時間論


メビウスの輪と幾何学的投影

因果の階層的視点など

質量とエネルギーの変換体

意識は「生き物」である「時間」

縁起の中道的展開

マーヤの遊戯としての宇宙進化

東理論の基本的考え方

東理論の基本的考え方2

意識の情報幾何学へ

刹那仮説

ゾウの時間・ネズミの時間

時間論●時間の比較社会学

アカシャ年代記

永遠の今

西田幾多郎の時間論/東理論に関連して

時間論●木村敏:時間と自己

 

メビウスの輪と幾何学的投影


(93/10/17)

 

 僕も先日から東晃史さんの著書をちょっとずつ読んでいるのですが、これまで整理されないまま僕の頭の中をただよっていたものを、一気に言葉にしてくれているというものです。「ポスト『不確定性』文明の曙」(技術出版)からいくつかさわりを。

・・・「時間や空間」に言及する場合の「相対性」とは、「対等」な、2つの事象間の相対的な立場ではなく、対等ではない「異なる階層」が「結合」した場合の、「上位側−下位側」の関係の中での「相対的な立場」である、という観点が不可欠なのです。

「階層」とか「全体と部分」という視点は、誰でも持っているのですが、「階層の中味」の物理学的な記述法や、「階層をつなぐ」記述法は、誰も知りません。・・・

物理学者や一般のヒトが、「行き詰まり」の原因について、確かな感触を得るための一つの方法は、「投影」の概念に注目することではないか、と思います。(127〜128P)

投影図は、「ついたて」に写された「線や面」の「影法師」です。従って、我々は、「影法師」の性質から、「空間に実在」する「厳密な実体」を、推定する「能力」を持っていることになります。「影法師」から、「実体」を推定する場合、我々は、必ず、「影法師」の上を移動する「運動体」というものを設定している、ということを知る必要があるでしょう。この視点が、「肝要」なのです。(158〜159P)

・・・「表裏・左右・上下・前後・内外」という局面を、全て「合わせ持っている」のが、・・・メビウスの面(輪)です。(160P)

・・・物理学者は、メビウスの面に対する、正確な解答を知らないのです。・・・この解答を得るには、東洋流の、「階層の視点」が、不可欠です。(165〜166P)

メビウスの面(輪)の理解には、紙の表面に沿って運動する「闘牛士の設定」が必要でした。これは、「空間の認識」には、まず、「運動体」の設定が必要である、ということを意味します。これに加えて、さらに、運動体を見ている「観測者」の設定が必要なのです。いわゆる、「認識論」は、これらの」2つの結合関係」、つまり、「運動体」と「観測者」の「結合関係」を解析することから出発せねば、「論」になりません。(191P)

・・・東洋流の「円・循環・ラセン・渦巻」という視点は、西洋流に表現すれば、「量子の階梯」に成るはずです。そこで、「階層の間をつなぐ理論」、つまり、「万能量子論」は登場すれば、東洋流は、西洋流の中に、完全に包括されるはずです。(195P)

 こういう感じで、実際に図を多用しながら、メビウスの輪と幾何学的投影を使って時空連続体の謎を解明していくわけですが、先日から、カズタマに関連させてあちらの部屋であれこれと言っているのは、この東理論、シュタイナーの神秘学 、そして禅などの仏教などの視点を使って、運命論などについて考察しようとしているものなのであります(^-^)。

 

 

 

因果の階層的視点など


(93/10/25)

 

 ミクロコスモスとマクロコスモスの照応ということでもあるのですが、この宇宙は、大宇宙と小宇宙が相照らし合いながら発展している、というのが僕のいちばん基本的なイメージでもあって、カズタマの部屋でいろいろお話しているのも、そこらへんの展開なんです。僕のカズタマに対する基本的な考え方も、そこらへんを基軸にした「階層」的な「反射」ということなんです。

 天に唾するとそれが自分に降りかかるといったことを考える場合にも、やはり「階層」的に考えないといけないんです。「天に唾する」前には、そうしようという「思い」があるんですよね。ある意味では、その「思い」の世界では、実際に唾する前に、すでに降りかかっているともいえます。

 この3次元的な現象世界では、時間というのは物理的な進行しかもたず、直線的ですが、たとえば、「思い」というのは、物理的な制約を離れたものです。「身・口・意」というのも、運命を多次元的に創造するという視点でみればちょっと面白い視点が得られるんではないかな、と思います。「天に唾し自分に降りかかる」というのは「身」の世界ですが、それを「言葉」で行なう場合と、「心」で行なう場合というのはある意味では違った次元で、その違った次元のすべてを自分の真我でコントロールできれば、「果」というのは、創造可能です。

 また、異なった視点でいえば、映画のフィルムをイメージしてみてください。映写されるフィルムは1秒何コマというコマでできています。真我というのは、映写されるフィルムを創っている者のことです。自分で創造した映画を自分で映しているのですから、因果というのは、それを見る視点で異なりますが、因果の「場」というのは変わりません。コマの順序はあれこれ見る順番を変えることができるということですし、気にいらなければ映画を撮りなおす自由も「真我」にはあるわけです。ですから、「運命はあるけどない」というのは、その視点次第で、どっちにしても創造的にとらえられます。

