釈迦が維摩の病気見舞いをするように言ったのが舎利弗ですが、舎利弗はそれを辞退します。以下、これまでと同じように、鎌田茂雄「維摩経講話」より、その辞退した経緯などについて。 

舎利弗はかつて静かな森のなかで坐禅をしていた。そこにどこからともなくあの維摩がやってきて、「舎利弗よ、ただ坐っているだけが坐禅ではないのだよ」と言った。(P.82)  

人里離れて、静かな森の中で静かに坐っているのが坐禅なのか?そう維摩は、坐禅の本質について舎利弗に問いかけたのです。つまり、静かなところ以外で、坐禅はできないというのか、ということです。

本当の坐禅について、維摩は舎利弗に説きます。 

  三界において身意を現ぜず 

つまり、あれがいい、これがいいというふうに、選り好みをしないというのが本当の坐禅だというのです。そういう意味では、静かな場所でしか坐禅ができないというのは、その「選り好み」でしかありません。どんな場所でも、心を静めることができてこその坐禅なわけです。 

さらに、維摩は説きます。 

  滅定(めつじょう)を起たずしてもろもろの意義を現ずる  

滅定とは、滅尽定(めつじんじょう)ということで、心のなかにまったく塵垢、汚れのなくなった状態をいうのだそうですが、これを理想としていたのが舎利弗で、それを維摩は突いたのです。 

しかし維摩はお前さんのように山林に逃避して、心に塵垢を少しもとどめず、自分だけ静かに坐禅をしてもそれは死禅にすぎないと説く。どんなに心の中に塵垢がなくなっても、さまざまな世俗の事の真只中に生きねばならない。たんなる逃避の坐禅ではなく、人々とともにこの汚辱の真只中に生きる坐禅でなければ、死んだ坐禅にすぎないと喝破する。(P.82) 

「出家」を悟りに不可欠であるかのように説くあり方というのも死んだ坐禅をしながら、それに気づかないのと同じで、逃避にすぎません。自分だけ汚れなければそれでいいのか、というわけです。 

さらに、 

  道法を捨てずして凡夫の事を現ずる  

道法とは、聖人の法ということですが、それを実践しながら、同時に、世俗的な凡夫の事もまた行なうのでなければならないといいます。つまり、聖と俗を区別し、俗から離れて聖なる道を歩むということを誡めたということです。早い話、普通の人のことをわからないで、どうしようというのかということで聖なる道への探求は、俗のなかで歩むことによってこそ真の道だということです。 

最後に、 

  煩悩を断ぜずして涅槃に入る  

煩悩を断つというのが、悟りだというのはとんでもないことで、煩悩と涅槃とを区別するようなあり方こそが、ある意味では魔境だといえます。煩悩のうちにありながら、そこに涅槃をみていくありかた。煩悩と涅槃との「不二」を生きるあり方。それが、本来の坐禅でなければならないというのです。 

中道ということは、煩悩と涅槃の間にあるものではなく、その「不二」にこそ見出さねばならない。そのことを、この舎利弗への批判は典型的に表わしていると思います。

さて、次回からは、舎利弗に続いて、他の方々への維摩の批判のなかから、(全部をとりあげるというのは、くどくなってしまいますので^^;)幾人かをとりあげてみることにします。

  

中道論12●風説維摩経5


 

今、「維摩経」についてあれこれ書いていますが、これが終わったら、少し前にさわりだけをお話しした、中道としてのキリストの道について、現在、読み進めている

シュタイナーの講義集からご紹介していきたいと考えています。実は、この「中道論」は、最初にお話した「三諦円融」を機軸とした魂のあくなき成長のための道ということと、それに関連させて人類進化の道としての真の「キリスト」の道を、「中道」として描いていくのが眼目だったのですが、そこに行くまでに、少しばかり、仏教的な「不二」と「中道」について現在、寄り道しているのでした。 

さて、前回は、維摩が仏の弟子をやりこめたというエピソードのうち舎利弗についてご紹介しましたが、その他の弟子達のエピソードについて今回は、まとめて駆け足でご紹介してみたいと思います。今回も、参照するのは、鎌田茂雄「維摩経講話」(講談社学術文庫)です。

