幾何学・形・数2


空論●多次元螺旋の空場

田坂昴「数の文化史」など

数量と数質

波動的親和性

空と無

三木成夫「生命記憶」

科学に愛を!数式に愛を!

空性とは縁起である

「影」の解放

カオス

エニアグラム進化論

数のコスモロジー

小島寛之「数学幻視行」からなど

数と言語など

形態、振動、リズム

 

 

空論●多次元螺旋の空場


(93/12/22)

 

 「握一点開無限」ということがいわれます。握れば一点となり開けば無限となるのが本源の世界であるということですが、自分の内なる世界を探求していけば大宇宙へとつながり、自分の外なる世界を探求していけばまた内なる世界へと至るというのも同じです。おそらく「本源の世界」というのは、この宇宙のひな形でもあるのだと思います。諸行無常であり諸法無我である涅槃寂静の世界というのもその宇宙のひな形を感得するということなのではないでしょうか。

 しかし、その涅槃寂静としての本源の世界を感得することは、最終目的では決してないのを決して忘れてはならないのでしょうね。つまり、涅槃寂静のままではこの宇宙は展開していかないということです。あえていえば、その本源の世界というのは、静なるものではなく、その内にすでに「動」、つまり展開への意志が内包されているということです。涅槃寂静の境地にいるだけというのは、あるそれ自体が矛盾です。大乗とかキリスト衝動とかいわれる「愛」の衝動というのは、その展開への意志そのものの表現でもあるのだと僕は考えています。

 中心にある「空」は、「空」そのものに展開のダイナミズムを内包し、渦を巻き、時空間となってこの宇宙を生成し続けている、というイメージがあります。「空より流れきたる」というのは、その「流れ」を作り出している意志が、そこに厳然として存在しているということでもあるのです。ですから、「空」は「意志」そのものでもあるということでしょう。

 では、なぜ「空」でなければならないかというと、「空」によって展開のための次元が創造されるからです。

 この陽と陰という二極というのも、この展開の意志の現れなのだと思います。その「空場」という意志が次元を展開させながら、この物質次元にまで螺旋状に凝縮しているというイメージがあります。陽と陰が最初のダイナミズムを創り出し、それによって最初の螺旋が生まれます。そしてその螺旋が場となってその場自体がまた次の螺旋を生成していきます。そして次々と螺旋の螺旋の螺旋の・・・と展開していくというイメージです。従って、物質というのも、それそのものが空場の多次元螺旋凝縮場となります。シュタイナーが「物質などというものはない」ということをいうのもそのことなのではないかと想像したりします。

 また、真空妙有という言葉がありますが、ある次元場での「空」というのは、その次元場より高次の場では「妙有」で、そのダイナミズムの「妙有」が、下位の次元では見かけ上「隠されている」、ということもあっての「空」でもあるのかもしれませんね。

 シュタイナーの宇宙進化論もすべてが「7」で展開していきます。そして常にその中心に「4」があるわけです。前回もコメントしたと思いますが、「1−7」「2−6」「3−5」という「4」を中心とした対応関係に、本源の世界の型が射影されているのでは、なんて、想像をめぐらしてみたりもします。

 

 

 

田坂昴「数の文化史」など


(93/12/27)

 

 宇宙心の「心」は「中心」の「心」(「芯」)でもあるのでしょうね。「中」というのは、また展開のダイナミズムそのものでもありますから、宇宙心そのものが完全な調和であり、その完全なものがさらに展開してさらに完全なものに進化していくというイメージがあります。そのダイナミズムが「宇宙子波動」ということということになるのですね。

 「7」という数、ますます興味深くなりますね。先日、田坂昴著「数の文化史を歩く」(風涛社)という新刊を見つけました。日本から古代オリエント世界につながる「数」について考えさせるものですが、当然のごとく、そこには古代シュメールへとつながる「聖数」ということがさまざまにとりあげられていました。聖数「7」の淵源を辿っていけばウルク人の神聖なトーテム樹「七枝樹」に行き着き、そこでは牡牛神ハルが「3」、蛇女神キが「4」ということです。その関連でも見ていかないといけないのでしょうが、ちょっと興味を引かれたのが、この本の中で紹介されているヘルマン・ベックの「仏教」(岩波文庫)に記述のある仏陀誕生時のシーンです。