 ついでに言っておきますと、いわゆる世で大きな仕事をすることになっている人ほどその「運命」というのは自分でかなりの部分まで決めてから生まれているそうで、その反面、なんだかわからないでこの世に輪廻の輪として放り出された方ほど、そんなに決めてでていないから、自由度が高いということを聞いたことがあります。もちろん前者の方を「真の自由」といい、後者の方を「わがまま」というのですが(^^;;

 

 

 

質量とエネルギーの変換体


(93/11/04)

 

 <「生命」とは、「質量とエネルギー」の「変換体」のことだ!>についてですが、これに関する考え方のポイントを、東晃史さんの「アインシュタインの悩みとファインマンの悩みの解消に向けて」(技術出版)からの引用でちょっと説明しときますと、こういうことになります。

・・・このような発想は、アインシュタインの関係式である「E=mc2」において、「誰が、エネルギーを質量に換え、質量をエネルギーに換えるか?」という発想と、「全く同じである」、ということを知るべきであろう。このように、「誰が?」という、「主語を置くか、置かないか」の「違い」が、「宗教」と「科学」の「違い」になっているのである。

このような指摘が、「いかにも、奇抜」に見えるのは、「アインシュタインの悩み」であった、「時間とエネルギー」の「関係」に対する、真の「解答」を知らないからであろう。「ファインマンの悩み」も、「時間とエネルギー」の「関係」に起因している。「時間とエネルギー」の関係が、記述できない限り、「物理学」は、「観測者」にとっての、「対象物」だけの科学として、「ヨコの因果」だけの推論に、「限定される」ことになる。いわば、「タテの科学」である「階層の因果」には、言及できないわけである。

 ということで、キーになるのは「階層」ということになります。シュタイナーなどの神秘学などでも、その認識の根本には「階層」的な視点があります。「アインシュタインの悩み」や「ファインマンの悩み」というのは、「階層」ということを排除してしまったことにあるようです。同時に、現代科学が宗教的な視点を排除してしまう根本原因もそこにあります。

 質量とエネルギーの変換というのも、階層間にまたがるものであって、その「確率の振幅」というのは、生命=意識としてとらえ、その「観測の階層」の「結合」という視点によって開けてくるように思われます。

 生命体=意識体というのは、エネルギーを変容して、さまざまな「かたち」として発現させるものであって、そのひとつが「気」であるというのはいえるでしょうね。もちろん、「気」だけではなく、「物質」というのもそのひとつだと思います。

 弓道というのをそういうエネルギー変換としてみる視点も面白いでしょうね。別の視点でそれを表現すれば、みずからを「無」とすることで、矢と的をふくみこんだ「時空」をエネルギー変換の「場」とするわけで、そういう意味で「死」に接近する、ということが行なわれるのかもしれません。そういう「場」では、「矢を放つ」という「因」と的に当たるという「果」というのが、通常の「ヨコの時間」ではなく、「タテの時間」におけるエネルギー変換として連続することになるのでしょう。そういう意識を創造するのが「達人の極意」ということかも。

 「内側への遠心力」ということですが、確かにエネルギー変換装置としてのシフトポイントというのは、そういう言葉で表現できるようなイメージもあります。高次のエネルギーが収束する場所というのは、階層間の結合する場所で、それは中心でありながら、「空」であり、そこからエネルギー変換されある種の「かたち」として発現するようになります。その発現のあり方が、「遠心力」でありながら、「空」としての「中心へ投げ出される」ということなのでしょう。

 「渦・回転」というのはつまるところ「螺旋運動」に他なりません。その螺旋運動が多次元的に複合していくことそのものが、宇宙におけるすべての現象の「動き」なのだと僕は考えています。

 「中心がないからこそ・・・」というのを言い換えますと、空としての中心こそが、ダイナミズムをふくみこんだ充実そのものである、ともいえます。仏教で「中道」ということがいわれますが、それは、矛盾そのものを螺旋運動の契機としてとらえたダイナミズムです。「内側への遠心力」という意味でのダイナミックな「空」としての「中心」のあり方を説いたものだともいえるかもしれません。

 ひとつの螺旋運動を一本の「糸」としてイメージし、その糸が一要素となったもっと大きな螺旋運動となっていくことそものがエネルギー形態の「変容」そのものでもあり、その変容をおこさせるのが「生命=意識」ということで、その「タテの時間」という階層の視点が不可欠になります。

 

 

 

意識は「生き物」である「時間」


(93/11/23)

 

 「観測の階層」については、東理論の真骨頂で、今それについては猛勉強中ですので、そのうちちゃんと系統だって紹介できるようにしたいと思っているのですが、アインシュタインとファインマンの悩みの帰着する「不確定性原理」を越えた、「この世とあの世の境界が消える」宇宙像が展開可能なのです。そこでキーになっているのが「時間」ということです。

 東理論では、意識は「二つの逆向き」の「確率の振幅」によって「物理量」として「表現可能」」であり、「意識のする仕事」は「質料とエネルギーの変換」だといいます。そしてその「意識」は「生き物」である「時間」によってできていて、それ故に、「意識を物理的に表現」し、「意識の振る舞い」を公式化でき計算可能になるいいます。

 「物質界と霊界の時間の速度の違い」というのは、先ほどの「観測の階層」ということで説明が容易に可能となります。つまり、意識の階層がどこに位置するかということで、そこに「流れる」(と思いこんでいる)時間が違うわけです。

 その時間は、高次の階層から下りながら射影されていきますから、高次の階層で観測できる意識は、ある意味で未来予測ということも可能となるわけなのです。もちろん、それはそれぞれの階層の「波動」ということで説明することも可能だと思います。

