神秘学関連諸テーマ2


ヘレン・ケラーとスウェーデンボルグ

自由の獲得のために!

むすびのダイナミズム

第四の道

カインとアベルの話

エロヒム人間とヤハウェ人間

アトランティスでの結婚・教育・生き方

霊的世界との反射板としての人間

 

ヘレン・ケラーとスウェーデンボルグ


(92/11/20)

 

>私の考えでは、本来の意味を失った既成の宗教や信仰を越えて真の宗教・信仰を

>見つける、という言い方をしてもかまわないだろうか、とも思います。

 そうですね、人類の歴史というのは、真の宗教・信仰というのをあまりに容易に歪めてきましたし、それは現代でもまったく同じ状況にあるようです。神秘学というのは、多くの場合、「教え」としてある宗教・信仰を、「理解」に導くものであると僕は考えています。

 先日も紹介したことがありますが、ヘレン・ケラーの「光の中へ」(めるくまーる)には、スウェーデンボルグによってキリスト教を深く理解したヘレン・ケラーの魂の底からの「声」が満ち満ちていて、いかに通常の宗教・信仰がその本来の意味を歪めてきたかが、深い実感を伴った理解によって綴られています。

 宗教は、私たちが神や同胞とどうかかわってゆくかについての学問であり、また私たち自身が負わなければならない義務についての学問であると定義されてきました。たしかに、キリスト教を正しく理解するなら、それは”愛についての学問”なのです。主は、眼に見えるかたちでこの世に住まわれたとき、「すべての律法と預言者」は、”神への愛”と”隣人への愛”という二つの戒めに基づいているかどうかにかかている、と宣言されました。・・・「あなたがもし私を愛するなら、私の戒めを守りなさい」とか「永遠の生命は、唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わしたイエス・キリストを知ることにある」とか「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば・・・あらゆることがあなたについてくるだろう」とか「私は”道”であり、”真理”であり、”生命”である」といった言葉は、ひたすら「神は愛なり、神は愛なり、神は愛なり!」ということを意味しているのです。・・・また地獄というのは神による罰ではなく、憎しみとか、燃えさかる欲望とか、自尊心が傷つけられたり利己主義が挫折したときのひどい落ち込みなど、そうした感情に身を投じる人たちに必然的に跳ね返ってくる因果応報であると教えています。

 けれども、いわゆる信者と言われる人たちは、二千年ものあいだ「神は愛なり」を繰り返してきていながら、この重要な言葉に含まれている真理の宇宙を悟ることも、その刺激的な力を感じることもありませんでした。・・・

 「神は愛なり」といいながら、愛の行為を実践しないキリスト者は、みずからをキリスト教徒と名乗るべきでは決してないにもかかわらず、名乗るべきでない者が幅をきかせ、実践する者を迫害してきたというのがキリスト教の大きな歴史であるともいえます。これは、もちろん仏教であろうと他の宗教であろうと同じで、どの宗教も信仰を盲信に変えるのを得意としていますから、どの時代にも、そうした腐敗を正すべく、さまざまな形で本来の意味を理解させようとした人間が登場してきました。ヘレン・ケラーが傾倒したスウェーデンボルグもそのひとりで、彼はシュタイナーとは異なった形ではありますが、みずからの科学者としての幅広い多彩な活動をベースとした「霊界探訪」を生涯の数十年にわたって知らせ続けてきました。彼は宇宙論においてもカントやラプラスに先んじて「星雲説」を展開し、宇宙創造についての壮大な体系を残していますが、ちょうどそれについての新刊、ヒューゴ・オトナー「スウェーデンボルグの創造的宇宙論」(めるくまーる)が出てて興味深いですので、読み終わったら紹介してみたいとも思っています。

 さて、 

> 神秘学的な認識を持つということは、その日常的レベルから意識的に生きる

>こと、実存主義的な態度で生命の意義に目を向けることに他ならないのではな

>いかとも思うのですが、いかがでしょうか。

 ということですが、その「日常的レベルから意識的に生きること」というのは、そのまま霊界でよりよく生きることであるということが神秘学的な認識には欠かせないものになってくると思います。これについても、上記のヘレン・ケラーの著作の中で、地上での生活と「天界」での生活の両方につながるスウェーデンボルグ視点が述べられていますので、それを紹介しましょう。 

