ネイティヴアメリカン・ノートII

(1998.9.12-1998.9.20)


1●ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」

2●学びの物語

3●古代の学習システム

4●六の法則

5●教えるということ

6●学ぶ

7●正統

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-1

ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」


1998.9.12

 

■ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」

 (星川淳訳/徳間書店/1998.8.31発行)

 以前、同じポーラ・アンダーウッドの「一万年の旅路」(翔泳社)をご紹介しその内容の一部から「ネイティブアメリカン・ノート」を書いたことがありますが本書は、その「一万年の旅路」より前に刊行された「狼の代弁はだれがする」「白い冬と黄金の夏」「多くの輪・多くの道」そして「知恵の三つ編み−−学びを促す人びとのための手引き」の4冊を一巻にまとめたものとなっています。4冊を一巻にまとめたといっても、「一万年の旅路」の分量に比べればずっとコンパクトなものではありますけど。

 本書を書店で見つけたときには、なんだか久しぶりに友人に再開したようなそんな懐かしさとうれしさでいっぱいになってしまいました。「一万年の旅路」のときにも感じたことなのですけど、ここに語られていることを、どこか自分でも深いところですでに知っていたようなそんな気持ちになりました。ひょっとしたら、ぼくはずっと以前、イロコイ族として生きたことがあるのではないか。そんなことを考えたりしながら、とてもうれしく読むことができました。

 すでにその一部をトポスノート88に書いたのですけど、ここに語られている「学びの物語」は、答えを先に与えるのではなく、問いを生み出すための仕掛けです。そしてそのことについて子どもも大人も関係ありません。大人だからといって子どもよりちゃんとわかっているなどということは決してないということさえ強調されているくらいです。しかも、常にバランス感覚にあふれた知恵の在り方がそこでは底流に流れています。

 本書の紹介に代えて、本書の最初に書かれている著者の言葉を引用紹介させていただくことにします。

 私の祖先は一万年以上にわたり、感受性から意思決定にいたるまで、人間というシステムがどのように機能するのかを学んできました。そのなかで、彼らは<理解への多様な道>が必要なことに気づいたのです。ある道はほかの道より開かれているけれど、ある道はあまりに狭すぎて、それ以外の道を探さざるをえない、というように……。

 彼らはまた、一族全体が繁栄するためには、それら多くの道を一つの統一体へと紡ぎ合わせなければならないことも理解しました。

 そうして彼らは何百年、何千年という時間をかけ、互いに補い合う学びの道をじっくりと編み出してきました。それらの道はともに紡ぎ合わせると、記憶と検索、全体性と実用性という両方の力を与えてくれるのです。

 理解への橋渡しとして、人生の崖から転落せずに生きていく方法として、またさまざまな可能性をしっかり吟味すると同時に、それらの可能性をはらんだ全体性を把握する方法として、一族の人々は学びのための三つの物語を生み出しました。それぞれ、次のように人生経験の三つの基本要素に対応しています。

一つは体のため

一つは心のため

一つは魂のため

  (中略)

 これらの物語は、経験の蓄積というデータベースへのアクセスコードのような働きをします。簡単だけれども複雑なピアノ練習のように、のちのち壮大な交響曲の演奏を可能にしてくれるのです。(P5-7)

 ある意味で、ぼくが「神秘学遊戯団」を通じて「遊戯」していきたいと思っていることは、ここに書かれてあることをシュタイナーという経糸にそしてそのほかのさまざまな知恵を緯糸に、交響曲のような織物を織っていこうとすることで、無謀ではあるけれど、ビジョンとしてはどうしても試みてみたい誘惑から初めてしまったことだといえそうです^^;。実際に織りあげることのできるのは、かなりいびつで小さな織物でしかないわけですけど・・・。

 <理解への多様な道>その可能性について、本書はやさしく、そして読む者の心の深みにまで届く深さで語りかけてくれます。もちろん、「 一つは体のため  一つは心のため 一つは魂のため」というのは、神秘学の基本である「霊魂体」という三つ組みであることはいうまでもないことです。

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-2

学びの物語


1998.9.12

 

