『自分の頭と身体で考える』ノート

(2002.2.28-2002.3.11)

少し前に、甲野善紀・前田英樹『剣の思想』(青土社)について
ノートを少し書いてみたことがある。
その後もここで述べられていたテーマに関して、
おりにふれ考え直してみることもあったが、
先日、甲野善紀さんと養老孟司さんの対談
『自分の頭と身体で考える』(PHP文庫)を見つけ、
あらためてそのテーマをもう少し別の形で考えてみようと思った。

10年以上前に出た『古武術の発見』で、この両者の対談を読んだことがあり、
そこで紹介されている「井桁崩しの原理」に感銘を受けたことを思い出す。
とても面白かったので、ネット(当時、パソコン通信)で話したところ、
あまり理解されなかったのが少し寂しかったのを覚えている。
今回の対談はすでに二年以上前に出されたものの文庫版らしいが、
こんな面白い対談を見逃していたとは……、不覚。

1 根本的に発想を考え直す
2 あるのに見えないもの
3 単線処理と同時並行処理
4 無意識の共同体の縛り

 

『自分の頭と身体で考える』ノート1

根本的に発想を考え直す


2002.2.28

 
         なにしろ人間の身体は機械と違い、動いているところを分解して見る
        わけにはいかないし、身体内部の動きは外から見ただけでは容易にはわ
        からない。従って動きの質を高めるためには、感覚という極めて主観的
        な計測器に頼らざるを得ないが、これは万人それぞれで異なる。そのた
        め、例えば単純な動作をどのくらい早く、あるいは数多く出来るかを調
        べる「基礎体力テスト」などといったものも、動きの質が変わって巧み
        に身体が操れるかどうかでその結果は著しく違ってくる。
        (…)
         このことは「いったい基礎体力とは何か」ということを根本的に考え
        直さなければならないことを示していると思う。つまり、体力テストの
        測定結果が、筋力や心肺機能といったいわゆる体力なのか、それとも身
        体運用法の巧みさなのかの違いが分からないからである。
         そして、もし本当に“科学的”ということに忠実であろうとする者な
        ら、この極めて計測しにくい困難な問題も、いかにしたら取り扱えるか
        と心を砕くべきだと思う。
         しかし、科学界の現実は、論文としてまとめやすいように、限定した
        状況下での研究が殆どのようであり、「根本的なところから発想を考え
        直す」ということは、現在の科学業界ではタブーなようである。
         このことは本書の中でも触れているが、本当にオリジナルな考えや研
        究が体制の中で圧殺される現代社会の構造は、それ自体を根本的に変え
        ない限り、我々を取り巻く閉塞状況は益々悪化の一途を辿るように思う。
        (甲野善紀/P6-7)
 
学校で毎年のように行なわれていた「体力測定」。
これはほんとうに嫌で仕方がなかった。
どうしてそんなことをするのかよくわからないのもあって、
真面目にそういうのにつきあう気にもならなかった。
ゆえに、結果もそう優れたものにもならなかったのだけれど、
山に登ったり海にもぐったり、森を駆けたりするほうになると、
それが好きなのもあって、けっこうすぐれた動きをしていたように思う。
たぶん、運動場に引かれたラインの上をただ走るというような機械的な動作ではなく、
自分にとって気持ちいい動作だからということもあったのだと思う。
それよりなにより、海や山にはそれなりの収穫もあった。
 
ところで、科学と称するものの多くは、
隔離されたなかで限定された単純な因果関係を計測するものであることが多く、
そこで使われる「知覚」もごくごく単純で機械的なものであるのが常である。
そうでないと、「追試」「検証」が可能でない、からなのだけれど、
そういうところに科学と称されるものの貧困があるのではないだろうか。
そこでは、「本当にオリジナルな考えや研究」は、
真剣に「追試」「検証」しようとする努力がないかぎり、
「科学的でない」とされてしまうことになる。
これは、たとえば流行歌とかいうレベルの
みんなが楽しんで聞けるマス対応の音楽だけしか
「音楽的」でないとするようなものだともいえる。
そしてそういう音楽をつくりだす人たちしか「音楽家」として認めない・・・。
 
シュタイナーが『神秘学概論』の最初の
「神秘学の性格」で述べていたことも、
研究対象を一般的に「科学的」だとされていることだけに限定するのではなく、
科学研究をするときに用いられている魂の在り方を
もっと別の領域にまで適応するということだったが、
この引用で述べられていることもこれに通じるところがある。
 
シュタイナーが精神科学的な認識によって
さまざまな科学領域を拡大するということを言っていたように、
そしてそうしなければ、まさに非常に危機的な状況に陥ってしまいかねないように思う。
 
やはり、重要なのは、自分の特権的なものが主張できる
専門領域だけのなかで重箱の隅をつつくのではなく、
「根本的なところから発想を考え直す」
ということが何よりも重要なことなのだ。
 