 波動は「数」によって表現されるから、その数が一種の幾何学的なカタチをとりながら、高次元世界からダイナミックに射影を繰り返しながら、この世界を創造しているのだというイメージを僕はもっています。ですから、もちろん神々は「非常に高い根元的な波動の領域にある」というのは確かなことだと思っています。

 

 

 

縁起の中道的展開


(94/04/07)

 

 僕の言っている「縁起論」は、時間的な連関及び空間的な連関において「存在」は「実体」ではなく「関係」として総合連関しているということです。

 「次元のシフト」ということをシュタイナー的にいうならば、「宇宙進化論」的なビジョンという表現が適切だと思います。すべての存在は「縁」で相互に関連しています。そしてそこには「調和」ということがとっても大切なことです。

 しかし、「縁起」による宇宙進化論的なビジョンということにおいては、「調和」と同時に「進化」ということが非常に大きなファクターを持ちます。ここに僕の言う、発展としての統合という意味での「中道」ということが、そのキーコンセプトとして出てくるのです。

 つまり、「階層」という「方便」としての「あらわれ」は、その中道即発展ということと切り離して考えることはできないと思うのです。そこに、縁起の中道的展開のためのエネルギーダイナミクスとして「感謝」や「祈り」ということが非常に重要になってきます(^^)。

 なぜ「私」という意識が存在するのかといえば「時間」が存在するからともいえるんですね。で、「無」というのは「私」は本来こんなちっぽけな孤立した存在ではなく本来「神」の一部なのだということでもあるわけです。そしてその意味では、「神」は「完全」であり、その完全なるものがさらに展開していくために、自らの内に一見不完全である存在を階層的に生み出してきたともいえます。それは神が自らを鏡に映してみたかった(^^)、ということなのかもしれません。そこには合わせ鏡の無限展開が現出するということになります。

 

 

 

マーヤの遊戯としての宇宙進化


(94/05/03)

 

 確かに、「時間」というのは「実体」ではなく、一種の「幻(マーヤ)」だと思います。

もちろん、「空間」というのも同じ。時間と空間というのは同一「時空」の観測の異なった階層のことを言っているのではないでしょうか。おそらく高次の「意識」の投影が「時空」化しているのでは?などどいろんなことを考えたりしますが、ううむ、どうなんだろう。

 「陰陽の二重螺旋」というのは、おそらく原初的な「数」ともいえる「かたち」の「核」が、いくつかの対応関係を「鏡」に映すように形成したものである、というイメージがあります。

 それは、フラーの幾何学を継承している梶川さんのワークショップで以前、DNA構造を、正四面体などの組み合わせの対応としての模型でつくってあったのを見ながら漠然と考えていたことです。

 そういう意味では、「精神」というのは、ある原型としてのかたちであって、それが鏡に映るというか、「反射」することによって、この物質的な世界へと転写してきたものではないでしょうか。

 「陽」と「陰」というのは、「天」と「地」という関係でもありますが、その「天」と「地」の「交差」によって、すべての「マーヤ」という、この世での「実体」が現れてくるのでは?そしてその「マーヤ=実体」こそが宇宙構造であるともいえるような、そんなイメージがあります。ですから、その「マーヤ」を否定的にみるのではなく、それこそが宇宙進化の主役だとみることもできるのではないでしょうか。「カルマ」云々ということにしても、そうした「マーヤ」の遊戯としてもとらえられるんですよね。

 

 

 

東理論の基本的考え方


(94/05/11)

 

 東理論と従来の物理学との原則的な理解の違い。そして、「東理論では、主体側(=観測者側)の視点を、厳密に区別する」ということがキーになっていますが、それに関連して、一応、「まえがき」の中に書かれてある前提になるいくつかのポイントについて整理しておきますと、まず、「科学」と「宗教」との違いとされている「主語を置くか、置かないか」ということに対して、「確率の振幅」という観点を導入しているということが挙げられます。そして「最大の確率の振幅」が「神」であるということになります。 

 また、通常の場合、物理学は「観測者」にとっての「ヨコの因果」の科学であるがそれが「階層の因果」「タテの因果」のそれとなるためには、「階層をつなぐ理論」が必要となることになります。 

 それに関して、「時間とは何か?」「空間とは何か?」という問いに対して「時空の連続体」というミンコフスキーの視点がクローズアップされるますが、東理論では、物理学者のいう「時空」は「時間だけ」であり、「意識」が「時間」を「空間」に変換するという視点を提示しています。そこで、著書の東晃史さんの専門である脳生理学が注目されることにもなります。もちろんそれは「睡眠の研究」などを通じた「意識」の研究ということです。

 簡単にいうと以上のようなことが今後検討されていくわけなのですが、やはり、観測の主体としての「主語」ということの検討が興味深いですね。仏教なんかで「空」だとか「無」だとかいうことで語られていることも、実はそうした「観測の主体」を絶対化しないことに関係しているように、僕には思われます。

 

 

 

東理論の基本的考え方2


(94/05/15)

  

 人間とは本来高次元の視点どころか、次元間の移動を容易に成し得る能力が、その神性の内に秘められていて、我々の肉体は、高次元に存在する我々人間の姿が3次元的に現れたものにすぎないというイメージがあるのですが、ただ大事なところは「3次元的に現れたものにすぎない」というところで、すべてを忘れ去って生まれてきて、3次元といいうマーヤ世界で、こうして右往左往していることの意味を忘れてはならないんじゃないか。そう思うんです。もちろん、「神性」というのは誰の内にも秘められているのでしょうが、それを顕現させるかさせないかということは、まさにそれぞれの「自由」なわけです。