天界というのは霊の体をまとった魂たちの広大な領域であり、そこではすべての魂がひとつの壮大な”役立ち”のシステムの中に相互に関係しながら結び合わされています。その集団の中ではすべての個人が、自分をより高く向上させ、それによって全体の美点を拡大させることのできる可能性や関心や特殊な知識をもっています。そこで、それぞれの個人は、互いに他人に依存しながらも自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大していく幸福感に対応してより多くの責任感をもつようになるのです。

 もし私たちが地上での生活を頭の中でよくよく検討してみるなら、この地上もやはり同じ”役立ち”の法則に支配されていることがわかるでしょう。・・・

スウェーデンボルグが天界の生活をひとつの手本として示しつづけているのは、それが現実的な学習として役立つからです。私たちに地上の生活が与えられているのは、私たちを天界での生活に備えさせるためだ、と古い教えは説いています。けれども、その逆もまた真理なのです。・・・ですから私はスウェーデンボルグが天界での幼児教育にについて述べていることは、地上の初等教育への提言でもある、と指摘することをはばかりません。天界の子供たちは、絵や教訓劇や見学によって、図解や実例によって、つまりほとんど”表象物”によって教えられます。これこそ、現代の教育学がめざしている目標であろうと思われます。これに似た方法によって、私はどれほど知識や達成感がもたらす祝福へと導かれたことでしょう。幸せにも、私はそれをときどき思い出すことがあるので、この指導法をじょうずに応用すれば地上の一般教育システムにも大いに役立つものと信じているのです。

 この教育の考え方とシュタイナー教育の考え方を比較してみることはとても有意義ではないかと思われます。シュタイナーがスウェーデンボルグについて言及してあるものを残念ながらまだ見つけたことはありませんが、やはりスタンスは違え、神秘学的な視点を比較してみたときにその類似点というのは驚くほど大きいものがあるようです。

 おすすめの本が多くてうんざりするかもしれませんが、このヘレン・ケラーの「光の中へ」は、ほんとうに素晴らしい著書で、誰にでも、魂の底から「希望」という「楽観主義的視点」を確信させてくれるはずだと思います。

 

 

 

自由の獲得のために!


(92/11/22)

 

>宗教団体による洗脳教育を受けた人が、あたかも融通のきかない多幸症生産機

>械のように見えてしまうのも、あながち見る側の偏見ではないように思えます。

 「宗教による洗脳教育」というのは、結局のところ、本人の認識の傾向性がすべての原因になっているようですね。宗教に溺れていく方というのは、どこか自分に弱い部分があって、その部分に認識の光を当てて、それを克服していくことができずに、自分の弱いところを甘く包んでくれるような、またその部分を見なくてすむようなすり替えをしてくれる「教え」にみずからが蛾のように引き寄せられていくというのが本当のところなのでしょう。 

>神秘学においても、ひとたびそれが教団のような形をとってしまう

>と、全く同じ様な蒙昧にはまりこんでしまう危険性は大きいと思います。

 そうですね、シュタイナーの人智学でもそれを自己認識と世界認識のガイドとするのではなく、「教え」のように受け取ってしまう方というのは、悲しいかなたくさんいるようです。シュタイナー自身、生前繰り返し言っていたようです。「なぜあなたがたは私のいうことを自分で確かめず、鵜呑みにしようとするのか」と。 

>「自由」であるか否かという観点はとても重要だと思うのです。 

 そうです、その通りです。シュタイナーの出発点はその「自由」ということにあります。シュタイナーの哲学上の主著は「自由の哲学」ですし、僕もその観点を抜きにしたところにシュタイナーはないとさえ思っています。これまでも幾度か紹介したことのある部分ですが、「神秘主義とその世界観」(水声社)から、「自由」についての観点を。 

