神秘学ノート

「ダスカロス」シリーズ


1 メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道

2 エレメンタル -1

3 エレメンタル -2

4 物質の目的

5  I am

6 カルマ -1

7 カルマ -2

8 絶対と聖なる表現

9 絶対の存在性の性格

10 悪魔と天使


 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ1

メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道


1999.5.1

 

■キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道」

 (鈴木真佐子訳/太陽出版1999.4.18)

 

この研究は、主に、スピリチュアル・ヒーラーとその関係者にまつわる現象を記述した研究として理解されるべきものである。これは超心理学の研究ではない。焦点は、超自然的な現象の検証を試みたりすることではなく、その代わりに、登場人物たちが経験する世界をできるだけ正確に伝えることである。

 著者のキリアコス・C・マルキデスは、アメリカのメイン大学の社会学者。78年から79年にかけての長期有給休暇を利用して、自分の出身地であるキプロスのスピリチュアル・ヒーラー、ダスカロスについて上記のような立場での研究をはじめ、83年までの研究をまとめて発表したのが本書。

 ダスカロスは、キプロスのニコシアの郊外にあるストロヴォロス地区にいるスピリチュアル・ヒーラーであり、「ストロヴォロスの賢者」と呼ばれ、ホワイトブラザーフッド関連の秘教サークル、「真理の探究サークル」を開く。

 このキプロスのダスカロスについては、これまで名前もその存在もまったく知らなかったのだけれど、読み進むうち、本書が真性のキリスト者であるスピリチュアル・ヒーラーの希有の記録であることがわかり、そこに盛り込まれた内容の素晴らしさをやはりぜひご紹介しておきたいと思った。

 とくに、キリスト存在についてのダスカロスの言葉は、シュタイナーの示唆しているキリスト理解を深めるうえでも非常に貴重なものなのではないかと思う。シュタイナーの精神科学において、キリスト理解は欠かせないものなのであるにもかかわらず通常のキリスト教というイメージが先入見となっているのか、その重要性がなかなか認識されがたいように思うのだけれど、本書で語られるキリストは、ぼくの理解する限り、シュタイナーの示唆しているキリスト理解と共通しているように思う。

 また「カルマ」に関しても、とても深い洞察がなされていて、シュタイナーのカルマ論と併せて読まれることをぜひおすすめしたいし、また「悪」についての理解を深めるためにも本書はさまざまな示唆を与えてくれるのではないかと思う。

 本書に続き、第2集、第3集も今秋刊行される予定だということで、今からとても楽しみである。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ2

エレメンタル -1


1999.5.1

 

ダスカロスの講義はエレメンタルについてであった。(…)

「エレメンタルは他の生き物と同様に自分自身の生命を持っていて、それはそのエレメンタルを投影した人間と独立した存在である。どのような思考や感情でも、個人が投影したものはエレメンタルである。」

 それから彼は、エレメンタルにも二種類のものがあると説明した。潜在意識によってつくられたもの、これは欲望的思考と呼ばれる。そして意識的につくられたもの、これは思考的欲望という。

 個人は思考や感情を通して波動することができる、と彼は続けた。どのように人が波動するかということは、彼が創造するエレメンタルの種類と質を決定する。主に感情によって波動をすると、彼は感情や欲望の影響下にあり、思考は二次的や役しかない。これは欲望的思考のエレメンタルである。もし個人が思考の影響下にあると、彼はノエティック体のエレメンタルをつくり、視覚的イメージの力を操れる師になる。真理の探究者は、欲望と感情が自分を助けてくれるような役割を持つような強くて良いエレメンタルを、強い思考を通して創造する訓練をするべきである。このような思考的欲望のエレメンタルの方が長く持ち、そして力よりも強く、目的の仕事をずっと早くこなすことができるのである。

 欲望的思考のエレメンタルは、思考や欲望の性質を理解していない普通の人の特徴である。結果として、自分のつくったエレメンタルの餌食になってしまうことが結構ある。人が外に投影したエレメンタルが、いずれそれをつくった人間の潜在意識に戻って来るというのは、自然の法である。そうして、記憶の中から意識の表面に上って来て、新たなエネルギーを吸い込んだら再び沈んでいく。人間の潜在意識にもっと長くいられるまで、同じサイクルが繰り返される。それから、人のエーテル・ダブルからエネルギーを吸収して、生命を持続させる。こうやって、タバコ、賭けごと、アルコールの依存症や習慣が形成されていくのである。

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P65-66)

 