生まれたばかりのボサツが大地を歩むと、たちまち、大地がわれて、大きな蓮華が咲きでる。ボサツはこの蓮華の中に立ち、大人物として獅子の観察より四方を眺める。神々しく、くもりない眼でありとあらゆる世界を眺めわたし、ありとあらゆる生きものの考えを見とおして、どこにも自分にひとしいものがいないことを悟る。そこで、四方にむかって七歩あゆんで言う「私は世界の第一人者である、私は世界の最高者である、これは私の最後の誕生である、私は生と老と死との苦をうちほろぼそう。」そして、ボサツが一歩あゆむごとにその場に蓮華がひとつずつ地中から咲きでる。

 「四方にむかって七歩歩んで」というのも面白いですし、このベックの本に仏陀に関する「7」について紹介されているその他の箇所も意味深いものを感じさせられるところがいろいろあります。

 ともあれ、「7」にちなんだ叡智を継承しているさまざまな文化についても宇宙波動に関連したものとして考えていくとまた面白いでしょうね。

 

 

数量と数質


(94/01/12)

 

 「量」と「質」に関連して、ちょいと思ったのは、「知行合一」ということです。たとえば、「観測者の視点」とかいうことを持ち出して理論化したとしても自分の行いが「観測の視点」を固定化・絶対化していたのではダメなのです。

 そういう意味では、行為においては、量と質が等価でなければならないということかもしれません。認識即行為であるようなあり方が求められるということです。

 「嘘をつく」というのが神秘学的にみれば自分を焼くほどの行為に他ならないように、行為と乖離した認識はそこになんらかの明確な差異が存在しているはずだということです。

 ちょっと説明しづらいのですが、そういう意味では、数の質と量というのも等価であるような記述が必要な気がします。数学が人間学を記述するのにふさわしいものに進化するということはそういうことだと思うのです。

 思いつくままにいってみると、表現するものと表現されるもの、そしてそれを結びつける認識と行為というあたりの記述ということでしょうか。それが幾何学図形のように表現可能になるということかな?それとも、意識という幾何学図形で象徴される記述が、表現するものと表現されるものとの間にダイナミックに働く関数ということか?そのうちそこらあたりのことが直観できるようになればいいのですが・・・。

 原子というのは「場」の違いで明確に「質」が変わってきます。原子という振動のカタチが、場との間で取り交わされる振動の位相の違いということなのかなあ、なんて考えたりもします。医学や音楽でも、同じ成分や同じ音とみなされているものでも、その働きの場での振動のプロセスということを考えれば、「同じ」でも「同じでない」ということになるのは明かです。たぶん「時間」というのも「同じ」であって「同じでない」というのは同じようなことがいえるのかもしれません。

 「夕焼けが赤い」ということは、その理由を知るということとそれを見て感動するということと、それを見て行動するということそれらがイコール「夕焼けが赤い」ということでなければならないということだと思います。

 つまり、「私が夕焼けを見る」ということは、「私」対「夕焼け」であるとともに、「私」即「夕焼け」であり、その矛盾が同一であることが求められていることではないでしょうか。「夕焼けの赤さ」を記述できるような「数」は、まさにそれが「私」でもあるようなものでなければならないということです。もちろん、その「私」は対「世界」でありかつ矛盾的に即「世界」でもあり、そのときに、科学も芸術も、もちろん宗教も、切り離しては表現できないものとなるはずです。

 

 

 

波動的親和性


(94/01/19)

 

 人間だって「場」によって異なっているともいえるし、さらにいえば、人間そのものが、「人の間」と表現されるように、「場」そのものなわけです。生体内原子変換のことも少しずつ話題になっているようですが、呼吸や食物摂取などについて考えても、人間の外と内では「同じ」とはいいがたいようです。これは、空気中と土の中でもいえることのようで、シュタイナーの「農業講座」には、そうしたことがいろいろ説明されてました。

 それは「自分の内にあるものと共鳴する」ともいえるでしょうし、それを自分の内に映しだすともいえるのでしょうね。そして、その前提としてあるのは、その美しい現象に対応するものが自分の内にあるということなのだと思います。

 「美しいものに感動する」ことができるためには、「美しい」という感覚・感情を持てるだけの能力があった上で、その美しいとされる現象を「摂取」するプロセスがあるわけです。「波動」ということでいうと、ある現象に対してある特定の「共鳴」をするには波動的親和性とでもいえるものがなければならないということでしょうか。ま、早い話が「チューニング」ということなのですが。

