神秘学関連諸テーマ1


霊統について

グルジェフ●ウスペンスキー

機械人間から自由人間へ

アートマン/宇宙の息

天使の位階

アカシャ年代記について

アストラル死体のその後など

浄霊の危険性など

 

 

霊統について


(91/11/24 )

 

 「霊統」ということは、僕もかなり気になるテーマだし、シュタイナーだけの説明だとどうしても理解できないところが多いから、もっといろんな情報や仮設などによって、理解を深めていかなくては、と思っています。そこで、この「霊統」ということについて、なにか解説した、わかりやすい本ないかな、と思って本棚をごそごそ探してましたら、ありました、ありました。やっぱり、高橋巌さんでした。アーガマの1989年10月号に「霊学とは何か」という巻頭論文がありましたので、そのなかの霊統に関するところを紹介しておくことにします。やっぱり、「霊統って何」っていうことやシュタイナーにおけるその基本的な説明からはじめないと、結局議論が宙に浮いてしまう可能性ってありますからね。

 この論文によると、「霊統」というのは、「血統」に対していわれる言葉で、血のつながりで伝えられる遺伝的な系譜が「血統」で、霊界から伝授される系統が「霊統」であります。ここらへんに関して説明がありますので、引用します。(P.26)

時代をさかのぼればさかのぼるほど、霊統と血統は一つのものと考えられていました。なぜかというと、その同じ血の流れのなかに叡智が組み込まれているので、肉体の無意識のなかに組み込まれたその叡智の記憶を取り戻すということが、同時に、霊統につながるということだったからです。もともと血統と霊統というのは一つだったのですけれども、時代が下るに従って、肉体の中に組み込まれた祖先からの記憶が失われてしまいました。ですから、師匠が自分の教えを最もよく受け継いでくれそうな弟子を探して、血統関係とは全然別なところで後継者を見いだし、その後継者に霊統を継がせるという形をとるようになったのです。

 この論文のなかには、こうした「霊統」のテーマのなかで、鈴木大拙の「日本的霊性」のことなんかも書かれてましたがそこらへんは省略します。

 神智学及びシュタイナーなんかでは、アトランティス文化期以降の西方の流れを、5つにわけて考えていましたが(以前、レジュメでも説明したことがあります)、高橋巌氏は、この西方の霊統の5つの文化期に対応させて、東方の霊統の5つの文化期を下の図のように説明しています。

 

紀元前8000年

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●アトランティス文化期●

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                   ↓

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●西 洋●           ●東 洋●

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 ↓      後アトランティス第1文化期      ↓

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●インド文化期●          ●原スメル文化期●

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 ↓     後アトランティス第2文化期      ↓

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●ペルシア文化期●          ●イラン文化期●

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↓     後アトランティス第3文化期     ↓

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●エジプト・カルデア文化期●       ●ツラン文化期●

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↓      後アトランティス第4文化期      ↓

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●ギリシア・ローマ文化期●       ●中国文化期●

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●現代●

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後アトランティス第5文化期

 

 上記の文化期のなかで、今日のアジア文化の基をつくったのが、北方に移った、東洋の霊統の第3期にあたるウラル・アルタイ語系の黄色人種(ツラン文化期)であって、具体的にいうと、トルコ、蒙古、中国、中国東方のツングース、朝鮮、日本などであって、そのツラン文化期が生みだしたのが「シャーマニズム」だそうです。

 このシャーマニズムに関しては、僕もかなり関心があるので、この論文のそれに関するところを引用しておきたいと思います。

シャマニズムにはいくつか特徴がありますが、そのいちばん重要な点は生命体を高度に発達させた人々の文化であるということです。いいかえると、肉体と生命体との関係が、現代人のように固定されているのではなく、熱狂したり、興奮したり、祈ったりする人々は、生命体を肉体から分離させることができたのです。そういう人種的民族的な特徴がツラン民族にはあったのです。

 その結果、この人々は石や風や雨、あるいは木や草や鳥やけものなど、ようするに、そういう自然と非常に深い関係をもつことができたのです。つまり、先ほどいいました自然霊と、非常に密接な関係をもったのです。