 上記引用で使われている用語は、シュタイナーの使っているものとは若干異なっているところがあるので、必要なところを補足しておきます。

<用語説明>

*ノエティック体現在の自己意識のある人格を構成する三つの体の一つ。想念の体。ノエティック体は五次元のノエティック界に存在する。ノエティック体の中心は頭のチャクラである。

*エーテル・ダブル

人間の三つの体(肉体・サイキック体・ノエティック体)の生命を維持し、三体のつながりを保つエネルギーフィールド。人間の体のすべての(素)粒子に対応するエーテル・ダブルがある。ヒーリングを可能とするのはエーテル・ダブルのバイタリティである。宇宙はエーテル・エネルギーで満ちている。それは一人の人間から他の人間に移動でき、チャクラを通して吸収される。

 ここでのテーマは、人の「思い」が「エレメンタル」として実体化し、それが自分とは独立した存在となるということ。そして、無意識的につくりだしたエレメンタルが欲望的思考のエレメンタル、意識的につくりだしたエレメンタルは思考的欲望のエレメンタルとなる。

 ここで重要なのは、意識的に強い思考をすることができる訓練が必要だということ。思考が感情や欲望の影響下にあると、そうした感情や欲望が生み出した無意識的な欲望的思考のエレメンタルは、やがて自分の潜在意識に還ってきて、同じエネルギーがあるとそれを吸い込んで肥大化して、自分がその餌食になってしまうことになる。

 もちろん、そうした無意識的な欲望的思考のエレメンタルは、自分の外にも同じ波動を持つ人があれば、そこでも吸収されていく。

 人の多く集まる場所、繁華街やスーパー、イベント会場などでは、そこに集まった人の多くが無意識的な欲望的思考のエレメンタルを次々と吐き出している。思考が感情や欲望の影響下にあると、自分がとらわれやすい感情や欲望に近い波動を持つエレメンタルの影響を受けやすい状態になっているといえる。群集心理などというのもそうしたエレメンタルの肥大したものの影響下に陥っている状態なのではないかと思う。

 シュタイナーが、アストラル的歓楽といっているような、その感情の善し悪しは別として、自分の感情や感覚におぼれている状態を廃し、思考をきちんと働かせた意識的な自我の働きを強調するのは、そういうことでもあるように思われる。

 その基本はやはり「自分で考える」ということ。「自由」ということもそこから可能性がでてくる。少なくとも、無意識的な欲望的思考のエレメンタルばかりを次々と無自覚にだしているような状態は「自由」だとはいえないだろう。

 仏教などでもいわれる「反省」ということは、自分の意識をきちんと意識できるようなメタ意識を持つということでもあり、それは無意識的な欲望的思考のエレメンタルを放出する在り方をやめ、感情や欲望を思考の影響下に置けるということでもある。シュタイナー的にいえば、自我がアストラル体に働きかけるということ。

 ともあれまずは、自分がどんな感情や欲望を放出しているかを観察することからはじめる必要があるように思う。イメージするだけでも、けっこうコワイものがあって、楽しめることうけあい(^^;)。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ3

エレメンタル -2


1999.5.14

 

 根源に帰るというエレメンタルの傾向が、カルマの法則を可能としている。人は、自分自身が意識的に、あついは潜在意識的につくり上げたエレメンタルに向き合うことになる。(…)

 ダスカロスの説によると、私たちの今の性格や周囲の状況は、私たちがこの三次元に降りて来て輪廻のサイクルを始めた時以来つくってきた数々のエレメンタルの総合的な結果なのだという。エレメンタルを形作っているものは、人格や宇宙一般をつくっている内容と同じで、それはノエティック界、サイキック界、物質界のエーテル体である。(…)

忘れてはいけないのは、エレメンタル体は、形も力も自分が果たすべき目標を達成するまでは消えないということ。だからこそ、私たちは自分の考えや行為の結果に面と向かう用意がなくてはならない。エレメンタルはこの人生においてだけではなく、後に来る輪廻を通してずっと付いて回る。したがって、エレメンタルをつくる者は、遅かれ早かれ、自分自身がつくったエレメンタルと対面する時が来る。(…)

どのようなエレメンタルを私たちが投影しても、それがいずれ自分に戻って来るという法則がある。邪悪なエレメンタルの場合は、それが意識によって形成されたか、潜在意識によって形成されたかに関係なく、罰がそこに内在している。戻って来る時、それは力も生命力も増して戻ってくる。もし邪悪なエレメンタルを送るとすると、その対象となった相手は、送った人間と同じ周波数で振動している部分だけが影響を受ける。でなければ、それは彼のオーラにぶつかり、元の力の七倍になって、送った本人に跳ね返って来る。(…)

