日本論2


空海幻想

日本的聖霊神学へ

ツノダテストなど

大地性

大地性とソフィア論

ソフィア論・存在者逆接空

夏目漱石・阿部謹也●「個人」と「世間」

 

 

空海幻想


(92/07/21)

 

 「曼陀羅」っていう映画は「映画」としてはかなりひどかったけれど、「空海」には改めて興味をひかれることになって、これまで目を通したことのある手持ちの資料など見直してみました。

 興味をひかれることや不思議に思うことは無数にありますが、空海の入唐とそれまでの空白の7年間や恵果との出会いということはいろんなファンタジーをかきたててくれて、特に注目したいと思いました。「入定したまま今も生きている」とかいうことには全然興味はないんですけどね(^^;)。

 空海の入唐については、一介の私度僧にすぎなかったのに、遣唐使の出発のわずか一カ月前にとってつけたように得度しその資格をむりやりつくっています。しかも私費の留学生という身分なので、20年間の生活費や学費は全部自己負担なわけで、山林修行者でしかなかった空海がその資金をどこから調達したのかということは、かなり興味がひかれるものです。

 空白の7年間というのは、大学を中退した地方出身の書生くずれが、いきなり私度僧になった延暦17年(798年)から入唐する同23年(804年)という空白の期間で、一説によると大和高市郡の久米寺で「大日経」を感得したということですが、これについても東大寺大仏殿の前での夢告などの話もあったりしてそこらへんの経緯についてはいろいろ想像をかきかてられるものがあります。

 シュタイナーにしても、コグツキーという薬草採集人との出会いや、それを通じた薔薇十字系の高位の導師との交流などの話もあって、それなりの役割をもった人物というのには、その陰にかならず何者かの存在が見えかくれするというのは興味深いものです。

 「薔薇十字」ということをいったので、ついでにシュタイナーの霊統について簡単に説明しておきますと、古来の秘儀の伝統は、それぞれ東西南北の霊統に属していて、東の流れが聖杯の秘儀の流れ、西の流れがアーサー王(個人名ではなく、位階)の秘儀の流れ、北の流れがドルイド教の秘儀の流れ、南の流れがヨハネ的な秘儀の流れ、で薔薇十字会というのは、南北の霊統を統合したものであり、人智学というのは東西の霊統を統合したものということであって、シュタイナーの晩年の1923年の普遍人智学協会の設立によって、南北の霊統と東西の霊統とを統合したということらしいのですが、ここらへんについては、日本の霊統などを併せて考えていくと、現代というのがどういう時代で、日本では今、そして今後どういう展開がなされていくのか、興味津々ではあります。

 鈴木大拙の「日本的霊性」での「大地性」あるいは「大地的霊性」ということやそうした日本の大地に根ざした日本型思想の原像としての日本的霊性の自覚の論理としても把握できる西田幾多郎の「場所的論理」などを検討していくと、そこらへんの一端が理解できるような気もしているのですが・・・。この「大地的霊性」については、ドストエフスキーやソロヴィヨフなどのことも併せて考えていくと興味深いのですが、これは別の機会にしましょう(^^)。

 どちらにせよ、これからの日本的霊性の方向性としては、仏教的な、個から超越者へという内在的超越にくわえて、超越者から個へという超越的内在という方向性をクロスしていくところに新たな「場所」が成立するような気もしていて、その場所こそが、東洋的無が愛の原理とメタモルフォーゼしていく「場所」ではないかなんて、また半分詭弁のようなファンタジーを考えたりもしています。これについても、今、ちょっと考えるところがありますので、もうちょっとまとまったらご披露させてもらうことにします。

 さて、肝心の空海の話がどっかにいってしまいましたが、入唐して恵果に会って、「あなたをずっとお待ちしておりました」とばかりに1000人もの弟子をさしおいて、「大日経」系と「金剛頂経」系の密教の伝法を受けその恵果の指示もあって、そそくさと日本に帰ってしまうわけですよね。20年の留学予定を3年足らずで切り上げてしまうわけです。そして、恵果はその役目を終えたかのように数カ月後亡くなっています。面白いのですが、唐でこのとき隆盛をきわめていた密教もこの後40年くらいで廃仏破却が施行されたりして、急速に衰え、かわりに道教が栄えていくことになります。これはどう考えても、日本に密教を伝えるためのアクロバットのようなシクミがぎりぎりのところで成就されたとしか考えられないくらいの不思議ですよね。そもそも日本という国は、こういうようにいろんな流れを自らの大地に必然的に受け入れながら、この現代という時代に向かって準備してきたとしか考えられないようなところのような気がしてなりません。