 それと、「高次元の視点」の獲得のためには、「私」という「人称」の「無我性」とでもいうものを意識の在り方として獲得しなければならないんじゃないかと思っています。つまり、「私」を別の次元の「私」にしなければならなくて、その場合、もはや「私」は「私ではない」ということになります。それを「非人称」ということも「無我」ということも、「私の拡大」ということもできるだろうと思います。そして、その基盤は、この3次元というマーヤ世界にあります。それを否定するのではなく、その内にいながら、己の「神性」の部分に気づき、意識をシフトさせること。

 

 

意識の情報幾何学へ


(94/05/25)

 

 東理論では、E=mc2といったエネルギーと質量の関係とは別個に「生命」つまり「意識」という要素を置くんですよね。決して「生命エネルギー」というように、エネルギーの一種であるとかはしません。ここんとこは一番大事なところですので、誤解しないようにすることが「東論」理解への最初のステップになるようです。 

 東さんの講義ビデオの最初でも、生命=意識というのは、エネルギーとは切り離して考えるようにと、再三に渡って念を押しているシーンがでてきます。ちなみに、この講義の最初のあたりの内容は、例の新しいミラクル論の最初のあたりの内容と重なっています。 

 従来の物理学では、時間と空間は同等に扱えないものとしていますが、それに対して、東論では、「意識」=「時間を空間に変える変換装置」、つまり、「意識」を「時間」の「空間」への変換の関数とするわけで、そこんところから「東理論」がスタートしていくのだと思います。 

 さて、生命=意識が時間を空間に変換するということに関連するかもしれないのですが、以前に紹介した伊藤俊治監修「テクノカルチャー・マトリックス」のなかの清水博「生命と時間」には、人間の行動に因果性の出現させる原因となる不可逆的な「歴史的時間」と人々の意識のサイクル(生物的リズム)の引き込みによって行動に時間的な関係性を与える「関係的時間」とが、その両者を同じ「時間」として括れないにもかかわらず、自然や社会における人間の生命の在り方が、その両者を融合させている。そういう内容のことが述べられています。

 不可逆的な歴史的時間が、関係的時間と出会うことによってはじめて「生活」が可能になり、その「生活時間」が社会のなかで共有されることでいわゆる社会活動が人間にとって可能になるというのです。 

 参考までに、共通の時間の出現とそれに伴う表現空間の出現について説明されている興味深い部分を引用しておくことにします。

さまざまな役者(関係子)が集団として即興的に劇(自己創出)を行うための必要条件として、互いの動きの間(ま)があわなければならない。そのためには役者の間で時間が共有化されることが必要である。このことはそれぞれの役者の「内部時計」の間に引き込み現象(リズムの自律的な同調現象)がおきることによって、関係ができることを示している。実際、意識のサイクルが役者の間で同調すると、集団的意識が形成され、意味が共有化されるので、深いコミュニケーションが可能になる。この集団的意識の共有によって、各役者は互いに間(ま)の合った自己創出ができる。

この内部リズムの自律的な同調(引き込み)によって、各役者の意識の中を流れる時間が共有されることは、劇団という役者(関係子)の集まりの中に、共通の時間が出現したことになる。そしてそれに伴って、場所の中での位置が役者それぞれに決まる。これは、即興劇という生命システムの中で、共通の時間の出現に伴って表現空間(演劇的関係の表現される空間)が出現することを意味している。つまり一種の情報幾何学の出現である。

 共通の時間ということは、「同じ時計」を持っているということですよね。それが人間相互の「即興劇」によって出現するというのは面白いでしょう。そしてそれによって、

人類が同じ時計での「表現空間」を出現させるというのは、結局、意識が時間を空間に変換しているということで、東理論の考え方と酷似しているように思われるのですがどうでしょうか。

 また、「一種の情報幾何学」というのもなかなか興味をひかれますね。人類は、現在この地球上で、意識の即興劇を行っていて、その関係性が創出する幾何学的空間が現出しているというイメージにもつながるものですよね。

  

 

 

刹那仮説


(94/05/27)

 じつのところ私たちはひとりひとりが違った「時間」を生きています。それが「共同の時間」を生きていると思うのは、それぞれの時計の大きさ、確率の振幅をある幅に保つ必要があります。

 ラジオやテレビのチューニングのように、それはある一定の「幅」で同一の放送を受信できるけれど、それがある限度を超えてしまうと受信ができなくなるというのと同じです。

 さて、「時間」についてはこのそれぞれの「時計の大きさ」とその調整ということが大事な視点ですが、そこでおさえておかなければならない点があります。「時間」というのは「リニア(線型)」ではないということです。通常物理学で表されている時間tという、数直線で右側が過去で真ん中が現在で左が未来などというようなリニアな時間観念は偽物であるということを確認しなければなりません。

 たとえば「過去」は現在の「想起」としてしか存在しません。「時間」は「流れる」ものではないのです。そうでなければ、ゼノンの飛ぶ矢のパラドックスやアキレスと亀のパラドックスが不可解のままになってしまうのです。つまり、世界は刹那刹那に出現し、それ以外には無であるという仏教的な刹那生滅という「時間」についての、一見不可解な考え方を採用せざるをえません。そしてそれは量子論的な考え方と非常にマッチする考え方なのです。