 たぶんそのとき問題になるのが、波動そのものの「レベル」(波長)ともうひとつがその波動を伝える媒質の「質」ということのような気がします。

 

 

 

空と無


(94/03/12)

 

 空と無というのは、混同されやすいのですが、もちろん違いますよね。空というのは、時間においてみると固定した実体がないということであり、無というのは、時間を止めたときにすべての存在は無であるということ。ハイデッガーの「存在と時間」っていう難しい哲学書がありますが、たぶんそこに書かれているのはそんな存在と時間の関係なんだと思います。

 で、空というのをもそっとわかりやすい(?)表現で説明すると、まず、「色即是空、空即是色」というのがありますが、この物質世界と霊的世界の関係における「色」と「空」があります。

 つまり、物質世界と霊的世界はどちらが真実かというのではなくて、どちらもその「あらわれ」の違いに過ぎないということです。「物質は光になろうとしている」というドイツロマン派的なコンセプトは、そういうことでもあるわけで、シュタイナーも、物質というのは凝縮した光であるという意味のことを言っています。

 それと空を「縁起」との関係で説明するとすれば、すべては時間的な原因と結果、空間的な関係性において成立しますから、その観点からすれば、すべてのものは実体的固定的に変わらないものとしては存在していないという意味では「空」であるわけです。その時間的な縁起でいえば、諸法は無我であるということになります。最初にもいったように、「無」というのは時間的に見た空のありようである、そういってもいいかもしれません。

 空と色というのは、その波動的振幅における「あらわれ」の違いといえますから、物質的な波動に近いありかたを精妙にしていくことが「空ずる」ということで表現できるかもしれません。そういう意味では、「打ち消す」というよりも「変容させる」ということ、凹と凸の「関係」を変容させること、変容した状態、そう言えるかもしれませんね。

 日本の尺八などは純粋に「空」に近づき、結局最後には「無」と同等の状態に陥ってしまうことがあり、音楽の本質はその「空」の状態に秘められている、と語った尺八演奏家がいるそうですが、つまりは、そのときは「無我」になっているということで、音楽の本質が物質の光への解放であるということを「空」ということで表現しているのかもしれません。

 仏教でこの物質的世界のことを「色」ということで表現するのも、なかなか意味深いような気もしますね。波動の基本数が「7」であるというのは、それが「4」を「中」として複合螺旋的に展開していくことで、それによってこの宇宙は進化していくというイメージを僕はもってます(^^)。もちろん「チャクラ」についてもそれがいえると思います。人間は天の▽(3)と地の△(3)とをむすぶ存在で、その「中」がキリストの「4」なのではないでしょうか。

 

 

 

三木成夫「生命記憶」


(94/03/15)

 

 三木成夫さんですが、この方は解剖学を専門としていた方で、ヘッケルの「個体発生は系統発生の短い反復である」ということをうけて胎児が母の胎内で十月十日(とつきとおか)の間、太古の海に誕生したという生命進化の悠久の流れを再演するということを「生命記憶」とその「再現」として描き出そうとした仕事が有名です。中公新書(691)でも、非常に感動的な名著である「胎児の世界/人類の生命記憶」というのが出てます。

 その著書の簡単なアウトラインをその「まえがき」から抜き書きして紹介しておくことにします。(この著書は次の3章で構成されいてます。I故郷への回帰/生命記憶と回想、II胎児の世界/生命記憶の再現、IIIいのちの波/生命記憶の根源)

 まずI章の「故郷への回帰」では、冒頭に、ある私的な出来事が紹介される。それは、何のおぼえもない遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえるといったものだ。生命記憶のまさに回想であるが、この不思議な回想は、ここでは、しだいに遠く、人類の第四期から哺乳類の第三期を経て、やがて脊椎動物上陸の古生代にまでさかのぼり、ついには生命誕生の太古の海にまで行き着く。

・・・

このII章に登場する胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書きをそらんじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の”パントマイム”に凝縮させみずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。・・・胎児の演ずる変身の象徴劇は、こうして卵発生の秘儀として、代から代へと受け継がれるのであるが、この、つねに生命誕生の原点に帰り、そこから出発しようとする周行の姿、すなわち「生物の世代交代」の波模様こそ、すべての「生のリズム」を包括する、まさに「いのちの波」とよばれるにふさわしいものではないか。それは、生命記憶の根源をなすものでなければならない。

