幾何学・形・数1


カオスの自然学

フラーとシナジェティクス・ワークショップ

フラー●テトラスクロール

幾何学宇宙

次元の「折り畳み」など

折り紙天国

多面体折り紙とシナジェティクス

かたちのオデッセイ

4を中心とした7のダイナミクス

プラトン立体の対応関係

ヒエラルキーの重要性

バッハと幾何学

カバラと西田哲学

シュタイナーの7など

シュタイナー・7と12/数の秘密

述語論理
 

 

カオスの自然学


(93/01/19)

 

 「水」というと、水をひとつの生命体としてとらえ、そのことにより水の未知の性質を把握しようと試みているテオドール・シュベンクという方の「カオスの自然学」(工作舎)という興味深い著作があります。

 同じ、「水」をテーマにしたものでは、ライアル・ワトソンの「水の惑星」というのもあって、これも楽しめますが、「カオスの自然学」というのは、ゲーテ、ノヴァーリスからシュタイナーにいたる自然学の系譜に位置する著作ですので、今回はそれを。この著作は、もう30年以上も前の1961年にドイツで出版されたものですが、その内容はきわめて現代的な視点に満ちています。

 著者は、現代においては、水の霊的本質についての知識を忘れ去り、今やそれを合理的に、技術的物質的側面でしか扱わなくなったといい、その流体元素としての「水」(もちろん、「流体」としての「空気」もその対象ですが)の本性について探求、考察しようとしています。

 その流体の作り出すさまざまな形態を通して、水と大気の遊星である地球の上に誕生した生命現象の本質に迫り、生命の起源から言語の発生まで、自然の神秘についてさまざまに描き出している好著です。

 その「形態」というのは、まさに「モルフォロギア」に直結するテーマで、先日のシナジェティクスについてのワークショップも、それに関わるものであると思われますので、今後いろいろとりあげていきたいと思います。

 そもそも「形」ということについて、ある程度現代的にとらえかえそうとしたのは、以前も一度紹介したことのあるランスロット・ロウ・ホワイトが、1952年にロンドンで行われた、結晶学・天文学・生物学・心理学・芸術学の各ジャンルからの参加によるシンポジウムをまとめた「形の自然学/自然と芸術の形態をめぐるシンポジウム」(工作舎)が最初で、それ以降、各分野で、展開されつつあるようで、やっと日本でも最近、ゲーテの自然学の再評価と相まって、とみに注目されつつある分野になってきました。

 このエポックメイキングなシンポジウムについても、形態学の一貫から、一度紹介したいものですが、いつのことになるやら、やりたいことがたくさんあり過ぎて、追いついていけない自分がもどかしい(^^;)。

 それはそれとして、そういえば、ゲーテの形態学について探求している高橋義人さんの、ゲーテと宮沢賢治の色彩観について比較した論が今期の「文学」(岩波書店)に掲載されています。

 話がそれてきてますので、「カオスの自然学」に話を戻すと、ここにとりあげられているのは、流体の「祖型的運動」としての「旋」「波」「形」「渦」「律」「環」「静」についてや、自然界に現れている水の働きのさまざまな働き、人体内の「耳」「腸」「心臓」などにみられる流動的形態、それから発展して「天界の水」、「脳と宇宙の水」、「思考の流動性」、「呼吸する地球」、「気圏の中の水」、「大気の運動」などについてで、最後に、「宇宙の創造的言語」や「芸術作品における流動形態」についてさまざまに述べられています。

 で、いろいろ羅列しましたが、これらの中から、「言霊」なんかのテーマに関係しても興味深いと思われる「発話」ということについて、シュタイナーがらみのオイリュトミーに至るようなあたりをご紹介しておくことにします。

 人間の霊的生命そのものが声帯に流れ込み、発話流動の形態が形成される。これが霊(ガイスト)の自己表現の方法なのである。未だ形態化されざる空気流動は、意志の領域から流出してくる。それは声帯において、人間の意志的な霊的生命から信号を受け取り、外世界と意志(インパルス)を通じ合おうとする(つまりこれが発音という行為にほかならない)。肺から出た未組成の空気は喉頭に流れ込み、あらゆる細部まで組成されてこの発話器官から離れる。こまかに組成された形態は、たとえば波であり振動であり渦である。つまりは限定的ではあるがつねに千変万化する形態である。こうした形態化作用の相互関係は、空気流動の祖型的運動から複雑な諸形態を作り上げる。・・・ 

・・・そもそも聖書の創世記に隠された神秘とは、原初の人アダムが生物・無性物を問わず、すべてのものを名ざすことができたということ、さらには人間そのものの秘密である自らの名を名のることができたというところにある。かれが、これをおこなうことのできる理由は、神が始源に活性的・形成的力----すなわち生命の気息----をアダムに吹き込み、それによってかれを創造したからにほかならない。宇宙の創造的言語そのもの、それはとりもなおさず霊の根源的運動であるが、これが人間とその喉頭とを形成したのである。・・・「人間が言葉を発するときにはいつも、創造の太初にあった創造的元素を分有して自ら発しているのである。創造の太初とは人間が宇宙の深淵、すなわちエーテル的状態から空気的形態へと鋳出されたときであり、人間はそのとき未だ流動的形態、さらにはそののちの地上的な固体としての肉体をもっていなかった。われわれはあらゆる発話の瞬間において、原初の時代にあったままの宇宙と、人間が進化をたどるその過程へと自らを移しかえているのである・・・。」(シュタイナー、1924年6月24日の講演より)

 で、こうした考え方からシュタイナーのオイリュトミー芸術への距離は非常に近いものがありますので、そこらあたりをさらに。

喉頭は、人間という形態にまで達している星界の祖型的活動を内包している。もしも、その活動が運動形態としての一個の人間にそっくり対応しているとするなら、さらにすすんで、この祖型的活動が喉頭を通じて可聴的なものになっているばかりではなく、人間の肉体全体の運動を通じて可視的になっていると考えてもよいだろう。こうした考えは、運動する人間を、宇宙的文字の法則性にのっとった一種の表現方法として利用する、運動芸術へと到達するだろう。オイリュトミー芸術とも呼ばれるべき、この新しい芸術の創造は、同じく宇宙的基盤の上に成立する発話芸術の復興とともに、ルドルフ・シュタイナーの手によってなしとげられたものである。オイリュトミーとは、人間の全身を通じてエーテル的な祖型的活動のもつ多種多様な運動が、可視的になることにほかならない。こうした運動は、空気流動を鋳造する喉頭という肉体器官にとって、基底的なものなのである。さらに発話と同様、人間は自らの内部に音色、すなわち音楽の領域を保有しているが、これもまた人間の運動を通じて、音色上の法則性にしたがって視覚化することが可能である。発話とオイリュトミーは、一方は聴覚上、他方は視覚上のものであるとはいえ、究極的には同一の体験である。人間とこの世界を創造したものは発話----すなわち創造的な霊的実体のオイリュトミーにほかならない。人間もまた霊のうちで創造的になりうるがゆえに、発話とオイリュトミーが与えられたのである。

  

 

 

フラーとシナジェティクス・ワークショップ


(93/01/19)

 

 先日のシナジェティクス・ワークショップに一緒に参加した方が、それを地方雑誌で紹介するために書いた原稿の下書きのコピーをもらってきましたので、それを簡単に紹介させていただきます。その原稿には、幾何学の具体的な内容には踏み込んでいませんが、フラーとそれを継承する梶川さんのスタンスはおおよそ理解できるものと思います。