 それはそれとして、空海は唐の国で恵果から伝法を受けただけではなく、そのころ世界宗教の坩堝ともいわれた唐の都長安に流入していた、景教、ゾロアスター教、マニ教といった宗教、特にマニ教と接触していたようでもあります(面白いでしょ(^^))。真言宗の儀礼やシンボルには遠く古代エジプトや地中海文明に源を発するものもあるようですから、空海はこのときおそらくどん欲にいろんな要素を吸収していたのでしょうね。

 さてさて、空海といえば四国八十八カ所です。この八十八カ所のなかで、空海以前に設定された聖地は六十六カ所だそうですが、これについて興味深いアプローチをしているものに渡辺豊和さんの「発光するアトランティス」というのがありますので、そのさわり部分をいくつかご紹介しておくことにしましょう。 

 八十八カ所のうちなんと六十六カ所が世界の古代の人々が使用した図形、三重の円弧を巧みに組み合わせて出来上がる卵形の上にぴったりと乗ってくるのである。と言っても、一つの卵形ではなく、大小様々な形の七つの卵形に乗る。

 この卵形とは直角三角形を使って作り出すきわめて正確な幾何学図形であるが、北アメリカのインディアンがよく使用していた。

勿論八十八カ所ではなく弘法大師以前に設定された聖地は六十六カ所である。というよりも、弘法大師自身が設定したのが六十六カ所であったかもしれず、それ以前はもっと少なく七つの卵形全てではなく六つだったり三つだったりしたかもしれない。四国の最高峰であり、聖山とされるのは剣山であり、剣山をとりまく巨大卵形こそが多分はじめに設定されていたのではないか。役小角の時代よりもずっと古い縄文最盛期の頃であろう。列島に隈なく張りめぐらされた菱形の網目が縄文盛期ならば、この卵形もそうであろう。ならば四国にも菱形網目が張り巡らされていたのだろうか。多分ここは菱形網目に関しては空白の場所であろう。本州や九州ではこの網目の交点に重要な聖山や高峰の頂上が乗ってくるのに、四国ではそうなっていない。何故か。この疑問が、八十八カ所の卵形軌跡の発見となったのである。 

 本州、九州の菱形網目と四国の卵形軌跡、これが古代日本人が自らの居住地に宇宙と世界の構造を表したことを示しているだろう。すなわち菱形網目の金剛界、卵形軌跡の胎蔵界と両曼陀羅を日本列島の樹海に刻みつけていたことになる。 

 曼陀羅は密教の宇宙図、世界図であり、それが密教以前のしかも古代に日本列島に刻み込まれていたなどと言うとそんな馬鹿なことと冷笑されそうである。しかしそれは超古代文明のなんたるかを知らない人の無知な笑いなのである。空海が中国、唐から招来した曼陀羅には、実は深い秘密が隠されているのであって、それがさらに「アトランティス」まで拡大してゆく時空の深さを解明するのが本書の目的なのである。

 この曼陀羅についてファンタジーを広げていくとこれまた限りなくなってしまいそうなので、今回はとりあえず、空海幻想はこのあたりで幕とさせていただきます。

  

 

 

日本的聖霊神学へ


(92/07/24)

 

 「日本的霊性とキリスト教的霊性を同時に成り立たせるビジョン」について補足しておくことにしたいと思いますが、西田幾多郎の哲学が機軸になります。ずっとこの西田幾多郎のことをいい続けてきたのには深〜いワケがあって、それによって、仏教(特に禅)やキリスト教や科学などに橋がかかるのではないかと思っているわけなのです。

 ホワイトヘッドなどとの比較もちょっとだけやってみたことがありましたが・・・。シュタイナーと比較するのが、僕には一番スリリングなんですけどね(^^)。ほんと、きわめて読みにくい西田哲学だけど、これはほんと無限の宝庫のような感じがして仕方ありません。「主観ー客観」の呪縛を逃れる最良のビジョンが、この西田幾多郎とシュタイナーによって提示されていると思うんです。