 

『自分の頭と身体で考える』ノート2

あるのに見えないもの


2002.3.2

 
        養老/目というのは非常に奇妙で「これ見て、これ見てください」と言
        うんです。そうすると、見ようとして目玉を動かしますよね。その時に、
        背景は動いていないでしょ。もし目がテレビカメラと同じだったら、そ
        の時に背景がザーッと動くはずなんです。テレビのカメラマンに言わせ
        ると、素人がテレビカメラを扱うと、見にくくてしょうがないのは、背
        景が動くからだそうです。だからカメラというやつは、できるだけ、本
        当は固定しなければ駄目なんです。ところが、人間の目はよくできてい
        て、周辺視野は固定して、中心視野だけを動かしているんです。誰でも、
        日常的にそれをやっているわけです。
         そうすると、周辺視野は止まっていることから、どういう印象が生ま
        れてくるかというと、「世界は静止している」という印象が出てくる。
        本当は、周辺視野も動いているんだけど、一応、それは止まっているも
        のとして見ているわけです。
         では、なぜ静止しているように見るのか、ということになるのですが、
        皆さんの網膜に自分の血管の姿が映ってるということを、ご存じでしょ
        うか。
         眼科の医者が眼底鏡を覗くと、血管がきれいに見えて、その向こう側
        に神経細胞も、光受容細胞もある。だから、光の来る手前には当然、血
        管があるわけです。でもそれは、見えない。なぜ見えないかというと、
        全く動かないからなんです。
         網膜に完全に動かないように像を当ててやると、つまり1ミクロンも
        ずれないようにして、像を当てておくと、それは見えないんです。目玉
        は動いているから見えているんです。だから、血管の像というのは、止
        まっているから見えないわけです。
         ですから、世界が止まっているというのは、我々の脳が作っている錯
        覚、イメージなんですね。周辺視野のイメージです。それで、中心視野
        は自分で動かしていますから、「これは自分が動かしたんだ」と、いろ
        んな合理化をしているんですね。
        (P32-33)
 
なぜそのように見えているのか。
あらためてこういう示唆があると、
正直、かなりどきりとしてしまうところがある。
 
映像関係の仕事で、カメラをまわしているのを見ていると、
背景が動くと見にくいというのは確かで、
カメラマンはそこらへんのことを考えにいれて撮影している。
カメラで撮影するときには、
「人はどのように見ているのか」、
つまりは、「人はどのように見たがっているのか」に従って、
このように見せたいときの撮影の仕方を工夫する。
それは決して「見たままを撮る」というのではなく、
さまざまな技法がそこには介在することになる。
 
そのことから逆にわかるのは、
人は自分でそれと気づかないままに、
自分で勝手に見たいように見るために
いろんな複雑なことをしている、ということである。
 
上記の引用にもあるように、今回とても驚いたのは、
「網膜に完全に動かないように像を当ててやると」、見えない。
血管の像は止まっているから、見えない。
ということだった。
目は自分でなにもしないがゆえに、
見るという行為が可能になる、と思っていたところがあるのだけれど、
実際のところ、その自分で何もしない、ということは、
ものすごくいろんな難しいことをしているということでもある。
「見ない」ための驚くべきプロセスともいえるだろうか。
 
「見る」ためには、「見ない」ということが必要になるという逆説。
私たちは、いかに何も見ないようにしているか、
ということがそのことからも浮かび上がってくる。
「見たいもの」を私たちはあらかじめ決めていて、
そうでないものは存在しないと思いこまされている。
人はなにかを見るとそれを客観的に存在しているものであるかのように
思いこんでしまうことが多いのだけれど、
実際のところ、それらは多く自分のつくりあげたイメージ世界なのだ。
 
自分は何を見たがっていて、
何を見たがっていないのだろう。
また、自分の理解できる概念でとらえられないものも、
つまり知覚内容があったとしても、
それをどう位置づけていいかわからないときには、
それを「なかったこと」にしてしまうこともある。
そんなことをときおりは考えてみる必要がある。
もちろんいつもそうしていると持たないのだけれど、
思いこみのなかで固まってしまうのも、
ある意味で自分をスポイルしてしまうのではないか。
 

 

 