 同じように、良いエレメンタルを、まだそれを受け取る準備ができていない人間に送ったとする。すると、それはその人間のオーラにぶつかり、帰って来る。そのような場合、エレメンタルは彼のオーラに跡を残して来る。その力はそこに残り、その人間が似たような波動で振動する準備ができた時点で手助けをする。したがって、善はなくなることが決してないということを知っておいて欲しい。愛と善のエレメンタルを送り続けて欲しい。現世でなければ、この後の輪廻で、影響が出てくる。キリストが<汝の敵を愛せ>と言ったのを忘れないように。私たちが自分の敵だと思いこんでいる人たちは実際、無知なだけなのだ。私たちにとって敵という言葉は存在しないし、私たちは思慮なき者たちを敵とは呼ばない。自分たちを愛してくれる人たちを愛するのは、とても人間的で理解ができることだ。しかし、自分たちを憎んでいる人たちを愛するのは聖なる状態なのだ。それはスピリチュアルな面で私たちを向上させる。

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P66-75)

 人がつくったエレメンタルは、自分に返ってくる。しかも、倍加されたかたちで。

 カルマを形成するのも、そのエレメンタルなのだといえる。「私たちの今の性格や周囲の状況は、私たちがこの三次元に降りて来て輪廻のサイクルを始めた時以来つくってきた数々のエレメンタルの総合的な結果」なのだ。そして、「エレメンタル体は、形も力も自分が果たすべき目標を達成するまでは消えない」。

 カルマは、そういう意味で、自分自身との対面ということなのだといえる。自分自身と向き合わざるを得ないようにカルマは形成される。外からくるように見えても、すべてのものは内からくるものなのだ。

 人を呪わば穴二つ、というのも自分のつくったエレメンタルが人を害するのだとしたら、その害する思いや行いは、今度は外から倍加されてやってくるのだということ。

 しかし、仏陀に向かって放った矢も、仏陀に届くときには花になるという話もあるように、邪悪な念もそれと同じ振動数を持たない場合は力を持ち得ないし、むしろそれが変容されて届くのだということを示している。

 また、人を呪わば穴二つという同じ法則は人を愛し善を与えるということにもあてはまるのだから、その愛や善は人に与えられると同時に、また今度は自分にも倍加されて返ってくるのだといえる。たとえ、相手が愛や善の波動に適さないのだとしても、「エレメンタルは彼のオーラに跡を残して来る」のだというのだから、愛や善は決して無駄なものではない。

 <汝の敵を愛せ>というキリストの言葉をこうした観点からとらえなおしてみるとその深みが実感される。「私たちにとって敵という言葉は存在しないし、私たちは思慮なき者たちを敵とは呼ばない。」というように、「敵」というふうに見える者のことをあらためて考えて見る必要がありそうである。

 自分を愛してくれる人を愛することは易しいが、自分を憎み害する人を愛することはとても難しい。けれどそれは「聖なる状態」なのだという。

 自分のつくったエレメンタルは、倍加されて自分に返ってくる。憎しみや怒りや敵意もそうだし、愛や善もまた同じ。憎しみや怒りや敵意の塊になっている状態は、その法則が自覚されていないゆえに起こる。「神秘学」が必要な所以もそこにある。「無知」が憎しみや怒りや敵意を増殖させていくのだということを人はどこかで実感しなければならないのだろう。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ4

物質の目的


1999.5.25

 

「物質の目的は、永遠の存在である私たちに経験を可能にしてくれることだ。私たちの自己意識を成長させるための絶対の現れなのだ」

 ダスカロスはそれから、存在の性質について、想念、エレメンタルの性質、そして永遠の人格と現在の人格の違いについて、彼の哲学をまとめて語った。彼は、物質は見た通りの物ではない、と説明した。私たちはその物質体と同じ周波数で振動するので、対象が個体であると想定してしまうのだ、と彼は言った。

「建築家なして街は造れる?青写真なくして家は建てられると思う?」

 これらの質問をしてから、彼は、不変の法則や原理が高次元のレベルであるイデアの世界にある、と説いた。これらの原型的なイデアが、現象の本当の原因だという。

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P84-85)

 唯物論は物質を認識していないがゆえの思想であるといえる。物質を認識しようとするならば、物質そのものの秘密に迫らなければならない。

 テレビやラジオを見、聞くためには特定の番組に周波数をチューニングしなければならない。物質世界に存在するためにも、それが必要であり、チューニングできなければそこには存在できない。

 また、あらゆる現象にはイデアという設計図があり、現象化するためにはそれをもとにした建築が必要になる。自分という存在にも設計図があり、今の自分がこうして存在しているのも、それに基づいて作られているのだといえる。ただその設計者である自分が今の自分からは見えないだけだ。