まず、大迦葉(だいかしょう)の例。大迦葉は、衣食住の執着から自由になる行である頭陀行第一といわれた釈迦のでしです。 

大迦葉は、貧乏人のいる街で乞食(こつじき)をしていた。そこへ維摩がやってきた。「お前さんは富者の処へ乞食に行かずに、貧者の処にばかり行くのは、平等の慈悲心がないからではないか」と言った。維摩が言うには、乞食というのは平等の真理にもとづいて行なうものだと。(P88)

要するに、富者と貧者というふうに分けて考えるのは、平等ではないと。衣食住の執着から自由になるためのはずの乞食が、その差別のために、むしろそれを強化してしまうことになるわけです。

これが邪な考え、これが正しい真理だと差別し、邪な考えを捨てて正しい真理を知ることは、普通の常識でいえば正しいことかもしれないが、それは倫理の領域でいうことだ。宗教的世界においては邪を捨て正を取るのではない。邪もなく、正もない霊性界に生きることになる。実相=仏教の真理そのものに邪正はない。邪正は心によっておこるにすぎない。心が邪であれば一切のものが邪となるし、心が正しければ一切のものが正となる。 

正邪にしても、邪を捨てた正、正を捨てた邪というのは、その差別ゆえに、その二項対立を強化してしまうことになります。また、正と邪というのを実体化してしまうことも問題視されます。正邪というあらわれは、心のあり方を反映するものでしかないというのです。 

続いて、須菩提(しゅぼだい)の例。須菩提は空の理を深く体得した弟子として描かれます。須菩提は、あるとき維摩の家に行き、食を乞うたことがあったのですが、そのときに、維摩は須菩提に、こう言うのです。 

お前さんは食を取ることも空、諸法もまた空であることを知らないのではないか(中略)。食を取るには大乗仏教の真理を知ってからにしなければならぬ。(P90)  

なんだか屁理屈のようにも思えますが、そのいわんとしていることは非常に重要なことです。維摩は言うのです。 

もし須菩提、婬・怒・痴を断ぜず、またともに倶ならず。身を壊せずしてしかも一相にしたがい、痴愛を滅せずして明脱をおこし、五逆の相をもって、しかも解脱をえ、また解せず縛あえず、四諦を見ず、四諦を見るにあらず。果を得るにあらず、凡夫にあらず、凡夫の法を離るるにあらず、聖人にあらず、聖人にあらず、聖人にあらざるにあらず。一切の法を成就すといえども、しかも諸法の相を離るれば、すなわち食をとるべし。  

まず、婬は性欲、怒は怒り、痴は愚痴ですが、通常はこれを断ぜよ!といいますが、維摩はそれではだめで、この婬・怒・痴といっしょにいなければならないといいます。「痴愛を滅せずして明脱をおこし」というのは、性欲、愛欲をなくすというのではなく、しかもそれに執着するなということ。まあ、そんな感じで、悪魔さえ遠ざけてはならないとまで言います。

外道や悪魔にも身を売らなければならぬ。悪魔になりさがって、悪魔の真相をみるとき、悪魔もまた雲散霧消する。仏の中に入って仏の実相をみれば、仏もまた無相なることを知る。悪魔も仏もその本質においてはまったく変わることはない。悪魔も無相、仏も無相にほかならない。維摩は須菩提に告げた。六師外道を先生として、彼らの堕ち行く先までお前さんも一緒に堕ちてゆきなさいと。仏教はきれいごとを説く宗教ではない。すべてのものが滅んでゆく中に、真に生きる生命力を見いだすのが仏教である。維摩はそのことをよくよく知っていた。須菩提には悪魔が理解できないのであった。須菩提がとらえた仏は真の仏ではなく、悪魔の化身にすぎなかった。(P92)  

「悪魔に身を売れ」なんて、すさまじいことを言うものですが^^;、よくよく考えてみると、何が間違っているのかをわかないままに、「これは善だ」と信じ込んでそれだけをやっているということほど独善的なことはないわけです。

通常はそこから遠ざかれといわれているものから遠ざかってはならず、それとともにありながら、それから自由であること。遠ざかっていては、それが理解できるわけもなく、きれいごとの上塗りになってしまうだけです。そこから自由であるためには、それを深く理解することが不可欠で、それがわからなければ、「食」をとる資格はないと維摩は須菩提に言ったわけです。 