 で、ご紹介した小野寺功さんの「大地の神学/聖霊論」(この4月にでたばっかです)が、ソロビヨフなんかの神人論やソフィア論なんかとの比較もしながら、まさに日本的霊性とキリスト教との接点を西田幾多郎の「場所的論理」をベースにしながら模索しているわけなんです。

 ということで、この本の中からいくつかピックアップしてその視点をご紹介させていただくことにします。 

私には、西田哲学のみが日本近代の哲学思想の中で、西洋哲学と東洋的伝統とのつながり方を発見していると思われる。(中略)わたしの思考は常にこの変わらざる前提から出発し、西田哲学を媒介としながら、日本人の心底から聖霊とともに湧出する真のカトリック的な神学思想形成の実存的試みを、その究極において志向するものである。(中略)

この日本的霊性の哲学理念が、大地性の論理としてカトリシズムの啓示的真理の内部体系に生かされる時、果たして何がもたらされるのであろうかという問いが、私の最も根本的・実存的なライトモティフである。私は、以上の前提に立って、「場所的論理神学」と西田が呼称した独自な宗教意識とキリスト教的信仰意識とのかかわりを追求し、日本的霊性の理念が、世界教会の理念に何を寄与することができるかを論じてみたい。 (中略)

以上述べたような思想課題を生産的に遂行するためには、西田哲学における「場所的論理」をいきなりそれ自体として抽象的に扱うことなく、鈴木大拙のいわゆる「日本的霊性」の自覚の論理として具体的に把握する必要があると私は思う。このように捉えるとき、西田哲学の全思索は、はじめて名実ともに日本の大地に根ざした「日本型思想の原像」としての堂々たる意義と豊かさをもちうるのである。(P25〜26)

以上紆余曲折を極めながら、私に理解されてきた西田哲学の意義は、(1)日本的霊性的実存の自覚を最も深くつきつめた「根源的主体性」の無の哲学であること、(2)「宗教的現実」(永遠の今)の論理構造を、最根源的、自覚的に比類なく深く掘り下げ実在そのものの自己表現の形式を、「矛盾的自己同一」として把握したという二点にあると思う。(中略)

そして、さらにこの場合の「絶対無」とは、啓示真理と自覚的真理の交わる場であって、シェリングにおいて示された啓示哲学への接近は、西田哲学における「絶対無」の思想の媒介によって、一層浄化され、啓示の宗教たるキリスト教と自覚の宗教たる仏教が、それぞれに霊性的自覚を深めあう「トポロギー神学」の誕生を予告するものであると私には思われる。(P48)

西田哲学を全面的に継承しつつ、それをキリスト教の苗床に移し植え、新しいキリスト教神学の東洋的形式を見いだしていこうとする場合に、私がソロヴィヨフを媒介しつつ把握しえた一つの可能性は、東西理解のキイポイントを「三位一体のおいてある場所」と見る道であった。それこそ歴史的世界が「そこからそこへ」の場所であり、さらに西田哲学の聖霊神学的展開を可能ならしめ、日本の哲学を神学に転換せしめる重要な契機となるものである。(P69)

 こうした視点については、できれば、これらの視点をかなりな部分包摂しうると思われるシュタイナーの神秘学と絡めながら検討していきたいと思っています。

 さて、「信仰」についてですが、僕のアプローチしたいそれは、認識の究極をめざすための大いなる方向付けとしての信仰で、いってみれば、内在的超越と超越的内在との双方のベクトルを兼ね備えた「場所」へと方向づける叡智的なあり方だという気がしています。だから、「信仰」なんていうことは、安易に告白されるべきではないし、ほとんどが単なる認識の放棄に基づくものだと思いますねえ。宗教団体的な信仰告白なんていうのは、ほとんどそれでしょうね。それは「団体」的なスタンスでは絶対にないと思うから。

 ということで、なぜか苦手な神学なんてことに手を出してしまっていますが、結論としては、「内在的超越のキリスト」というのがテーマだなあと思っているのです。

 

  

 

ツノダテストなど/日本の文化環境について


(92/07/24)

 