 そういう世界で私たちは生きている。この物質世界は、二元の世界、対象化の世界である。一なる世界においては、自分が自分を対象化することはできない。物質世界においてはじめて、私たちは自己意識を持ち、それを成長させていくことができる。自我という我ありの原理は、この物質世界ゆえにそれが個というかたちで現象化することができる。そしてそこに自由が生まれ、悪の可能性が生じる。悪を内在し無明となり地を這うことにもなるのだが、それを自覚することによる実りが人間存在の可能性の根幹にある。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ5

I am


1999.5.27

 

「永遠の人格を大きな円で描いてみよう。この外側に、もっと大きな円で、しかも円周がない円があると想像してほしい。この外の円は、神に内在する魂、永遠で無限。いつでも純粋で汚れを知らない。この二つの円の中に、自己意識を持つ人格と私が呼んでいる小さな円がある。この三つの円すべては同じ中心を持っている。小さな円が広がり、だんだんと小さな円と大きな円の周が一つになっていく。小さな円の広さは自分の完成度を表す。現在と永遠の人格の中心、そして自己意識のある魂の中心はみな同じだ。私は存在する(I am)と、現在の自己と永遠の自己のどちらもが言っている。どちらの声か尋ねると、私です(I am)と声は一つだ。同じ声がこだまして返ってくるだけだ。実際の私は自己意識の全体だ。物質世界の経験が私たちを二つに分ける状態をつくったのだ。

 現在の自己意識を持つ人格が小さな円を広げるほど、現在の人格に永遠の人格が入っていく。スピリチュアルな道を進むほど、この内なる自己が現在の人格に大きな影響を与え、コントロールすることができる。良心のある人だとか、それがない人だとか、私たちは習慣で言っているが、実際には中心がない人はいない。良心がどの程度かは、現在の人格がどのくらい永遠の人格に広がっているかによるのだ」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P97)

 「私は神だ」とか、「私は神だが、あなたも神である。しかし、あなたは自分が神だということに気付いていない神だ。」とかいう表現がいわゆる「精神世界」関連ではよくでてくるのだけれど、これは、自分がそれに気付いていないとしても、人は神と同じ中心をもっているこということ。我はありてあるものなり。しかし人の通常の自己意識はあまりに小さく、神の自己意識は無限に、円周さえ持ち得ないほど大きい。大きいというよりもすべてのすべてである。

 現在の自己意識が自分の人格なのだから、人は自分の人格の円を広げていかなければならない。自己意識を限りなく広げていかなければならない。私たちの通常の自己意識はあまりに狭くて浅いから、その自己意識をどれだけ広げていくことができるかということ。

 こうして地上に生まれ肉体をもっているということはさまざまな制限のなかで生きるということを意味しているのだけれど、それゆえに自己意識の可能性も大きいということがいえる。自己意識の自己を自分の欲望やエゴなどとして狭くとらえているとその自己意識は自分で自分を檻に入れていることになる。

 私はあなたなのだ。私があなたであることにたどりつくために、私はさまざまな格闘を繰り返す。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ6

カルマ -1


1999.5.28

 

「ダスカレ、カルマは避けることができるでしょうか」

ダスカレはためらわずに答えた。

「間違いなく避けられる。ヨナの話を例にとると、はっきりと分かる。神は預言者にヨナに、ニネベの街は罪深くなり、邪悪なエレメンタルをつくり過ぎたので、三日間で破滅する、と告げた。預言者はニネベの人びとのところに行って、この悪い知らせを伝えた。人びとは悲しみ、悔い改めた。三日過ぎても、ニネベは滅びなかった。預言者は苦い思いをして、言った。<主のおかげで私は嘘つきになってしまいました>。

 カルマの法則に従うと、ニネベは滅ぶことになっていた。ヨナはある意味で正しかった。しかし、破滅しなかったのは、人びとが悔い改めたからだ。自分たちの学ぶべきことを学んだ。その後、ヨナは神と素晴らしい話し合いをした。それはある晩、ヨナがカボチャの苗が芋虫に食べられたのを見つけて神に話しかけたときだった。<お前はカボチャをなくしたことで悲しんでいるが、私が一つの街をなくしたとしたらどんな気持ちになるか。カルマの法則によって、私の街を破滅させるべきだったと思うか>。

 聖なる慈悲の偉大さは、私たちの頭では理解できないものだ。しかし、だからといってカルマの法則がないわけではない。もし悔い改めることをせず、聖なる慈悲によって救われることがなかったら、いずれはすべてを償うことになる。どんなに時間がかかっても、必ずその時が来る。キリストが言ったように、誰かにコップ一杯の水をあげても、それはいつか自分に返ってくるのだ。」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P100-101)