『自分の頭と身体で考える』ノート3

単線処理と同時並行処理


2002.3.2

 
        甲野/私の場合は身体をバラバラにして、その割った身体を、同時に並
        行処理的に使うわけですが、そういう説明をはじめるとほとんどの人は
        分からなくなってしまうんです。
        養老/なぜなら、時間軸上の単線処理が運動だからだという、強固な偏
        見があるからですよ。理解してもらうには、まずその偏見から壊さねば
        ならない。
         科学的な記述の道具立てが、皆、単線処理しかない。論理というもの
        自体が、そうなっているんです。同時並行処理と簡単に言ってるけれど、
        実は多くの人が分かっていないんですね。単線処理になってしまう。そ
        れしかできないわけです。そういう意味では、人間ってものすごい単純
        なんです(笑)。
         言葉として「説明」という形をとった途端に、単線処理になる。なぜ
        かというと、言葉がそうだからです。言葉というのは、時間軸の上をた
        だひたすら、単線的に進行する。同時に言ったら、意味は何もわからな
        いですものね(笑)。
        だから、漫画になるんですよ。漫画はセリフと絵とが同時並行処理です
        から、非常に受けるわけです。
         フランス語の「イストワール(histoire)」という単語には「物語」と
        「歴史」という意味があります。けれど、歴史を単線的に「語る」とい
        うのは、無理があるのです。だから、我々は歴史を語る時におかしくな
        ってしまう。
        (P36-37)
 
何かを説明しようとするとき、
ほんとうはその「何か」というのを
一気に「こんな感じ」というふうに見せるというか、
まるで物体をそこにどんと置くように見せることができればいいのだけれど、
そういうわけにもいかず、そのための
たとえば、起承転結のような説明の流れを工夫する必要があったりして、
そのためにあれこれと時間を費やしてしまうことが多い。
 
企画書とかいうのもそれで、
どうしたらわかりやすくなるのかを考えているうちに、
最初に考えていたことが、
まるで漢字をみているうちに漢字の意味が剥がれていくときのように、
霧の向こうに遠ざかっていくこともしばしばあったりする。
結局、何がいいたかったんだろう、とか。
 
仕事の場合だと、どういう結果を出したいのか、
ということがあるので、すぐに妥協の産物として
着地点を間違わないようにさえすればいいのだけれど、
そういうシーンでないときには、
迷いの森のなかに彷徨ってしまったままになることもしばしば。
 
どちらにしても、「こんな感じ」を伝えようとすると、
どうしてもそのなかにあるさまざまな要素をばらばらに分解して、
それを「単線処理」していく必要に迫られたりする。
そしてそのうち、「こんな感じ」とはどんどん離れて
別物になってしまうことも多い。
「ほんとうはこんなことがいいたいんじゃないんだけど・・・」。
その焦りというか、ある種の絶望感、あるいは諦念のようなものの前で、
なんだか、もうしょうがねえや、ということになってしまい、
自己嫌悪に陥ってしまうこともよくある。
 
もしも、同時並行処理されているというか
直観されて立ち上がってくる「こんな感じ」というのを
伝えることができればどうだろう。
たぶん、それは言葉にすることはもちろんできなくて、
ある意味でそういうのはある種の芸術表現のようなものとして
伝えるしかないのかもしれない。
もちろん、それもすでに「こんな感じ」とはかなり遠くなっているのだろうけれど。
 
さて、引用の最後にある「物語」と「歴史」についてだけれど、
それについて思い出したのが、松岡正剛の「情報の歴史」。
これは「単線処理」のなかで語られることの多い「歴史」の項目を
複数設け、それを平行して同時に見ることができるようにしたもので、
その見方によってさまざまな「編集」が可能になる。
そのなかで、思った以上にびっくりするような「歴史」が
そこに編集されて立ち上がってくることもある。
歴史的事実とか思いこんでいたものが、
まったく別の相貌を得てくるということもあるのではないだろうか。
今、事実だと思っていることも、後で、別の座標軸に置くことで、
その事実がまったく別の意味を持ってくるという経験は
個人のなかでもけっこうあるように思うくらいだから。
 

 

 

『自分の頭と身体で考える』ノート4

無意識の共同体の縛り


2002.3.11

 
        甲野 「面白いな」って興味を引き出せれば、私は本当にいいと思うん
        ですよね。だから、いつも言っているし、本にも書いたことですけれど、
        小学校なんていうのは、やはり「あ、勉強って面白いな」と思わせれば、
        それでいいんですよ。そうやって、興味さえ引き出しておいて、「後は
        好きにやったら」というようにしておけばいいと思うんですよ。
        (…)
         この不況下でも、進学校への志向は変わらないみたいですね。電車の
        中でも、予備校の広告、すごいですものね。あれだけ入試に傾ける情熱
        を、いろいろ面白いことを探究する方向に向けたら、世の中、もっとマ
        シな人が増えるだろうと思うのですが、なかなかそういう方向には行き
        ません。それは結局、学歴ということが一つのステイタスになっている。
        つまり身分制度崩壊後の一種の代理身分制度なんでしょうね。人間って、
        何かやはりそういう見栄の部分への執着とうのは根強いものがあるんで
        しょうね。
        養老 それだけ、共同体の縛りが強いんです。それが自分でも気づかな
        いうちに育っているから自覚していないだけなんです。その縛りがいか
        にきついかを示す典型的な例が、皆、触れたくないから、言わないんで
        すけれど、自殺の増加でしょう。
        (…)
         だから、戦後の平等は悪平等だったと皆さんおっしゃって、どこかで
        人のせいにしてるけれども、そうじゃないんだ。あれは、最も古典的な、
        村落共同体の平等ですよ。会社が村落共同体の代わりに、それを振り替
        えて持ってる。だから会社の中で「人並み」ということを言うわけです。
        甲野 「人並み」というのは、まさに共同体の縛りですよね。
        (…)
        養老 最近、ことに感じるんですが、やはり共同体が暗黙のうちにもの
        すごい勢いで復活してきていますね。会社は全部そうだと思うし、組織
        は皆そうだと思う。あらゆる業界が、共同体の原理に戻っていっている。
        日本人って面白くて、放っておくと、どうしても自然にそこに戻ってし
        まうんですね。
        甲野 ナイフで誰かが人を刺したら、もう持ち物検査とか何とかって、
        ワーッという感じになるじゃないですか。
        (甲野善紀・養老孟司『自分の頭と身体で考える』(PHP文庫)
         P97-99,105-106)
 