 僕は「一神教」っていわれている宗教が苦手です。もちろんそれぞれの環境でいろいろな違いはあるでしょうが、おそらく日本の文化で育ってくると、多くの場合、「一神教」的な世界観は育ちにくいような気がします。やはり、日本の文化の基盤には縄文的なアニミズムがあるから、表面はどうあれ、深層的には八百万の神になってくるのかもしれません。

 以前から気になっていたテーマでもあるのですが、先日、シュタイナー医学を研究されているMさんのおすすめということで、角田忠信さんの「右脳と左脳/脳センサーでさぐる意識下の世界」(小学館)を参照していまして、日本人と西洋人の「音」に対する認知の相違について改めてふ〜ん、そうなんだろうなあ、と思ったことがありました。

 かなりポピュラーになったものなのでご存知かもしれませんけど。この角田さんは、「ツノダテスト」というのを開発して、ある音が、右脳で認知されるか左脳で認知されるかということを通じ、右脳と左脳の働きの違い、そしてその個人的文化的な違いについていろいろ研究されています。

 その研究を通じ、左脳は主に言語を処理するのに使われるから言語脳、それに対して右脳は、音楽を処理するのに使われるから音楽脳とも呼ばれているのですが、そのあり方が日本人と西洋人では異なっているわけです。

 それについて簡単にまとめると次のようになるそうです。 

         日本人              

     左脳         |     右脳

心/ロゴス・パトス・自然的     |     もの

言語音・子音・母音・感情音  |音楽、

泣、笑、嘆、甘、ハミング   |西洋楽器音

鳴き声、動物、虫、鳥、    |機械音

小川のせせらぎ、波、風、   |雑音

雨の音、邦楽器楽、計算    |

               |

―――――――――――――――――――――――――――――

            西欧人              

      左脳       |     右脳

 ロゴス的          | パトス的 自然

 言語音           |    音楽、

子音(音節)         |  西洋楽器音

(CV、CVC)       |   機械音

              |    雑音

              |   母音、感情音

              |   泣、笑、嘆、甘、ハミング

               |   鳴き声、動物、虫、鳥、

               |   小川のせせらぎ、波、風、

               |   雨の音、邦楽器楽

  

 これについての細かい説明は、興味があればご自分で読んでいただくことにして(^^;)、要するに、日本の言語的文化環境というのは、西洋に比べてはるかに森羅万象を有意味的に聴きとっているといえるようです。面白いのは、地理的に近いものの朝鮮語や中国語を母国語とされてる方も西欧型に近いということでなんです。秋に鳴く虫の音も、日本人にとってはうるさいくらい有意味的なのに西欧型の言語環境で育った方は、無意味でさえなかったりするんです。つまり、ほとんど聞こえないということなんです。聞こえてもホワイトノイズとしてしか意味をなさない。ただ面白いのは邦楽楽器は、日本人は右脳で処理しているという点ですね。

 興味深い箇所がありますので、ちょっとだけ引用します。 

私はそれまで日本人と外国人では虫の音の脳の処理の仕方に違いはあっても(日本人は言語を解する左脳で、西洋人は雑音を処理する右脳で聞く)、ことばのようにすぐに気づくかどうかの違いだと考えていたが、実はもっと大きな差があり、虫の音の文化がなければ、一生気づかないことだってあるようだ。長い間聴覚の研究を続けてきたが、まったくうかつなことに、われわれは「学習しなかった音は聴きとれない」場合もあることに気がつかなかったのだ。(P181)

 おそらく聴覚に限らず、ある種の「器」というか受け取る器官を形成していないと、存在していてもそれにまったく気づくことがないという、ちょっとショッキングな事実があるような気がします。おそらく、このことは、感覚器官だけでは決してなく、認識についていっても、それを受け取ろうとしなかったら認識できないということでもあるような気がします。

 「自分を見る」ということが繰り返し言われていますが、「見よう」としなければ「見えない」ものってたくさんあると思うんです。だから、その姿勢を身につける必要があるというわけなのですが・・・。

 さて、このツノダテストというのは、まだまだ面白いことがたくさんあって、年齢や月齢や地殻ストレスなどのセンサーとしても人間の脳を利用できるということです。ちょっと恐いのは、1985年以降、これを地球の異変なのかある種の異常な波動をキャッチし続けているということですが、これはまだよくその理由がわからないようです。