 「時計の大きさ」はそれぞれが持っているとしましょう。けれどもその時計が抽象的に過去−現在−未来にあるとイメージすると時間について非常なパラドックスをかかえてしまうことになります。

 こうした時間について考察しているのが哲学者の大森荘蔵さんで、その著書に「時間と自我」「時間と存在」(ともに青土社刊)というのがあります。 

…アキレスと亀のパラドックスでゼノンが意図したのは代々の哲学史が伝えてきたような「運動の不可能性」の証明ではなくて実は「連続的運動の不可能性」、換言すれば運動はすべて連続的であるという常識の思い込みの背理性でああったのではあるまいか。……

さてこの刹那仮説においては、空間的運動は対象の刹那的出現の飛び飛びの系列になると考えるのが自然だろう。その各々の刹那的出現で対象はある位置を占めるが、その位置の連続的変化の時間微分としての速度を云々することはできない。その代わりに位置とは独立な「運動量」を持つと考えることができる。こうして各刹那に位置と運動量とを持つ対象の系列がその対象の真の空間運動である。この刹那の系列としての運動をわれわれは仮現運動の場合と類似して連続運動として知覚すると考える。……

時間の流れとは実は物事の変化移行、経験の移り行き、ヘラクレイトスが万物流転(パンタ・レイ)と読んだものの誤記であるとしか思えない。この取り違えを補強するのが物理学の線型時間とその曲直線による空間表示であることはほぼ確かである。直線上の一点を現在と呼び、その片側の過去と呼ぶ区間へその現在点を移動させる、それが時間の流れである。このいとも簡単な誤動作は刹那仮説の中では実行不可能である。だから刹那仮説の中では時間の流れという誤信念は生じないが、代わって時間は量子飛躍するといった信念が生まれることだろう。(大森荘蔵「時間と自我」(青土社)より)

 

 

 

ゾウの時間・ネズミの時間


(94/06/10)

 

 もう2年近く前に出た本で、ずっと気になっていたのですが、「生き物の意識」と時間についてということが、東理論の基本テーマでもありますので、やっと参照してみたのが、 

●本川達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公文庫) 

です。

 これは、人間の時間とゾウやネズミの時間とは果たして同じだろうか、という疑問に対して、生物学的にアプローチしてみたものです。

 この本の最初にもでてますが、身体の小さい人は機敏で、大きな人はゆったりしているという傾向は、経験的にある程度誰でもが実感していることですよね。

 で、著書は、体のサイズと時間との間に関係があるのではないかと考え、心臓のドキン、ドキンと打つ時間感覚、呼吸をスーハーする時間感覚と体重との関係を比べてみると、どれも体重の1/4に比例することを調べました。このように「サイズ」という視点を通じて人間を理解しようというのが、この本の「ねらい」だということです。 

 で、さらにこの本では、「一生のうちに心臓が打つ脈拍の数は15から20億回ぐらいで、ほとんど同じ」ということを指摘しています。つまり、ペースは違っても一生に行う心拍や呼吸の数は同じということで、人間もゾウもネズミも同じ生物学的な時間量とでもいえるものをもっているということがいえます。 

 さらにエネルギー消費量について調べた結果でも、大きい動物ほど代謝量は多いわけですが、体重の3/4乗程度に比例するのだそうです。そしてそれを体重で割れば、単位体重あたりのエネルギー消費量は、体重のマイナス1/4乗に比例するということで、結局、人間もゾウもネズミも、一生の間に消費する単位体重あたりのエネルギー量はみんな同じだということなのです。

動物では、時間が体重の1/4乗に比例する。体長重の3/4乗に比例すると いってもいい。これはたいへん重要な事実だと私は思う。

学校にあがってまず習ったことの一つに、時間とは時計で測るもので、腹がへったから勝手にお昼、とはならないということがあった。自分がどう思う、どう感じるなどとは関係なく決まった時間があって、これには人間のみならず、虫も花も獣も、そして無機の自然も、すべてがしたがわねばならぬものである。そういう超越的絶対者が時間というものだ、と教え込まれたような気がする。始業のベルは、なんとなく絶対的権威の響きがあった。

ところが、時間は唯一絶対不変なものではない、と動物学は教えている。動物には動物のサイズによって変わるそれぞれの時計があり、われわれの時計では、ほかの動物の時計を単純には測れないのである。

 また、この著書では触れられてませんが、時間は生物によって異なっているだけではなく、ひとつひとつの個体の中でも、たとえば心臓と腎臓など、臓器によっても時間は必ずしも一定ではないようです。ただ、全体としてペースメーカーが埋め込まれているように、ある程度時間を一定にさせる働きがあるようです。こうしたいわゆる「生物時計」のなかでも有名なのが一日の周期を司るサーカディアンリズムですよね。

 

 

時間論●時間の比較社会学


(94/06/30)

 

 これから「時間」について、いくつかの角度からのパースペクティブをご紹介しながら、「東理論」における「時間」を考えるための参考資料としたいと考える。 

 まず今回は、「時間の比較社会学」について。 

*以下の論は、見田宗介「時間の比較社会学/比較思想史」(伊藤俊治監修「テクノカルチャーマトリクス」所収)をベースとし、以下の引用は、それによっている。

 「時間」という言葉も観念もない社会があるという。ナイル河上流に住むヌエル族の他に、アフリカの諸部族、東南アジアの山岳民族、アメリカの原住民等がそれにあたるという。ということは、それに対して我々の社会は「時間のある社会」ということになる。