 したがって、石神、水神、土地の神、あるいは神木、聖獣、そういったものを崇める信仰をもっています。

 ですからこの人々は、今日でいうテクノロジーによって物質文明を創ろうとする衝動をあまりもたず、いわばどんな土地にでも溶け込むことができたので、国家を形成する衝動も希薄でした。そのかわり、夢を大事にするとか、死者を崇めるとか、自然を大切にする感覚などは、非常に進んでいたと思われます。

 参考までに、最近このシャーマニズムに関して面白い本がでてました。鎌田東二と佐々木宏幹の「憑霊の人間学/根元的な宗教体験としてのシャーマニズム」(青弓社)です。

 ついでですから、鎌田東二氏の主な著作を紹介しときましょう。 

●「水神伝説」(泰流社)

●「りしゅのえろす」(メタモルフォーゼ社)

●「神界のフィールドワーク」(青弓社)

●「翁童論」(新曜社)

●「老いと死のフォークロア」(新曜社)

●「聖トポロジー」(河出書房新社)

●「記号と言魂」(青弓社)

●「異界のフォノロジー」(河出書房新社)

●「場所の記憶」(岩波書店)

 

 

 

グルジェフ●ウスペンスキー


(92/03/03)

 

 グルジェフ、ウスペンスキー関連の文献目録です。

 一応、これから紹介するものは基本的に僕のライブラリーにあります。 

●G.I.グルジェフ:ベルゼバブの孫への話/人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判(浅井雅志訳、平河出版社)

●同上       :注目すべき人々との出会い(星川淳訳、めるくまーる)

●同上       :グルジェフ・弟子たちに語る(前田樹子訳、めるくまーる)

●P.D.ウスペンスキー:奇蹟を求めて/グルジェフの神秘宇宙論(浅井雅志訳、平河出版社)

●同上         :超宇宙論/魂の科学を求めて(高橋克巳訳、工作舎)

●K.R.スピース :グルジェフ・ワーク/生涯と思想(武邑光裕訳、平河出版社)

●トーマス・ド・ハートマン、オルガ・ド・ハートマン:

グルジェフとともに(前田樹子訳、めるくまーる)

●コリン・ウィルソン:覚醒への戦い(紀ノ国屋書店)*持ってません(^^;)*

●浅井雅志     :真理への旅/グルジェフ、その前半生(近代ピラミッド協会編オカルト・ムーヴメント/近代隠秘学運動史、創林社 所収)

 それから、トーマス・ド・ハートマンがグルジェフの作曲した音楽を記録した「グルジェフ/ハートマン音楽」として知られるものもなかなかです。

 ハートマン自身の演奏のものもありますが、残念ながらもってません。

以下、僕のもってるのを紹介しときます。 

●KEITH JARETT(PIANO)/G.I.GURDJIEFF:SACRED HYMNS(ECM)

●CECIL LYTLE(PIANO)/SEEKERS OF THE TRUTH VOL.1(CELESTIAL HARMONIES)

●CECIL LYTLE(PIANO)/READING OF A SACRED BOOK VOL.2(CELESTIAL HARMONIES)

●CECIL LYTLE(PIANO)/WORDS FOR A HYMN TO THE SUN VOL.3(CELESTIAL HARMONIES)

  

 

機械人間から自由人間へ


(92/04/22)

 

 グルジェフの「人間は機械だ」について。

 グルジェフの「人間は機械だ」というコンセプトには僕もいろいろと考えさせられました。要するに「本当は人間には自由がないんだ」と言い替えてもいいかもしれません。

 確かに観察してみると、悲しいかな、このことはよく実感できることで、当然僕も含めて、ほとんどの人間は「行動、行為、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣」にわたって自動人形のように見えてきます。これはほんとうに恐ろしいことで、「洗脳」ということが自己開発セミナーなんかで

 クローズアップされることもありますが、本当はそうでなくてももともと「洗脳」されているわけです。というよりも、「洗脳状態」を好んで選択しているといってもいいかもしれません。早い話、みんな自分でなにかをしよう、なんて本当のところは望んでないんです。観察してみるとこのことは、だんだんに恐ろしいくらいにそうだ、そうでしかありえないということが実感としてわかってきます。