最後に、優波離(うぱり)の例。優波離は、戒律を守ることにかけては一番という弟子です。 

昔、二人の比丘が戒律を破った。仏のところへ行くのは恐ろしいので優波離のところへ来た。そして自分に「優波離よ、私たちは戒律を犯しました。(中略)どうかお願いですから、私たちの悔恨を解いて、その罪から免れさしてください」と言った。そこで自分は戒律にもとづいて、衆僧の前で懺悔するようにすすめた。そのとき、維摩が来てこう言った。「優波離よ、重ねて二比丘の罪を増すことなかれ。当にただちに除滅すべし」と。お前さんのやり方は罪を清めるどころか、かえって、罪を深めさせているではないか。この場合は何も言わずに、二人に対して、お前さんたちの罪はとっくに消滅したよ、と言えばいいのだ。(P95-96) 

これはなんだか維摩が戒律を破った二人の比丘を甘やかしているようですが決してそうではありません。優波離が戒律主義に陥って、戒律を犯す罪というのを実体視してしまったのを罪は、心が汚れているがゆえに罪なのであって、心が清まれば、罪は消え去ってしまうのだと維摩は言うのです。二人の比丘は罪を悔いて優波離のところにやってきたわけで、その時点で、その心はすでに清められているわけです。なのに、優波離は罪を実体視して、実体視した罪を二人の比丘にもう一度投げかけてしまったことになるのです。 

以上、維摩が仏の弟子をやりこめたというエピソードをピックアップしてご紹介したわけですが、維摩は、一貫して「二」を否定します。悪を排除した善、邪を排除した正、穢れを排除した清らかさ・・・。それを維摩は「不二法門」として、経のなかで一貫して説いているわけです。

次回からは、この維摩経のそうした「不二」の考え方を典型的に説いていると思われる箇所をピックアップしながら、その「不二」についての理解を深めていきたいと考えています。

 

中道論13●風説維摩経6


前回までは、仏が弟子達を維摩の病気見舞いに行かせようとしたが、弟子達はこれまで維摩にやりこめられたということから辞退をしたということ、そしてそのエピソードをいくつか、「弟子品」からご紹介しました。 

この「弟子品」に続いては、今度は仏が菩薩達を見舞いにいかせようとする「菩薩品」というのが続きますが、菩薩達もこれまで維摩にやりこめられたということから辞退をします。弥勒菩薩、光厳童子、持世菩薩、善徳長者の四人です。そこらへんのエピソードも面白いのですが、ここでは残念ながら省略します。 

さて、弟子達も菩薩達も見舞いに行こうとしないので、今度は、仏は文殊菩薩を見舞いに行かせます。それが「問疾品」です。文殊はそれを承知したので、その文殊の後を弟子達や菩薩達もついていき、その見舞いの様子を見ようとします。もちろん、維摩の病気は、通常の病気なのではありません。

維摩は言います。 

  痴より愛あり、則ち我が病い生ず。

  一切衆生病めるを以てこのゆえに我れ病む。 

維摩の病は「痴」、つまり、無明であり、それが「愛」、つまり執着である渇愛による病です。もちろん、それは維摩自身が無明であり執着しているから病だというのではなくて一切の衆生が無明であり執着しているという病をもっているがゆえに、維摩もその一切衆生の病を引き受けて病んでいるということです。ということは、維摩の病を癒すためには、一切衆生の無明と執着の病を治さなければならないということになります。これが、まさに大乗という考え方であり、弥陀の本願ということでもあります。 

「問疾品」に続いては、維摩が「不可思議解脱」について説く「不思議品」です。「不可思議解脱」というのは、不思議な解脱という意味なのではなく、分別、はからいを超えた境地という意味です。

この「不思議品」からいくつかのポイントをピックアップしてみましょう。  

  夫(そ)れ法を求むる者は仏に著(じゃく)して求めず、

  法に著して求めず、衆に著して求めず  

通常、仏教では、「仏法僧という三宝に帰依せよ」と言いますが、そのどれにも執着してはならないというのです。さらに、仏教でいう四諦、つまり苦集滅道も求めてはならないと維摩は言います。