 エヴァンズ=プリチャードはヌエル族における時間に相当するものについて、「そこでは時間とは、平行して行われ調整された諸活動、つまり諸集団の動きを概念化したもの」というふうに述べている。つまり、それは「乳搾りの頃に」とか「子牛たちが戻ってくる頃」、というような活動として表現されるということである。しかし、このことは、実の所、近代社会の抽象化された時間観念の根底をなしているということを把握しておくことは非常に重要なことである。

 さて、時間の感覚には4つの形態がある。

「反復」、「円環」、「線分」、「直線」である。

●反復的な時間は、「可逆的」であり、かつ「質」としての時間であり、それは原始的共同体にみられる時間の感覚である。

●円環的な時間は、「可逆的」であり、かつ「量」としての時間であり、それはヘレニズムにみられる時間の感覚である。

●線分的な時間は、「不可逆的」であり、かつ「質」としての時間であり、それはヘブライズムにみられる時間の感覚である。 

●直線的な時間は、「不可逆的」であり、かつ「量」としての時間であり、それは近代社会にみられる時間の感覚である。

 近代的な時間観念のもとになった、数量化されたニュートン的な絶対時間の観念について、著者の見田壮介さんは、それを「虚無の元凶」であると見ています。 

 絶対時間の概念はやがてニュートンの信仰を超えて、一切のものを永劫の無のなかに運び去りながら均質に流れつづける「時間」の無限性として近代世界の枠組みを形成し、われわれの生のゆくえをただ虚無でしかありえぬものとして指定する。F.W.ニーチェが時間を<ニヒリズムの元凶>としてとらえたのは、近代理性のあかるい日常意識を囲繞する不吉な闇をみていたからである。

 現代の哲学や自然科学は、このような「絶対時間」の実在ということがすこしも確かな根拠をもつものでないことを明らかにしはじめている。それは人間が、あるいは文化が、世界をとらえるひとつの「仕掛け」に他ならない。

 「現代の哲学や自然科学」が「絶対時間」の虚構性について指摘し始めて久しくなるが、現代に生きる我々の多くは、まだその虚構性の中を生きている。しかし、その「虚構性」は急に崩れはじめているような気がする。

 また、時間の観念については、それぞれの文明がつくりあげてきた「暦」がそれを理解する重要なキーになるであろう。

 そういえば、昨年からFMISTYにできた「ドリームスペル」の部屋が興味深い。それについては、いずれ理解が深まればご紹介してみたい。

 

 

アカシャ年代記


(94/07/10)

 

 アカシックレコードに関係したシュタイナーの時間論ですが、僕の現在知る範囲では、シュタイナーは時間論を展開してはいないと思います。「アカシャ年代記から」という著作はあって、その認識方法についてはふれられているのですが、「時間とは・・・」というテーマを直接とりあげているうわけではありません。しかし、東理論のテーマも、いってみれば時間と意識ということですから、その認識方法が結局は時間のテーマに迫るための重要な視点を提供してくれるということはあると思います。 

 その認識方法については、主には「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」や「神秘学概論」などで、イマジネーション認識、インスピレーション認識、インテュイション認識などについて概説されていますので、これについては、今後とりあげていこうとは思っていますが、なにせ、体験的にちょいとついていけない部分ではありますので、僕なりに認識できる部分を中心にした説明になるとは思います。

 アカシックレコードの話がでましたので、「神秘学概論」(イザラ書房)から、それについて述べられているところを少しだけご紹介しましょう。 

霊的探求にとっては、はるかな過去のできごとも消え去ってはいないということを、ここであらかじめ示唆しておくべきだろう。ある存在が身体的な存在状態に達したとき、その身体の死とともにその物質的存在性は生滅する。物質を流出した霊的な力は、おなじように「生滅」するのではない。霊的な力は、その痕跡、正確な模像を世界の霊的な基盤のなかに残す。可視の世界を貫いて、知覚を不可視のものに高めることができる者は、ついには、宇宙のあらゆる過去の経過を記録した、巨大な霊的パノラマに比較することができるものを目にするにいたる。霊的なものすべての不滅の痕跡を、「アーカーシャ年代記」と呼ぶことができる。無常な事象の形態に対して、宇宙事象における霊的−永続的なものをアーカーシャ年代記と呼ぶのである。ここで考察している超感覚的領域に関する探求は、霊的な知覚の助けを借りて、「アーカーシャ年代記」を解読することによってのみおこなわれうる、ということを強調しておかねばならない。とはいえ、同様の事柄について先に述べたことが、ここでも通用する。超感覚的事実は超感覚的知覚を通してのみ探求されうるが、超感覚的事実が探求され、超感覚的なものの科学によって伝達されると、真にとらわれなくあろうとしさえすれば、その事実を通常の思考によって洞察することができる。

 このアーカーシャ年代記の読みとりについての詳しい説明は、むしろ「神智学大要」(たま出版社)などのほうが、適切かもしれませんが、おそらく東理論やそれに関連した時間についての考え方をみていくなかで、その一端については理解されるのではないかという気がしています。 

 

 

 

永遠の今


(94/07/10)

 