 グルジェフ的ではないテーマかもしれませんが、シュタイナーの「死後の生活」をテーマとした論述風にいうとすれば、人間は死後、自分の認識できる範囲でしか存在できません。つまり、自分の認識力によってその各自の世界を創造するのであって、認識力が広ければ広いほどその世界は広くなるということなのです。もちろん、現在のこの日常世界にしてもそれは当てはまっていて、一見みんなは同じ世界に生きているように思えても、本当のところは、各自の認識力によって創造可能な範囲でしか「世界」は現れてこないといっても過言ではないと思います。

 シュタイナーの「自由の哲学」というのは、この「認識力」を拡大するためのもっとも基本となる考え方のベースを築こうとした試みであって、「機械」である人間に、そこからの脱却を図るためにも非常に有効なものだと、僕は常々考えています。

 グルジェフについては、こうしたシュタイナーとの比較ということが重要なことではないかと思われます。もちろん、安易な比較検討ということは誤解や錯誤の方が多いかもしれませんが、やはり比較によって思いがけない展望が開ける可能性ということを大切にしていきたいと思っているのです。

 人間存在全体を一本の大樹にたとえてみることにします。この世界でいうと50数億人の人間が一本の大樹を成しているわけです。

 本当にたくさんの人間が生まれ、この大樹の構成要素として生きます。この大樹の目的が、豊穣なる実りを目的としているとしますと、「ほんとうの人間」になるには、果実の部分に自分がなるのが一番でしょう。この大樹はこの果実のために存在するといってもいいかもしれません。多くの人間は、根っこの先の毛根から大きな根、幹、枝、葉とさまざまなポジションをもって生きていて、それはまさに偶然によってそのポジションが決められているということなのです。

 そこで、自分の可能性を創造するためには、「努力」によってみずからがみずからの望むポジションを得なければいけないのです。あらゆる人間は必要ではあるが、「必然」ではないということをここで理解しなければならないというのがグルジェフの考えではないかそう考えてみたりしてるのですが・・・。

 自由な認識を獲得しようとすることこそ「必然」を得る最大の営為なのではないでしょうか。

 

 

アートマン/宇宙の息


(92/10/20)

 

 「呼吸」というテーマの宇宙的イマジネーションとしての切り口を、ちょうど、ヘルマン・ベックの「インドの叡智とキリスト教」(平河出版社)にアートマン=宇宙の息ということでの記述がありましたので、紹介しましょう。

 インド人は・・・魂、自我のなかに見出される神的な一者をアートマン、宇宙のなかに見出される神的な一者をブラフマンと呼んだ。しかし、もともとはドイツ語の「呼吸する」(アートメンatmen)という言葉と関連するアートマンは、外的−宇宙的なもの、吹きゆく宇宙の息であり、ブラフマンは内的な敬けんさをとおして、魂を宇宙的なものに拡張するものである。その関係が逆になるのである。 

 偉大な宇宙の呼吸は人間の中にはいり込み、生きた魂になる。他方、人間の内面から宇宙に広がっていくものは、偉大な宇宙存在、創造的な宇宙言語とひとつのものとして感じられる。インドの叡智の最後の結論はいつも、外なる神と内なる神はひとつである、アートマンはブラフマンである、というものである。 