 シュタイナーは「カルマの開示」で、病気や災害などがカルマ的連関によって生じること、そしてそれに対抗するために治療や防災を行うこととの間の矛盾を超えるための視点について述べている。

 矛盾というのは、カルマを避けることでカルマによって果たされるはずのことが果たされなくなるのではないか、もしそうだとしたら治療や防災は行ってはならないことになるのだけれど治療や防災を行ってはならないということはないはずだ・・・という矛盾。

 その矛盾を超えるひとつの観点は、たとえば病気になった「外的人間」としての身体を治療して治すことだけではなくそういう病気になった原因をつくってしまった「内的人間」としての魂に対してもきちんと働きかけることで、外的人間と内的人間のバランスをとるということ。

 上記の聖書における「ヨナ」の話でいうならば、「悔い改め」を行うということが、「内的人間」への働きかけだといえる。カルマによって生じる「街を破滅させる」という外的結果を避けるためにはニネベの街のひとたちの「悔い改め」という内的な働きかけが必要で、もしそれがなければ、いくら目の前の結果を取り去ることができたとしてもその結果は、なんらかの別のかたちで起こらざるをえいないということである。

 そして「誰かにコップ一杯の水をあげても、それはいつか自分に返ってくる」というように、カルマは善悪云々という区別なく、自分の思ったこと、行ったことという原因としての「種」が花開くということなのだから、今現在になんらかの「種」を植えようとする未来への積極的な思いと行いが必要だという視点でもある。たんなる予防医学、防災云々を超えて、いかに未来を創造していくかということがテーマだということ。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ7

カルマ -2


1999.6.3

 

「すべての病気はカルマのせいだ。それは自分の借りか、愛する者の借りなのだ」とダスカロスは答えた。(…)

「キリストが他者の負っている重荷を負うようにと言ったとき、何を意味したと思う?カルマは、何らかの形で清算されなくてはならない。これはバランスを保とうとする普遍的な法則が働いているからだ。だから、誰かを愛するということは、相手のカルマの弁済を手伝うということだ。しかしその場合、その人間が自分のレッスンをしっかり学んだ後で、全額を払う必要がなくなった場合に限る。ほとんどのカルマが支払い済みの場合、残りを他人が肩代わりして、その人間を痛みから解放してあげることが可能だ。もし私たちがそれを意図すると、ロゴスは十分の九の残りの支払いを受け止めてくれて、実際、私たちは十分の一だけ肩代わりすればいい。(…)」

「何が自分たちに起こったとしても、それが人生で痛みとして感じられるものは自分のカルマの弁済か、愛する者が一人で背負うにはとても重いカルマを肩代わりする用意があるということの、どちらかだ。自分が師になり、普遍的な善とともに調和して働けるようになると、愛する者のカルマだけではなく、自分の敵と考えられる相手のカルマも引き受けるようになる。師として自分の身体の痛みを消すこともできるのだが、しかしその瞬間、その痛みはカルマの元の持ち主に自動的に返ってしまうので、何もしない。キリストは、普通の人間のように十字架にかけられ苦しんだが、その時にその道を示した。」(…)

「自分の進化の高いところに辿り着くと、ロゴスはそのようなことを要求するかもしれない。その場合は、他人のカルマ、敵のカルマまで肩代わりすることになる。ロゴスのチャンネルはあなたであり、そのような重荷を名誉として負うべきなのだ。」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P105-107)

 進化するということはどういうことだろうか。それを超能力を得ることだとか、悟ることで涅槃寂静の世界に入れるだとか、そういうことだと考えている人がいるかもしれない。

 しかし、キリストが罪のないまま、十字架上で刑死し、血を流し死んでいったように、進化は、ある意味でますます苦しみを増大させるものかもしれないのだ。もちろん、その苦しみは、私たちのような意味での苦しみではもはやなく、別次元の苦しみなのだろうけど、それにしても手足に釘を刺されて磔刑にあい、槍で突かれるというようなあり方は決して楽でない(^^;)。

 進化するということは、自分という枠を広げることだといえるかもしれない。進化していないということは、自分という枠にしがみついていること。枠を広げるということは、責任範囲を広げるということであり、狭い意味での自分の責任だけではなく、他人や「敵」だとされている人の責任まで背負うということでもある。なかなかそういうことはできない。自分のことでさえ、なかなか責任をちゃんと負うことは難しいのだから、自分の最愛の人のことならまだしも、他人や、ましてや「敵」の責任まで負うなんてとんでもないのだ。