 人間の構成要素というのは、かなり基本的なものなのですけど、著者(霊覚者)によって、それぞれ表現が違うということですけど、結局、全体としてどういう体系を「著者(霊覚者)」が表現しようとしているかでその必要な部分を強調したかたちで、(ということは、そんなに必要ない部分は極めてアバウトに)提示してるんだと思います。 

 次元は波動の振動数によって変化するということですが、その次元の設定?については、現在の音楽の12音階のようなものでユニバーサル・ルールがあるんでしょう。で、この音律の設定もそれがすべてではなく、あくまでも恣意的?に決められたもので、○○○音律だとか、△△△音律だとかいいうのがいろいろあるように、霊界にもそういう音律ごとの仕切りのようなものがあるのかもしれません。で、違う音律を採用している霊団どうしでは仲が悪かったりする^^;。これって、けっこう当たってるような気がするんです。

 時間というのは次元によって違い、主体が選択する音律のなかで、どの調性を有しているかでその時間性が異なってきます。ハ長調だけを選択し、それ以外は感じられない人間とへ長調だけを選択し、それ以外は感じられない人間とでは、微妙にその時間性は異なってきますし、オクターブの違いを考えてもそうですよね。12音階を自由に操りながら作曲・演奏する人間やさらに多くのオクターブを自由に操るということが、認識力の深さ・高さだといってもいいでしょうし、さらにその他の音律も理解するということがさらなる認識力の深化には必要になってくるのでしょう。 

 どの時間性をみずからが選択しているかを自覚できればいいですね。それが自覚できた人は「永遠の今」にいるといってもいいのでしょう。

 

 

西田幾多郎の時間論/東理論に関連して


(94/07/19)

 

 西田幾多郎という、東洋と西洋の哲学を併せ持っている希有の哲学者の時間についての考え方をご紹介しようと思いましたが、折良く、没後50周年記念の講演集という、著作に比べれば比較的読みやすいものがでましたので、それを使って簡単にご紹介したいと思います。 

 ちょっと長くはなりますが、時間についてまとまった説明している箇所がちょうどありますので、それをまずは引用紹介してみることにします。なお、引用中にあるドイツ語については最後にその意味を書いておきましたので参考にしてください。 

●上田閑照編「西田幾多郎哲学講演集/歴史的身体と現実の世界」(燈影撰書)

 「生と実在と論理」(昭和7年、京大における講演)より、P71〜73

すべて実在するものは時に於いてあり、wirklichなものはzeitlichであり、時は実在の形式と考えられる。しかし時は普通に考えられるように過去から未来に一直線に進行する如きものではない。それは考えられた時に過ぎず、かかる時においては過去の過去は見られ得ず、未来の未来は知られ得ない。それにのみか現在そのものが把えられないのである。現在がないのである。しかし乍ら現在のない「時」は現実的な時ではない。我々はむしろ時を現在から考えなければならない。現在から過去と未来とが考えられるのである。時の出発点は現在なのである。しかしかかる現在はいかにしてきまるか。瞬間は如何にしてきまるか。瞬間は一つのIndividuellesである。個体の如きものであるが故に、realなのである。そこから現実の時が決まるのである。瞬間は唯一でなければならない。あくまで限定されたものでなければならない。しかも瞬間は把えられてはならない。とらえられて仕舞えば最早現在の瞬間ではない。それ故瞬間は限定されてはならない。かくて瞬間は限定されて限定されぬものとして矛盾である。真に個物と言われるものはかくの如き瞬間に他ならないのである。かかる瞬間の自己限定は自己を限定することによって自己を失い、しかも自己を失うことによって自己を得るのである。瞬間は消えることによって生まれるのである。そこでは時が常に滅して、しかも常に甦るのである。普通に時は連続線と考えられている。しかしそれは空間化された時にすぎない。真の時は連続線と考えられている。しかしそれは空間化された時にすぎない。真の時は各瞬間に於て消え各瞬間に於て始まるのである。各瞬間に於てすべての過去を消し、すべての未来を始め得る。プラトンが『パルメニデス』にいうように、瞬間は時の外にあり、そこに於て運動は静止に変じ静止は運動に転ずるのである。時は実にかかる瞬間の自己限定としてきまるのである。従って時は消えて生ずるものの連続であり、点から点へ瞬間から瞬間への飛躍的な連続である。時は矛盾に於て成立する。時は弁証法的である。時は無限に変じつつ、無限に変じない。すべての時は絶対の無に於て消えて絶対の無に於て生まれるのである。絶対の無は変じない。そこに永遠の今がある。「時は止まる」と言われる所以である。現在が現在を限定する時に、限定するものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるのである。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をもつものが即ち永遠の今なのである。かかる永遠の今のいずれの点に於ても時は消えて又新たに生まれる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考えられる。その一点がすべての運動をつつむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味をもち、空間的な意味をもつ。ここにOrtzeitが認められる所以がある。元来時の形式が論理であり、論理は時に於て見られるのである。

(注)wirklich/現実的・実際的

   zeitlich/時間的

   Individuelles/個体

   Ortzeit/場所である時間

 

 この引用部分につづいて、西田幾多郎は、時の中心は現在であり、その現在の意味を尋ねれば自我とはなにかがわかる。そして現在が我の中心である、と言っています。「現在の自己限定が即ち我の自己限定」だというのです。ですから、個体というのは、全体から定まるのではなく、それは「我」によって定まるのだ、自我の限定によって個物は可能になります。 