 人間の行為すべてが自由の性格を帯びているのではない。細部にわたるまで自己観察に貫かれた行為のみが、自由な行為なのである。自己観察が個体的な自我を普遍的な自我に高めるので、自由な行為は全我から流れ出る行為である。人間の意志は自由であるのか、あるいは、一般的な法則、変更できない必然性のもとに置かれているのかという古くからの問は、正しい問の立てかたではない。人間が個体としておこなう行為は自由ではない。人間が霊的な再生ののちにおこなう行為は自由である。人間は一般的にいって自由なのか、不自由なのかではない。人間は自由でもあり、不自由でもある。人間は霊的に再生する以前は不自由である。霊的な再生をとおして、人間は自由になることができる。不自由な意志を自由の性格をもった意志へと変化させるのが、人間の個体的な上昇、進化である。自分の行為の法則性をみずからの法則性として貫いた者は、この法則性の強制と、不自由を克服したのである。自由は人間存在の事実として最初から存在するのではない。自由は目標なのである。

 自由な行為によって、人間は世界と自分との間の矛盾を解く。人間の行為は普遍的な存在の行為となる。・・・

 上述の「自由な行為」にふさわしいのが、まさにヘレン・ケラーの認識であるように感じられますが、この「自由」という観点については、いずれ「自由の哲学」をベースとして検討してみたいテーマのひとつでもありますし、輪読会の次のテーマでもある「カルマ」の視点でも欠かすことのできないものですからそこでも、「カルマ論」のなかから少しばかり紹介してみたいと思ってますので、ご期待ください。

>ヘレン・ケラーの言葉は素晴らしいですね。クリシュナムルティの言葉とは

>また色合いの異なる美しさを感じます。力強い光を感じるとでもいうのでし

>ょうか。

 そうですね、ヘレン・ケラーの言葉はすべてに「光」を感じます。その著書を読みながら、幾度も感動のあまり涙ぐんでしまったこともありました(^^;)。そこには、クリシュナムルティにはみられない類の認識によって高められていく「希望」や「愛」の奔流があります。このヘレン・ケラーの著書に影響されて精神が麻痺することはありえないでしょう。 

>スウェーデンボルグの提唱した霊魂の世界のあり方に懐疑的だったのです

>が、確かにあの方ももっと私が注目すべき人物かも知れません。 

 僕もまだまだスウェーデンボルグについては不案内なのですが、今でいえばノーベル賞の10個や20個に匹敵するであろう長年の科学者としての実績に裏付けられた霊界探訪と聖書解釈には、やはり敬意をもって接すべきであろうと思います。

 ちなみに、スウェーデンボルグを日本に最初に紹介したのは鈴木大拙です(^^)。

 ヘレン・ケラーは、スウェーデンボルグの最後の神学の著作である「真のキリスト教」の英訳版(1933年)の序文に、次のような賛辞を贈っています。 

 スウェーデンボルグの神学教説は膨大なものです。・・・しかし、彼の中心的な教理は単純です。これは3つの主要な考えから成り立っています。つまり、神的な愛としての神、神的な知恵としての神、そして役立ちのための力としての神、という考え方です。これらの考えは、生命のあらゆる港湾へと、意志、信仰、および努力といった新たな可能性をもって押し寄せる大洋の波のようになって来ます。・・・彼は、見えない眼からヴェールがはがされ、鈍い耳が活気づけられ、もの言えぬ唇が話せるようになるという希望を支える、あざやかな証言をもたらしています。私たちのあいだには、信仰のあらゆることに対する痛ましい無関心や、生命の法則を霊的な言葉で説明しようとするあらゆる努力に対する苛立ちがあります。唯一、本当の盲人というのは、真理を見ようとしない人々----霊的なヴィジョンに対してみずからの眼を閉ざした人々----のことなのです。このような人々にとってのみ、暗闇は解消できないものになるのです。・・・ 

 みずからが真理を見ようとすることこそが自由を獲得しようとすることであると確信しているのです。

 

 

 

むすびのダイナミズム


(92/11/24)

 