これは、通常の仏教の教えに真っ向から対立しているように見えます。しかし、本来の意味から言って、執着を脱するのが仏教の教えですから、三宝や四諦によっかかって執着することは誡められねばならないはずです。仏法僧も方便であり、四諦も方便に過ぎません。方便にすぎないものに執着してはならないわけです。 

もちろん、通常の仏教ではそこまで言っちゃおしまいよ!ですけど、維摩経では、いささかの方便さえも許しません。「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ!」の臨済に近いものがあります。 

さて、この「不思議品」で特にぼくの注目している部分は、悪魔に関するところです。 

維摩は大迦葉に言った。「大迦葉よ、あらゆる世界の中で魔王となっている者は、大部分が不可思議解脱に住んでいる菩薩です。その菩薩が衆生を教化しようと思って魔王に化けているのです。」と。(P159)  

「不可思議解脱」に住する菩薩は、悪魔を決して嫌わないばかりか、自ら魔王となって衆生に近づく。悪魔は本当の悪魔ではなく、じつは菩薩の化身であるという。維摩の説くことは常識とはまったく逆である。維摩の説く悪魔は、方便でその人に近づき、その人を試そうとする。あるいはその人の心をより堅固にするために、悪魔の姿になってその人の道力を深めようとする。「不可思議解脱」に住する菩薩は、本当の魔王が近づいてきてもけっして誘惑されることがない。それは悪魔を拒否しないからである。悪魔の魔性を骨抜きにできる道力をもっているかれである。「仏界入りやすく、魔界入りがたし」という言葉があるが、まさしく『維摩経』の「不思議品」で説かれる菩薩は、入りがたき魔界にも自由自在に入ることができる。(P161) 

すべての悪魔が菩薩であるというのではもちろんなく、「不可思議解脱」つまり、はからいや分別を超えた世界に住する菩薩であれば、悪魔であることさえできるということなわけです。しかも、まさに悪魔と同じことをして人を試したりもする。そして、それは衆生にとって重要なことでもあるというのです。 

こんなことをいうと、維摩経というのはとんでもない教えだというふうに、性急で短絡的な人は思いこんでしまうのでしょうが、人が成長するためには、それなりの課題を与えながら、それをクリアしていくことが必要です。「不可思議解脱」に住する菩薩は、あえてそのハードルの役目を負って、衆生をひとつひとつ着実に成長させていっているというわけです。 

いつもいつも「仲良しこよし」で、何があっても「いいんだよ、辛かったろうね、よしよし」では、参加者は、学びあうということができなくなります。そういう意味では、あえて言いにくいことも言わなければなりませんし、忌憚ない意見も率直に言っていかなければなりません。 

で、そういうことをもっとおしすすめていくと、あえて悪役になってその学びの材料を提供する、そうした「不可思議解脱」に住する菩薩の必要性が理解できるかと思います。これは、言うは易しですが、なかなかできるものではないですよね。

ううむ、なかなか「不二法門」までいきませんが、次回には、そこまでたどり着いて、そこから学ぶ「中道」について整理してみたいと思います。

 

中道論14●風説維摩経7


さて、続いては「観衆生品」です。この中からは、とってもおもしろい、天女と舎利弗との問答をご紹介することにします。 

維摩の部屋に一人の天女が現われ、菩薩達や弟子達の上に、天の花びらをまき散らします。 

ここに不思議なことはおこった。散らされた花びらが菩薩の身体にふれた。花びらはただちに地上に落ちた。散らされた花びらが舎利弗などの大弟子の身体にふれた。花びらは大弟子たちの着物や身体に付着して、どうしても離れることがない。花びらが衣服についているのは美しい。しかしまったく離れないのも異様である。大弟子たちがどんなに花びらを取りさろうとしても花びらは離れない。そこで天女は舎利弗に言った。「舎利弗さん、なぜ花びらを取ろうとするのですか」と。すると舎利弗が答えた。「この花びらは法にかなわない花びらであるから取ろうと思っているのです」と。小乗仏教では香華を身体につけることは戒律に反するとされている。身体を飾ることは異性を誘惑することになるからだ。(中略)すると天女が長口舌をふるって説法した。「この花びらを戒律にかなわないものとしてはいけません。なぜかというと、この花びらには分別はありません。あなたが自分で分別の想念を生んだのです。(P172) 