・・・

III章では、これが初に、ゲーテのいう「食と性の宇宙リズム」として示され、やがて、このはらわたのうねり、いわば「内蔵波動」に象徴される「永遠周行」の営みのなかに、わたしたち人間の歩むべき本来の「道」がたずねられ、求められる。

 この三木成夫さんの人類の生命記憶に関する非常に魅力的な論考は、もちろん、シュタイナーのような宇宙進化論的なヴィジョンによって、特に霊的な部分について補完される必要性はあるとは思うものの、特に「生命」というものを考えていくうえでは欠かすことのできないものだ、そう思います。そして、生命とリズム、かたちというような根源的なテーマについても非常に多くの示唆をしてくれるものでもあります。僕もそこらへんについてはまだまだ不勉強なので、少しずつでも勉強していきたいなと考えています。

 

 

 

科学に愛を!数式に愛を!


(94/04/03)

 

 「言葉」はもちろん「方便」ですけど、別の意味で「数式」も「方便」でしかないと僕などはとらえているんですが。それはある種の体系的な近似表現ではあるとしても、やはり抽象化の産物であって、「真理」そのものではないのだと思います。むしろ、「数式は「真理」そのものにはなりえない」のでは。

 この3次元にいる以上、この世界で表現される数式というのは、この世界に限界づけられた「方便」でしかありません。

 「数式そのもの」というのが、客観的に提示されるということはそういう意味でもできなくなるのは明かだと思うのです。

 真理を表現する「数式」は、それを用いる人間の人格のレベルによって異なってくるともいえます。その「数式」が「真理」に近づいていくためにも、人間全体の人格のレベルを向上させることが条件になるともいえるでしょうか。

 現代はそういう意味での「シンギュラーポイント」ですから「ひとりだけの悟り」の「小乗」ではなくて、「人間全体の悟り」をめざす「大乗」。つまりは、シュタイナーのいう「キリスト衝動」を推進しなければなりません。宇宙進化論的にいうと、木星紀へのステップともいえるでしょうか。ですから、テーマは「愛」なのです。「科学に愛を!」「数式に愛を!」ということですね(^^)。

 

 

 

空性とは縁起である


(94/04/03)

 

 「空性とは縁起である」といわれます。空性とは、「ものが他によって存在すること」であり、だから、「他による存在に実体はない」のですが、その反面、それは「縁」によって起こります。

 「完全さ」というのは「実体」といいかえてもいいですが、それは変わらずずっとありつづけるものでなければなりません。しかし、その「完全さ」というのは、時間による展開を拒否するものですし、他による依存という空間的展開も拒否するものです。

 だからこそ、「一切は空である」。つまり「すべてのものに実体はない」ということがいわれるのですが、だからといってすべてが「不完全である」ということもいえません。「不完全即完全」といった方がいいかもしれません。

 「縁」を時間と空間というふうにわけてとらえるとするならば、時間における縁起は「不完全」であるが故に生起するともいえますし、空間における縁起は「完全」であるが故に成立するともいえます。「完全さ」は時間を拒否するともいえるでしょうし、「不完全さ」は空間を変容させる衝動であるともいえるでしょう。

 諸行が無常であるというのは、時間における縁起の不完全さ故のもので、諸法が無我であるというのは、空間における縁起における完全さも時間による展開がないとすれば存在は「無」となるということであり、同時にまた変容が前提となることで固定的な「我」は成立しないということです。

 結論としては、「完全途上の不完全」はより的確に表現すると、「空」としての広がりの場を持つ中心から生まれる様々な波動が交錯するような多次元世界における各波動(次元)階層の変容の過程における変容の姿である。ということですが、上記の空論、縁起論に加えて、時空の多次元的様相とその展開ということが「完全途上の不完全」ということの説明として補足されなければなりません。「多次元世界における各波動(次元)階層」の間で起こる「変容」のダイナミクスということになります。

 それは、各次元波動における完全さとそれが高次の波動にシフトするが故の不完全さということであり、また各次元における時間・空間における「空」としての縁起は、「不完全即完全」ということが前提となって生起するともいえます。

 ですから、「空性とは縁起」であるということが宇宙進化論の大前提となるといえるのでしょうね(^^)。

 

 

 

「影」の解放


(94/04/07)

 

 数学にしても科学にしても、その他のあらゆる認識のあり方にとってこれから特に重要になるのが、その「主体そのもの」ということで、その「主体」が「偽我」「エゴ」に近いものの場合、それらの認識はそれに共鳴する波動をもったあり方しか導けません。