>出口王仁三郎と磐山は神道霊学の両極端に位置していたのは間違いないのです

>が、大本教の内部にも、霊系(天系・火)のナオと、体系(地系・水)の王仁

>三郎の両立と対立の構図があったのは面白いですね。両者の霊的争闘は凄まじ

>いものがあったらしいです。

 ここらへんのことは、どうにもすっきりとわからないことが多いですね。天系と地系の対立構図というのが、意図的に配置されているとしか思えません。「霊的闘争」というのが、ダイナミックな働きとなって、その両者によってあるエネルギーを産みだそうとしているかのようです。おそらく、ある霊的地場を構築していくためには、その両者のぶつかりあうエネルギーがどうしても必要なのかもしれません。それと、ちょっと気になるのは、天系の方が顕在的な形という方向性をとるのに対し、地系というのは、どっちかというと秘された形という方向性をとるように見えます。どうも、表のドンと裏のドンのような関係にあるようなイメージもあります。

 鎌田東二さんの「異界のフォノロジー」のなかの「高天原とは何か」に古事記と日本書紀に描かれている神々やその出現した場所の比較がされてました。その両者には大きな違いが3つあって、まず、『古事記』が天地初発之時「高天原」に成れる神々の出現を説くのに対し、『日本書紀』では、天地が順に成り定まって後に神がその中に出現したとしています。次に、出現した神々の違いとしては、『古事記』が(1)天之御中主神(2)高御産巣日神(3)神御巣日神であるのに対し、『日本書紀』では、(1)国常立尊(2)国狭槌尊(3)トヨクモヌノミコト(カンジガデナイ!)です。『古事記』では三神との「神」で、『日本書紀』では「尊」になっています。つまり、前者は「高天原」に出現した「天」や「原」の名をもつ神々を掲げ、後者は、「天地の中」に出現した「国」の名をもつ神々を挙げています。それから、第3の違いというのは、『古事記』冒頭に出現する三神が「独神(ヒトリガミ)」であり、かつ「隠身(カクリミ)」であるのに対し、『日本書紀』冒頭の神々は「純男(ヒトヲトコ)」であり、「葦牙」のごとき形状をもって「独化」したと説かれています。ここらへんの比較から、鎌田東二さんは「高天原神学」の形成について考察を進めていくのですが、それはそれとして、ここではあくまでも「天系」と「地系」にこだわってみたいと思います。

 上記の『古事記』と『日本書紀』の最初の神々を比較してみると、天系の天之御中主神と地系の国常立尊なわけですが、 

>          /天神−−伊勢神宮−−顯幽不二の主宰

>  天之御中主神−− 地神−−出雲大社−−地の幽界の主宰

>          \人神−−日本天皇−−地の現界の主宰 

>「この外に神界の本場などと称するはことごとく邪道である」

 しかも、 

>磐山の言う邪神は『日月神示』でいうところの「石屋の仕組み・悪の仕組み」

>そのものでありますね。『日月神示』はウシトラの金神系=地系の神示ですか

>ら、磐山は天系の霊統であるとは一概にはいえないと思うのです。

 上記の鎌田東二さんによる古事記と日本書紀の比較を併せて考えてみると、天地創造の神々としての地系の神々と日本の霊域である「高天原」の関係がなんとなく浮かび上がってくるのではないかと思います。その両者というのは、「対立」というのではなく、「役割」が違っていて、それぞれの働きかける対象とあり方の違いとその両者の相互作用の必要性からこの世においては「闘争」として顕現してくるのではないでしょうか。 

>天津神系の「根本の天の御先祖様の御霊統」と、国津神系の「根本のお土の御

>先祖様」とが結ばれる、つまり「あめつちのむすび」が完成した時、ミロクの

>世が現れる、というのですね。さっき「磐山は天系の霊統であるとは一概には

>いえない」と書きましたが、磐山のほうは天津神に導かれて「霊的防衛」を画

>策し、国津神であるウシトラの金神=日月神が岡本天明に懸って「日月神示」

>を書かせたんじゃないかと思うのです。

 日本の霊域を守護・指導している「高天原」の天系の神々としてはやはり、「霊的国防」ということがあの時期において最重要テーマであるのに対して、地系の神々というのは、「新たな創造」ということにメインテーマがあるのでは。 