 わたしたちは、デーヴァ、デウス、ゼウスなどの言葉のなかに人類の原光体験を見出す。(どの神の名の語根にもDという音が重要な役割を果たしている。ちなみにドイツ語の「考える」(denken)のDもその名残である。/KAZE)アートマンという言葉からは原音体験がわたしたちに語りかける。アヴァトマン(avatman,ギリシャ語のアウトメーautme[息])に由来するアートマンは、最終的に語根ヴァ(va-)「吹く」に帰着する。このヴァは、さらにウ(u-)という音から発展したものである。この語根はインドの言葉(ヴァーユvayu,ヴァータvata)のなかで「風」を意味し、ゲルマン語のヴォータン(Wotan)、オーディン(Odin)と関係をもっている。インドのヴェーダにおいて、暴風がまだアートマー・デーヴァナーム(atoma devanam)、「神々の息」と名づけられるとき、それは暴風のなかを悠然と進むヴォータンを思い出させる。アーリア人は暴風のなかに宇宙の原初の音、自然の音を聞いたのである。それを表現するのに、インド、ヘブライ、ゲルマンの言語のなかで、とくにVとUの音が用いられた。息が人間のなかで音楽的−律動的なものに関係をもっているように、生命の息として人間のなかに入った偉大な宇宙の息、アートマンのなかで、偉大な宇宙の響き、宇宙の音楽が本源的に体験され、言語表現へともたらされた。 

 

 

天使の位階


(92/10/30)

 

 昨夜は、例のヘレンケラーの「光の中へ」についても話してたのですが、あの文章の格調の高さというものは、まさに「光」ですね。この本を読みながら、胸の奥からこみ上げてくる熱いものをずっと感じていましたが、やはりヘレンケラーについて書かれたものには、スウェーデンボルグなどのついてふれられていることはまずなかったですよね。そこらへんに、妙な低次の教育的配慮を感じて悲しくなってしまいます。

 このヘレンケラーの著書は、ほとんど全編にわたってスウェーデンボルグについてふれられていますが、その中から輪読会とも関係しそうなところを引用しておくことにしたいと思います。

 スウェーデンボルグの描写によれば、天界というのは、たんにすてきな想像を寄せ集めた世界ではなく、住むことのできる実際的な世界です。忘れてはならないことは、死というのは生命の終わりなのではなく、とても重要な経験のひとつにすぎないということです。・・・私は、二つの世界があることを知っています。ひとつは、紐やものさしで測ることができる世界であり、もうひとつは、心や直感で感じとることができる世界です。スウェーデンボルグは、来世とはたんに想像できるだけでなく、望んでそこに行けるところである、としています。・・・人がこのことをなかなか信じることができないのは、それが証明できないからというよりも、むしろ本人自身が懐疑的な態度をとっているからです。その人の利己的な欲望が霊的な努力を圧倒してしまうのです。もっと本当のことを言えば、たぶん彼の内的能力が、まだ意識的な経験をする段階にいたっていないのです。その能力は、有効に機能するにはまだあまりにも弱すぎるのです。彼は自分の性格におよぼす悪影響を悟ることができません。自分の霊的存在の本当の意味を理解せず、物質的な存在だけが現実だと信じるのです。・・・

スウェーデンボルグは、天使たちがどのように天界のあちこちの領域へ彼を案内し、死後の生活と不死なるもののリアリティをどのように示したかについて、宇宙のように広大で深遠な思想ともち前の知恵を駆使して私たちに語っています。・・・

学識ある評論家の中には、私を侮蔑の臼にかけて粉々にしようとする人たちもあることを、私は知っています。彼らは、私の貧しい哲学を痛烈な椰揄のかなしきに乗せ、科学から選びとった理論のハンマーで鍛え直そうとするでしょう。・・・私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。死の前でくずおれるような信仰は、頼りがいのない細いアシにすぎないからです。私は、私の魂が霊の光の中に立ち「生と死とはひとつのものだ」と叫ぶまで、確固とした思想をもってあらゆる視力を超えた視力につき従ってゆきます。自分の人生を振り返るとき、私は一度も会ったことのない人からとても大切な恩義を受けているように感じます。というのも、私がもっとも愛する交わりは、心の交わりであり、私にとってもっとも誠実で頼りがいのある友は、霊の友だからです。

 さて、天使についてですが、鎌田東二さんは序文の中で、「光の中へ」でふれられている天界の住人としての天使には、戦いの天使、知恵の天使、愛の天使の3種類があるということですが、「天使論」を、ということでもありますので、シュタイナーの天使観についてちょっと。シュタイナーは天使のヒエラルキーを次のように見ています。参考までに、下の表では、西川隆範さんによる、キリスト教における天使と仏教の諸菩薩との対照をしてみました。