 すべての人間の意識の根底深くに、集合無意識の極致としての「神」が存在しているとすれば、その「神」に近い波動をもつ認識であればあるほど、その「主体」の導き出すものは神近きあり方になるわけです。

 そのための大前提というか、スタートラインとして、人間にとっては人格の確立ということが必要なんですよね。人格の劣った科学者には、やはり高次の科学は導けないんです。

 シュタイナーによれば、人間に個を与えるきっかけになったのが他ならぬ「ルシファー」なわけで、それは「傷害」であるとともに、「可能性」でもあるわけです。

 つまり、進化のジャンプ台をつくってくれたのがルシファーなわけです。そういう意味でいえば、理解はその双方に向かう必要があります。「悪」を否定した「善」は、単なるきれいごとにすぎないということ。「個への執着から逃れる」のではなく、それを変容させることが必要です。「影」はそれが理解されるまでは、その姿を恐れという怪物へと増殖させていくだけです。人間の進化のエネルギーの源は、まさにその「影」にある。そう言ってもいいのかもしれません。その「影」を解放しない限り、人間の進化はないのです。

 

 

 

カオス


(94/05/06)

 

 <現代思想の5月号「カオス/複雑系のエピステーメ」の編集後記から>

 

*われわれとは関係性の束ではない。われわれとは写像なのだ。何の?n次元から三次元への。これがカオスの教えだ。…

*私はしばしば私ではなくなる。カオス。従来の関係性の中の私を「秩序」とするならば私とはこのカオスと秩序のめまぐるしい交替のことである。カオスから秩序が生成するのではない。二つは重ね合わされている。われわれはわれわれには未知の関数、項によって突き動かされている。カオスとはその写像なのだ。事的世界から写像的世界へ。

*もちろんこの世界像が、コンピュータの出現とともに開始されたことは否定できない。しかしこの事態がその現実感を与えていることは否定できない。しかしこの事態を最初に直観した人物カントのことを思い出そう。現象界をいち早く放り出し「夜空の星と内なる道徳律」といったカントを。未知なる宇宙の、n次元の空間から降ってくる力と心の照応を語る美しい言葉だ。カントは自分が写像であることを知っていた。あとは私のアトラクターが美しいものであることを祈るばかりだ。

 実は、ちょうどGWにカントの道徳律についての本を読んでたのですが、それはミクロコスモスとマクロコスモスとの照応を感じさせるものでもあり、シュタイナーの自由の哲学の序章ともいえるなあと感動していました(^^)。

 それはともかく、東理論を表現するコンピューターというのは、階層の視点を次元毎に表示できるものでなければならないように思います。

 現在のコンピューターが二次元によって三次元をグラフィカルに表現可能?にしているように、三次元コンピューターは、四次元をグラフィカル?に表現可能ではないか、なんて考えたりもするのですが、そのためには観測者=オペレーターがその「視点」を自らのものとしていなければならないのは確かです。そこらへんに困難があるのですが、結局、次元間の写像ということをどうやって表現していくか、それが東理論を理解していくキーになるのは確かではないかと思います。

 

 

 

エニアグラム進化論


(94/05/07)

 

 「7」ということにも関連したエニアグラムに関する興味深い本がでてます。

●前田樹子「エニアグラム進化論/グルジェフを超えて」(春秋社)

 という本なのですが、本格的には今後随所でひきあいに出したいと思っていますがとりあえず、「7の法則」である「オクターブの法則」についての箇所を少しばかりご紹介してみたいと思います。

エニアグラムは<七の法則>に関する知識を完全な体系として結合させたシンボルであり、宇宙の構造と人間の構造に関する知識体系である。なぜなら、人間は大宇宙と同じ構造をもつ小宇宙であるからだ。……

エニアグラムの円周上の分割点1・4・2・8・5・7・1を結ぶ変六角形は<七の法則>を象徴する。<七の法則>は<オクターブの法則>ともいわれ、俗説によると音楽のオクターブはピュタゴラスが発見したものだとされている。実際には、<オクターブの法則>は数の研究から発見されたものであり、数の固有性によって生ずる法則性のことである。古代の賢者はこの法則を<七の法則>ないし<オクターブの法則>と呼んだ。宇宙法則を支えるこの法則はのちに音楽に適用され、七音階音楽が生まれた。数の固有性に関するこの法則性は、前に「ピュタゴラスのエニアグラム?」の章で述べた数列に関係している。数列については算術、数列、幾何数列、調和数列の霊をあげて説明した。調和数列を幾何学的な簡単な方法で割り出す手法が古代エジプトの寺院設計にすでに使われていた。