>ARIONが「私はユダヤの神とアマツクニトコタチの神との双方に流れる者

>だ」といっているように、国常立神=ウシトラの金神はユダヤの神と深い繋が

>りがあるようですね。アマツクニトコタチは記紀にもない神名ですが、似てい

>るのが、別天津神(ことあまつかみ)の一柱である天之常立神(あめのとこた

>ちのかみ)、この神は一説では「総ての天の霊気、風気を神徳とする地球発生

>以前の神」なのだそうです。ひょとするとARIONは「あめつちむすぶカミ」

>なのかも知れません。

 おそらく地系の神々というのは、「地球発生以前の神」というか「地球生成」に関わった神々というか宇宙神霊なのではないかと思えます。しかも、そうした神霊は、この「地」というか物質レベルに直接働きかけることができるから、「あめつちむすぶ」ことができ、しかも、この地上への働きかけとしては、地球全体か宇宙と関係するレベルで働きかける存在で、それに対して、天系の神々というのは、地球上の人間の指導や霊域の守護・指導といったことを恒常的に司る存在で、「地」に直接働きかける力はもっていないのではないかと考えられます。シュタイナーのいう霊的存在のヒエラルキーでも、第一ヒエラルキーの3位階というのが直接物質界に働きかけるのに対し第二ヒエラルキーの3位階は、エーテルレベル、第三ヒエラルキーの3位階は、アストラルレベルに働きかけるとしています。

 ・・・とかいってますが、やっぱりよくわからないところが多いですので、今後、ここらへんについてはまだまだ探求していかなければと思っています。 

>「中」は不徹底を意味せず無気力を意味しない。……「中」の威力こそ真の

>威力である。

>真実の『中正』なるものは其の進むところあらゆる『不中正』を打破修正す

>る旺盛な気魄をもつものでなければならぬ。

 「中」というのは、早い話が「正しい」ということなんですよね。つまり、「中道」というのは「正しい道」ということで、ですから、中途半端というのは、「正しい」ということではありえません。 

> 神の道は「むすび」の道である。タカミムスビ、カミムスビの大調和が「む

> すび」であり「まこと」である。言葉を換えて云へば「あめつちのむすび」

> である。

 たしかに、「中」というのは「むすび」ということに他なりませんね。「空」なるものにもとらわれず、「仮」なるものにもとらわれず、その「むすび」のなかに真実を見るとでもいえばいいのでしょう。そして、あらゆる創造的な営為というのは、その「むすび」からしかなされない。そうした「中」なる「むすび」のダイナミズムこそが、宇宙進化の推進力でもあるのでしょう。

 天系と地系の神々というのも、あえていえば、その両者の「むすび」のダイナミズムによって、この地球の進化発展を願っているのではないかと考えているのです。

 

 

 

第四の道


(93/02/12) 

>Gの行は非日常ではないのか、という指摘がちょっと気になる・・・

 そうですね、非日常の行というのは軽率な言い方でしたね。第四の道ということについては、一応知ってはいたのですが、その道とシュタイナーのあり方が似ているようで、スタンスがちょと違う、ということをいいたかったのでした(^^;)。 

>Gが人間の内面にこだわるのに対して、シュタイナーはもっとグローバル

>な、人間をとりまく宇宙だとか、歴史に眼目を置いているのではないかと思

>います。もちろん、シュタイナーの場合でも人間に戻ってくるわけなんです

>が。でも、その見方というものはだいぶ方向性が異なると思います。

 ううん、そういう言い方もできつでしょうけど、誤解を恐れずいえば、僕は同じ「第四の道」をめざすにしても、その中でもGはやはり「意志」をベースにしているのに対して、シュタイナーは、「思考」をベースにしているというイメージをもっています。もちろん、シュタイナーにしても、思考・感情・意志というもののバランスを大切にしていたわけですが、やはりその中でも「思考」というものを機軸としていたように思えます。シュタイナーの神秘学がさまざまな科学等へのリンクを可能にしているのも「思考」を機軸にしていたことが大きかったと思うのです。

 おそらく、そういう意味では「感情」をベースにした「第四の道」というのもあるのでしょうが、ひょっとしたらそれがKだ、というと、ちょっと違うかな。

 