修行を「修行のための修行」ということで自己目的化してしまうと、「花びら」さえも、「法にかなわない」というふうにとらえてしまいかねません。そこでは、何のための「戒律」なのかということがわからなくなっていて、戒律そのものに意味があるかのようにそれが実体化してしまうわけです。 

こうしたことは、「修行」ということだけではなく、私たちの日常生活で「道徳」だとか「ルール」だとかいうことについてもいえることで「なぜそうなのか、そうしなければならないのか」がわからないままに「そういうのものだ」ということで、自己目的化されていることは多いものです。ちゃんと考えてみればおかしなことでも、「そういうものだ」から、そうでないほうがおかしいということになってしまうわけです。学校での規則などでも、わけのわからない規則ばかりですよね。(私はこれで、学校が大嫌いになりました^^;) 

「戒律」は、それが「戒律」であるための意味があり、「道徳」や「ルール」は、それが「道徳」や「ルール」であるための意味があります。「戒律」や「道徳」、「ルール」そのものに「分別」があるのではなく、それを行使する者が、それぞれの「分別」でそれをつくったわけです。そのことにちゃんと意識的にならないと、自分の「分別」を絶対化してしまってそれに対する別の視点というのがわからなくなってしまいます。多くは、その「分別」というのは、どこか外からある種の権威のように作用していて「それは権威だから正しい」ということになってしまいます。

さて、その後も、舎利弗は、小乗ではなくて大乗だということに関して天女にさまざまに諭されてしまいます。舎利弗はそれを快く思わなかったようで、天女に次のように質問します。 

  「あなたはなぜ女身を転じて男にならないのですか」(P179)  

それに対して天女は次のように言います。 

  「私は十二年以来、女人の相を求めているが、まだそれを得ることができませ

  ん。どうして転ずる必要がありましょう。たとえば幻術師が幻の女を仮に作っ

  たようなものです。それに女身を転じて男にならないのか、と質問するような

  人がはたして正しい人でしょうか」と。(P179) 

仏教では「女人成仏」ということについてのあれこれの話もありますが、基本的に、女人は女人のままでは悟れないというようなわけのわからない話があったりするように、ぼくは記憶してます。この「維摩経」あたりは、そこらへんなんか、軽く笑い飛ばします。男だとか女だとかいう「分別」は無意味だというわけです。もちろん、男女の特性の違いがないわけではないですが、そうした違いと男女の実体化というのはまったく別のことです。 

舎利弗は、男女を実体化してそれをみずからの「分別」でみていた。だから、天女にその点を鋭く指摘されたわけです。ま、仏教の修行者というのは、禁欲を絵に描いたようなもので、それが弱さになっているというところがあるんですよね。だからこそ、それがすごい執着になって、逆に好色になっていく^^;。「饅頭恐い」で食べてしまえばいいのに^^;。 

この先が特にすごく面白いのですが、神通力をそなえた天女は、舎利弗を女人にしてしまいます。 

女身に身を転じた舎利弗に対して天女は言った。「あなたはなぜ女身を転じて男にならないのですか」と。天女は舎利弗に逆襲を加えた。舎利弗は驚いた。自分が知らないうちに女身に変えられたのであったから。すかさず天女は言った。「舎利弗さん、あなたがもしよく女身を転じて男になれるのなら、どんな女もそのようにするでしょう。あなたは女身を現わしていても、女ではないのです。だから仏は一切のものを男でも女でもないとお説きになったのですと。(P180)   

しかし、いちばんこだわっているものに、自分がなってしまうというのはすごく面白い発想ですよね。自分が一番避けたいもの、嫌っているもの・・・、そうしたことというのは、実は、それに執着しているということなわけで、執着していなければ、それに対して過剰反応する必要はないですし、すべてに「分別」をもちこまないで、ありのままに見ることができますし、また何があっても臨機応変に対処することができるはずです。 

もちろん、そういうことはとっても難しいのですが、だからこそ、「嫌いでも理解、好きならもっと理解」ということで、無理解がゆえの執着という罠から自由になる必要があるのだと思うのです。

さて、「観衆生品」をご紹介しましたが、次回は「仏道品」〜「入不二法門品」へと進み、まさに「中道」の考え方そのものである「不二」ということについてその核心の部分を見ていくことにします。