 このエニアグラムを僕が知ったのは、グルジェフに関する著作を通じてなのですが、これに関してこれまで本格的なものがありませんでした。これまでのエニアグラムは邦訳ものでは、ほとんど性格分析のような域を出るものではなかったのです。それが、今回のこの本で一気にその中核の部分が紹介されたようで、僕もいまどきどきしながら読み進んでいるところなのです。ここらへんのことをもっと詳しくご紹介してみたいのですが、もそっと勉強してから、音楽などに関連させたりして、シュタイナーの音楽論などとも関連させた形で、いずれご紹介してみたいと思います。(「いずれ」というのが当てにならないのですが^^;)

 

 

 

数のコスモロジー


(94/05/08)

 

 「エニアグラム進化論」によれば、「数」の固有性を研究し、それによって宇宙の構造を解明しようとしたのは古代エジプトの賢者の最大の課題であって、そこで発達した数の研究が、ピュタゴラスやプラトンなどに伝わり、ギリシアで形而上学的な数の研究、幾何学図形やシンボルに発展し、それが初期キリスト教の教父に伝わって、宇宙の構造と人間の構造を霊的に把握するものとして密かに継承されてきたといいます。

 それが保管されていた地域が、ロシア南部、つまりアルメニアやアゼルバイジャンなどを含むトランスコーカサスやウクライナ地方であって、グルジェフとエニアグラムの関係性はそこらへんで繋がってくるようです。

 それはそれとして、それが現代化されたのは、ゼロの発見によるアラビア数字の導入によってであるようです。つまり、それまで静的であった幾何学概念に代数の計算法によるダイナミズムが導入されたのだというのです。

 ちなみに、幾何学的手法による数の研究は、三つの基本要素に基づいています。まず、永遠を象徴する円、そして創造を象徴する<3の法則>、それから機能を象徴する<7の法則>であって、こうした概念を幾何学図形で表しているわけです。ここにエニアグラムの図を描けないのが残念ですが、たぶんご存知だろうということで、この三つの要素についてのエニアグラムに関する説明を「エニアグラム進化論」(春秋社)から引用します。

●構成要素1−永遠を象徴する円

 エニアグラムの円は「創造の光」を完結したサイクルとして象徴している。創造の起源である「絶対」からの創造的過程最終点の「月」にいたるサイクルは、大オクターブまたは宇宙のオクターブと呼ばれる。大オクターブは、絶対−太陽、太陽−地球、地球−月の三つの従属的オクターブを内包している。「創造の光」は、創造の起源「絶対」を世界1として、宇宙の段階が<3の法則>と<7の法則>の相互作用によって展開され、最終点の世界96、すなわち「月」へいたる大オクターブである。

●構成要素2−<3の法則>を象徴する三角形

 エニアグラムの円周上の3・6・9の分割点を結ぶ三角形は<3の法則>を象徴する。すべての存在物は、受動・能動・中和の三つの力が一点に集まった結果として存在する。

●構成要素3−<7の法則>を象徴する変六角形

 エニアグラムの円周上の1・4・2・8・5・7・1の分割点を結ぶ変六角形は<7の法則>を象徴する。

 以上の三つの構成要素を結合させてひとつの図形にしたものがエニアグラムである。

 こうした数と幾何学というテーマに関しては、一年半ほどまえに刊行された

●ロバート・タウラー「神聖幾何学/数のコスモロジー」

                      イメージの博物誌24(平凡社)

というのがありますし、また、例の「螺旋」というテーマにも関した「形」に関して、

●最新・形の科学/らせんが宇宙を支配する(最新科学論シリーズ24/学研)

 がありますので、併せて参考にされればいいのではないかと思います。

  

 

 

小島寛之「数学幻視行」からなど


(94/06/26)

 

 僕は、今の所、基本的に一番納得のいくシュタイナーをベースとしながら、自分の考えを組み立てることが多いのですが、だからといってシュタイナーがすべて正しいなどとは思ってませんし、その他のいろんな視点を取り入れることを怠ろうとも思いません。でも、シュタイナーの人智学系の人って、わりと盲信的なんですよね。妄信的なくせに、あまりちゃんとシュタイナーを読んでなかったりして^^;。