 しかし、それが「愛」なのだという。「カルマ」の意味もそこでもっと認識を拡大する必要がでてくる。「カルマ」を担うべき器は通常は個々人に限られているのだけれど、その器そのものを共に担うことも、また「愛」なのだ。もちろんそのための高次の認識に裏付けられたそれでなければ、「カルマ」の意味をなくしてしまうことになるのだから、そこにはまた別の要素が加わってくることになるのだろうが、それにしても、愛深き人になるのは途方もなく難しい。進化することは途方もなく難しい。

 キリストが地球の霊になっているということは、私たちすべての人をもっとも深いところで抱きかかえているということでもある。

 みずからをキリストをはじめとしたさまざまな方の生まれ変わりだとかいう人がけっこういたりするのだが(^^;)、そのときに見なければならないのは、その人がどれだけの人の責任を苦悩を抱きかかえているかということだろう。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ8

絶対と聖なる表現


1999.6.21

 

「絶対の基本的な特徴は、自給自足だ。それはすべてがそこに存在していることを意味している。不足しているものは何もなく、必要としているものも何もないのだ。」

「もし絶対の性質が自給自足だけでしたら、世界の創造は不可能だったでしょうね」と私は言った。

「そう。しかし、もう一つの特徴は、自分自身を表そうとする衝動があることで、これは聖なる表現とも呼べるものだ。これは自分自身の中で波動する。これには生命と動きがある。動きの現象を伴わない生命を創造できるだろうか。できない。これを観察して、様々な神秘家たちは、神は躍動であるという結論を出したが、これは間違いだ。生命に動きがあるというのは絶対の性質であって、絶対そのものではない。」(…)

「もし、永遠の中に波動したり動いたりするものが、何もないのに、生命、動き、波動があったとすると、それは完全な自己完結性だったはずで、私たちは存在しなかった。しかし、絶対には自分を表現して、いろいろな宇宙を創造する性質があるのだ。マインドも創造された。いつからだろうか。絶対の一部なのだから、常にあったのだ。」

「マインドとは、絶対の聖なる表現を可能とする超物質だ。(…)物質世界だけではなく、すべての宇宙も含んでいる。サイキック、ノエティック、ノエティックの高次元、そしてそれを超えたものも。すべてはマインドだが、マインドは絶対そのものではない。絶対が自分自身を表現する方法なのだ。絶対はすべての表現を超えている。ちょっと考えてみなさい。私たちが周りに見ている事物すべては、物質化された聖なる思考なのだ。」

「キリスト・ロゴスと聖霊は、絶対がマインドを通して自分を表現する二つの方法だ。聖霊は絶対のパワーを代表する非人格的な超意識であり、これが世界の創造を可能にする。これが絶対の動的な部分だ。キリスト・ロゴスは絶対の部分で、自己意識の存在を可能とする。私たちは、永遠の存在としてロゴス的であり、かつ聖霊的でもある。動物は聖霊性だけを持つ。分かるかな。絶対を頭だとすれば、聖霊が左手、ロゴスが右手だと考えてみよう。これで、なぜ教会が<父と子と聖霊の御名において>と祈るか分かったかな」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P188-189)

 絶対は対象をもたない。絶対は比較を絶している。絶対は完全だからである。完全であるということは、すべてであるということであり、すべてであるということは、そこに他者が存在することはない。そこには世界さえも存在することはない。

 しかし絶対はみずからを表現しようとした。なぜそういう衝動があるのかははかりしれないのだが、絶対である父は、子と聖霊を通して自分を表現しようとした。それが創造された宇宙であり、また人間である。

 宇宙はなぜ存在するのか。私はなぜ存在するのか。宇宙はどこから来てどこに行こうとしているのか。私はどこから来てどこに行こうとしているのか。その秘密は「父と子と精霊」という三位一体にある。

 この「3」という数には深い秘密がある。シュタイナーは人間も社会も三分節としてとらえた。三位一体の秘密は、あらゆるところに隠されていて、人間を、社会を、世界を、宇宙をとらえようとするならば、その三位一体について認識しなければならない。すべては、「絶対」の「聖なる表現」なのだから。

 また、見つかった。何が?永遠が。

 永遠を見つけるのは永遠そのものにほかならない。永遠とは三位一体に気づいた人間。自己表現をする絶対。そして、祈りは三位一体そのものとなること。

 とはいえ、人間は永遠を求めながら、しかも永遠を忘れようとする存在。

 また、忘れた。何を?永遠を。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ9

絶対の存在性の性格


1999.7.10

 