 

中道論15●風説維摩経8


さて、続いて「仏道品」に入ります。この「仏道品」は、「仏道とは何か」ということをめぐって、維摩と文殊菩薩とが議論していくという設定になっています。

まず、文殊菩薩が維摩に「菩薩はどうして仏道に通達するか」を聞きますと、維摩は「もし菩薩は非道の中を行けば仏道に通達する」と答えます。さらに文殊は「菩薩が非道の中を行くとはどういう意味であるか」を問うと維摩は、「もし菩薩は五無間に行くとしても、悩みも恚りもなく、地獄に行っても罪や垢れがなく、畜生道に行っても無明と驕慢などの過がなく…」という感じで答えていきます。 

ふつうだと、「仏道とはどうあるべきか」と問えば、「正しき道を歩め。正しき道とはこれこれこういう道である。」こういうふうに答えるのが常識的な在り方ですが、ここでは、「非道の中を行く」ことを説くわけで、外的な戒律によって、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と事細かく縛って修行させるのとはまったく発想を逆にしています。

ほんとうに、恐ろしい修行の仕方を説いていて、驚くばかりですが、よくよく考えてみると、外的環境を制限することで得られることは、隔離病棟のなかで辛うじて病が進まないようにしている状態に比較することができるように思います。もちろん、それが必要な場合もあることは確かですが、その隔離病棟を本来の修行の場だと思いこんでしまう勘違いはこれほどおそろしい勘違いはないのだともいえます(^^;)。 

真に「正しき道」である「八正道」というのは、隔離病棟としての「八正道」なのではなく、過酷な環境にありながらも、みずからの自由意志によって、その歩むべき道を見失わないものでなければならないということなのだと思います。

ちょうど「いか超」の読書会で、「内的平静」についての行について少しご紹介したところですけど、その行も、日常的な環境にあっても、そこでみずからを失わず、高次の自己を見いだすためのものです。 

さらにその「非道を行じる」ことがどういうことかを説明するための問答が展開されていきます。 

まず維摩が聞いた。「何を如来の種としますか」と。これに対して文殊師利は答えた。「有心を種とし、無明、有愛を種とし、貪、瞋、痴を種とし、四顛倒を種とし、五蓋を種とし、六入を種とし、七識処を種とし、八邪法を種とし、九悩処を種とし、十不善道を種とします。一言でいうと六十二見や、一切煩悩がみな仏の種になります」と。(P188) 

隔離病棟では、患者にふさわしい病人用の食事や薬が与えられ、それによって患者はなんとかその身を保っていくわけですが、真の在り方としては、やはり、そうした「特別食」や「薬」ではなく、世にある「毒」までをふくんだすべてを滋養にしていく必要があります。 

まあ、ここでは、これでもか、これでもか、という感じで、「有心」「無明」「有愛」「貪、瞋、痴」「四顛倒」「五蓋」「六入」「七識処」「八邪法」「九悩処」「十不善道」と、よくもよくも並べ立てたものですが、こうしたすべてを排除せよというのではなく、これらすべてが「種」になる!あらゆる偏見や煩悩こそが「仏の種」になる!というわけです。

つまり、端的にいうと、「悪」こそが「善」の種になるということになります。仏道も高次の段階の行でいうと、ここまでこなければ嘘だというわけです。もちろん、そういう「悪」になりなさいということではなく、その「悪」とともにありながら、その「悪」にとらわれず、しかもそれを「種」として、それを変容させ、「花」を咲かせ、「実り」にしていきなさいということです。

さらにいうと、菩薩とは、衆生を救うためなら、たとえ地獄の中にさえもその身を捨てるのだといいうのです。  

  火中に蓮華を生ずるは、是れ希有なりと謂いつべし。(P197)  

「火中に蓮華を生ずる」というのは、よく聞く言葉ですが、自分だけを純粋に保って、悟った気になるのが菩薩なのではなく、世の最も汚れた中にまで降りて行って、そこを変容させるのが菩薩です。

ま、言うは易しですが、これはほんとうに難しいテーマです。火事の時に、炎の燃え盛るなか、炎のなかにいる人を救出するような、そんな困難なことなんですよね。

しかも、その火中にある人は、自分が火中にいることを知らなかったりするわけでそれこそその「無明」の人を相手に、その人の手を引いて、そこから救出してこなければならないんです。悪くすれば、自分もその炎に焼かれて死んでしまいかねない役目です。