 ちなみに幾何学の具体的内容については、フラーが子供達と対話しながら説明したものを本にした、リチャード・j・ブレネマン編の「フラーが僕たちに話したこと」(めるくまーる社)というのがあって、わかりやすいと思います。

 

梶川泰司 シナジェティクス研究所所長、

地球的視野のデザインサイエンスに取り組む20世紀の発明王

バックミンスタ・フラーに学ぶ。

われわれの惑星上の生命の本当の富は未来に向かって作用する

メタボリック(新陳代謝)で、知的なシステムそれ自体である。

  

 『バックミンスター・フラー』。幾何学や物理学に興味のない人でもこの名前を聞けば、ご存知の方も多いのではないだろうか。

 彼が1989年に亡くなってからも彼の研究や意志を受け継いでいる人が世界中に多く、特に最近になって彼らの活動が目につくからだろう。そして、彼の名著である『宇宙船地球号』で提示されている問題が切実なってきているためか、とみに注目を集めるようになってきた。バックミンスター・フラーは、アメリカのフィラデルフィアにある『フラー研究所』を活動の基盤に、フラー・ドームをはじめ、スポーツ選手が利用しているメガネ・ベルトなど、数知れないほどの特許を持ち、また現代の幾何学や物理学の世界に新しい学説を投じているところなど、まさに現代が生んだ今世紀最大の天才科学者のひとり、現代に生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチといえるのではないだろうか。

 梶川泰司、彼は日本にけるバックミンスター・フラー研究の第一人者である。現在、広島工業大学研究所内にあるシナジェティクス研究所の所長であり、アメリカにあるバックミンスター・フラー研究所を経て、ハーバード大学視覚環境学科客員講師、武蔵野美術大学特別講師なども兼任している。昭和26年7月、広島生まれ。専門は、シナジェティクスとデザインサイエンスで、芸術と科学の幾何学的なブリッジとなる研究や作品を発表している。主要論文に、『多面体を折りたたむ』、『成長する正二十面体』など、訳書に『エッシャー・変容の芸術』『クリティカルパス』(近刊)がある。

 彼は26歳のときフラーの理論に出会い、すぐさまアメリカの研究所に赴き、彼と出会う。当時フラーは80歳を越え、理論の完成時でもあった。その時期に会えたということは非常に運が良かったという。

  今回のワークショップは、梶川氏の研究の一端である『プラトン立体』を中心としたフラーの研究コンセプト入門編、といった内容のものだった。参加者は25名。職業としては、建築家の学生、建築家、医者、舞踏家、声楽家、学校の教師、デザイナー、広告プランナーなど、クリエイティブな仕事に取り組んでいる方々が多かったが、やはり『現状』というフィールドに限界を認め、積極的なオルタナティブを獲得していこう、という試みからのものが多かった。

  ワークショップは、梶川氏のフラー観から始まった。時間の多くは、参加者による幾何学立体の工作とそれによるさまざまな視点の提示に費やされたが、それを文字にすることは困難なので、以下、彼の語ったことをピックアップしながらかいつまんで紹介していきたいと思う。

  まず彼、フラーの仕事面から話していきたいと思います。『偉大な発明と発見は、常に大学の外でなされた』という半世紀前の哲学者ホワイトヘッドの指摘は、現代においてはほぼ正しいでしょう。バックミンスター・フラーにあっては、まさにそれが正しかったといえます。フラーが直径50メートルの全天候型のジオデジックドームを空輸によって一日で製作したのは1953年でした。その構造は、東京ドームよりも大きな体積を覆うこともできました。砂漠化や戦争が作り出す難民のために、設計から施工まで一週間とかからないこのデザインが有効なのは言うまでもありません。

 一日で完成し、その日から住むことのできる量産型の金属住宅は、1944年につくられています。今生産すれば、重さも価格も、日本の高級車一台分です。それは住宅に費やされている多くの資源と無駄な支出を節約できるに違いありません。そして、今人類が必要としている20億戸の住宅を持てないでいる人々へ供給する手段となりえます。

 1932年にフラーが完成させたダイマクション・カーは、時速192キロメートル、世界初の空力学アルミニウムボディを持つ、燃費13キロメートルの11人乗り、3輪自動車でした。そして50年後、アルミニウム・ボディはようやく自動車工業界に取り入れられることになりました。

 先に紹介したものだけでなく、フラーの偉大な仕事のすべては、今日でもなお、革命性を失っていないどころか、これからますます注目されていくに違いありません。それは、これからの人類にもっともっと必要になるデザイン・サイエンスの巨視的なものの見方なのです。

 また、フラーは、1927年に、「間違った理解や近視眼的な欲望による大量生産は、地球上の有限な化石燃料を半世紀以内に失わせる」と警告しましたが、当時の方々は耳を傾けようとはしませんでした。

 全体的な知識から分断され、自分の非科学的な行為に無関心な哀れな専門家でしかないデザイナーに、フラーは絶望しました。彼らが作り出す製品は、資源をますます枯渇させていくばかりになってしまいました。フラーは、お金持ちのクライアントからかかってくる電話に人生や社会の幸福を期待することを、一切やめたのです。

 そして、政治が解決できなかった人類の問題を解消することへ、個人として着手しました。地球のエコロジカルなシステムがクライアントの依頼でつくられたものでないように、彼の仕事も誰かに依頼されたものではなかったのです。

 彼は自然の構造に学び、生態学的な相互作用を破壊することなく、すべての人々に高い生活水準を実現することを目指しました。それは彼が創始したデザインサイエンスでした。目に見えない状態で宇宙にはじめから備わっている本当の機能----より少ないエネルギーで最大の効果をもたらす宇宙というテクノロジーを知り、無限に存在する原理を発見し、それにより快適な環境のために物質化することを彼は実践したのです。

  フラーがいったように、我々の惑星上の生命の本当の富は、未来へ向かって作用するメタボリック(新陳代謝)で知的な再生産システムそれ自体です。太陽エネルギーを何億年もかかって蓄積した石油やウランなどの埋蔵資源をどんなにハイテクのシステムで燃やそうとも、消失でることに変わりがないのです。非生産的なエネルギーに頼って生きている限り、我々はこの大宇宙の中のほんの束の間の粗悪なDNAとして消え去るのみではないでしょうか。

  私がフラーにはじめて会った時は、フラーが86歳の時でしたが、その頃でさえ、彼は世界中いたるところで、毎日のように講演をし、移動の飛行機の中で本を書き、睡眠をとるという超多忙な生活を送っていました。アポイントをとることも考えず渡米したもので、フラーが会ってくれたのは、まったく運がよかったとしかいえません。研究所に入ると低い厚みのある声が聞こえてきました。その瞬間の感動は今でも忘れられません。彼は私の研究のアイデアをとても喜んでくれて、その可能性や思いつきを2時間もしゃべり続けていたのを思い出します。

 それから彼が亡くなるまでの2年間、私は彼とともにシナジェティクスの研究をしました。フラーのエゴは天才にふさわしく巨大でした。エゴは発明には不可欠な要素です。発明したいという強い欲求なくして発明は生まれてきません。しかし、彼が素晴らしい発明を生みだしたのは、そのエゴを打ち消すだけの自己否定的な人間性を持っていたからだと思います。

 研究所は世界中から優秀な人材が集まっていました。彼自身は実際には応用的な実務はあまりできませんでしたが、それを手足となってやってくれるスタッフがまわりにいました。そして、彼らの手によってさまざまなアイデアが実用化されていきました。

 現在、私も広島をキーにして東京、大阪と大学の講義や講演、ワークショップなどで飛び回っておりますが、新しい研究活動を再重要視しています。現在、実用新案特許が26あります。今日使った教材などもそのひとつです。