 上記の引用に

時は連続線と考えられている。しかしそれは空間化された時にすぎない。

 という箇所がありますが、「世界」は「空間化された時」だということで、わかりやすくいえば、「我」が時間を空間化するともいえるのではないでしょうか。自我が限定されることによって空間が創造されることになる。なんだか、東理論みたいですね。

 さらに「永遠の今」。

その無数の時をもつものが即ち永遠の今なのである。かかる永遠の今のいずれの点に於ても時は消えて又新たに生まれる。……その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。

 「無数の時をもつものが即ち永遠の今」というのは、結局、例の「転がる時計」そのものを認識するということではないか。だから現在が限定され、無数の時が可能となる。 

 ただ、この西田幾多郎の時間論では、「転がる時計」の大きさの種類、つまり時間の「階層」性ということは問題になっていないように思われます。

 今回は、簡単に西田幾多郎の時間論のさわりをご紹介させていただきましたが、これではちょっと未消化に終わりそうですので^^;、これをもうちょっとちゃんと説明する機会を持ちたいと思います。 

 それと、これはちょっと予告になりますが、時間論の射程について、それを古代ギリシャの時間概念から現代のそれまでを追っている本を見つけましたので、それをガイドにして今後時間についての考え方を東理論の読書会と平行して考察してみたいと思います。 

●岩野秀明「時間論のプロブレマティーク」(世界書院/1992年) 

 もちろん、それだけではなく、時間とリズムの問題など、その他にもいくつかのテーマを今考えていますので、お楽しみに。

  

 

時間論●木村敏:時間と自己


(94/08/10)

 

 精神病理学の立場から書かれた時間論の名著といえば、木村敏さんの「時間と自己」(中公新書)がまず筆頭に浮かぶ。

 「時間と自己」をはじめとした木村敏さんの著書から教えられたことは僕にとってもほんとうに多くのものがあって、この「時間と自己」を読んだのは10年以上も前になるが、今回ひさしぶりに読み返してみて、その内容が少しも古くなっていないどころかますますその内容の重要性が高まっているのではないかと感じたので、その内容のいくつかのポイントについて簡単にご紹介してみたい。 

 著者の基本的な考え方は、時間ということと自己ということは本来切り離すことのできない一つの事態に属しているということであり、精神科医としての著書の体験から、さまざまな精神病理学を「自己の病理」であると同時に「時間の病理」でもある事態として見ようとしている。

 著者は、精神科医になってビンスヴァンガーの勉強からはじめ、その後、時間を非連続の連続としてみる西田幾多郎の考え方や存在の意味は時間であるとするハイデッガーの考え方に共感を覚えながら、精神病理学という臨床体験から、時間と自己というテーマを探求し、「時間が時間として流れているという感じと、自分が自分として存在しているという感じとは、実は同じ一つのことなのだ」ということを明確に意識するようになったといいます。 

 時間は単純にわれわれに対して外部から与えられているような「もの」ではない。それは、私自身がそこに立ち会っている「いま」が以前と以後の両方向に拡がっているということであり、私自身が「いまここにある」という現実から切り離すことのできない、「こと」的なありかたをもった現象である。

                               (P64)

 こうした時間についての基本的な認識に立ちながら、著者は「分裂病者の時間」「鬱病者の時間」「癲癇患者の時間」をその時間=自己としてのありかたから、それぞれの意識を「アンテ・フェストゥム」「ポスト・フェストゥム」「イントラ・フェストゥム」というふうに説明している。 

 「アンテ」は「先」「前」、「ポスト」は「後」、「イントラ」は「中」で、「フェストゥム」というのは「祭」「祝祭」で、「アンテ・フェストゥム」は「前夜祭的な意識」、「ポスト・フェストゥム」は「後の祭り的意識」、「イントラ・フェストゥム」は「祭のさなか的意識」ということである。

 で、分裂病者の「アンテ・フェストゥム」的な時間は、自己自身に先立つことによって未来を先取りしているような時間であって、未来も過去ももちろん現在も、すべてが「未知性」を帯びているといえる。だから、ある種の事態が「現前」していないということに恐怖を抱き、すでに「現前」している事態に対しては驚くべき無関心になる。 

 それに対して鬱病者の「ポスト・フェストゥム」的な時間は、分裂病者のそれとはまったく異なっていて、とりかえしのつかないことにならないようにという言ってみればきわめて保守的な「既存性」を唯一の根拠にしているもので、だからこそ「とんでもないことをしてしまった」という意識が強烈に現れる。 

 それから癲癇患者の「イントラ・フェストゥム」的な時間は、いわば「永遠の現在」とでもいえるもので、だからこそ古来から「聖なる病」とも呼ばれてきた。ですから、その時間は過去−現在−未来という日常的な在り方がとれなくなり、なにものも到来せず、なにものも過ぎ去らないという瞬間、永遠の停止として体験されることになる。 

 説明足らずで理解しがたい部分も多々あるだろうけれど、ここで論じられているのは、最初にも指摘したように、時間と自己ととは別のものではなく、自己は時間としてあらわれる、時間は自己としてあらわれるということであるということであって、そうした時間性の病としての精神病理という視点が得られるということである。 

 東理論では、意識が時間を空間化するというが、この「時間と自己」という視点からすれば、意識そのもののもつ時間性、意識即時間によって現れる「空間」が異なっているともいえるだろう。 

 こうした木村敏さんの視点については、これに関連して「あいだ」ということも重要であるので、それついては改めて解説したい。


 

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