●本来の霊的存在の9つの位階

           キリスト教       仏教 

●生命の子(黎明の子、個人の守護霊) 天使          四天王

●火の霊(民族霊)   大天使         刀利天

●人格の霊(時の霊、時代霊)     アルヒャイ(権天使)    夜摩天

●形態の霊              エクスシアイ(能天使)    兜率天

●動きの霊              ヂュナメイス(力天使)   化楽天

●叡智の霊              キュリオテテス(主天使)   他化自在天

●意志の霊              トローネ(座天使)     梵衆天

●調和の霊              ケルビーム(智天使)    光音天

●愛の霊               セラフィーム(し天使)    浄居天

 シュタイナーは、上記のうち、セラフィム、ケルビム、トローネを第一ヒエラルキア、キュリオテテス、デュナメイス、エクスシアイを第二ヒエラルキア、アルヒャイ、アルヒアンゲロイ、アンゲロイを第三ヒエラルキア、というふうにヒエラルキー区分をしていて、それぞれの役割についてさまざまに解説しています。これについては先日の「民族魂の使命」にも解説されていますし、実はこれはカルマ論的視点でも大きなポイントになるところですから、できれば、少しずつこの表現になじんでもらえれば、と思います。

 

 

 

アカシャ年代記について


(92/11/13)

 

 「メンタル体」の28章に「アーカーシャの記録」というのがありましたので、それを使って説明を補っておこうと思います。

 それによると、「アーカーシャの記録」は、「唯一の信頼すべき世界史」であり、「大自然の記憶」とも「カルマの本当の記録」とも、「リピカの書」ともいわれます。この「リピカ」というのは、輪読会のテキストの第5章の最後の方にも出てきましたがそれは「カルマを司る不可視の存在者」とあります。

 「アーカーシャ」というのは、「メンタル界層の質料」のことですが、その記録は、もともと太陽司神(ロゴス)の記憶であって、それが反映してブッディ、メンタル、アストラルの諸階層で読み取ることが可能であるということです。

 しかし、アストラル階層での反映はきわめて不完全であって、不正確です。それにくらべてメンタル階層ではその記録は豊になり正確になり、読み取りに間違いをおかすこともなくなる、ということですが、さらに、コーザル体の能力を用いればより一層読み取りが容易になるようです。

 この物質界でアカシャの記録といわれるもののなかに誤ったものがあるのは、メンタル階層上での体験を仮に物質界の言葉に移す場合に、そのほんの一部しか表現できないため、どの部分を表現するかで、異なってくるのと、3次元を2次元で再現する困難さに似た困難さによるということです。

 メンタル界層でのアカシャの記録の現れ方というのは、次のような二つの異なった側面があるそうです。 

(1)観察者が記録について特に思索しているのでなければ、それは進行中の事柄の背景を成すだけにすぎない。その様な観察状態の下での記録は実は遥かに高い階層におけるあRY巨大なる意識の絶えざる働きの単なる反映にすぎず、映画の画面に非常によく似ている。

(2)メンタル階層は想念が何らの拘束も受けない領域であるから、もし修行のできた人が何かの情景に特にその注意を向けると、その情景は直ちに彼の前に出現する。たとえばもし彼がジュリアス・シーザーの英国上陸が見たいと思うと、一種のうちに彼は、その情景を見るのではなく、実際に彼自身がその現場の海岸に古代ローマ軍とともに上陸している自分に気づく。・・・もちろん演者たちは単なる反映に過ぎないから彼など全く意識しないし、また彼がやろうとしたところでこの演者たちの行動を変えることは全くできない。

 もっともこのドラマが目前で進行する速度を変えることはできる。・・・また現場に居合わせたら肉眼で見たはずのものを全部見るだけでなく、出演者たちの話していることまで聞こえるし理解もできる。そして彼らの思っていこともその動機もわかるのである。