 話が横道にそれてしまいましたが、ともかく、脳の使用環境までもちょっと特異な日本文化の性格は言語に限らずみられるようで、「一神教」的とは程遠い感性をはぐくむことになっているようですね。こうしたことはおそらく日本的霊性とも深い関係があるんだと思います。

 さてさて、話は変わってシュタイナーのおすすめ本ですが、「神智学」や「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」が基本書ですが、全体を簡単に外観するためには「神智学の門前にて」あたりがいいでしょうね。もっと読みやすいのといえば、「食物と健康」や「健康と医療」でしょう。これらのものはぜんぶイザラ書房からでてますので、探してみてください。

 ということで、やっぱり日本っておもしろいなあとあらためて感じているKAZEでした。

 PS

「音」を中心とする日本人の文化環境についてのわかりやすい著作では

●小倉朗:日本の耳(岩波新書)

というのがありますので、興味のある方は参照してみると面白いですよ(^^)。 

 

 

大地性


(92/07/26)

 

 西田幾多郎の入門書ということですが、 

●中村雄二郎:西田幾多郎(岩波書店)

●中村雄二郎:西田幾多郎の脱構築(岩波書店)

●上田閑照:西田幾多郎を読む(岩波セミナーブックス)

●上田閑照:生きるということ/経験と自覚(人文書院)

●山本誠作:無とプロセス/西田思想の展開をめぐって(行路社)

 くらいですが、おすすめは最初の中村雄二郎さんのものでしょうか。4番目のものは西田幾多郎だけではなく、書名のテーマが仏教を中心としてわかりやすく話されている講演集なので、比較的とっつきやすいと思います。一度よいしょと腰をあげて西田幾多郎の取り組んだテーマを眺め渡してみるだけでもその意義というのはある程度理解できると思います。もしとっつきにくいところがあるとすれば、そのむずかしそうな用語ですが、これが意外に、一度ふふ〜んとイメージがつかめれば、スゴイ!って感じは伝わってくると思いますよ。

 それから、今回お話したテーマを集約した西田幾多郎の論文は「場所的論理と宗教的世界観」で、「自覚について/他四篇/西田幾多郎哲学論文集III」(岩波文庫)に、上田閑照さんの解説付きで収録されています。

 ソロヴィヨフについてですが、基本的に重要とされているのは、その「神人論」と「ソフィア論」です。小野寺功さんの意図しているのは、そのソフィア論を批判しながら、それとの関連で、西田幾多郎の絶対無の考え方が、キリスト教神学に寄与するものを論じることであって、「ソロヴィヨフのソフィア論と西田の絶対無の場所が『三位一体のおいてある場所』あるいは『聖霊の場』の問題として、深く相接し、最終的に聖霊神学的神論を啓示するものである」ことを明らかにしています。これについては、今後お互いおもしろい話ができると思います。

 それから、「信仰」について。このところ空海に関するものを少しずつ読みなおしていまして、僕のイメージする信仰というのは、「即身成仏義」の中の「加持」という考え方に近いなあと思いました。「加持祈祷」っていうといいイメージしませんが、本来の「加持」というのは次のような意味をもっているようです。 

「絶対者の偉大な慈悲の働きとわれわれの信心のまこととが合一するのが、加持であるそれはたとえば、絶対者のお日さまの影がわれわれの心の水に映るのを『加』といい、またわれわれの心の水が絶対者のお日さまを映しとるのを『持』という。」(「仏教の思想9生命の海<空海>(角川書店)よりP126)

 この「持」という境地へむかう認識のベクトルのことを「信仰」と呼びたいなと思います。

 しかし、空海についていろいろ読みなおすにつけ、なぜ僕がキリスト教よりも仏教の方に親近観を覚えるかというのがあらためてわかったような気がしています。ひとつは以前からお話しているように、仏教の基本は「自覚」であり、キリスト教の基本は「救済」であるということ。そして、仏教では、密教の「草木国土悉皆成仏」という命題や大乗仏教の「一切衆生有仏性」ということで表現されているように、生きとし生けるものすべての成仏ということがテーマだからです。はっきりいうと、キリスト教っていうのは、このあたりがシンドイと感じてしまうんだと思います。日本的霊性の基本にはやはり「大地性」っていうのもあったりしますがその「大地性」っていうあたりのスタンスも大きいなあと感じます。

