わたしたちは日頃、「阿波踊り」があるとか、「白鳥の湖」というバレエ 
      があるとかいう。ところがいったい、「踊り」が「ある」とはどういうこと 
      なのか。まったく当たり前の事柄のようでいて、その実、このことは必ずし 
      も常に明白なわけではない。 
      ・・・ 
       わたしたちはしばしば、「木の葉が舞い落ちる」といったり、「丹頂鶴の 
      華麗な舞」といったりする。わたしたちのなかには、風に吹かれて落下する 
      木の葉の動きを「舞い」といい、優雅な鳥や動物たちの動きを「踊り」とい 
      って格別不思議に思わない感覚が確かにある。ではいったい、木の葉は踊る 
      のだろうか。丹頂鶴のあのおおらかな動きは、舞いなのだろうか。 
      ・・・ 
       「動き」を見つめる眼差しのなかで、そのつど「舞踏」は生まれてくる。 
       ではいったい、みずから「舞い踊る」主体にとって「舞踏」とは何だろう。 
       みずから動く場面で「舞踏」を考える場合でも、「舞踏」の成り立ちは 
      いまの議論と同じ平面で展開する。すなわち、「動き」を「動き」そのも 
      のとして取り出すこと。それ自体完結した事実としての、みずからの「生 
      の軌跡」に出会うこと。そうした場で、わたしたち自身の動きの連なりが、 
      一つの「舞踏」として立ち現われてくる。自覚的に踊るとは、あえて意図 
      的に、わたしたち自身の生の軌跡を日常的意味の枠組みから解き放とうと 
      する営みのことである。踊る人自身、日常的な意味の文脈とは違う舞台の 
      上で、みずからの動きの軌跡を描いていく。 
      (小林正『舞踏論の視覚』青弓社 2004.4.17.発行/P.17-22) 
                 「舞踏」は、「舞踏」という対象があるというよりも、 
          むしろ「動き」を見る視点やそれへの関心のあり方も含みながら成立する。 
        つまり、私たちは、ある「動き」を 
          「踊り」「舞い」であるというふうに見ないとすれば、 
          「木の葉」はただ落ちるだけで「舞い落ちる」ことはないし、 
          「丹頂鶴」もただ羽を動かしていたりするだけで、「華麗な舞い」にはならない。 
        人間の動きも、それはただ「動き」以外の何者でもない。 
          「これは舞踏である」というふうに見ることでそれらは「舞踏」として成立する。 
          そして、私たちの「動き」の連なり、軌跡が「舞踏」として立ち現われてくる。 
          「私は踊っている」「舞っている」ということになる。 
        そうして、「私は踊っている」「舞っている」という自覚のもとに、 
          「動き」は単なる日常的な意味での「動き」ではなくなり、 
          というか、「動き」をその日常の枠組みから解き放とうとして、 
          非日常的な動きとしての「舞踏」が意味づけされ、また組織化され、 
          かつまたその単なる組織化から脱そうとしたりする営為となっていく。 
        そしてそういう「舞踏」が社会的に意味づけられることで、 
          わたしたちは舞台の上で、ある意味「制度化」された「舞踏」を 
          「鑑賞」したりもするようになる。 
        「言葉」が「詩」や「文学」になったり、 
          「音」が「音楽」になったりするのも同様で、 
          わたしたちはそれらを「詩である」「文学である」「音楽である」として、 
          書き、読み、奏で、聞くことではじめてそれらは成立することが可能になる。 
        そしてそれら「詩」や「文学」や「音楽」が、 
          それぞれの形式を載せたさまざまなメディアに載せられて 
          (もちろんそのなかにはライブ性のあるものも多いが) 
      それらを「対象」として「鑑賞」することになる。  |