ただ、このアカシャの記録をメンタル階層にもアストラル階層にもある人間自身のつくった想念形態と混同してしまう場合が多いから要注意ということです。

 さらに、ブッディ階層でも現れ方が述べられていますが、この階層では、「記録」以上の意味があって、この階層では時間と空間がなんらの制約もなくなってきて、過去も現在も未来も同時に現われてくるような「久遠の今」の中にあるといいます。

 

 

 

アストラル死体のその後など


(92/11/14)

 

>シュタイナーは死んでから再受肉するまで1000年・・・と言っていますが、

>欲界や神界で時間は地上と同様に流れるのでしょうか。・・・そこに規則性があ

>ることに疑問を感じました。

 再受肉するまでの時間というのは、もちろんこの物質界での時間ということで転生していく魂にとっての内的な時間でもなければ、欲界や神界での時間感覚でもありません。

 この「時間」というテーマは、以前にもいいましたように非常に難しいテーマで、それについては今後の課題にしていきたいと思っています。ただ、神から流れだした大河の流れのようなものが、位階を下るに従って「時間」として顕在化してくるのだという気はしています。この物質界での物理的時間に比べて、ヒエラルキーが上がるにつれて次元のファクターがふえていくので、それだけ把握は難しいとは思います。

 ついでですから、「神智学大要1エーテル体」で解説されているものから、タイプ別による標準的な死から再生までの期間を紹介すると、「極悪人/5年」「野蛮人/40年」・・・これらの存在はほとんどアストラル界のみに滞在します。

 「職人/200年」このうち、低位天界に160年滞在します。

 「農夫/300年」・・・低位天界に260年です。

 「商人/500年」・・・低位天界に475年。

 「医師/1000年」・・・低位天界に975年、高位天界にも短期滞在します。

 「理想家/1200年」・・・低位天界1150年、高位天界50年です。

 「弟子/2300年」・・・高位天界150年、アストラル界には0年です。

 ま、「野蛮人」だとかいう表現はどうかと思いますが、目安としてはこのくらいの転生が標準的なあり方です。従って、シュタイナーの標準というのは、かなり高く設定しているという気はします。

 それから、この説明の最後に、生と死という人間の営みの意味についての興味深い記述がありましたので引用紹介しておくことにします。

 生と死における人間の営みは、自分が何であるか、世界とは何であるか、「われわれがその中で生き、動き、かつわれわれの本質を持つ」司神とは何であるのか----を見いだすことである。この「神秘に包まれたる神の叡智」の何たるかを把握し、かつ「神の経綸すなわち進化」の何たるかを理解し始めるまでには、長年月にわたる経験と行動が必要である。自分自身と他の人々との中にある土の性と獣の性と神の性とを知ること----それが彼の永遠の仕事である。全生涯が自分に仕事を教えてくれる工場であり、そこに来て手伝ってくれる人々はすべて皆教師である。これが彼の時代における宗教であり、哲学であり、科学であり、芸術なのである。彼の受けなければならないもろもろの苦悩もまた、自分を鍛えてくれる(あまり歓迎はされないが)教師なのである。しかし、彼のあらゆる教師のうちでも最も歓迎されうるのは、神の経綸を明かにし、他のいかなる啓示にもいまだかつて見いだされたことがない程の魅力を心に与え、シンスピレーションをハートにもたらす神智学という秘められたる叡智である。 

>もう一つ、ダライ・ラマの魂は代々ず〜っとひとつであるという話がありま

>すが、彼は死ぬとすぐ受肉してるのでしょうかねえ。

 どうなんでしょうか、僕には定かにはわかりませんが、あくまで僕の考えでいうとすれば、あの「す〜っとひとつ」というのは、「死ぬとすぐ受肉「というのはまず考えられませんから、同じ魂が「ず〜っとひとつ」というのではなくて、役割としての霊統が一貫しているということなのではないでしょうか。誤解を恐れずにいうと(^^;)、ちょっとカタチは違いますが、日本の天皇というのもあの「ず〜っとひとつ」ということと近いのかもしれません。あの天皇さんの魂というのは、いわゆる高天原と名付けられた霊界の場から役割として転生してきているという話を聞いたことがあります。おそらくダライ・ラマというのも、ある霊界の場から、それなりの役割をもって順次送り出されてきる魂の系列なのでしょう(^^)。 