 おわかりでしょうか?多くの文化で、物語を語ることによって学びを可能にするやり方が−−。西洋ならイソップ物語と、そこに含まれる道徳的教訓が思い浮かびます。さまざまな民話にも、誠実さや決断力、物惜しみしない心といったものが説かれています。それらの語りは、私たちが心にとめておくべきこと、私たちの文化や社会が総じて健康であるために必要とすることを思い起こさせてくれるものです。

 しかし、学びの物語は違います。学びの物語には、答えを与えるのではなく、問いを生み出すための仕掛けがなされています。問題を解決するのではなく提起するための仕掛けが−−。それは思索への招待なのです。

 「ほら、世界はこんなふうでもありうるんだよ」それらは語りかけます。「考えてごらん。もしいまこことは違う時間と場所だったら、どんな答えが出てくるだろう?」それらはほのめかします。そして私たちは、奇妙な欠落感と同時に充実感も抱くのです。

 こうした語りは、一つの文化を教えるためのものというより、心と魂を鍛え、私たち一人ひとりの選んだめぐる道の歩き方を練習させてくれるものです。(中略)

 こうした語り、こうした学びの物語は、そこに含まれた言葉やイメージから学べるだけでなく、私たちお互いどうしからも学ぶことを可能にしてくれます。それらは、私たち自身の知恵から学ぶことを可能にしてくれます。内なる知恵はときとして、家族の思い込みや社会の思い込みなど、いろいろな思い込みの陰に隠れてしまうものです。けれども学びの物語は、決めつけるのではなく私たちを自由にしてくれるのです。「自分がなれるぎりぎりいっぱいの人間になるのよ!」

 当時軍で働いていた友人が、こういいました。自分のもつさまざまな可能性に思いを馳せてください。どんな学びの物語も、私たちに個人的誘いをかけてきます。探検し、ものごとを定義し直し、調べなさい、と−−。(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P47-49)

 「学びの物語」は、「答えを与えるのではなく、問いを生み出すための仕掛けがなされてい」る。最初から「教え」として語られる道徳的な教訓話ではない。

 物語は、「教え」として語られてしまうことで人をその「教え」にがんじがらめにしてしまう。「教え」には「答え」としての「正しさ」「善」が強要されるからだ。「正しさ」や「善」が強要されるとき、そこからは「自由」が排除され、「愛」の可能性が奪われてしまうことになる。「愛」の可能性が奪われてしまうということは、「正しくないこと」や「悪」の可能性が最初から排されているということだ。つまり、自分で「問うこと」をさせないということでもある。

 「教え」は、最初に語られた「時間と場所」を離れた「いまこことは違う時間と場所」にも無差別的に適用されてしまうことであらゆる可能性が奪われてしまうことになる。「悪」を「時期はずれの善」だということもあるが、「善」であったはずの「教え」がそのことによって「善」の顔をした、巧妙にすり替えられた「悪」になることもある。

 それは、「自分がなれるぎりぎりいっぱいの人間になるのよ!」ではなく、「自分がなにかになれるなんていうように傲慢になってはいけない。教えのとおりに生きていれば間違いのない人間になれるのだから!」そういうことになってしまう。しかし、それこそが「間違い」そのものの源泉になる。

 シュタイナーの神秘学もそうした「学びの物語」であるといえる。それは「答え」ではなく、「問いを生み出すための仕掛け」なのだ。だから、「問う」ことを怠り、答えを欲するということで、その「学びの物語」を単なる「教え」に変えてしまう。だからシュタイナーは、常に自分で考えるようにと語り続けたのだ。

 偏差値教育、知育偏重教育への危機感などからシュタイナー教育が注目されているといっても、それは常に「問いを生み出すための仕掛け」であるということを離れることでその本来の重要性を欠落させてしまうことになる。

 重要なのは、「問いを生み出す」ということなのだ。「答え」ばかりを欲し「問いを生み出す」ことをしなければ、「自分がなれるぎりぎりいっぱいの人間になる」ということからどんどん遠ざかっていくことになる。