 最後に、人間の知識は無限です。なぜなら宇宙は無限で、そこには無尽蔵にアイデアがあふれているからです。まさに、発明はエンドレスだと思います。物理学における最大の発明は、超伝導などこの10年間に集約されています。そして、これからの10年間のサイエンス&テクノロジーの進歩は素晴らしいものがあると思います。

 ということなのですが、ワークショップでもっとも興味深かったのは、プラトン立体をはじめとする多面体相互の関係が、数式などを使ってではなく、まさに感覚で理解(?)できたことでした。モデルとして実際につくった立体は、辺としての木の棒をゴムのチューブでつないだ、頂点数が12、辺の数が24、面の数が14(うち、正三角形が8つ、正三角形ふたつ分のひし形が6つ)のCUBOCTAHEDRONといわれる多面体で、これがある法則性をもって折り畳められていく快感はなかなかのものでした。

 ちなみに、梶川さんは、プラトン立体をはじめとする18の多面体を「面」の関係としてではなく、頂点数と辺数の関係で、それら相互の関係を解明した業績をもっています。といっても、なかなかその画期的なところは理解しがたいかもしれませんが、とにかく、正四面体からはじまる多面体による幾何学の新展開が開く新たな視点は、さまざまに応用可能なようです。たとえば、DNAの構造の解明についても、そうした成果が応用可能なようで、そのほかにも、梶川さん自身が「梶川バンド」と名づけていた、立体的メビウスの輪のねじれの解明など、あっという驚きに満ちていました。

 僕などは、すぐに、その幾何学的発想を神秘学的ビジョンに応用してみようかなんて考えていたりしているのですが、「かたち」の不思議を解明する大きな契機になりそうな幾何学の新展開に思いを馳せる今日この頃です。

 

 

 

フラー●テトラスクロール


(93/02/06 )

 

 バックミンスターフラーといえば、先日ご紹介したものの他に、先日出張したときに見つけて買ったこんなのがあります。

 ●R.バックミンスター・フラー:テトラスクロール(めるくまーる社) 

 この本は、フラーが自分の全思想を童話の形で語ったユニークな絵本で、訳者の芹沢高志さんおあとがきによれば、この本の概要は次のようなものといえます。

・・・前半は彼の数学・哲学体系「シナジェティクス」の解説にあてられています。シナジェティクス、正四面体を基礎にしてまとめられた、壮大な思考の幾何学です。

 読者は「テトラスクロール」の冒頭から、シナジェティクスの世界に連れこまれます。少々面くらうことになるかもしれません。そこは三角形の世界なのです。学校で習ってきた“知識”はほとんど役立たないでしょう。遊園地の、すべてが傾いて建てられた不思議の部屋にでも迷い込んだように、私たちの頭はクラクラしてきます。しかしまぎれもなく、これがバックミンスター・フラーの世界でした。

 「テトラスクロール」後半では、フラーの壮大な人類史が展開されます。しかしこれも学校の知識はほとんど役立たないはずです。直観による驚くべきジャンプ。そして海の人々と陸の人々の物語が語られるなかで、彼の提唱した「デザイン・サイエンス革命」の人類史的な位置づけがなされていくのです。この部分は、デザイン・サイエンス革命のマニフェストである「宇宙船地球号操縦マニュアル」と合わせて読まれると、さらにフラーの言いたいことがよく理解できると思われます。

 学校でまともに勉強しなかった僕のような人間は、学校で習わない種類の知識といわれるとそれだけでワクワクしてしまいます(^^)。ちなみに、この本、ポパイなどのような雑誌のサイズで絵本仕立ての約150ページ、値段は2884円、安くはないけれど、ま、買って損はなさそうですよ。ついでに、この本の雰囲気を、ということで、最初の部分をついでに紹介します。

 ゴールディは北極熊一家の3匹の友だちと、夜空に浮かぶパーティを開いていた。

 ゴールディに言わせると、このパーティは1つの<システム>だ。ゴールディと3匹の熊はそれぞれ違った4つの存在(あるいは出来事)だけれど、このような出来事が4つ集まるとシステムが生まれる。システムはこの宇宙を6つに分ける。システムの“そと”に広がった宇宙のすべて(これはマクロコズム)、システムの“なか”に広がった宇宙のすべて(これはミクロコズム)、それから宇宙をシステムの“そと”と“なか”に分けている宇宙の出来事A、B、C、D、この6つである。

 4つの出来事は四面体をつくる。しかし、これらの出来事は同時に起こっているものではない。ゴールディは光が1年に6.5兆マイルも旅することを知っている。天文学者に教えてもらったのだが、父さん熊の鼻は210光年も遠くにあるらしい。・・・ 

・・・こうしてゴールディは、アシンシュタインの考えを理解した。この宇宙はひとつの物語であり、同時的な構造であるという、あのアインシュタインの考えを。・・・

 こんな感じで進んでいくのですが、想像するより、気楽に読めます(^^)。こうしたフラーなんかも輪読会にはいいかもしれませんが、これは、テキストがないと、理解しにくいでしょうね。

 

 

 

幾何学宇宙


(93/02/25)

 

 大石凝の説によれば、宇宙の原形が幾何学立体であり、天地開闢以前の極元の原初宇宙にはただ「ス」という物が、「十八綾図(コンペイトウ)の象(カタチ)を造りて、ス、ス、ス、……」と呼吸していて、そこに「タ、タ、タ、……」の対照力が働らき、球状の「至大天球」(タカアマハラ)が形成され、その中心部に「大気」(ノリ)が結晶し地球が成った、というものですが、この宇宙の原形である「十八綾図(コンペイトウ)の象(カタチ)」を

「六角切子の玉」ともいうようです。

 先日体験してきたシナジェティクス・ワークショップでは、組み立てた大きな模型を、辺と点とを基点にして、次第に幾重にも折り畳んだり、また展開したり、というワークがありまして、それを繰り返し体験しながら思ったのは、宇宙というのは幾何学立体であり、それが展開されたり折り畳まれたりで、さまざまに次元が展開してきたのではないかということです。そのことは同時に、神秘学の基本原理でもある、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応ということとも符合したり、一即多、多即一ということとも類推させるものです。

 

 

 

次元の「折り畳み」など


(93/03/19)

 

 この「四面体」という概念なんですが、例の梶川さんは、こうした形を「点」と「辺」によって説明しようとしていました。ですから、「四面体」っていうと、4つの点と6つの辺をもつ形になります。で、こういう考え方をもっと複雑な形に適用させていくと、複雑な形が、点と辺を「折り畳む」ことで、いくつかの類型にわけれるというのです。例のワークショップで実習していたのは、点と辺をもつ大きな図形をどんどん折り畳んで単純な形に次元を下げていくということで、この3次元世界というのも、もっと高次元世界の「折り畳まれた」形なのではないかと僕なんかは実習をしていてなんとなく感じていたのでした。このことは、ちょっとわかりにくいように思えますが、実際にモデルを使って実感してみると、なんとなくわかるような気がするから不思議です。

 もちろん、梶川さんがそうした次元のことを示唆していたというのではないのですが、いろいろイマジネーションを広げてみると、いろんなアイデアがわいてきて、とってもワクワクしてしまったのではありました。

 この3次元というのは、いろんな形の折り畳まれた形として、多次元宇宙のひな型として成立しているのだとしたら、人間がいくつかの構成要素の多重構造になっていることだとか、はたまた、ちょっと話を飛ばしてしまうと、出口王仁三郎が大本をひな型として現象化したことだとかいうことが、なんとなくイメージされてくるように思われるから不思議です(^^)。ですから、「形」というのが「あるべくしてある」ということをそうした角度から検討していくというのは、とっても興味深いのではないかと思うのです。