以前、以前ご紹介したことのある『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)の
著者、山岸俊男の新刊、
『心でっかちな日本人』(日本経済新聞社/2002.2.25)が面白く、
上記の引用部分にも関係する内容になっていて興味深い。
 
その副題は「集団主義文化という幻想」となっていて、
『安心社会から信頼社会へ』でもふれられていたように、
日本では集団の利益が優先され、
アメリカでは個人の利益を優先されるという思いこみに
一石を投じたものとなっている。
 
日本人が、集団の利益を優先するという意味で「集団主義」的だというのは、
実際のところ誤解で、繰り返された実験等の結果、
「知らない同士だと日本人は協力し合わなくなる」のだそうである。
つまり、集団にいることによる利益享受を前提にしているがゆえに、
集団の利益を優先するという態度が生まれるのであって、
そういう前提のない場合、協力関係が成立しなくなるわけである。
 
それを意識してやっているならば、
それはそれで、その傾向を自覚できるのだけれど、
それが無意識のうちに「共同体の原理」として働くというのが、
日本人をかなり不気味な存在にしているといえる。
 
「赤信号みんなで渡れば恐くない」を
日本人はけっこう地でやっているんだけれど、
赤信号を渡っているということを自分ではわかってなくて、
「そういうことになっている」ということで
大手を振って渡ってしまうところがある。
それが、まさに「人並み」ということにも現われているわけである。
だから、組織ぐるみでいろんなことをやっていても、
それは「そういうことになっている」わけで、
「なぜそうなのか」ということは問われないことになっている。
そしてそれが問われたときには、
なぜそんなことをしていたのか、にも答えられないし、
誰の責任なのかも結局のところよくわからない。
つまりは、それはまさに「個」がないということでもある。
 
ところで、「集団主義」についてだが、
それを日本的な集団主義と西欧的な集団主義ということで
その違いを理解しておくことは重要なことである。
それについて、山岸俊男『心でっかちな日本人』より。
 
        西欧的集団主義からすると、集団主義とは、人々が集団と心理的に一体
        化している心の状態を意味します。西欧の人々の常識からすると、制服
        に身を包んだナチス・ドイツの軍隊の行進が集団主義の極致であり、ゲ
        ルマン民族の優秀性を誇示したナチスのイデオロギーこそが集団主義の
        代表です。このような集団との心理的一体感を強調する点は、これから
        紹介する社会的アイデンティティ理論を含め、西欧の人たちが個人と集
        団との関係を考える場合の基本的な姿勢のように思われます、
         この西欧的な、集団との一体化という点から個人と集団との関係を見
        てしまうと、たとえば日本人の会社員の姿について濱口が言う「事実で
        あるように書かれた神話」を生み出すことになります。つまり日本人は、
        会社と心理的に一体化しているために会社の利益を自分の利益として考
        えており、そのため「自己と家族とを犠牲にして会社へ全面的に献身す
        る」という(西欧的な意味での)集団主義的人間として描かれることに
        なります。
         これに対して筆者が「日本的集団主義」と考えているのは、他者との
        あいだで相互依存的な実践活動を行なう場として集団をとらえ、自分の
        生活における集団の重要性を認識しいぇいることを意味します。つまり、
        極端な言い方をすれば、集団を離れては生きていけないことをちゃんと
        理解している、ということです。…
         重要なことは、これらさまざな行動が、他者との相互依存関係を前提
        に、自分の生活にとって欠くことのできない場として集団をとらえるこ
        との帰結として、いわば派生的に生み出される行動だということです。
        この意味で、日本的な集団主義のいちばん中核にあるのは、「自分の生
        活の場としての集団の重要性を理解している」ということです。
        (P133-135)
 

 

 


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