自我・自己をめぐる考察7


意識魂の必要性

ファンタジー

器づくりなど

生きた思考

シンフォニー

シンフォニー2

何からでも学べる姿勢

何からでも学べる姿勢2

 

 

意識魂の必要性


(97/01/17)

 

 「依頼」ということにしても、依存系のそれは、主体性を失わせるものです。そうでない依頼というのは、その「依頼」に対する「報い」の部分を最初からきちんと自覚して、その準備をしておくあり方のように思います。たとえば、わかりやすくいえば、報酬と引き替えに依頼するということ。お金で何かを買うというのはそのいちばんわかりやすい例ですよね。依頼という作用に対して、報酬という反作用です。

 そういう作用と反作用が自覚的な形をとればそれはそれで完結するのですが、わかりにくいのが、感情としてのそれですよね。「わかってほしい」というのもそれですし、「共感してほしい」というのもそれです。もちろん、それが調和的・発展的にでるのであれば、問題ないのですけど、それが自己目的化した状態ですと、それは単なる感情の耽溺なわけです。

 共感と反感でしか物事をとらえない方というのは多いですけど^^;、それを自己目的化して生きるということは、依存−反発というだけの感覚・感情マシーンになっているということです。そこには、「自由」ということは存在しません。そのとき、「自分」は「感覚・感情」でしかないのですから、それを統御する自分というのはどこかに行ってしまってるんです。

 「甘えさせてくれない」「甘えることが悪いのですか」とか「共感しあってみんなで仲良くなりましょう」とかいうのは、そうした自分をスポイルする典型的な発想にほかなりません。

 「外部に依存した内省」というのも、姿を変えた「共感しあってみんなで仲良くなりましょう」で、裏を返せば、「こんなに反省しているのに、自分を認めないなんて、そんな冷たいのってある?」とかいうことになります。

 意志は思考と感情と深く関係しています。意志を自覚的に育てるプロセスというのは、まずは「何をしたいのか」を具体的に思考するところからスタートして、それを感情という器のなかで熟していくことで、その「したい」を衝動として高めていくことが必要のように思います。そうして初めて、強制ではなく自発によって具体的実践へと向かっていくということができるのではないでしょうか。そして、実践することを通じて、さらにそれを吟味していく・・・。そうしたなかで、「やだな、やだな」が「やらなくちゃ」へ、そして「やるっきゃない」・・・という感じになっていくんだと思います。

 しかし、ここで気を付けなければならないのは、このプロセスは洗脳のプロセスにもなってしまうということです^^;。だからこそ、ものごとを広く深く考えることのできる思考力と、真善美を健全に感じることのできる感情が大事になってくるんです。そうでなければ、「良心」に常にヴェールをかけてしまうことになりますから。危険な新興宗教や開発セミナーなどにはまってしまうのは、思考力が弱いか良心が麻痺しているかのどちらかだと思うんです。

 「感覚魂」「悟性魂」「意識魂」に関してですが、ごく単純化していうと、感覚魂は、対象に対して直接向き合って、それを感じることのできる魂の働きで、悟性魂というのは、直接対象に向かわなくてもそれを思考できる魂の働き、さらに意識魂というのは、自分が思考していることを見つめられる魂の働きです。わかりやすくいえば、目の前に花があって、きれいだなあとか感じるのは感受魂、学校で知識を詰め込むような感じでお勉強するのは悟性魂、さらに、たとえばこのフォーラムで「自分を観る」とかいっているのは意識魂の働きを育てていくものです。

 シュタイナーは、現代の人間は意識魂を育てることを課題としているといいますがその意識魂が育たないと、「反省」することはできないんです。自分が何を感じ、考えているのかについてちゃんと見つめることができなければ「反省」しているとはいえませんから。ちなみに、人の評価を気にして反省したふりをしているというのは、意識魂ではなく、感受魂でただ「感じているだけ」だといえます。

 さて、引用してくださったシュタイナーの「神智学」ですけど、それは、先にも述べたような「共感−反感」といういわば感受魂的なあり方しか育っていないことに対して、「それではいけない、自分を真に見つめる眼を育てなければならない」というふうな感じで、意識魂を育てましょうといってるのだと思います。

 キリストが磔刑のとき「彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです」というふうに言ったように、意識魂がないと、「自分がいったいなにをしているのかわからない」わけです。

  

 

 

ファンタジー


(97/01/24)

 