 ここらへんのテーマはまだまだアイデアの段階にしか過ぎませんが、いろんな仮説をつくり、それをさまざまに検討していくと、この宇宙の謎のひとつにでも迫ることさえできるのではないかとファンタジーの翼を大きく広げているのでした。

 

 

 

折り紙天国


(93/06/08)

 

 シュタイナー医学やそれとシナジェティクスとの関連などを勉強している方とひたすらあれこれと突っ込んだ話をしていました。僕がMACを買う気になったのもこの方がMACを買って、それを使ってそこらへんのテーマを遊びながら研究し始めたからなのでした。以前にもお話ししましたが、フラーのシナジェティクスを発展させようとしている梶川さんのワークショップを開いたのがこの方でした。

 実は、この1カ月ぐらい、折り紙のピースを使って、多面体をつくって、遊んでいて、その深い深い世界に日々入れこんでいたりしたのですが、この方も同じ頃に、東京に遊びに行っていたとき、山手線の隣の席に座っていた子供が読んでいた折り紙の本で、折り紙で多面体をつくるというのをみて、入れこんでいたのだそうです。

 できればこの折り紙でつくる多面体を直にお見せして驚かせたいのですが、このパソ通ではちょいとそれが難しい。ということで、とりあえず、関連書籍を紹介させていただきますので、ぜひ一度本屋さんで見つけて、実際に折ってみてほしいと思います(^^)。 

●布施知子ユニット折り紙(1)「箱を楽しむ」(筑摩書房)

●布施知子ユニット折り紙(2)「ユニット あらかると」(筑摩書房)

●布施知子ユニット折り紙(3)「生長する立体」(筑摩書房)

●布施知子ユニット折り紙(4)「立体七変化」(筑摩書房)

●布施知子ユニット折り紙(5)「箱の百面相」(筑摩書房)

 フラーのシナジェティクスの考え方のある部分ををまたひとつ違った角度から実際に実感することができて、ばかなかに興味深いし、しかも子供からお年寄りまで、みんなで楽しめるという、なかなかの遊びではないかと思います。おかげで、わが家は今や折り紙の国と化してしまっていますし、現在知人にも布教中なのであります(^^;)。

 

 

 

多面体折り紙とシナジェティクス


(93/06/08)

 

 やっぱりシナジェティクスに関心のある方というのは、半ば必然のように多面体折り紙へとたどりつくのですね(^^)。しかし、この布施さんという方は、かなり著名な方のようですね。僕はつい先日知ったばかりなのですが、すごくおもしろそうな方ですねえ。そういえば、先日、広告で、この布施さんの編集(ダッタトオモイマス)で折り紙の専門誌の創刊号が紹介されていましたが、残念ながら、我が田舎町ではその雑誌は入荷していないようでした。

 梶川さんのワークショップですが、梶川さんはもともと広島の方で、広島にシナジェティクス研究所を開いていたことから、今年1月に広島でありました。

 しかし、その後梶川さんは研究所を東京に移し、聞くところによれば、今は横浜にいらっしゃるとかいうことでした。

 ちなみに、梶川さんのワークショップでは、ゴムのチューブを接点にして、竹の細い棒をそれにつないだものを使いました。なぜそういうツールを使っているかというと、梶川さんの理論では、プラトン立体などの多面体のパターンというのは、点(ゴムチューブ)と辺(竹の棒)の数の法則性のもとにあるから、大きな立体の辺と点を次々に折り畳んでいくと、最後には、正四面体にまで折り畳めるということになります。それが、実際のツールをどんどん折り畳んでいくことで、自分の手の中で実感できた感動は、なかなかのものでした。

 折り紙に話を戻しますと、布施さんの本ですが、今日、「らせんを折ろう」(筑摩書房)というのも見つけました。そこには、貝に螺旋やDNAの螺旋、螺旋立方八面体、螺旋八角BOXなどという、これまたわくわくネタがぎっしりとつまっていました。そういえば、梶川さんも、シナジェティクスとDNA構造の関係について、ワークショップでもコメントされていたのを思い出します。

 

 

 

かたちのオデッセイ


(93/08/25)

 

 シナジェティクスについて考えていく場合には、もっとひろく「かたち」ということを見ていった方が、その根本的な問題についての認識が得られるのではないかと僕はずっと考えているのですが、その際、最近僕のひとつのガイドとなっているのが、中村雄二郎「かたちのオデッセイ」(岩波書店)で、それについては、この会議室でも何度か紹介しているのですが、それは、次の目次のように、哲学、物理学、生物学、色彩論などなど、さまざまな角度から「かたち」の問題に迫っているものです。 

第1章 ホログラフィと共振

第2章 六大に響きあり/宇宙リズムと形態形成

第3章 形象の誘惑/モルフォロギアと怪物曲線

第4章 色の領界/かたちの分身

第5章 迷宮と原型/渦巻と螺旋の驚異

第6章 幾何学と混沌/形象の彼方・根底にあるもの

第7章 美と力と崇高のはざま

第8章 場所とリズム振動/空白と充満のダイナミズム

第9章 色のある世界・色のない世界/脳髄と宇宙の接点

第10章 振動のひらく世界/H・イェンニの周辺

補遺  形態共振と視覚の自明性

 これらのアプローチは、神秘学的にみると、かなり物足りない側面はあるものの、「かたち」に関する基本的な視点のいくつかが浮き彫りにされているという意味ではかなり注目すべき著作のひとつだと思われますので、機会があれば、ぜひ一度ご覧いただければと思います。ここには、シュタイナーのこともゲーテの自然科学論などに関連して少しばかり登場します。

 たとえば、第10章には、イェンニの探求している「振動の世界」が次のように紹介されています。 

この「振動の世界」では、さまざまな周波数の波動により振動を加えられた水滴、石英粉、ヒカゲノカズラの胞子などによって、多角形などの幾何学図形、動物の内臓や耳のような形、地球生成を思わせるような動的形態が次々と出現した。

(イェンニの流れを汲む女性ビデオ作家スーザン・ダージェスのビデオ作品の「カイマティカ」「ヘルメティカII」について/topos注)前者は、水面いっぱいに張られた金粉がチベット密教僧の発する<声明>の振動によってマンダラ的な千変万化を繰り広げるものであり、後者は水銀滴に低周波の振動を掛けたときに現れるさまざまな形態の八つの段階(二角形、三角形、四角形、五角形、七角形、等々から円に近い多角形に至るまで)を円環をなすように一緒に並べ、移行の様子が見えるようにしたものである。

 また、特にシナジェティクスに関連したところでは、こういうのもあります。 

<調和学>は初期のギリシア哲学の主要な基礎理論であった。とくにピュタゴラス学派の基礎的な教えは、算術、幾何、天文学、音楽及び倫理学はすべて数とその比(ratio)によって説明されるということであった。・・・プラトンは、彼のこの教えにもとづいて、1、2、3、4というイデア数が世界創造の原理になるような、秩序だった体系をつくり出した。プラトンの宇宙論的な対話篇「ティマイオス」のなかにも、ピュタゴラス学派の考え方が反映している。というのも、ティマイオスという人物はピュタゴラスの徒であり、彼は、どのように世界つまり土、水、空気、火が、三角形から作られ、また、どのようにこの三角形がさまざまな規則正しい立方体になるのか、説明しているからである。

すなわち、四つの正三角形が合体されるとき、それぞれの三つの平面角の結合から最初の立方体が得られる。これが正四面体である。同じようにして、八面体、六面体、二十面体、十二面体が得られる。これらが有名な<プラトンの正多面体>である。 