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-3

古代の学習システム


1998.9.15

 

<一族>は、ものごとを説明するということを好みません。それよりも、追加の情報を提供して、一人ひとりが自前の(つねに仮の)結論に達し、すばやく必要な決定を下せるようにしむけるのです。

 これは過去にうまく機能した慣習とか伝統、あるいは前の世代への盲従といったものからくるものではありません。これは私の祖先たちが、何百世代、いやおそらく何千世代にわたって、人間には左脳と右脳がそなわっており、それぞれが異なった機能を果たす傾向をもつということを理解してきたからなのです。私は父が示してくれた学習システムを体験することによって、このことを理解するようになりました。私が質問するたびに、父は必ず問い返してきたものです。「自分の中に答えを見つけてごらん」父はそう促しました。「かならず見つかるから」(中略)

 地球とそのすべての宝をよりよく理解するには、脳の両半球を同じに使う方法を学ぶことが不可欠です。私の見るかぎり、人間や環境に関する私たちの近視眼は、このような学習システムを失ってしまったことに原因があります。そう信じるからこそ、私の家系がこれほど長いあいだ、これほどの労力を傾けてこの古代の知恵を守ってきたのです。ですから<一族>がものごとを三つのちがう言い方で−−左右の耳とハートに一度ずつ−−語るように心がけているとお話すれば、それは左脳に一度、右脳に一度、そして二つのバランスをとるためにもう一度という意味であり、そうやって脳の両半球の相互コミュニケーションを促進するのだということを理解していただけるでしょう。

 効果はてきめんです!最初は知性に訴え、二度目はイメージを喚起し、三度目はその両方の組み合わせで表わすようにすると、もっと効き目があります。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P214-217)

 何かを説明するということは、ふつうのばあい、何か特定のモノサシをもってきてそれで測定し、その結果について云々するということであることが多い。

 それはそれでとても大事な「知的」作業であるし、その努力を避けて通ることはできないのだけれども、それだけに頼るとそこから何かが抜け落ちてくることになる。測定できないものをなかったことにしてしまいかねないのだ。

 測定できないのは、そのモノサシでは測れないということにすぎないのにそのモノサシを絶対化されてしまうと、それが存在しないかのように錯覚されてしまうわけである。

 通常、何かが教えられる場合、そのようにある特定のモノサシによって測定されるということが重要視されてしまうことになる。ある問いに対して、一対一対応の答えが対応するというように。もちろんその、一対一対応は、教育の「成果」が測定しやすいために生徒をそれを修得したかどうかで測る際には、とても有効な尺度になる。

 しかし、世界は、事象は、現象は、そんなに単純なモノサシで測れるものではないということは当然のこと。

 だから、まずひとつには、モノサシを数多く持つということが重要だし、また特定のモノサシに左右されないで、それを全体として感じ取るイメージ的なとらえ方も欠かすことができない。芸術の重要性のひとつもそこにあるのだといえる。

 感覚の勝ちすぎた人は、イメージだけでとらえてしまう傾向があるだろうし知性の勝ちすぎた人は、モノサシ主義になってしまう傾向があるだろうが、その両者をともにもつということの重要性が、ここに述べられているような「古代の学習システム」だといえる。これは、「古代の」とあるが、そのまま「未来の」と置き換えられる。

 そしてそこでさらに重要なのは、それらの知性とイメージを統合的にとらえるのは、外からの促しではないということだ。「自分の中に答えを見つけてごらん」という言葉でもわかるように答えは外からくるのではなく、自分の中で統合されたものとして創造される。だから、答えが一対一対応という冷たいものになることもないし、逆に対応するものが混乱のままに放置されるということもない。

  

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-4

六の法則


1998.9.16

 

 あまりにも多くの個別現象が、あらゆる瞬間に作用と相互作用を行なっていて、何か一つの物事が、それだけで何か別の物事を引き起こすことなどとうていありえないことなのです。