 依存と反発は、方向が違うだけで、依存しているからこそ、「なんでだ〜!」という感じで反発するわけです。それは感情・感覚的な依存関係の裏表としてのゴロニャンとガオ〜!で、そこには、本当の意味での「他者」というのはいません。おっしゃるように、「想像上の他人」でしかなくて、それを「他者」に投影しているだけなのだと思います。依存しやすいと思う「他者」を「想像上の他人」とすり替えて、その「想像上の他人」を規準として、みずからの行動などを決めていく。そういうのは、献身的に見えたり、無私であるかのように見えたりするんですけど、その根底には、責任を放棄したエゴイズムがあるのではないでしょうか。

 「共感」に至るプロセスの必要性についてですが、そうした「共同幻想」としての「共感」は、さきのゴロニャンとガオ〜!のようにその幻想を破る者に対しては一転して排他的になるからすぐにわかります。相互理解に向かうための共感ではなく、お互いの投影のなかで、その投影以外のものを見なくてもすむようにする甘い契約です。だから、そこに「なぜ」は禁物です。疑いを持つことは禁じられていて、みんな同じ仮面をかぶって、誰が誰だかわからなくなってしまうのが快感になるのかもしれないですね。だからこそ、教祖をつくってあがめて、みんな同じ顔をして、祈っているなんていう、気持ちの悪いことになっていくのだと思います。

 「感情という器のなかで熟していく」というポイントについてですが、感情というのは、思考と意志をつなぐためにはどうしても必要で、それがなければ、「べきだ」は常に外からくる「べきだ」でしかないわけです。つまり、「べきだ」を「したい」というふうに変容させるといいますか。

 これを悪用したのが、例の「修行するぞ!修行するぞ!・・・」をあびせかけてそんな気にさせてしまうような洗脳法です。そういう単純な思考というか、その滓のようなものでも、それを通じて「修行したい」という感情をつくりだしてしまい、それが意志化されていくことになります。

 けれど、そういうあり方が馬鹿げているのは勿論ですよね。そういうあり方ではなくて、論理的な思考、自覚的な思考、理性的な思考をできるだけトータルにしていくことを通じて、「こうすべきだと思う」という思考を「そうしたい」というふうに変容させていく必要があるということです。

 この両者は基本的に同じ原理を使ったものであるということはできますが、同じ料理といっても、まずは素材を見極める確かな目を持つということや素材の適切な加工法、調理法、盛りつけ方云々次第では、まったくことなった結果がでてくるということなのだと思います。

 後者のような健全な変容方法は、いわば「ファンタジー」だということができます。エンデの「モモ」を読むことで、心のなかのある種の思考が、倫理的なファンタジーとして変容していくというようなあり方です。

 そのファンタジーは、意志、行動への道だということができます。そうしたファンタジーがないと、「べきだ」は内的な熱になりません。どうしてもそこには、お仕着せとしての冷たい「べき」でしかないわけです。

 感情を変容させる魔術師としてのファンタジーという原理がないと、人はメカニカルなマシーンになってしまいます。「はてしない物語」での、「ファンタージエン」の消滅になります。もちろん、否定的な意味で、ファンタジーが妄想的になると、こんどは幻想のなかでしか生きられないような脆弱な人間になってしまいます。その場合に欠けているのが健全な思考力だといえます。

 ですから、思考−感情−意志というのは、そのようにトータルにとらえていく必要があります。思考がなければ感情は健全なあり方ができませんし、感情を育てることなく、思考を意志にするというのは危険です。「修行するぞ!・・・」の洗脳ですね^^;。

 

 

 

器づくりなど


(97/01/27)

 

 「我を空しくする」ということが日本ではよく評価される傾向にありますけど、それは「我」がちゃんとあって、その「我」をきれいな硬質の器にして、「なんでもこの器にお注ぎください」というように差し出すということなのではないでしょうか。

 ですから、「我」のできていない器、たとえば穴だらけの器だったり、ひび割れた器だったり、へなへな、くにゃくにゃの器だったりすると、その器になまじ何かを注いだらどういうことになるかということですね。

 きちんとした型があって、それが高温で焼かれたものであれば、その器はなにを注がれてもちゃんと受けとめることができ、役に立ちますが、そうでないとしたら、すぐにこわれてしまうか、事前にそれを察知して、「ガオ〜!」と牙を剥いて逃げ出すかになります^^;。

 さらにいえば、その器は、大きければ大きいほど多くのものを容れることができます。それがほんとうに大きくなると「大我」になりますし、これを乗り物としてとらえると「大乗」になります。