 

 

カインとアベルの話


(93/03/31)

 

 カインとアベルについての、シュタイナー関連の記述が見つかりましたので、早速、その部分をまとめて紹介しておくことにします。シュタイナーの講演録の中では、「霊的観点から見た宇宙の進化」(「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)所収)にも、「月紀」のところで、神への供犠が拒否されたカインについての説明もありますが、まとまって紹介してあるのは、「秘儀参入の道」(平河出版社)の訳者(西川隆範)による「あとがき」ですので、そこから、「薔薇十字の秘儀」の基盤をなす神話の内容を紹介してあるのをちょっと長めですが、引用することにします。

 昔、神々の一人が人間を創造し、エヴァと名づけた。エヴァと神は結ばれ、カインが生まれた。その後、ヤハウェがアダムを創造し、アダムはエヴァと結ばれ、アベルが生まれた。カインとアベルが成長したとき、アベルがヤハウェに捧げた受け取られたが、ヤハウェの血を引かないカインの捧げた供犠は受け取られなかった。カインはアベルを殺し、ヤハウェの共同体から追い出された。アダムをエヴァの間にはアベルのかわりにセツが生まれた。

 カインの系統からは芸術と科学が発生していった。このカインの系統から建築家ヒラムが生まれ、セツの系統からはソロモンが生まれた。カインの系統は人間の苦悩から生まれた叡智を担い、セツの系統は神から受け取った叡智を担っていた。

 ソロモンは神殿を造ろうと思い、ヒラムを呼び寄せた。その頃、シバの女王がエルサレムにやってきて、ソロモンもヒラムも彼女に心をひかれた。こうして、ソロモンとヒラムの間に緊張が生まれた。

 神殿は完成に近づき、「青銅の海」の鋳造を残すばかりとなっていた。ところが、ヒラムに建築家としてまだ修行が足りないとされた三人の男たちが、その恨みから、「青銅の海」の完成を妨げようと計画した。ソロモンはこの計画を聞き知ったが、ソロモンはヒラムへの嫉妬から、三人の男の計画を中止させはしなかった。

 三人の男たちは青銅のなかに混ぜものをし、その結果、溶液は燃え上がった。この炎の前に立つヒラムに、祖先の一人であるトゥバル・カインが現れ、「心静かに火の中に入ってきなさい。火はおまえを焼きはしない」といった。ヒラムは火の中に入っていき、地球の中心まで達した。トゥバル・カインはヒラムをカインのところに連れていった。カインは神々しい姿で地球の中心にいるのだった。ヒラムは火の秘密、青銅鋳造の秘密を教わり、槌と黄金の三角定規をトゥバル・カインからもらって地上に帰り、「青銅の海」を無事完成することができた。

 このような神話の意味でカインの子である者たちにとって、キリスト教の象徴は十字架に架けられたキリストではなく、薔薇で飾られた十字架であった。アベルが「月の子」として認識の木に結びついているのに対し、カインは「太陽の子」として生命の木に結びついていた。ヒラムは後にラザロとして再受肉することになる。

 こうしたカインとアベルの関係をスサノオをめぐるさまざまな神々と比較してみると、かなり興味深いことが見えてくるのではないかと思っています。

 

 

 

エロヒム人間とヤハウェ人間


(93/04/03)

 僕はそんなに聖書関係に詳しくないので、一般にカインとアベルの物語として語られていることそのものについては説明しかねますので、あくまでもシュタイナー的な観点からいうと、あの引用で説明されている「神」と「ヤハウェ」というのは、違います。前者は、エロヒムの集合体としての「神」であり、後者は、創造の第7日目に「エロヒムは休んだ」ということで意味されているエロヒムからヤハウェ・エロヒムへと進化した存在としての「主なる神」です。

 で、「カイン」ということでいわれているのは、いまだ両性具有的であった「エロヒム人間」のことで、それが高次存在の供犠の断念という形をとることによって、高次存在から離反する可能性、悪をおこなう可能性、と同時に自由の可能性も得ることになります。それに対して、「アベル」ということでいわれているのは、単性的人間へと「進化」した「ヤハウェ人間」のことで、「天的存在の継承者」ということになります。で、その「カイン」と「アベル」ということで象徴される人間存在の2つのあり方がさまざまに絡み合っていくことになるというわけです。