 六の法則はこういいます。「形をとったすべての現象について、その現象をきちんと説明できる説明を少なくとも六通り考え出すこと。説明は六〇通りあるかもしれないが、もし六通りでも考え出すことができれば、宇宙の複雑さと知覚の多様性に気がつくだろう。そうすれば、最初に思いついたもっともらしい説明を“真理”に祭り上げて、それにしがみつくことを妨げるにちがいない」と−−。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P214-217)

 一つののぞき穴だけからみる光景は別ののぞき穴からみる光景とはまったく別のように見えるかもしれない。

 だから、何かを理解しようと思うのならば、できるだけ多くののぞき穴から見るようにしなければならない。「六」ということは、おそらく立方体という立体の基本形を見る場合、面が6つあるということなので、少なくとも「六通り」の見方が必要だと言うことのように思う。

 ひとつだけののぞき穴から見て、「これは真理だ!」と思いこんでしまうと、もはやそれ以外ののぞき穴からの視点は目に入らなくなってしまう。「真理」はそんな単純なものではないのに、自分のつくった囲いのなかに入るものに堕してしまうことになる。

 シュタイナーの神秘学にしても、一つののぞき穴だけから見ていては皆目理解のできないものだと思うし、さらにいえば、シュタイナーの神秘学という枠組みを後生大事にすることで、それ以外の視点が拒否されてしまうことになる。しかし、ひとつののぞき穴をいい加減にするというのではなくシュタイナーの神秘学においても、そこから見えるものをきちんと理解しようとすることが重要だということがいえる。でないと、ほかの見方との違いがきちんと見えてこないからだ。

 ともあれ、つねに「最初に思いついたもっともらしい説明を“真理”に祭り上げて、それにしがみつくこと」は認識の怠惰ということにほかならない。「六の法則」を日常的な事柄からはじまって、あらゆることにおいて念頭に置いておく必要がある。

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-5

教えるということ


1998.9.16

 

 父が私に語った古代の言語には「教える」という言葉はありません。そこから学ぶことのできるシステムはあります。三つの学びの物語はどれも手づくりのシステムであり、そのパターンのなかにはたくさんの経験レベルが織り込まれていて、3歳の幼児から103歳の老人までだれもが耳を傾けて、「ああ、それはわかる!」といえるのです。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P225)

 「教える」という言葉がないということは、おそらく「学習システム」の基本が「自己教育」だということではないかと思う。教えられるのではなく、自らが学ぶ、学ぼうとするということ。

 「教える」ということは、学ぶということが最初にあるのではなく、教える具体的な内容が最初にあるということだ。学ぶということは、学ぶひとの問いかけからはじまる。教えるということは、教えるひとのもっている答えからはじまる。

 世界は謎に満ちている。人も謎に満ちている。しかし、そこに謎をみるかどうか、そこに問いが生じるかどうかが問題になる。問わなければ、世界は闇のまま。問わなければ、人は闇のまま。

 最初に世界に答えはない。人も最初に答えはない。教えるということは、世界に最初から答えを押しつけること。そのとき、世界はその答えのなかに閉じこめられてしまう。教えるということは、人に最初から答えを押しつけること。そのとき、人はその答えのなかに閉じこめられてしまう。そして、教えられる人も、その答えのなかに閉じこめられてしまう。

 学ぶということは、自分で発見するということ。自分で発見する驚きと喜びからはじめなければ、世界は、人は、未来に向けて進化することを禁じられてしまうことになる。

 人は、問いかけることで、世界を、人を、発見すると同時に、世界を、人を新たに創造し続けているのかもしれない。

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-6

学ぶ


1998.9,20

 

私が受け継いでいるアメリカ先住民の伝統では、学びの責任は学ぶ者にあります。話し手の責任は、よりよい学習環境を作ることです。

 すべての人がその人から学べるほど賢い人はいません。

 だれもその人から学べないほど愚かな人もいません。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P242)

 人をあまりに絶対化して教祖化してしまうと教祖以外から学べなくなってしまう。そしてその枠のなかに閉じこめられることでその枠の外に対する受容性や柔軟性を失ってしまう。