 小野寺さんの「大地の神学」ということのテーマもそうした「大地性」ということのキリスト教的なとらえなおしということでもあって、それを「三位一体のおいてある場所」としてテーマ化しているといってもいいかと思います。 

 空海の「地・水・火・風・空・識」の六大が一つの実在において不可分という考え方つまり、精神と物質が不可分で生きた真実在の象徴である大日如来におおいなる魅力を感じているのです。

 

 

 

大地性とソフィア論


(92/09/14)

 「大地性」の話ですが、このテーマはちょっと目に考えるよりもずっとずっと深いものがあると僕は考えています。そしてもちろん「倫理的相対主義」に陥ってしまうような類のものでは決してない。かえって、「世界の根底」に迫ることのできる重要なテーマだと思います。僕のイメージではKの方が人間をどこにも行けなくしてしまう気がします・・・なんて、またKへの批判がはじまりそうですからほどほどにしときますが(^^;)、やっぱりKはわかった人のためのもので、わからない人はよけいに混乱し混迷を深めていくだけのような、そんなね(^^;)。

 で、大地性の問題というのはいくつかの観点で考えていかなければならなくて、日本の大地性、ロシアの大地性、インドの大地性などといった観点に加えてソロヴィヨフなんかのいう「ソフィア」という観点というのが不可欠になります。

 それは、僕もこれまで幾度か言及してきた「場所論」、ひいては西田幾多郎とキリスト教との接点でもある「三位一体のおいてある場所」つまり「神の顕現する場所」ということにも深く関係してきます。ちょっといきなりむずかしくなるかもしれませんが、ちょっとがまんしておつきあいくださいませませ(^^)。

 ソロヴィヨフのソフィア論というのはまだあまりメジャーではありませんが、これまでのような「超越的内在のキリスト」という観点でだけではなく「内在的超越のキリスト」というどちらかというと仏教的自覚のような観点でキリスト及び「三位一体」ということを深く考察していています。

 つまり、その「神の場」ともいえる「ソフィア」は、超越的内在的には「神の永遠の身体」という性格を持ち、内在的超越的には「世界の永遠の霊魂」という全人的有機体を意味していて、その二重的な性格によって、ソフィアは「世界の根底」ともいえる「世界霊魂」であり時間・空間の基礎である「原宇宙」として被造物的でありながら、一方では全世界的「原所与」的なものでもあります。この考え方は、キリスト教と仏教をリンクさせる非常に興味深い視点であり、また被造物即創造者という神秘学的な視点とも深くリンクしてきます。

 こうした視点を深く検討していくためには、それらの視点を西田幾多郎の「場」の哲学を通じて深化させていかなければなりませんが、そこらへんの観点を一度に理解していただくのは非常にむずかしいでしょうから今後少しずつ折りにふれてコメントしていければと思います。僕もキリスト教というのはかなり苦手なのですが、そうしたソロヴィヨフやシュタイナー、それから西田幾多郎などの視点によってはじめてその深い意味が理解・感得できてきたのではないかと思っています。

 せっかくですから、ソロヴィヨフのソフィア論からちょい抜粋。これは小野寺功「大地の神学」(行路社)からの孫引きです。

「父と子と聖霊の御名によって、ソフィア、ソフィア・・・おお汝、最も聖なる神のソフィアよ。美の本質的形象、太初よりおわします神の歓喜永遠なる者の輝けるからだ、万有の霊と全ての霊の女王たる聖霊よ。汝の愛せしイエス・キリストのはかり知れぬ恩恵により、我は汝に願う。どうかわがとらわれの霊へと降り、我らの闇を汝で満たし、我らの霊にかせられし足枷を愛の火で溶かし、我らに自由と光を与え、永遠の充足を取り戻し、目に見える様で、我らと世界を肉化し給わんことを。さればその闇の深みは限界を持ち、神は完きものとならん。」

 和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」ですが、それには「西田幾多郎先生にささぐ」という献辞が掲げられていますよね。それから、こういう西田幾多郎の哲学の評価の言葉もその第一章にあります。

「『人倫の体系』において残された最大の問題は、人倫の絶対的全体性の問題であった。それは有の立場においては解かれえない。その解決に対して我々に最もよき指針を与えるものは、無の場所において『我と汝』を説く最近の西田哲学であろう。」