 このように、宇宙の根源にある振動がリズムとなり、さらに幾何学的なかたちを形成していくということが、シナジェティクスの最も基本的な考え方となっていくように思われるのですが、これらを神秘学的に、言霊論や宇宙進化論というテーマへと推し進めていくと、非常に興味深いと思うのです。

 例の、「秘数7の驚くべき謎」は、かたちや振動といったものを神秘学的にとらえていったときに現れてくるもので、おいおいその謎については明らかにしていきたいと思っていますので、お楽しみに。

 

 

 

「4」を中心とした「7」のダイナミクス


(93/08/30)

 

 「宇宙は対応の世界」であり、その対応において、意識が生まれ、神が生まれ、宇宙はただ回流しているだけ、マクロコスモスとミクロコスモスを回流しているだけというとらえかたがあるんですけど、問題は、なぜ「回流」するのか、「意識」があるのか、ということに行き着きます。「対応」ということだけでは、「動き」は説明できなくなると思うからです。そこに、シュタイナー的な宇宙進化論のテーマも集約されるのかもしれませんし、「7」ということの意味もあるのだと僕は考えています。梶川さんなどのシナジェティクスを見ていて疑問が浮かんでくるのも、実は、その「対応」を動かして行くダイナミクスのことがうまく説明できないというか、俎上に乗らないということがあるからなのです。

 「かたち」は「静的」な「かたち」としてではなく、「動的」で形成的な「かたち」であるはずだと僕は考えるのです。正四面体が「生命の核」というか、むしろ「かたちの核」になるということは、その内に基本的なダイナミクスをはらんでいるということでなくてはなりません。「かたちの神秘学」ということで僕の考えていることは、そのダイナミクスをなんとかして明らかにしたいということでもあるのです。

 左と右ということひとつとっても、そこには単なる対応関係を超えた「ずれ」が必ず存在しています。その「ずれ」ということのなかに「動き」の可能性もあると思うのです。

 「7」ということの神秘も、それは、「1」と「7」、「2」と「6」、「3」と「5」という、入れ子式の対応関係と、その中心に存在する「4」ということにおいて象徴的に表現することができます。

 この「入れ子式の対応関係」は、ユダヤの7本燭台でイメージされるような、「1」と「7」が「2」と「6」を包み込み、さらにそれが「3」と「5」を包み込み、またさらにそれが「4」を包み込んでいうような関係です。

 この「7つ」ということは、単なる数字ということではなく、7つの要素の関係性ということであって、たとえば、神秘学的にいうと、「月」「水星」「金星」「太陽」「火星」「木星」「土星」という、「4」としての「太陽」を中心とした太陽系の関係性でもありますし、それを鉱物にあてはめますと、「銀」「水銀」「銅」「金」「鉄」「鈴」「鉛」という、「4」としての「金」を中心とした関係性でもあります。

 最近、シュタイナー医学で実証された鉱物におけるこの関係性があるそうで、それは「銅」と「鉄」、「金星」と「火星」という「3」と「5」の対応関係にあります。

 その対応関係というのは「女性」と「男性」ということであると、神秘学ではいわれてきたのですが、調査の結果、女性が妊娠したら、血液中の「銅」は最大値になり、それに比べて、胎児には鉄分が段々に増えていき出生時に鉄分が最大値になるというのです。

 ここらへんのことは、なかなかに興味深いことですよね。ちなみに、もちろん、上記の太陽系惑星には、臓器も対応していて、それぞれがある種の病気に対応関係にあります。

 この「7」における「4」を中心とした対応関係ということは、数学の法則や幾何学的な「面」と「点」との関係にも、非常にダイナミックな形で存在しているようで、それについてはまた改めて整理してご紹介してみたいと思っていますが、要するに、単なる対応関係というよりも、それらが「4」を中心として対応しながら動的に展開していくということが重要なポイントだと思われます。

 シュタイナーのいう人間の構成要素も、「自我」を中心とした、「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」「霊我」「生命霊」「霊人」という7つでできていますし、「ドレミファソラシ」というのも「ファ」を中心とした7つです。このドレミファソラシドによる宇宙論を展開しているのがグルジェフですよね(^^)。もちろん、ピタゴラスの音楽論というのも宇宙論、人間論としても要注目です。

  

 

プラトン立体の対応関係


(93/08/31)

 

 対応するために回流し、対応が「階層」を作り出すことによって「意識」が生じる、その「階層」という視点はとっても大切だと思います。これまでの形態や幾何学の考察から欠け落ちていたのが、そこらへんのことなのではないでしょうか。

 右と左の対応があるということは、そこに中心があり、左から流れてきたものと右から流れて来たものとが、中心で渦を巻くというのはとても面白いことです。人体でいえば、その中心が「胸」、つまり、器官でいえば心臓、チャクラでいえばアナハタなわけでしょう。

 左右、上下、前後、内と外、この対応の中心は空であり、その空なるものがあるから、「動が」生じる、その「空」ということが非常に重要なのですが、その「空」こそが、ヒエラルキーをシフトさせるポイントであり、しかも、それは他の対応関係より高次の原理であるのではないでしょうか。仏教でも「空」ということがいわれますが、その「空」とは、いってみれば霊的世界の原理でもあるわけです。「霊魂体」という三分節の考え方でいけば、「霊」と「体」を対応させる「空」としての「魂」のことでもあります。

 六面体と八面体も一つの静体形態と考えるのではなくて、六面体と八面体の交流というのも興味深いことです。実は、先日の「7」に関連した幾何学の話でも似た視点がありましたので、その幾何学マンダラの不思議についてご紹介させていただきます。

 プラトン立体には、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体がありますが、たとえば正十二面体からはじめますと、それに内接する他のプラトン立体を探していくと次のような関係が出てきます。

正十二面体→正二十面体→正六面体→正八面体→

正四面体→正六面体→正八面体→正十二面体→正二十面体 

 この関係を先日の中心とその対応という関係に置き換えますとこうなります。

[12]-[20]-[6]-[8]---[4]---[6]-[8]-[12]-[20] 

 つまり、「12」と「20」が対応し、「6」と「8」が、「4」を中心として対応しているのです。

 しかも、正六面体の頂点は「8」であり、正八面体の頂点は「6」であるというように、頂点の数においても「6」と「8」は交流しているといえそうです。ちなみに、すでにお気付きでしょうが、「8」からは「12」と「4」へという方向の二つがあります。

 西洋と東洋とは数の解釈が全然違ってくるんですけど、中心に入ってくるのは3で、それが4を作り、それは立体的に見ると6でもあり、7でもあるということがいえます。 

●     ● ○    ○

|     |/     |

●   ○−●−○  ○−●− ○

|    /|      |

●   ○ ●      ○   

 

◎ ● ○

 /|/

●−○−●

 /|/

○ ● ◎ 

 この図では、○は3つが並び、●は2つが○のラインを中心として対応し、さらに◎がその外に対応していますよね。これを、数式で表し、その数の合計をみてみると、 

  1+2+3+2+1=9(32) 

 ということになり、中心にある「3」の二乗が合計となります。この関係は「中心」と「対応」という形で、次のような一定の法則があります。 

            1            = 1=12

          1+2+1          = 4=22

        1+2+3+2+1        = 9=32

      1+2+3+4+3+2+1      =16=42

    1+2+3+4+5+4+3+2+1    =25=52

  1+2+3+4+5+6+5+4+3+2+1  =36=62

1+2+3+4+5+6+7+6+5+4+3+2+1=49=72

 もちろん、これは「7」以上においてもずっと成り立つのですが、それにしても、数ということも非常に興味深いですし、それと関係した「形」というのも考えれば考えるほど面白いですよね。