 これについては、シュタイナーの「創世記の秘密」(白馬書房)や「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)など、もし気がすすまれれば、お読みいただければ、その背景などご理解いただけるのではないでしょうか。

 ちなみに、人間に自我の本質の萌芽を埋め込むことになったのが「ヌシャマ」の刻印であり、シュタイナー的にいうとそれは「意識魂」ということになります。それから、「ネフェシュ」というのは「感覚魂」、「ルアハ」というのは「悟性魂」を表していますので、参考までに。

 聖書の「ブレシット・バラ・エロヒム・エト・ハシャマイム・ヴエット・ハアレツ」という言葉に、王仁三郎の次のような言葉が重ね合わされてイメージされます。

世界の太初に言葉あり

言葉は道なり神に座(ま)す

すべてのものは言霊の

清き御水火にもとづきて

造られ出でしものぞかし

 

 

 

アトランティスでの結婚・教育・生き方


(94/06/29)

  

●フランク・アルパーの「アトランティス」(太陽出版)

 この本から、教育等に関係したまずは該当個所をご紹介してみることにします。 

 若い男女が、互いの波動が合うと感じた場合は、神殿に行って、神官または女神官に一緒になることを願い出るしきたりであった。そうすると、双方の波動を霊的に結合する手続きがとられた。これにより、互いの波動の進み方が変化した場合には、神殿に行って、この関係の解消を申し出るだけでよかった。とくに理由をつけたり、心配する必要はなかった。エネルギーの交換は必ずしも一定ではなく、ニーズが満たされて関係が不必要になることもあるし、人により成長や進化の速度も異なるのは周知のことであり、そうした考えは一般に受け入れられていたのである。相手に対する役割をはたしたならば、新しい相手を見つけて、成長と進化を継続できるようになっていたわけである。

 もし、結婚して子供が生まれた場合は、二年後に、その子供は保育所に預けられ、母親役の女性たちの監督下におかれる。子供は愛情に包まれて育ち、すべての人に対して愛情を感じながら成長していく。母親役は一人だけというわけではなく、大勢の母親役が面倒を見る。ほかの子供と一緒の環境で育つあいだに、他人を敬うことを学び、兄弟関係や生活規則について知ることができる。実の母親が、子供を保育所預けるときに悲しみや苦しみを感じることもない。子供は親の所有物ではなく、一人の人間と考えられていたからである。両親も、自分たちはいわば子供を生む手段であって、子供はみんなの子供なのだと分かっていた。子供たちは多くの人に愛され、愛情の波動の中で育てられた。嫉妬や不満などを感じることなく、責任感と独立心を培った。

 いずれ、人類は子供との関係を見直すときがくるだろう。そして、子供たちを人間として認識し、自らの物の見方にとり込んでいくだろう。アトランティスの、この制度は、誰もが自由を享受できるシステムである。男性も女性も不当に制限されることなく生活し、成長をつづけられるようになっていた。もちろん、子供に愛情を表現する必要を感じたときには、そうすることができた。この社会の究極の目的は表現の自由と目的追求の自由を与えることであった。アトランティス人は、自由な魂たることを身をもって実践していたわけである。

 この「アトランティス人の生き方」なるものをそのまま鵜呑みにすることは避けるとしても、ここには僕の理想に非常に近いものがありました。

 子供を親の所有物、そうでなくても血縁や共同体の所有物のようにみなす仕組みはいったいどういう理由で出現してしまったのでしょうか。「子供たちを人間として認識」することのできにくい風習というのを逆に考えてみれば、そういう考え方に自由な意志でたどり着くように、あえて障害物を数限りなく置いたということではないかと思います。「愛」ではなく、「嫉妬」や「不満」といった傷害です。それは「自由な魂たること」を、それに大きく逆行する状況の中でも「実践」することが求められているということなのかもしれません。