 シュタイナーは、人智学を精神科学(霊学)としてとらえ、それは通常の科学とは異なった対象を、科学と同じ方法で探求するものであるとしています。科学といっても、自然科学、生命科学、社会科学、経済学云々というようにその対象が異なれば、それなりの方法論があるというのと同じです。これについては、異論がでるのは当然のことではありますが、機会があれば、「神秘学概論」(イザラ書房)の最初の章の「神秘学の性格」というのをお読みいただければと思います。これについては、またの機会にご紹介してみたいと思いますが、まずは現在の科学というものの方法論について、またその根拠となっている数学というものの寄って立つ神秘的性質ということを考えてみるだけで、「科学」とされているものの「対象」を、現在のように感覚的にとらえうるものに限定する必要はないというのは確かでしょう。現に、量子力学以降、物理学にしても、通常の常識的な感覚的世界では、決して容認できないような世界を前提とせざるを得なくなっています。

 ちょうど新刊の、数学に関する魅力的エッセイ集である

●小島寛之「数学幻視行」(評論社)

 というのを非常に面白く読み終えたところで、大いに共感を得たところです。

 言語、数、貨幣、時間が、筆者の考える四大「霊域」である。科学とは、この四つの「霊域」を土壌にして、現実に向かって成長する樹木なのである。もちろん、循環論や迷信や妄想に陥る危険性は排除できない。しかしだからこそ、まだ見ぬ真理の果実を手に入れ得るのである。

 よく「数学は厳密な学問である」と言われる。これは全くの錯覚である。数学は結局、根本のところでは自然言語で表現されており、奥底に「言語の曖昧性」を抱え込んでいる。そう感じないのは、研究者が仲間うちの会話ですれ違いを見ないからであり、宗教の狂信者に典型的に見られるパラノイヤでしかない。数学でさえも、ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」によって修得されることを自覚すべきである。そしてその曖昧性を許容してこそ、「霊域」への侵攻が可能となるのである。ハイゼンベルクも「自然言語は、矛盾に陥る危険性もあるが、リアリティに触れるという点で重要なもの」と述べている。言語、数、貨幣、時間こそは物質と精神、歴史と現在、集団と個人とをつなぐ架け橋であり、新しい科学の源なのである。

 この本は、非常に軽く読めてしまうのだけれども、内容は非常に深いものが詰め込まれていて、最近の新刊では「超おすすめ」の1冊なのであります。ちなみに、この本にの中の文章の多くは、「数学セミナー」(日本評論社)に収められているものです。

 ま、科学や数学への盲信をなくすということと同時に、神秘学的な探求の在り方をもっときちんとしたものにする必要性というのが大事だということなのだと思います。どちらにしても、「絶対化」や「権威化」というのだけは避けていかなければなりませんよね。

 

 

 

数と言語など


(94/06/28)

 

 通常イメージされる数学って「記号化」みたいな作業のようなものですけど、まずは数学からそういう幻影を取り去ることが必要だと思います。なんだか難しい数式の並んでる数学も、たとえば「数」ということについて、どれほどちゃんと考えられているかは疑問です。自然数の1、2、3・・・というのはいったい何かを説明するのに、たとえばリンゴを3個もってきてもそれはリンゴでしかないのです。もしそのリンゴ3個で3を認識するとしたら、その認識する人はすでに「3」という自然数を知っているはずです。結局、その説明はぐるぐると循環していくしかなくなるのです。

 せっかくですから、引き続いて「数学幻視行」から「数」についての説明のところを引用させていただくことにします。

 「数」とは何でしょうか。数学は「数」を主役とする学問であるにもかかわらず、このことを問題にしたことは歴史的にはむしろ少なかったと言えます。数学者が興味を持つのは、「数」そのものではなく、「数」の織りなす諸性質の方だからです。それは、詩人達が「言葉とは何であるか」にではなく、「言葉の組み合わせが作る意外性」に興味を持つのとにています。

 私は、「数とは何か」を掘り下げていけばいくほど、そこには「言語とは何か」という問いにつきあたると感じています。数学関係者の多くの人がよく「数学は厳密な学問である」と言ったりしますが、私はちっともそう思いません。「数」が根元のところで「言語」と関係を持っているならば、数学は言語のモツ「曖昧性」を内包してしまっているはずだからです。極論するならば、「x」という文字を用いた瞬間、数学は「言語」に感染したことになります。「x」とは何でしょう。そっちの「x]とこっちの「x」ななぜ同じなのでしょう。昨日の「x]と今日の「x」はなぜ同じなのでしょう。「x+x=2x」と書いたとき、三つのxはみな同じものでしょうか。さらにはこのxに4を「代入」して、「4+4=2×4」としたとき、この「代入」とはいったい何でしょうか。これらのことを「言語」なしに説得し、相手に「言語」体験を期待しないで理解させることは可能でしょうか。