>再受肉するときに集めるアストラル体は、どこから来るのでしょう。

>例えばアストラル死体となって消え去ったものはどうなるのでしょうか。

 「神智学大要2アストラル体」によれば、次のように説明されています。ちょっと聞きなれない用語が出てきますけど、説明すると膨大になりますから、とりあえずイメージとして感じ取って下さい(ナンテイイカゲンナ)(^^;)。 

・・・次に彼は自分の周囲にアストラル界から、その質料と第三エレメンタル王国のエレメンタル髄質とを引き寄せ、かくして新しいアストラル体を形成し、過去世から持ち越してきたもろもろの欲求、感情、情欲がここに再現することとなる。

 これらのアストラル質料は、物質界における再生へと下降していく魂が意識的に寄せ集めるのでは無論なく、自動的に集まってくるのである。そのうえ、これらの質料はアストラル生活の最終段階において保持していた質料と全く同じなのである。こうして人間は各界ごとに前回終ったばかりの生をやり直すのである。

 つまり、基本的にやり直すわけで、そこに」カルマの法則の働きがあって、「各生は前生と必然的に、自動的に、しかも公平に結びつき、各生全体が連綿として継続した鎖となっている」ということなのです。

 アストラル死体ですが、それはやがて崩壊し、その構成質料は、ちょうど肉体の質料がその死とともに物質界¥に回帰するように、アストラル界層に回帰していきます。ちなみにそのアストラル死体とその上に起こる様々な変化については「影」「殻」「賦活された殻」などのあり方があります。

 「影」とういうのは、下位メンタル質料の一部がアストラル死体に絡みついたまま残ったもので、本物の人間であるかのようにふるまったりします。姿はもとの所有者と全く同じで、その記憶やちょっとした特徴まで備えているので降霊会などではよく本人と間違えられたりするそうです。

 「殻」とうのは、人間のアストラル体が崩壊して、精神が全面的にそれから抜けでた後期のアストラル死体で、アストラル界の流れにただ浮いているだけです。

 それでもなおかつ偶然にも霊媒のオーラの範囲内にでも迷い込むと、しばし活気づけられ、生命のおぞましき狂言を演ずることになる。すなわち、死去した元の主人公にそっくりの姿形をとり、彼のいつもの表情や筆跡をある程度再現さえしたりする。それはその影としての最後の段階においてよく引き起こしたような波動、それも普通は最低の種類の波動に相変わらず盲目的に感応する特性ももっている。

 それから、「賦活された殻」というのは、人間の悪念がつくりだしたもので、「真の誘惑魔」であって、そ影と同じヴードゥーなどの魔術によく使われるそうです。

  

 

 

浄霊の危険性など


(92/11/17)

 

 宗教と信仰についてですが、ここらへんのことは僕もかなり苦手で抵抗のあることではあるのですがその苦手の中に自分のなかのこだわりがあるのは確かなので、それらのテーマを「避ける」のではなく「越えて」いくという気持ちが大事だと思って、ここ1年くらいいろいろ見てきたりました。やはり、時代に応じたそれなりの役割という視点が欠かせないと思った次第です。そして現代においても、いわゆる大衆レベルでは「神秘学」というのは困難で、それを「大いなる方便」を使って「宗教」という「マス」の枠組みを借りて「気づき」に導くということはまだまだ必要なのかもしれません(^^;)。 

> そもそも、最も理想的な政治はすぐれた賢帝による専制君主政治だと思うの

>ですけれど、実際問題としてまず実現できないですよね。せめて、唯物論的合

>理主義の誤りを正せるすぐれた精神的指導者が、存分に力を発揮できる状況に

>なればよいと思います。

 僕もほとんど同じことを考えています。「理想的な先制君主政治」ができないから、それにかわるものとして「民主主義」が採用されているのですが、そのあたりのことを考えたことがない方が、民主主義こそ最高だと思ってたりするから、困るんですよね。ほんと、民主主義っていうのは、宗教が「方便」だというのと同じ意味で「方便」なんだということがなぜ多くのひとには理解できないのでしょうか。