 こうしたことについては僕も考えはじめたばかりですので、これからいろんなことをクロスオーバーさせながらいろいろいっしょに考えていきたいものですね。

 

 

 

ヒエラルキーの重要性


(93/09/01)

 

 ヒエラルキーという視点というのは脳を探求する上でも非常に重要なことのように思われます。

 「脳」といえば、養老さんが有名ですが、僕はどうにもこの人の言ってることっておかしいと思うんですよね。この養老さんなどのいっていることは、どうもヒエラルキーということを忌み嫌っているように感じられます。今月の現代思想の特集は「オートポイエーシス」ですが、こうしたシステム理論のようなものも、どこかヒエラルキーを無視しているように僕には思われてならないんです。

 単純にコンピューターの比喩でもわかるんですが、脳ってある種コンピューターで、プログラムには階層性は必要なのだと思うのです。それとそれをオペレーションしている存在も必ずいる。そうでないから、コンピューターのハードだけいじってばかりいたり、ちょいと視点を広げてソフトについてあれこれいってみたりしている。

 しかし、現実にこうやって考えながらテキストを打ち込んでいるのは、ハードでもソフトでもないんですよね。ま、これはあまりに単純すぎるたとえだけれども、僕のイメージではそれに近いような気がしているのです。で、ハード、ソフト、オペレーターという大きな階層性と、それぞれの階層の中での階層性ということを考えていかないと、結局自己撞着に陥っていくような感じがするのですが、どうでしょうか。

 人間の解剖図を見ると、喉と女性の子宮はそっくりでシュタイナーによると、喉というのは、未来の子宮になるそうなのです。つまり、言霊によって生殖ができるようになるということなのでしょう。そういう意味でも、「かたち」というのは面白いんですよね。

 人間の体は、ちょうど正反になっていte,頭の脳と腹の脳との回流していると考えてもいいということですが、視点によっていろいろ見えてくるものがありますね。シュタイナーには、邦訳で「オカルト生理学」(イザラ書房)というのがあって、「からだ」を通じて「汝自身を知れ」ということで、骨格や内臓や神経系についていろいろ神秘学的にみた人体について講義しています。今度、「かたち」という視点からそれを読みなおしてみても面白いかなとも思いました。

 「数」についてですが、まだいろいろ対応についておもしろいのがあるのですが、それはまたということにして、今日、本屋さんで、

 ●北沢方邦「数の不思議・色の謎/日本文化の記号を読み解く」(廣済堂)

 という本を見つけました。北沢方邦さんといえば、そういえば、Valisさんも注目されていた方でしたが、日本における「七」「五」「三」というのは聖数であって、短歌や俳句における「七」と「五」にもそういう意味があるということです。

日本では、短歌でも俳句でも、すべては五と七という聖数にもとづくシラブル数によって成立している。しかもこの場合、剣と珠によって象徴される聖数三と五ではなく、五と七である。

男性の聖数五に対して、タナバタの祭りや七五三の行事であきらかなように、聖数七のジェンダーは女性である。

五七五七七という和歌のシラブル数では、女性シラブル数が男性シラブル数を上まわっている。それに対して俳句は、五七五と、単に簡潔であるだけではなく、男性シラブル数が優位にある。

剣と珠とが世界の安定と豊穣を保証する神々のジェンダー・バランスであったように、日本の詩はシラブル数に象徴されるジェンダー・バランスに立脚している。

ただ三と五の均衡が、太陽の女神と水の男神との霊力の交感によって成立した点で、宇宙の法としてのきびしい側面をしめしているのに対して、五と七の均衡は神々のより和やかでやさしい側面を示している。 

 この三と五というのは、ウケヒによって象徴されるように、天照大神としての三であり、須佐之男としての五であり、またそれぞれがオリオンでありプレデアデスでもあるといいます。

 こうした数の視点というのは興味深いですよね。もっとそういう視点でそれぞれの文化をみていけばいろんなものが見えてくるのではないかとか思ったりします。

 

 

バッハと幾何学


(93/09/05)

 

 今日、定期的に一緒に勉強会のようなことをしている声楽家のOさんと先日来、ここで話されている数をめぐってのことをいろいろ話してまして、先日の「4」を中心とした「7」の話と、ミラクル9さんのおっしゃってた「回流」の話で盛り上がってました。

 Oさんと勉強しているテーマは、「声の解放」というか「昇華」ということで、いっしょにシュタイナー関連の声楽に関するドイツ語の原書購読をしてるのですが、Oさんにとっても、声→リズム→かたちというあたりが非常に興味深いようです。実は、このOさんは、梶川さんのシナジェティクス・ワークショップにいっしょに参加していまして、それ以来その話をことあるごとにしていました。

 Oさんの模索している「声」というのは、これまで声楽理論でいわれているような「声帯」が云々とうのではなくて、「場」として生成するような「声」であって、いってみればそれは天と地の接点としての人間の「解放」ということでもあると、僕はずっと感じていたのです。

 今日いろいろ話していたのは、「天」からの働きと「地」からの働きが、「声帯」という場所を「変容」の器官としてとらえると、それが「回流」の中心としての「4」ということではないかということでした。「ドレミファ・・・」の中心の「ファ」というのも、そこで変容の起こる「4」ということであって、ちょうどその調の音楽、バッハのカンタータ第140番に注目していたら、今日のその話ということで、非常に話が盛り上がったのです。

 シュタイナーによると「4」というのは、キリスト衝動としての「愛」の原理でこの地球期のメインテーマであるということで、その「4」によるメタモルフォーゼということで、音楽をはじめとしていろんなことが考えられるのではないか、ということになったわけです。

 Oさんにとっても一番興味深く思われたのは、静的なかたちではなくて、動的な「回流」するかたちだという点だったようで、「4」というのを固定的にではなく、メタモルフォーゼのための「場」としてとらえるということが、とても納得できたのだそうです。

 話は、バッハのカンタータ第140番に隠された「4」の秘密のことや(このカンタータには実際に秘教的な叡智が隠されているようですし、実際に幾何学と関係して考えられるバッハの作品がわりとあるようなのです)母音や色なども「4」云々ということで考えたときに、いろんなことが見えてくるなどなど・・・ということで、、いっそのこと、バッハと幾何学というテーマで、そのうちにミニコンサート&パーティーなどでもしようか、という話にもなり、ちょいと腰を入れてこのテーマにいっしょに取り組むことになりそうです。

  

 

 

カバラと西田哲学


(93/09/07)

 

 「10の回流」ということで、どうしてもカバラを連想してしまいました。

 簡単に、御存じのその「生命の樹」を書きますと。 

   1ケテル

  /    \

3ビナー   2コクマー

|         |

5ゲブラー   4ゲセド

|  \  /   |

| 6ティファレト |

|  /  \   |

8ホド    7ネツァク

\  \  /  /

 \ 9イエソド/

  \  | /

  10マルクト

 

 ちなみに、先日の「4」を中心とした「7」という考え方の基本は、「神」がシナイ山でモーセに与えた「メノラー」というユダヤの燭台なのですが、それは上記の生命の樹では、「ケテル」を中心とした次の7つにあたります。

 ホド◆ゲブラー◆ビナー◆ ケテル ◆ホクマー◆ヘセド◆ネツァー

 ということで、この中心にあるケテルからティフェレト、イエソド、マルクトという中央の軸が、「火」「空」「水」「地」というような階層をつくりながら、この現象世界を形成していくのだと僕は考えています。実は、まだカバラについてそんなに詳しくないので、正しくは?ですが(^^;;)、シュタイナーの宇宙進化論でいえば、「土星紀」「太陽紀」「月紀」「地球紀」というのが、それに対応するのでは、と僕は思っているのですが、ま、そこらへんは僕の想像です。