 ただ、和辻哲郎の人倫の絶対的全体性、つまり「空」も、西田の究極的一般者である「絶対無」から大きく影響されているようですが、ちょっと形だけのつじつまあわせの感もあったりしますね(^^;)。どっちにしても、倫理学を検討するにしても西田幾多郎をおさえておくことはどうしても必要な気がしています。

 大地性というテーマの現代的意義を局地的にではなく「天」と「地」とのグローバルな視点にみて、その深さを理解していただければなあと願っているのです。

 

 

 

ソフィア論・存在者逆接空


(92/09/18)

 

 「ソフィア」についてもう少し説明しておくことにします。

 ソフィアというのは「大地的霊性」「母なる大地」といってもいいのですが、ほかの言葉でいうと、神と世界の媒介者、無の場所、神における自然です。ソロヴィヨフの「神人論」の「三位一体的ソフィア」論を簡単にまとめると次のようになりますが、そのキリスト・イエスにおける理想的人性、つまり「身体」を「ソフィア」と呼んでいます。

 なお、以下の引用部分は、小野寺功「大地の哲学」(三一書房)から。

「自体存在としての神から発出する子なるロゴスは、父の神格を明るみへともたらすものであるが、神がロゴスとして永遠に存在しつつ、しかも世界に内在する働きとなるためには、神的・創造的統一を受容する所、統一の『場所』を前提にしなければならぬというのが主な理由である。つまりイエス・キリストの神・人性の成立そのものが、すでに人格的、世界的他者を前提し予想するものであり、その他者とのかかわりの中で現われることであるという。」

 それから「内在的超越」「超越的内在」というのは、早い話、前者が内なる仏性を自覚する大乗仏教ものであるのに対して、後者は天の啓示を伝えるというようなキリスト教的な方向性であるということをイメージして下されば理解しやすいかと思います。

 ま、それはそれとして、滝沢克己の「被造物即創造者」としての「不可分、不可同、不可逆」や「インマヌエル」(神われらとともに在す)の紹介、ありがとうございます。西田幾多郎と神学の考え方を検討するには、その滝沢克己の外に見逃せないのが鈴木亨の「存在者逆接空」の考え方ではないでしょうか。僕もそこらへんについてはやっと見始めたところなのですが、仏教とキリスト教を結ぶ西田幾多郎という考えから「三位一体の於てある場所」としての「精霊論」を考えていく場合にはソロヴィヨフ、滝沢神学、鈴木哲学というのは欠かすことができないようです。

 鈴木哲学における「存在者逆説空」というのは、歴史的自然の判断過程は、有限即無限、相対即絶対、瞬間即永遠として逆説的にとらえることができるとともに、絶対の主語(空)が即述語(存在者)として繋辞的連関のプロセスとなることをとらえようとしたものですが、こうした大乗仏教的な考え方をキリスト教的にアプローチした「生きる根拠を求めて」では、次のようなことさえ述べられています。

「物質と生物と人類とはもともと存在者逆説空という根本理法の下にあり、キリスト教的にいえば、父と精霊と子との三位一体をこの有限な地上において表現しているものにほかならない。したがってまた述語的段階(物質)から主語的段階(生物)を経て繋辞的段階、さらに推論式的世界(人類)へと展開せざるをえないとともに、さらに空の大悲や精霊に贈られて人類の精神は霊性的段階にまで上昇せざるを得ないのである。われわれはこのことを深く自覚することを通して粘り強く他者に働きかけてゆかなければならない。空の大悲は絶えることなくわれわれに降り注いでいるゆえに、絶望はそこで希望に転回する。終末は遠いとともに今臨在するともいえるのである。」

 ま、こういうことですが、ここらへんの哲学的、神学的表現というのはなかなかに難解で、こうしたことをシュタイナーの神秘学などで説明するとわりとはっきりと説明できるのような気がします。そこらへんのわかりやすい説明というのは、今後僕の課題ともしていきたいと思っています。

   

 

 

夏目漱石・阿部謹也●「個人」と「世間」


(94/01/29)

 

 ある意味では、人間学というのも人格の「結び」の問題なんです。シュタイナー的にいえば、自我が感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかけ、それらを変容させていくということでもあります。