 それから、「精神的指導者」ということにしても、非常に困難なことで、やはりそれが民主主義的にでてくることは不可能といっていいのでしょう(^^;)。おそらく、その可能性を有した人なりシステムなりがでてきたとしてもそれを理解できる方は「マス」では決してなく、ほんの少数派だと思うからです。 

>私の中には基本的に楽観主義めいたものもあります。それは、・・すべての

>根底に宇宙的絶対善があり、どんな世であろうとそれを見いだすこと可能だ

>という実感があるからです。これに対しては、以前に私が少し抵抗を示した

>「信仰」を私自身がしているのかもしれませんね。

 実は、僕にも基本的な「楽観主義」があります。「宇宙的絶対善」の顕現については、いつの時代も困難でしょうが、それを「見いだす」ということは、いつの時代にも可能だったし、現代においてもそれは可能だと思います。ただ、それはほっておいたら顕現することは決してなくて、それを見いだす努力がどうしても必要になると思います。「信仰」ということですが、それを言い替えるとしたら「理想」ということに近いのかもしれませんね。僕は今やすっかり手垢のついたかのように聞こえるこの「理想」ということばが好きです。それは、究極的にいうとすれば、「宇宙の進化発展しているベクトル」、とでもいうことができるのかもしれません。そして、「宗教」や「信仰」もその「理想」への方向性をなんらかの形で多くの方に示すための方法論だったのでしょう。

 岡田茂吉についてですがもちろん、宗教芸術を提唱した岡田茂吉の考え方というのはかなりすばらしい多くの視点をもっていると思います。しかし、五井さんのカルマ的視点の欠陥にも近いところがこの岡田茂吉の「浄霊」「浄化」という方法論にあると考えられるのです。この本の解説からそれについての説明部分を引用します。

 世界救世教の救いの直接的手段。受ける相手に向かって手をかざす。掌から教祖を通じ発揮される神の霊光によって、受ける人の霊の曇を浄める(解消)方法。人間の不幸の因は霊の曇にあり、その霊の曇を取り除くことによって、病や境遇が好転し幸福になるとする。

 この「浄霊」が宗教と芸術を結びつける原点だ、と高橋巌さんは述べておられるのですが、ちょっととんでもないという気がします。キリストが病を癒したのも、その際、必ず「汝、我を信ずるや。」というように病の中にあるものの心の針を正すことによるヒーリング行為で、そこに宗教と芸術を結びつける原点をみるというのは理解できますが、ただただ、「霊の曇を取り除く」とばかりに手をかざす行為にはかざされるものの心を清める、つまり仏教的にいえば「反省」ということになりますがそういう一番肝心なプロセスが削除されているのです。そこには、病の原因に対する、正しいカルマ的視点が欠如しているのです。つまり、人間の自己認識を高める契機を奪ってしまうことになるのです。その上、ある程度修行を積んた能力のある方が手かざしをするならともかく、その後、ろくにわけのわからない方まで、手かざしを不況の手段に使っています。いくら他の視点が非常に優れていても、一番大事なポイントを外したきにすべてのものは砂上の楼閣のように崩れさるどころか、さらにひどい状態になる可能性さえも秘めています。わかりやすくいえば、あの手かざしでやっているものの多くはいわゆる「悪霊」的な波動のやりとりに堕しているそうです。ああいう行為は、浄める側は、一点の曇もあってはなりませんし、浄められる方は、みずからの心の針を「神」の方向に向けたものでなくては決しておこなってはいけない、ひどく危険な行為なのではないでしょうか。

 シュタイナーをはじめとした神秘学的な視点を探求していくということはこの岡田茂吉さんの例にもみられるような非常にむずかしい部分をできるだけ明確に見ることができるようになるということでもあります。その際のポイントとなるのは、反省や感謝や自助努力といった祈りやカルマといった観点につながる視点をを正しく把握していくことであって、そうした視点が巧妙に隠されている視点には十分注意が必要だと思います。宗教も芸術もひとを高める方向性になければならないんですよね。


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