 マインドコントロールということがいわれたりもするが、それはそうされたい、そうされるのが楽だからそうされるという場合がかなり多いのではないかと思う。

 人は、自分で複数の選択肢をつくりそのことであれこれ悩んだりするより、選択肢をひとつにして、それを外からきたものとしてその責任を自分以外のところに置くことで安心立命しようとすることが多いのではないかと思う。そうすることでそれが破綻したときでも、自分のせいだと思わないでもすむのだから。

 どんな人からも学ぶことができるのにそれをしないときおそらく人は自分の可能性をなくしてしまう。反面教師ということからでさえ人は学ぶことができるのだから。

 パソコン通信をはじめた頃から日々自分に言い聞かせていたのは「何からでも学べる」ということを決して忘れないでいようということ。パソコン通信のなかでは罵倒合戦のようなものもよく見かけたけれど、そうした投影と逆投影を絵に描いたような稚拙なやりとりからでさえ人間という存在をさまざまに学ぶことができる。もっともそういうことには、ぼく自身無縁だったのは幸運だったと思う。おそらく稚拙な形ではあれ、その場をつくっている者として「話し手の責任は、よりよい学習環境を作ること」だということを意識していたということもよかったのかもしれない。

 何からでも学べるが、何でも学べるわけではない。その姿勢からは着実な道が広がっているように思う。

 

 

 

ネイティブアメリカン・ノートII-7

正統


1998.9.20

 

 私は「正統」という考え方に大きな違和感をもっています。一つの理由は、なんであれ人間の伝統である以上、学び成長するためには変化への柔軟性が必要だからです。もし物事の原形だけを守ろうとしたら、いつか変化によって本来の目的が果たせなくなるかもしれません。けれどもいっぽうでは、過去を尊重し、伝統を大切にする知恵も忘れてはなりません。さて、どうすればいいのでしょう?(中略)

 私にとってインディアンであることの本質は、宇宙を一つの全体性として理解することだといえます。あらゆる部分があらゆるほかの部分と全面的に関係し合ったものとして理解するのです。それは、個体性を一時的な構造として、全体性を永続的な構造として理解することです。それは物事の関係性を理解し、二次元のかわりに三次元で考えることです。それは物事を時間軸に沿った連続性、ないし因果連鎖でのみとらえず、広大で、複雑で、相互に関連し合った編み目としてとらえることです。そこでは因果律が通用しません。あまりにも多くの物事が同時進行し、あらゆるものがほかのあらゆるものに影響をおよぼしているからです。生命を因果律で説明するのは、あまり生産的とは思えません。(略)

 インディアンの流儀で正統であるためには、宇宙の全体性に含まれるあらゆる要素を尊重すること、真心で語ることが不可欠です。

 さもなければ、自分自身の存在の全体性を否定することになってしまいます。

(ポーラ・アンダーウッド「知恵の三つ編み」徳間書店/P247-249)

 重要なのは、幅広い受容性と柔軟性ということだろうか。

 過去に耳を傾けるということはとても大切なことで、そういう意味での正統や伝統ということから学ぶことは欠かすことができない。

 けれど正統や伝統を絶対視してしまうとこんどはそこから自由であることができなくなってしまう。

 正統や伝統が必要なのは、逆に、そこから自由であるためでもある。知らなければむしろそれにとらわれてしまうということだ。

 「守」「破」「離」というのはそういうことでもある。まずは正統や伝統を学ぶこと。無手勝流よりは効率がいいからだ。けれどそれにとらわれないために、それを破る必要がある。けれどそれが「賛成の反対」にならないようにまさにとらわれないという自由さ、自在さが求められる。

 受容性、柔軟性の鍵は、時間的にも空間的にもとらえた「縁起」という認識を基礎にさらにそこにいわば宇宙の変幻自在な進化そして自分を固定化する姿勢から自由を加えものごとを総体としてとらえるという姿勢だろうか。そのことで、認識は固定化、実体化から自由になる。

 諸行無常の認識、諸法無我の認識に涅槃寂静ではなく、むしろ宇宙進化という認識をベースにした「縁起」認識を加えるということだろうか。

 


 ■「ネイティヴアメリカン・ノートII」のトップに戻る

 ■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る