 こうした生命の樹で象徴される時間が階層をつくりながら回流し、螺旋状に降下してこの物質としての現象界が形成されていくと考えると、そうした10のセフィロートという「時間」が、変換されて空間になるといってもいいかもしれませんね。(実は、ケテル→ティフェレト(創造世界)→イエソド(形成世界)→マルクト、のケテルとティフェレトの間には、「ダート(流出世界)」というのもあります)僕は、そんなイメージを持ちました。

 ブラックホールの裏がホワイトホールだと考えられます。砂時計をイメージすると、上にある気が無くなってしまえば、終わりですけど、下と上が引っ繰り返ると、二つの世界を行ったり来たりできます。そうすれば、無限にエネルギーが回流する事ができる。

 このことからすぐにピンとイメージしたのが、西田幾多郎の「無の哲学」ともいえるものでした。西田哲学には、「逆対応」という考え方があって、有と無とが「逆対応」的に関係している、といいます。ということは、これを上記の考え方につきあわせてみると、有と無がひっくりかえりながら回流するいうイメージがでてきます。そうなると、これまで、超難解といわれた西田哲学が一気にわかりやすくなってくるような感じがします。

 で、「絶対矛盾的自己同一」という考え方にしても、それを軸として考えると、自己というのは、有と無という絶対矛盾するものが回流することで形成されている意識によって統一的にある存在であるという説明が可能となりそうです(^^)。

 気学の場合は、数が逆行しているわけですね。この現象世界は生成発展の世界ですから、本来は1 2 3 4 5というように順流になるはずです。そうすると、表の数理があるということがわかりますから、これが気学の数理(陰数理)に対して陽数理の発見ということになる。

 こうしたとらえ方もとっても面白いもので、これもさっきのように、「有」と「無」ということに置き換えると、僕なんかはかなりイメージしやすい感じがしてきます。

 この裏と表の貫通というのも興味深い点で、有と無とが逆対応的に矛盾的に関係しながら、その実、「自己」という「場」において「同一」してくるというのと同じかもしれません。「柳は緑」「花は紅」とかいう禅のワードも、この裏と表、無と有とが貫通した境地の表現なのかもしれませんね。

 この縦糸のエネルギーと横糸のエネルギーの回流、そののかみ合った所が神(現象)であり、結局時間の縦と横の回転ということは、最初のカバラの「生命の樹」そのものかもしれません。

 つまり、

ホド◆ゲブラー◆ビナー◆ ケテル ◆ホクマー◆ヘセド◆ネツァー

 という「横」のエネルギーと、ケテルからティフェレト、イエソド、マルクトという「縦」エネルギーとが回流するといういうイメージです。ここで、ちょっと面白いのは、この「横」には、「慈悲」としての右の腕と、「峻厳」としての左の腕があり、「縦」の軸は「優雅」ということで象徴されますが、「左」と「右」とは「非対象」であって、それと「縦」のエネルギーとが回流しながら階層化し螺旋的に展開していくというイメージが可能です。

 物質と人間が対応するということは、物質の時間と人間の時間が対応することで、物質の時間に相当する時間が人間にわき出て、そのわき出た時間で物質の時間を捩じる。その捩じる事において空間認識になるわけで、そこには階層ができているというあたりのことも、禅の哲学化をおこなった西田哲学とどこか通ずるものがあるような気がしてきました。物質の時間は「有」であり、人間のそれは「無」であり、それが捩じれる(「逆対応」的に関係する)ことによって、空間認識が生じる・・・というのはどうでしょうか。

 

 

 

シュタイナーの7など


(93/09/10)

 

 カバラについては、あまりよく理解できてはいないのですが、西洋の数霊ともいうべき有名なゲマトリア形上的数学体系もありますし、生命の樹というのが、その観点によって、三層、四層、七層という階層的な体系をもっているというのもありまして、数霊と比較していきたいと考えています。

 シュタイナーの宇宙進化論というのは結構難しいところがあるのですが、基本的に「7」つの階層ということでは統一しているようです。ちなみに、シュタイナーによると、「12」というのが空間なのです。

 参考までに、シュタイナーにける数に関するいくつかのポイントをピックアップしてみることにしましょう。

 まず、人間は、「肉体・エーテル体・アストラル体・自我・霊我(マナス)・生命霊(ブッディ)・霊人(アートマ)」という7つの構成要素を可能態として有しています。可能態というのは、マナス以降はまだ、形成されていないからです。

 で、この地球の進化をこれにくらべていくとすると、肉体の萌芽は土星紀に形成され、さらにエーテル体は太陽紀に形成され、アストラル体は月紀、そして自我はこの地球紀に形成されました。これらの時代は、それぞれ「熱の時代」「空気の時代」「水の時代」「土の時代」と呼ばれ、さらにこの進化紀には、今後「木星紀」「金星紀」「ウルカヌス紀」という3つの時代が続き、7つの進化紀がひとつもまとまりをもつことになります。

 で、先日の「4」を中心とした「7」ということで、「地球紀(目覚めの意識)」を中心として、「土星紀(昏睡意識)」と「ウルカヌス紀(意識化された昏睡意識)」、「太陽紀(眠りの意識)」と「金星紀(意識化された眠りの意識)」、「月紀(夢の意識)」と「木星(意識化された夢の意識)」が対応するわけです。(括弧内は人間の意識状態を表わしています)

 さらに、地球進化紀には、「ポラール時代」、「ヒュペルボレアス時代」、「レムリア時代」、「アトランティス時代」、「7つの教会への手紙の時代」、「7つの封印の時代」、「7つのラッパに時代」というように7つの時期があるとされています。

 さて、いきなり持ち出して来た西田幾多郎ですが(^^;;、この無の哲学というのは、「有」という物質的原理と「無」という霊的原理とを人間の中で絶対矛盾的に統一されたものとして説明しようとしたのだと僕は考えているのです。(先日いった、人間の時間は「無」であるというのは、物質に対比させた霊的原理のことなのでした)

 たとえば、西田哲学を継承しているひとりでもある鈴木亨の「存在者逆接空」ということなどはそれをよく表現しているように思えます。それは、主語と述語の矛盾絶対的自己同一を表現するもので、主語(空)が即述語(存在者)として繋辞的連関のプロセスとなるといい、それが有限即無限、相対即絶対、瞬間即永遠というように、逆接的にとらえられるというのです。

 こうした表現は、ともすれば言葉の遊び的にとらえられがちですが、実のところ、無の場所としての霊的世界とこの物質世界とをなんとか説明しようという苦闘なのだと思うのですが、どうでしょうか。おそらく、こうした西田哲学は、数霊やカバラやシュタイナーの神秘学などとかなり通じる部分が多いと僕なんかには感じられているのです。

 物の時間が人間に向かってくる(過去の光が人間に向かってくる)というのは、人間の中心が空でありブラックホールであり、それで、実はその空間認識が生じるのは言葉(文字)があるからだといえます。だから、時間を取り入れて、それが言葉において空間認識になって、初めて認識即存在になる。

 こうした、「言葉」というのは重要な観点だと思います。聖書にも最初に「言葉があった」とかいうことがありますが、シュタイナーも、「光」より先に「言葉」があったという言い方をしているようです。言葉は言霊であり、もちろん「数」ですから、その数の探求ということは、宇宙の神秘の根幹を探求することにもなります。日本の神道霊学にはかなり深い言霊論があり、たとえば、この宇宙の始まりに、「ス」という音霊が響きわたった(だったと思います)ということがいわれます。