 現代の日本において、その自我に関する問題というのは、明治以降、特に最重要の問題となっているのかもしれません。最近、またブームになっている夏目漱石なんかもそのテーマを追求していたんですよね。その有名な講演の「私の個人主義」という大正三年には、こういう箇所があります。 

・・・第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなけばならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。・・・

 夏目漱石の話になりましたから、ついでにいうと、その他の講演に「現代日本の開化」というのもありますが、その中で、「開化」について「内発的」の開化と「外発的」のそれとを区別しています。最初に話した個人の自由意志の問題に関連していうと、人格の向上にしても、それはあくまでも内的必然性として、「内発的」なものでなければならないとは当然のことですし、この日本という「場」に必要とされている変容というものも、現代のような「外発的」なものではなく「内発的」なものでなければなりません。

 考えてみれば、日本語というのはとっても面白くて、「人間」とか「世間」というように、個も社会も「間」として、つまり、「場」としてとらえる傾向にあるようですね。

 そこらへんのことについて、ヨーロッパ文明との比較がなされていて、これからの日本を考えていく上からも非常に興味深い本が新刊ででています。 

●いまヨーロッパが崩壊する(上)殺しあいが「市民」を生んだ(カッパサイエンス)

 (栗本慎一郎/阿部謹也/樺山紘一/河上倫一)

●いまヨーロッパが崩壊する(下)「野蛮」が「文明」を生んだ(カッパサイエンス)

(栗本慎一郎/山内昌之/山口昌男) 

 この本はどういう試みかというと、次のようなものです。 

 明治維新以来、日本(人)にとってヨーロッパの文明は、政治的システムはもとより、文化・芸術・学問から個人のライフスタイルに至るまで、見倣うべきお手本とされ、憧れの対象でさえあった。そのヨーロッパ文明が、そのシステムを根底から支えてきた理念−個人主義、自由と平等、市民社会、議会制民主主義、民族自決主義−が、いま崩壊への曲がり角に立ち至っている。とすれば、それはエピゴーネン(模倣者)としての日本の崩壊をも意味しているのだろうか。こうした、日本(人)にとってどうしても避けてとおれない先鋭的かつ切実なテーマに対し、現代日本の「知の最高峰」に位置する俊英が、「知の最前線」から応えようとするのが、本書のねらいである。

 この試みはなかなか鋭い示唆にとんでいて、思った以上にいろいろ考えさせられるところが多い本ですので、機会があればぜひ目を通してもらいたいと思いますが、この中で、僕の尊敬している阿部謹也さんという西洋社会史を専攻されている方の「日本に西欧型『社会』は存在するか」という「講義」が先ほどいった「世間」という極めて日本的なあり方を指摘していて面白かったです。つまり、「社会」とかいうのは明治以降の西洋からの輸入で、それまで、日本には実際の所「世間」しか存在してなくて、今でも我々はほとんど「世間」に住んでいるということができるということです。なんだかちょっと長くなってしまっていますが、そこらへんのことをご紹介してこのアーティクルを終えることにします。 

 明治以降、西欧的な「自己」というものが導入され、文章を書くうえでは、その西欧的自己によって自分を表現し、主張するようになった。とくに学者はそれによって文章を書き、論文を書き、論壇にうって出たりもしている。

 けれども、生身の人間として、日常世界のなかで、妻や子、友人、先生、あるいは仕事上の関係者などと付き合う場面では、そういう西欧的自己はなんの関係もない。私の言葉で言えば、「伝統的な日本人の、ある階層的な男性というものの現れ、あるいは女性というものの現れ」である場合が圧倒的なんです。

・・・

 社会は個人の意思によって形成されている。言い換えれば、社会は個人の意思によって変えることができる。これは、ヨーロッパの伝統がもたらした幻想であります。ヨーロッパにおいては、そこには多少、事実もある。しかし日本の場合、それはまさに明治以降につくられた幻想であって、われわれは実際にはそう思っていないんですね。

 どういうことかと言いますと、日本人が結んでいる人間関係というものは、たかだか世間の範囲を出ないということです。ここで言う世間とは、個々の人間の顔と顔とがつながっている関係、つまり、個々の人間がお互いに顔見知りの関係のなかで結びあっている、パーソナル・ネットワークです。・・・

 言い換えれば、われわれが世間と言うときには、その世間の内容は社会一般ではまったくないということ、日本社会全部でもないということです。 


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