 

 

形態、振動、リズム


(95/03/21)

 

 マントラというのは、波動ということだと思います。音楽療法というのもありますが、音楽も波動ですから、その音楽の種類によってさまざまな波動を伝え、それが特定の療法に役に立つように、やはりマントラも特定の波動をもっていなければ、適切な影響を与えられないんだと思います。

 音楽療法といえば、音楽で病気を治したり、心の治療をしたりというのはギリシアの昔、ピタゴラスがそれを行っていたということらしいですが、そのピタゴラスは音楽理論の基礎を築いた人としても有名ですよね。

 波動というのは、形にも変換されうるもので、マントラを形に表現したのがマンダラだともいわれているようですが、ピラミッド・パワーなどもその波動の一表現ということのようです。「黄金率」だとかいうのも、独特の波動の表現ではないのでしょうか。神秘学などでは「神聖幾何学」だとかいうのもありますし、森羅万象にあらわれている形というのも、そうした波動が形象化してできているともいえるように思います。

 そう突っ込んだ話にはなっていませんが、そうしたことを哲学の領域でまとめたのが

●中村雄二郎「かたちのオデッセイ」(岩波書店)で、

この本には全編に渡って、形態、振動、リズムなどがとりあげられています。このなかから、有名なクラードニ図形、そしてイェンニのトノスコープ、スーザン・ダージェスのビデオ作品についてのところをご紹介してみることにしましょう(^^)。

 さて、<振動学>の古典的な実験としては、すでにドイツの物理学者で音楽家でもあったエルネスト・クラードニ(1756−1872)が行った砂の振動についての実験がある。クラードニは、金属板の上に混ざりもののない砂を撒き、ヴァイオリンの弓で縁を擦ってその金属板を振動させた。すると振動が砂粒を波腹から結節線へ運び、砂は振動に応じて身毎は幾何学的な対称図形を描くのである。いわゆる<クラードニ図形>である。(中略)

イェンニが使っている別の装置は<トノスコープ>(音を見る器械)と呼ばれる。これは、人間の音声を、なんら特別の電気振動回路を使わずに、振動板上の砂、粉、液体などにそれが残す(形態や図形)として捉える働きをする。ここに痕跡がはっきりとあらわれるのは母音の発声であり、音の高さ、話し手の声の特色も痕跡の形態や図形のうちに示される。したがってこのトノスコープは、聾唖者の発声の訓練に役立たせることができる。

トノスコープは電気振動回路を使って精緻化すれば、音声だけではなく複雑な音楽も視覚化することができる。音響パターンは、リズムや音量だけではなくそれらを励起する振動数のスペクトルまで、直接水の上に描き出される。これらの音響パターンはオーケストラ音楽の場合には、並外れた複雑さをもったものになる。イェンニは、バッハやモーツァルトのいろいろな曲をこの装置を使って視覚化している。(中略)

その方向でいっそう成果を挙げたのは(中略)スーザン・ダージェスのビデオ作品「ヘルメティカII」(1989)である。この作品で、彼女は、水銀粒に低周波の振動をかけたときに生じる形態の出現と変化を、実に興味深い仕方で映像化した。

というのも、そこでは0ヘルツから3000ヘルツまでの振動が加えられるに応じて水銀が、円形から出発して、二角形、三角形、四角形、五角形、七角形、二十角形、四十角形という八つの形態をとるのが同時に見られ、しかも移行の動きがわかるように作られているからである。中心から等距離に配置されたこれら八つの水銀流の運動のうち、私にとってとくに面白かったのは、九ヘルツ前後で三角形が生ずること、その三角形が四角形に移行する過程で、逆三角形と重なることであった。

このような形をどこかで見たと思ったら、ヒンドゥ教のヤントラ(マンダラの原型)の基本形であったのである。(それはまたユダヤの星のかたちでもある)(中略)通常、視覚的なイメージの配置として捉えられているマンダラの原型は、音声的・振動的なものであり、そのことは仏や菩薩の姿でなく音あるいは響きをマンダラ状に描いたヤントラのうちにあらわれていることを明らかにした。


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