『自分の頭と身体で考える』ノート4
無意識の共同体の縛り
2002.3.11
甲野 「面白いな」って興味を引き出せれば、私は本当にいいと思うん
ですよね。だから、いつも言っているし、本にも書いたことですけれど、
小学校なんていうのは、やはり「あ、勉強って面白いな」と思わせれば、
それでいいんですよ。そうやって、興味さえ引き出しておいて、「後は
好きにやったら」というようにしておけばいいと思うんですよ。
(…)
この不況下でも、進学校への志向は変わらないみたいですね。電車の
中でも、予備校の広告、すごいですものね。あれだけ入試に傾ける情熱
を、いろいろ面白いことを探究する方向に向けたら、世の中、もっとマ
シな人が増えるだろうと思うのですが、なかなかそういう方向には行き
ません。それは結局、学歴ということが一つのステイタスになっている。
つまり身分制度崩壊後の一種の代理身分制度なんでしょうね。人間って、
何かやはりそういう見栄の部分への執着とうのは根強いものがあるんで
しょうね。
養老 それだけ、共同体の縛りが強いんです。それが自分でも気づかな
いうちに育っているから自覚していないだけなんです。その縛りがいか
にきついかを示す典型的な例が、皆、触れたくないから、言わないんで
すけれど、自殺の増加でしょう。
(…)
だから、戦後の平等は悪平等だったと皆さんおっしゃって、どこかで
人のせいにしてるけれども、そうじゃないんだ。あれは、最も古典的な、
村落共同体の平等ですよ。会社が村落共同体の代わりに、それを振り替
えて持ってる。だから会社の中で「人並み」ということを言うわけです。
甲野 「人並み」というのは、まさに共同体の縛りですよね。
(…)
養老 最近、ことに感じるんですが、やはり共同体が暗黙のうちにもの
すごい勢いで復活してきていますね。会社は全部そうだと思うし、組織
は皆そうだと思う。あらゆる業界が、共同体の原理に戻っていっている。
日本人って面白くて、放っておくと、どうしても自然にそこに戻ってし
まうんですね。
甲野 ナイフで誰かが人を刺したら、もう持ち物検査とか何とかって、
ワーッという感じになるじゃないですか。
(甲野善紀・養老孟司『自分の頭と身体で考える』(PHP文庫)
P97-99,105-106)
以前、以前ご紹介したことのある『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)の
著者、山岸俊男の新刊、
『心でっかちな日本人』(日本経済新聞社/2002.2.25)が面白く、
上記の引用部分にも関係する内容になっていて興味深い。
その副題は「集団主義文化という幻想」となっていて、
『安心社会から信頼社会へ』でもふれられていたように、
日本では集団の利益が優先され、
アメリカでは個人の利益を優先されるという思いこみに
一石を投じたものとなっている。
日本人が、集団の利益を優先するという意味で「集団主義」的だというのは、
実際のところ誤解で、繰り返された実験等の結果、
「知らない同士だと日本人は協力し合わなくなる」のだそうである。
つまり、集団にいることによる利益享受を前提にしているがゆえに、
集団の利益を優先するという態度が生まれるのであって、
そういう前提のない場合、協力関係が成立しなくなるわけである。
それを意識してやっているならば、
それはそれで、その傾向を自覚できるのだけれど、
それが無意識のうちに「共同体の原理」として働くというのが、
日本人をかなり不気味な存在にしているといえる。
「赤信号みんなで渡れば恐くない」を
日本人はけっこう地でやっているんだけれど、
赤信号を渡っているということを自分ではわかってなくて、
「そういうことになっている」ということで
大手を振って渡ってしまうところがある。
それが、まさに「人並み」ということにも現われているわけである。
だから、組織ぐるみでいろんなことをやっていても、
それは「そういうことになっている」わけで、
「なぜそうなのか」ということは問われないことになっている。
そしてそれが問われたときには、
なぜそんなことをしていたのか、にも答えられないし、
誰の責任なのかも結局のところよくわからない。
つまりは、それはまさに「個」がないということでもある。
ところで、「集団主義」についてだが、
それを日本的な集団主義と西欧的な集団主義ということで
その違いを理解しておくことは重要なことである。
それについて、山岸俊男『心でっかちな日本人』より。
西欧的集団主義からすると、集団主義とは、人々が集団と心理的に一体
化している心の状態を意味します。西欧の人々の常識からすると、制服
に身を包んだナチス・ドイツの軍隊の行進が集団主義の極致であり、ゲ
ルマン民族の優秀性を誇示したナチスのイデオロギーこそが集団主義の
代表です。このような集団との心理的一体感を強調する点は、これから
紹介する社会的アイデンティティ理論を含め、西欧の人たちが個人と集
団との関係を考える場合の基本的な姿勢のように思われます、
この西欧的な、集団との一体化という点から個人と集団との関係を見
てしまうと、たとえば日本人の会社員の姿について濱口が言う「事実で
あるように書かれた神話」を生み出すことになります。つまり日本人は、
会社と心理的に一体化しているために会社の利益を自分の利益として考
えており、そのため「自己と家族とを犠牲にして会社へ全面的に献身す
る」という(西欧的な意味での)集団主義的人間として描かれることに
なります。
これに対して筆者が「日本的集団主義」と考えているのは、他者との
あいだで相互依存的な実践活動を行なう場として集団をとらえ、自分の
生活における集団の重要性を認識しいぇいることを意味します。つまり、
極端な言い方をすれば、集団を離れては生きていけないことをちゃんと
理解している、ということです。…
重要なことは、これらさまざな行動が、他者との相互依存関係を前提
に、自分の生活にとって欠くことのできない場として集団をとらえるこ
との帰結として、いわば派生的に生み出される行動だということです。
この意味で、日本的な集団主義のいちばん中核にあるのは、「自分の生
活の場としての集団の重要性を理解している」ということです。
(P133-135)
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