ちなみに、この話は、法華経の「譬喩品」の有名な「火宅の喩え」のイメージです。一応、参考までにそれをご紹介しておくことにします。 

ある長者の家に火事が起こって、しだいに燃え広がっていった。家は焼け落ちようとしているのに、長者の子供たちは家の中で遊びに夢中になっていて逃げようとはしない。長者が「早く外に出よ」と言っても耳に入らない。そこで長者は一計を案じた。子供たちに向かって「家の外に美しい車があるから、早く出てきて、取りなさい」と言った。子供たちは争って門の外に出たので、火に焼かれることを免れることができた。

  (鎌田茂雄「法華経を読む」(講談社学術文庫 P69) 

さて、さらに維摩はその身を自由自在に現わしながら、衆生を救うことを説きます。  

あるときは現じて淫女となりて、諸の好色の者を引き、先づ欲の鉤(かぎ)をもって牽(ひ)きて、のち仏道に入らしむ。(P199) 

これこそ、みずから身をもって「方便」を使いながら、炎の外に導いていく菩薩の在り方ですが、こうした「方便」を使うためには、そうした「色」や「欲」を体現できるほどに理解していなければならないわけで、こういうのを読むと、きわめて高度な仏教の考え方だと、ほんとうに感心ばかりしてしまいます。  

さて、次回はいよいよ、維摩経の核心である「入不二法門品」に入ります。

 

中道論16●風説維摩経9


久々の中道論ですが(^^;、今回は、いよいよ「入不二法門品」に入ります。ここでは、菩薩たちが「不二法門」を解きあかしていきます。

この「不二」とは簡単にいえばどういうことかというと、生と死、善と悪、是と非、美と醜、長と短といった対立しているかのように見えることが、「不二」であるというのですが、それは知性的な「分別」の見方であって、「無分別」の世界においては、その「二」が「不二」となっていくということです。

しかし、その「不二」を「一」であることであるととらえてしまうと間違いで、あくまでも「二」としての矛盾、対立する現われとその統合という視点を忘れてはならないのだと思います。

この「不二」ということは、「中観」から「天台」への奔流において、まさに中核となる観点ですので、これを理解すれば、仏教理解としては、おそらくかなり進んでくるとは思うのですが、仏教理解を超えて、さらにこの「不二」をダイナミックなものとしてとらえていくことをここでは忘れないようにしておきたいと思います。

つまり、二元対立的な様相を、ただただ、無明故にそう見えるのだととらえるのではなく、なぜこの世ではその「二」という現われが出てくるように見えるのか、そしてその「二」を「不二」として看破するということが重要なのかということを宇宙進化のプロセスにおいて重要なことであると捉えていくことを忘れないようにしたいということです。「二」が「二」として現われることの意味を否定的にだけとらえないということです。「不二」は「最初に不二ありき」ではなく、「一」が「二」となり、その「二」が「不二」となるということが重要なわけですから。

たとえば、主観と客観の対立という「二」があります。主観という現われと客観という現われが対立しているように見えるのは、その両者が切り離されたものとしてとらえられているからで、その実、主観と客観というのは、同じ「場」の別の働きとしてとらえることができるように思います。

ここに私がいて、そして世界があるということは、世界の中に私という働きがあり、また世界にとっては、その自己認識の中核として私があるといえます。主観しかないとか、客観しかないということでも、両者が相対しているというのでもなくて、その二つのあり方が方便としてあらわれているかに見えながら、その実、それは同じ「場」における働きだととらえられるわけです。

さて、菩薩たちが「不二」について解きあかしている主なものを具体的に見ていくことにしますが、菩薩の名前は煩雑なので省略して、どういう「二」を「不二」として説いているのかの主なものをまとめてご紹介することにします。 

「生と滅」、「我と我所」、「受と不受」「垢と浄」、「動と念」、

「菩薩心と声聞心」、「善と不善」、「罪と福」、「有為と無為」、

「世間と出世間」、「生死と涅槃」、「尽と不尽」、「我と無我」、

「明と無明」、「身と滅身」、「主と客」、「取と捨」、「闇と明」、

「涅槃と世間」、「正道と邪道」、「実と不実」 

こうしたすべての「二」が「不二」であることについて説かれていきます。 こうした、すべての「二」として見える現われをそのまま「二」として分別的に見ていくことでは、世界は分裂したまま統合されることはありません。

