わたしは何か「舞踏」と呼ばれる、ほかとは違った特別な行為があるのだ 
      というふうに考えているわけではない。舞踏とは、何か固定的な対象とし 
      て捉えられるようなものではなく、むしろ、人間の、あるいは何かの動き 
      を捉えるこちら側の眼差しに深く関わるような概念であるとわたしは理解 
      している。日常生活のなかでは意味や効用の文脈にかすめとられてしまっ 
      ている、一つひとつの行為そのものに注目する。そのとき、生を織りなす 
      一瞬一瞬の具体的動きが「動き」それ自体として浮かび上がってくる。そ 
      のような「動き」の現前を、ここでは「舞踏」という言葉で捉えていく。 
      意味からも効用からも独立した、動いて=生きて=あることの現れ。 
      「生きる」とは、不断に一つの「軌跡」を描き続けることにほかならない。 
      とすれば、そうした眼差しのなかでわたしたちは、不断に踊りつづけてい 
      るといえはないだろうか。 
      こんなことに気づいただけで、どこといって普段と変わりもしない自分自 
      身の行為さえ、なんと新鮮に映ったことだろう。 
      パンを食べる。学校に行く。焼き物を作る。 
      「何々をする」といってしまえば普段はそれだけですんでしまうそんなあ 
      りふれた行為ではあるけれど、しかし、どうやって食べるのか、どうやっ 
      て行くのか、どうやって作るのか、そのことこそ大切になってくる。しか 
      も、サンドイッチにしてとか、電車に乗ってとか、薪の窯でとかいうこと 
      以上に、どんな姿でとか、どんなふうにからだを動かしてといったことが、 
      そこでは問われてくる。 
      (小林正『舞踏論の視覚』青弓社 2004.4.17.発行/P.9)
         
        ごくありふれた行為のなかに、その人が表現されているというところがある。 
          行為というのは、四肢を中心とした動きとして表現される。 
          たとえじっとしていても、そのじっとしている形のなかの動きは 
          確かにその人以外のなにものでもないものを表現している。 
        そうした広い意味での動きを「舞踏」としてとらえることもできるだろう。 
        生まれてこの方、私たちは、動きの「軌跡」を描き続けている。 
          もちろんそのほとんどはひどく無意識的なものである。 
          右足を出して左足を出して、というたんなる歩く行為にしても、 
          そんなにいちいち意識していたりはしない。 
          目の前のコップを右手でとりあげてそのなかの水を飲むという行為にしても、 
          その右手の動きに伴った全身の動きや筋肉の動きなどもまずは意識しない。 
          まして、そのコップの水を飲もうと思ったときの 
          最初の視線がそのコップをとらえる動きからの一連の動きなどは、 
          「のどが渇いた・・・」というある種の欲望の前ではひどく自動的である。しかし、たとえば病気でほとんど動けないまま寝込んでしまい 
          衰弱した体の回復したあとに動き始めたり、 
          怪我をしてある場所がまったく動かせなくなってしまった後、 
          治療後、おそるおそる動かし始めたりするときなど、 
          そうした「動き」はひどく新鮮で、 
          それまでほとんど無意識に動かせていたことにむしろ驚かされてしまう。また、それまでまったく経験のなかった動きをはじめたときにも、 
          そのぎこちなさのない「動き」が、 
          多くは、ままならない動きへのいらだちや苦痛とともに、 
          ひどく新鮮なものとして体験される。そうした動きの軌跡に自覚的な意識を持ち込みながら 
          ある種の「型」に基づいて行為を体系化するところから 
          いわゆる狭義の意味での「舞踏」が立ち上ってくることになる。以前から気になっていた、そうした広義、狭義の「舞踏」について、 
          格好のガイドでもある小林正『舞踏論の視覚』を使いながら、 
      これから気長にあれこれ書いてみたいと思っている。 
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