 「結婚」も、今ではあきれるほど茶番化した結婚式を前提としてますが、それが血縁や共同体の部分集合のようにみなされていることが多いのも、それが相互制約や嫉妬や不満という山のような「愛の反対のもの」を「障害物」として置くことで、魂を練っているということなのかもしれません。

 そう考えてみれば、上記に引用したアトランティス的なレベルよりも、現状ははるかに難易度の高いレベルの勉強をしているということになります。もしそうであれば、ほんとうにこれほど苦しい状況はないかもしれません。それは、「流されることの余りの楽さ」故に、あえて自分の自由意志の底力がどうしても必要とされるからです。

 ま、こうした「想定」はあくまでも僕のイメージの世界でしかありませんが、日々、現状の桎梏を感じながらのひとつの意見なのであります。  

 さて、「自由」ということで、ついでに。 

 今年は、シュタイナーの「自由の哲学」が出版されてから、ちょうど100年目にあたるということで、先日、スイスのドルナハから、その記念出版云々というインフォが来てたのでそれと気づきました。この「自由の哲学」は、「永遠に不滅です!」なんて言ってみたりしたいなあ、なんて思ったりもしたのでありました。ちなみにこの「自由の哲学」はイザラ書房から邦訳(高橋厳訳)が出ています。 

 

 

 

霊的世界との反射板としての人間


(95/01/27)

 

 仏教では、その根本教義である三法印というのがあるようですが、それは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三つの法で、その三つの法では、どうしても「解脱至上」的になり、「現世否定」になってしまうことは避けられません。もちろん仏教の展開としては必ずしも「現世否定」ではないのですが、教義の傾向性としては、どうしてもその偏りはあるように思います。ぼく自身の思想的傾向からいうと、もともとぼくにはそういう傾向があって、つい数年前までは、そうした仏教の「現世否定」的な側面が強かったのですが、やっと最近になって、その偏りを深く反省するようになりました。だからこそ、わざわざその点を強調してみたのでした。 

>この世の人間は、どのように生きるべきか? それが主眼なのでしょう。 

 霊的世界とこの物質的世界というのは、シュタイナーの説明を援用すると水でできている世界とそれが凝固して氷になって世界とに比較できます。この世にいる我々に見えるのは氷だけなのですが、本来的にはすべて水でできていて、それが見えないのは我々がまさにマーヤに覆われているからだといえます。

 我々の課題としては、氷のもとになっている水の世界についての理解が必要でその理解の上にたったうえで、では氷の世界で我々はどう生きるべきなのか、ということについて深く実践的に模索していかなければならないわけです。もちろん、凝固した氷の世界についても深く理解しなければならなりません。 

>「霊的世界では持ちえない自由」というのは想像もつきませんが(そういう事も

>あるのかもしれませんが)、この世でしか経験できないことは、実際いろいろあ

>るんでしょうね。そうでなければ、この世に生まれて来る意味がありませんから。

 ボールを壁に跳ね返させて一人でキャッチボールするシーンを想像してください。そして、その壁をこの物質世界だというふうにイメージし、ボールを投げたり受け取ったりするのが霊的世界だとイメージしてください。この世界で起こることは、霊的世界に雛形があって、それが映写幕に投影されるかたちでこの世で物質的に顕現するといいます。そしてまた、この世で物質的に生じることはまたそれが雛形になり霊的に反−投射されるというふうに考えてみると、その反射する壁のあり方をどうするかがこの世の自由ということになります。半ばぼくの憶測にすぎないことかもしれませんが、神的な働きということは、天変地異も含めて人間が媒介になっているように思われます。その壁−媒介としての自由を、いかに神の「鏡」として行使できるかというのがこの世に生まれてくる我々人間の意味だというふうにぼくは考えているのです。

 この「反射」という考え方は、以前カズタマの部屋で述べたことがありますがその視点は、マクロコスモスとミクロコスモスの照応に対応するものですし、数や幾何学による宇宙論的なビジョンに則ったイメージをぼくは持っているのです。

 でもって、現時点での人間の役割といえば、先の三法印の認識をベースにしながら、それをこの物質的世界にあまねく降ろしてくる営為だという気がします。それを「キリスト衝動」だといってもいいと思うわけです。


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