 ついでに、「暦の原点」ということですが、この「暦」ということについては以前から気になっていまして、古代の暦からグレゴリオ暦、八卦、干支、九星、占星術などについて解説してある永田久さんの「暦と占いの科学」(新潮選書)などを読んだこともありますが、結局のところ、宇宙論的な背景を考えていかないとよくわからないようですね。ということは、暦をつくりだしてきたそれぞれの文化の世界観ということですから結局のところ「数」に関するテーマに収斂してくるようにも思えます。

  

 

シュタイナーの「7と12/数の秘密」


(93/09/11)

 

 シュタイナーの数についての考え方を紹介しておくことにしたいと思います。それについては、「西洋の光の中の東洋」(創林社/新しくは「水声社」刊)の「7と12」及び「数の秘密」という項目あたりで講義されたものがあります。空間から時間へ向かうのが7であり、時間から空間へ向かうのが12なのです。

 時間的に配列されたものはすべて、7という数を基準として整頓されています。土星紀、太陽紀、月紀、地球紀(火星−水星紀)、木星紀、ヴルカン星紀、の7つです。文化期も7つあります。時間の基盤となるものはすべて7という数に基づいています。そのため、時間の中に導かれるときはいつでも7という数に導かれるのです。空間から時間の中へと導き、超世界的なものに導くロッジや学院は7という数に基づいています。聖なる神仙も7人であり、ギリシアの賢人も7人です。その他の民族の導師たちも7人でした。空間の基本数は12です。時間が空間の中に流出するとき、それは12という数を通した啓示になります。時間が空間の中へと流出するとき、12という数が支配するのです。イスラエルには12の部族がありました。かつて時間の中で啓示されたキリストが空間の中に流出したとき、12使徒がいました。

 7から12への変化というのもとても重要なことで、空間から時間へむかう7というのは子供から父へそして祖先へと遡ることによって、時間のなかで進化するものを認識することなのですが、それが12へと変化するということは、子供という概念に代わって、「兄弟」という概念によって人類進化のなかで上昇するということでもあります。

 また、12というとやはり黄道十二宮というのがでてくるでしょうが、この12の基本点は、原初の神的−霊的存在を表わす現実的な宇宙表象であり、黄道十二宮のしるしで象徴されるのは、惑星進化を超え、地球上で善と悪の対立として演じられているものをも超えているのだといいます。12の空間点、12の永続点によって象徴されるものは善悪を超えているということなのです。

 地球の萌芽は、永続的な神性が善の領域と悪の領域に分けられることからはじまるのですが、霊界では「持続」し、時間とは無関係だったものが、時間という要素をもつことによって善と悪とにわかれることになりました。で、12の持続点のうち、5つは純粋に善の領域にとどまり、2つは境界上で、あわせて7つの点が善の領域にとどまっているが故に、それについて語られるのだというのです。ですから、黄道十二宮のうち7つの星座が光の世界、上位の世界に属し蠍座以下の5つの星座は闇の世界に属していると考えられるのだといいます。

 ということで、キリストは7を12に変化させ、7という数の下にとらえられていたものを12という数の象徴のもとでとらえ、世界を救済した、ということになり、それが十二使徒で代表されるわけです。

  

 

述語論理


(93/09/12)

 

 4というのは、中心に4を統括する5があり、それは中心だから、点。この中心の現れが回りの4であり(円と中心の関係を四方で表しています。)その回りの4は一つ一つ場を変えて質変化して現れて来る、ということですがこの「丸チョン」というのが、4を統括する中心ということなのですね。

 「中道」というダイナミックなジンテーゼということを僕はずっと自分の考え方の中心に置いてきたのですが、「4を統括する5」というご指摘で、いろんなことが一気に腑に落ちました(^^)。ちなみに、まったく関係ないかもしれまえんが、カバラ数秘術では、僕の生命数は5なのです(^^;;。

 円の中心は円周。もっと分かりやすく言えば、外界は自分の投影であるということですが、自己認識は即世界認識だと僕は思っています。その「即」というのは「投影」といった方が適切だと思いました。

 アダムスキーによると、自分の外界は自分の投影ということを知っているから宇宙人は、他人を絶対殺さないということですが、僕の考えでは、この宇宙の理法の根本は、作用即反作用というつまりはカルマの法則ということですから、それを知っていれば自分にしてほしくないことは他にできないわけですよね。もちろん、作用即反作用の「即」というのは、ヒエラルキー的に顕現しますが。シュタイナーも「カルマ論」の中で、物質レベル、エーテルレベル、アストラルレベルなどの「反作用」についての相違について詳述しています。

 この中心が場を変えて変質してくるというのは、日本語がよく示しているということですが、そうした日本語の特質から「述語的」な「場所の論理」を展開しているのが西田幾多郎です(^^)。

 その「場所の論理」については、またあらためてちゃんとお話したいのですが、西田幾多郎は、長い間哲学の前提だった主語的論理の立場から、述語的論理へと発想を転換して、それによってすべての実在を述語的基体としての「無」によって根拠づけ、その「無の場所」を「有の欠如」というのではなく、あらゆる有を生みだす豊穣な世界としてとらえたのです。この述語主義的な考え方は日本語の特質を非常にうまく説明できるということで、時枝誠記のいう「場面の支配」という考え方も、そうした西田哲学の述語論理という考え方に影響を受けたのだそうです。そこらへんのことについての「場所」という論文から。

所謂主客合一とは主語面に於いて見られたる自己同一であって、更に述語面に於いて見られる自己同一といふものがなければならぬ。前者は単なる自己同一であって、真の自己同一は却って後者にあるのである。直感とは一つの場面がそれが於いてある場所の面に合一することであるが、斯く二つの面が合一するろ云ふことは単に主語面と述語面とが合一すると云ふことではなく、主語面が深く述語面の底に落ち込んで行くことである。

働くと云ふのは主語面が述語面に近づくと考えられる如く、又述語面が主語面に近づくことである。述語面が主語面を含んで余地あるかぎり働くものとなる。

 こうした「場所」ということを哲学や言語学物理学などの問題として考察しているのが中村雄二郎さんで、特に「場所/トポス」という著書があり、また、禅との関りで考察しているものに上田閑照 さんの「場所/二重世界内存在」というのがありますが、(どちらも弘文堂)どちらも西田幾多郎の哲学の影響を強く受けています。特に人間を「世界/虚空」という「二重世界内存在」として禅的にとらえている上田閑照 さんの考え方などは、数霊を考える上でも非常に参考になるのではないかと思いますので、これも近々紹介してみることにします。

 さて、シュタイナーの「12」についての考え方ですが、善と悪のダイナミクスによる宇宙進化論という考え方をベースに「血縁」「共同体」を超えた、「友愛」という薔薇十字的なあり方を表現したものだと思うのですが、数霊との関係は僕にもよくわかりません。ただ、お釈迦さんなどでは「十大弟子」なのに、キリストは「十二使徒」であるというのは面白いのではないかと思ってます。お釈迦さんは「愛」を「執着」としてとらえましたが、キリストは「愛」を高次のあり方としてとらえています。あの「大乗仏教」というのは、時代的にみてもはやいはなしが「キリスト衝動」なわけで、その「12」ということも、そこらへんのことで説明できるのかもしれないとも思うのですが、まだ僕にもよくわかりませんので今後の課題にしたいと思います。ちなみに、正十二面体は正五角形でできていますよね。


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