「舞踏論の視覚」ノート 2

最後の踊り
2006.4.13

「呪術師ドン・ファンはカスタネダに向かってこう語りかける。
「この場所はおまえのものだ……。おまえの最後の場所だ。」
「おまえの最後の踊りの場所となるだろう。」
・・・

  最後に、地上での自分の生が終わるある日、自分の死が左肩をたたく
  ような感じのするある日、いつも準備万端になっているそいつの精神
  がそのお気にいりの場所へ飛んで行って、戦死はそこで死ぬまで踊る
  んだ。
  ・・・
  力を狩る者はだれでも、その踊りを学ばにゃならん。(略)新しい動
  きは、力の苦闘のあいだに獲得するんだ。だから、ちゃんといえば、
  姿勢、つまり戦士の型は、そいつの生活の物語なのさ、自分の力をふ
  やすと同時に、踊りもふえてゆくんだ。

一人ひとりの違った生き様が、一人ひとりの独自の軌跡を描いていく。
「それぞれの戦士は自分の型、自分の力の姿勢をもっとって、奴は一生か
けてそれを発展させる。(略)戦士の型は、そいつの生活の物語なのさ」。
そう老シャーマンが語ったとき、彼が意味したのもまた、どこかで自分が
考える「踊り」に通じていたのだろうか。
 それにしても、一人ひとりの生の全体を集約する「最後の踊り」とは、
なんと鮮烈なヴィジョンだろう。しかも、なんと静かな光景なのだろう。
 大地に一人立ち、ひたすら無言で踊る姿を思い浮かべてみる。一人ひと
りのまったく独自な軌跡を描きながら、しかしその姿は、いっそう大きな
背景のなかに沈み込んでいく。個々の存在の個別性を超えて、より大きな
全体のなかに同化していく。
(小林正『舞踏論の視覚』青弓社 /P.7-10)

一生涯において人の描く動きの軌跡は、他の誰とも比べることさえできないだろう。
その動きのひとつひとつは、いかに陳腐でとりたててどうというものではない としても、
どんなひとも、一生涯、その動きの軌跡で、
この地上に独自の立体絵画を描いているのは間違いない。

その生涯の動きの軌跡の立体絵画を
それぞれの生涯において分節化することも可能である。

生まれて、おぎゃーと泣き叫ぶときの軌跡。
はじめて歩き始めたときの軌跡。
はじめて泳いだとき、自転車に乗ったときの軌跡もあるだろう。
はじめて恋人とともに歩いたときの軌跡、
また深い病のなかで体験せざるを得なかった軌跡。
歓び、怒り、悲しみ、笑いなどによってつくられる軌跡。

そうした軌跡は、まったくその人だけのものではあるのだけれど、
おそらくその立体絵画にはその人なりの「型」が表現されているだろう。
もちろんまったく洗練されていないものから、
いわば「戦士」がみずからの「力」の充実とともに鍛えあげてゆく「型」まで。

そうして人は、死を迎えるにあたって、最後の立体絵画を描く。
まして、その「最後の踊り」をするべく、
そのなかに「生の全体を集約」しようという意図のもとになされる踊りは、
まったく独自であるとともに、むしろ「個々の存在の個別性を超え」た
ある種の叡智が集約されたものとなるのではないかと想像される。

そうした宇宙において光を放っているであろう踊りの軌跡を目にすることで、
人はそのなかに踊りの宇宙への感動をわがものにすることになるのかもしれない。
そこにかぎりなき羨望をも交えながら。

ある舞踏家がそこに静かに立っているだけで感動を禁じ得ないというのも、
そこにその舞踏家だけに可能であると同時に
そこに普遍的な舞踏が実現されているということなのだろう。