しかし、世界は本来「一」なるもののはずで、それを「二」と見てしまうのは無明故のことだというのは簡単なことですけど、まずは「分かる」という言葉にもあるように、物事を対立的にとらえるということはプロセスとして重要なことです。「分かった」上で、その分別智があくまでも方便でしかないことを悟ること。そこに「不二」ということの意味があります。 

それは、子どもが「無分別」な状態から「分別」を獲得することがまずは重要ではあるけれども、まさに現代、その分別智によって自然環境が破壊されていっているように、その「分別」によって世界を分裂させるのではなく、その分別を乗り越え「世界」を統合していくという課題を担っているのと同じです。人間には、今、分別智を獲得することをさらに越えた次の段階の知恵を獲得していくことが急務なわけです。

さて、維摩経の「入不二法門品」に戻りますと、菩薩たちに続いて、文殊師利は次のようにいいます。 

我が意の如くんば、一切の法に於いて言もなく、説もなく、示もなく、識もなく諸の問答を離る。是を不二法門に入ると為すと。  

つまり、不二という真理は、言葉で説明できない、知性を離れ、問答を離れたものであるというわけですが、それに対して、維摩は有名な「一黙」で答えます。ただ黙っているだけだったというのです。文殊は「言葉では説明できない」と「言葉」で言ってしまったが、そのことを維摩はまさに黙することで表わしたということができます。この「維摩の一黙」については、維摩の存在そのものが「不二」を体現しているのだとかいうことがあれこれいわれたりもしますが、わかりやすくいえば、やはり、こうした「不二」ということを百万言費やして説明したところで不毛であり、それをまさに実践知のなかで体現していくことこそが重要だということなのだと思います。学者のよく陥る議論のための議論というような状態への警鐘を、まさに維摩は身を持って示したということができるのだと思います。 

キリスト教が実践的なあり方を重視するのに比べて、仏教はかなり理屈のために理屈になってしまうきらいがあることがよく言われますが、仏教にはそういうところがあるんですよね、かなり(^^;。まさに、維摩の一黙は、不二の知行合一的な側面を体現しているといえるでしょう。 

知行合一といえば、王陽明ですが、その王陽明には「事上磨錬」という考え方があります。それは、学問するということを日常の生活から離れたものとしてとらえてはならずまさに日常の生活そのものを学問としてとらえなければならないということです。それを「実学」といったりもしますが、実際の生活や仕事は、抽象的な空理空論では成り立たないから、そこにこそ実践としての、知行合一としての学問が成り立つのだということです。

日常生活には、まさにさまざまな「二」が「無明」として現われてきます。日常生活こそがそうした「マーヤ」の塊であるということができます。けれど、そういう「二」の世界において、「不二」を実践していくこと、まさにそこにこそ「二」を「不二」へと統合していく可能性を見いださなければならないというわけです。 

しかし、「二」を「不二」へと統合していく「中」の「道」は、そうした「仮」の世界だけの「道」であってはなりません。この「中道論」の最初に天台大師の「空」「仮」「中」の三諦円融をご説明しましたが、「二」を「不二」に統合していくためには、霊学的なアプローチと日常生活を通じての事上磨錬によるアプローチによってまさに「道」を「大道」としての大きく統合されたあり方が必要です。 

仏教的な中道論には、「空」つまり霊学的なアプローチがどうしても抽象化されてしまうきらいがありますし、もちろん、理屈好きの仏教ですから(^^;、事上磨錬的なアプローチもどうしても抽象化されてしまうきらいもあります。儒教的な中道にも、霊学的なアプローチが欠如しているのはもちろんで、その部分をサポートしていくことが求められますが。 

維摩経についての話は今回でとりあえず終わりますが、この素晴らしい維摩経の視点は、霊学的に深めていく必要性と同時に、陽明学的な事上磨錬の知行合一的なあり方を深めていくことでこそ、生きてくるのだということを最後につけ加えておくことにしたいと思います。 


 

 ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る