「私の個人的な話だが、私たちは自分たちが生命という唯一の現実の一部だと感じているが、非存在という概念にもこだわりを持っている。仏陀でさえこのことに混乱させられたようで、涅槃は無の状態だと言っている。本当は無ではないのだ。自分が誰であるか分かるのだから。あなたの現在の人格は、物質、サイキックな存在、そしてノエティックな存在の三つの鏡に自分自身を写し出している。もし、金槌をあなたに渡して、<これらに写る姿はみな歪んでいるから割りなさい>と言ったとする。そして、あなたがそれらをみん割るとする。もはや、思考、感情や肉体的な存在としての自分の反射された姿はない。とすると、今あなたは誰なんだろうか。鏡を壊す前と全然変わらないあなたがいる。しかし、反射されないと、生きている現象にはなれない。仮に、いわゆる非存在の状態、つまり絶対の存在性の中の存在性の状態に勇気を持って入って行ったとする。いつでもそこを出て来て、物質に自分をまた反射させることができるのだろうか。別の言い方をすれば、転生できるのだろうか。もちろんできる。私たちは永遠の存在性を持つものなのだ。」(…)

「実のところを言うと、ずいぶん昔、何世紀も前に経験したが、最初はひどく怖かった。でも、私の師たちが助けてくれた。そのような状態に入り、自分がもはや反射している姿だけではないと気付くと、とても幸せで、豊かで、そして自足しているということを感じとることができた。自給自足に代わるうまい言葉が他に見当たらないのだが。けれども、その状態にいても、帰りたいという欲望があった。いや、欲望とはいえないだろう。もし欲望だったら、望んだ瞬間にもう自動的にサイキックの次元に行ってしまうから。考えとか義務とかともいえないのは、それを言うと、ノエティック界に入ってしまうからだ。非存在の状態で、なおかつ自給自足した在るの状態の何が、帰るように駆り立てるのだろうか。おそらく存在性の性格として、自分の姿を反射させてみたいのかも知れない。存在性の中に入って戻って来ることは、師たちも、キリストもしてきたことだ。

 自分の内面に入ると、そこには人間の観点からは無のように見え、存在性の観点から見ると自足の状態であるが、物質界戻ろうとする傾向を私自身が持っていることが分かる。ともかく、今は自分の経験から得たことのみを話している。もしも<自足した非思考的な状態にあって、私たちが幸せが見つかると呼んでいるところと、苦労と試練に満ちた現象的な存在に生きるのと、どちらを好むのか>と尋ねられたら、その答えは、愛する人の隣にいて、その目を覗き込むことができ、その足を愛撫してあげられるなら、その方がいいと言うことと同じだ。弱さと呼んでもいいだろう。これは存在性の性質であって、私たちの存在の性質ではない。種々の世界を創造したというのは、絶対の存在性のこういった性格によるのであろう。太陽の光をもって、最もつまらない、淀んだ水たまりにも、愛をもって接するのだ」

「もしかすると……」と言ってから、数秒間をあけて続けた。「私の言っていることは、冒涜かもしれない。しかし、そのように感じるのだ。苦しさと多くの弱点を持った物質界だが、美しいと思うのだ。間違っていると思うかな」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P192-194)

 絶対であるということは、相対を超えている。比するものはなく、対象は存在しない。対象が存在するとすれば、それは絶対ではない。絶対という永遠の「自給自足」の世界がそこにある。仏教で使われる「無」という言葉は、誤解の多い言葉なのではないかと思う。「無」とは「なにもない」ということ、「なにもない」ということさえいえないこと。しかし、涅槃としての無はおそらく、対象は存在しないとしても、「絶対の存在性」という可能性の塊、対象を超えた存在性の充溢なのではないか。

 しかし、ひとが自分の顔を見てみたいと思い、鏡の前に立つように、「絶対の存在性」も自分の姿を反射させ、存在性の中に入ってくるのだという。おそらく、その衝動のようなものこそが、「愛」の源なのではないだろうか。

 わたしとあなたという関係が存在しないとしたら、そこには「愛」は存在しえないだろうから。わたしとあなたという関係を必要とするということは、ある意味では「弱さ」なのかもしれないのだけれど、それがあるからこそ「愛」が生まれ、「世界」が生まれる。

 わたしはみずからの無明故に、「絶対」を求める。そのために、「相対」の世界を超えていこうとする。わたしはいずれ、わたしの対象世界を超えていきわたしを映す鏡をすべて壊してしまい、「絶対」へと辿り着く。もしくは、帰り着く。しかし、そこで「愛」の衝動が生まれるのではないか。それはおそらく「わたし」と言おうとする衝動でもあるように思う。「わたしはいまここにいるのだ」という「わたし」の、そして「世界」の存在そのものの謎へのある意味では芸術的な創造をめざした衝動なのではないかと。

 わたしは、わたしを愛するがゆえに、あなたを愛することができる。矛盾のようだが、そのことを深く深く「絶対」が自らに刻み込むために。

 

 

神秘学ノート「ダスカロス」シリーズ10

悪魔と天使


1999.7.10

 

 悪魔と天使の違いについての私の質問に、ダスカロスは、両方とも大天使的な力が放つ力なのだ、と答えた。悪魔も天使も、彼らにとっては永続的な存在ではないということである。彼らは、大天使的な力が投影するエレメンタルであり、人間は、悪魔的なエレメントも天使的なエレメントも両方つくる能力があるのだ、と言っている。

「悪魔は分離した領域をつくるために存在している。彼らは、大天使的な放射からつくられる。反対側に位置する存在なのだ。大天使ルシファーは、ノエティック界において、他の大天使たちと全然変わらない。しかし、彼の地上においての仕事は反対側のエネルギーとパワーをつくり、バランスを持ち込むことだ。これが神の計画なのだろう。邪悪と私たちが呼んでいる存在だ。この邪悪の目的は、善の意味をもっとはっきりさせることにあるのだ」

「悪魔と、人間のつくるエレメンタルとは、どういう風に違うんですか」

「人間がつくるエレメンタルは、天使的か悪魔的か。どちらもつくることが許されている。しかし、大天使には天使的なエレメンタルしかつくれないことになっている。例外はルシファーで、彼は悪魔しかつくれないのだ。悪魔には人間と話ができるように、ある種の潜在意識の形態が備わっている。

 悪魔に理屈が通じるが、天使には通じない。なぜかというと、天使は揺るがすことのできない法なのだ。天使は自分の清い目的から外れることができない。悪魔はある意味で天使に類似しているが、彼は天使の仕事に反対して、人間に影響を及ぼすことができる。悪魔が人間にくっつくと、人間と同じように行動し、そして不合理かもしれないが、人間の論理を使う、天使はそのような行動を取ることができない。創造の領域の中で、画一的に働く。どういうことかわかるかな。天使は善しか選べないのだ。悪魔は人間と協力して、論理的な能力とか、人間の経験の一部を吸収できるのだ。天使は大天使の愛をそのまま色を染めずに表現できる。悪魔は分離の領域で、自分の大天使の感傷的な愛を表現する。だから、悪魔の方が天使より人間にくっつきやすいのだ。植物と動物の世界に対して、そして人間に対して、天使たちは聖霊を通して細胞や組織を盲目的に、かつ美しく創造したり、治癒に関わったりする。他方、悪魔は人間がすることすべてをやる。彼は、人間の感情をすべて持って生きるのだ。」

(キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー」太陽出版/P241-242)

 シュタイナーは、人間は自由の霊であるという。おそらく、人間は天使的でもありえ、そして悪魔的でもありえるからだろう。

 天使的であり悪魔的でもあるがゆえに、人間は深く苦しむ。生は苦、四苦八苦であるというのもそのひとつ。天使には苦は存在しないだろうから。人間はみずからの悪魔性に気づき、そこから逃れようとする。または、みずからが悪魔的になろうとしたりもする。

 みずからの悪魔性に気づき、それを呪うことがあるだろうが、そのことは大いなる可能性であるということに気づく必要がある。悪魔にもなれるというのは、大いなる自由なのだから。

 自由がないということも、大いなる恩寵であり、それは天使の属性であろう。そこには永遠の至福があり、苦しみは存在しないだろう。天使は大いなる法則のなかで生き、その法則をはずれることはできない。そして人間には自由があり、そこには苦しみがある。永遠を求めながら、みずからの苦しみのなかで生きている。大いなる法則に気づくことはできても、その法則を生きるためには大いなる努力が必要とされる。大いなる法則をはずれることなどたやすいことなのだ。それによってさまざまな苦しみを生む。そして悪魔と手に手をとりあって踊ることもできる。

シュタイナーは述べている。

 今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できるということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではなく、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いているからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協力し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるでしょうから。

(シュタイナー「社会の未来」高橋巌訳/イザラ書房P30-31)

 私たちは、悪魔にもなれるほどの可能性をもって、みずからが「善き人間」であるという催眠状態から覚め、みずからの創造的な力を発揮しなければならないということ。人間は自由の霊であるがゆえに、悪の自覚をもちながら、悪を克服しようと努めねばならないということ。それによって、「善」そのものが高まっていくために。

 


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