 この「我」の素材というのは「煩悩即菩提」といわれるように、「煩悩」であって、それを正しく形づくり高温で焼くことによって器になりますから、煩悩は大きければ大きいほど大きな器が可能になります。とはいっても、大きな煩悩になればなるほどそれを正しく形づくり焼くことは困難になっていきますから、煩悩が大きければそれだけリスクは高くなります。

 ですから、禁欲によって煩悩を去るという発想だけだとただの廃人ですし、逆に煩悩を肯定しすぎてそれを野放しにすると、ただの馬鹿にすぎません^^;。だから、「中道」が必要になってくるわけです。

 「どうすれば」よりも「なぜ」が必要だということについてですが、先ほどの器の例でいえば、ある意味では、「なぜ」は「火」なんですよね。しかも、外からもってくる「火」なのではなくて、自らが生み出すしかない「火」。いろんな問題点や欲望やそんなあれこれを粘土だとしましょうか。まずは、その粘土を自分なりのかたちにつくりあげなければなりません。それは「自分はいったいどうしたいのか?」という理想=設計図に基づいて、自分という器の形を決めていくわけです。理想がなければ素材がたとえ山のようにあってもどうにもなりませんし、理想があっても素材がなければ机上の空論になるだけです。

 で、その理想の部分を「どうすれば指摘されなくなるか?」だけで、日和見でつくあげてしまうと、これは先の役に立たない器になってしまいます。まずその時点で、良質の器をつくることは不可能になります。

 しかし、素材と理想があって一応形がととのって、よっしゃ!となっても、それでは、鍛えられてない刃物といっしょで、何の役にもたちません。そこからが勝負なわけです。自分の「自由」からくる「なぜ」という火を高温のものにして、それで焼き上げるという過程が必要だということで、これ次第で、途中で壊れてしまうかもしれませんし、焼があまくなるかもしれませんし、また素晴らしい色合いさえでてくるようになるかもしれません。おそらくは、その徹底した「なぜ」こそが、内的な高温の火になるのだと思います(^^)。

 思考を意志にするために感情を育てる、というのは、内的倫理としてその思考を衝動とするということです。「それなくてはおさまらない」という衝動をつくるわけです。でないと、マラソンしながら最初は飛び出したものの、すぐに息切れして足があがらなくなり、リタイアということになります^^;。

 霊・魂・体が正しく統合されることについてですが、基本的なイメージとしていえば、霊は逆三角形、体は三角形で、方向としては「逆」のあり方を示しています。で、そのままではこよノu霊」と「体」は結びつかない。そこで、それをリンクさせるコネクターとして「魂」があって、その「霊」「魂」「体」が統合的になっているのが人間だといえます。

 しかし、そのコネクタとしての「魂」がうまく働いていないと、「霊」と「体」はバラバラ事件を起こしてしまうことになります。「霊」にいきなりいってしまうのを「解脱病」になりますし、「体」に沈み込んでしまうのを唯物論になり、霊的には死んでしまうことになりかねません。

 あくまでもイメージですけど、こんな感じだとぼくはとらえています。

 

 

 

生きた思考


(97/01/27)

  

  −−私のいうことを信じなくてもよいが、それについて考え、それを君自身の思考内容にして見給え。そうするだけで、すでに君の内部で私の思考が生きはじめ、君はその真実を自分で認識するようになるだろう。−−(P184)

 シュタイナーの「神智学」にあるこの部分は、ほんとうにその通りだと確信しているところです。シュタイナーの姿勢の根幹には、「何かを権威的に受けとめるのではなく、そんなことでも自分で考え、生きた思考にしなさい」ということがあります。それはおっしゃるように、霊学云々は別として、すべてにあてはまることだと思います。もっとも、すべては霊学の範疇だともいえるんですけどね^^;。

 たとえば、ぼくがここでこうしていろいろお話していることなどは、(もちろん、大した内容だとはいえませんけど^^;)ぼくが読んだ本を読んでいただいて、それをもとにじっくり考えていけば、そのほとんどが自ずと生まれてくるようなものなのだというふうに思います。もっとも、これだけのことでも、何十年もかかっていますから、いきなりそれができるということでもないのですけど、そんなに難しいことでは決してありません。

 ひとそれぞれにいろんな方向で思考しますから、それぞれが個性的な表現をとるのはもちろんですけど、生きた思考が育っていく論理やプロセスなどはある種、おのずと形作られていくものではないかとぼくは考えています。

 別のアーティクルで「器」について少しお話しましたけど、やはり、自分で思考するということができないで、他の思考に従って、自分からそれを育てていくことをしないと、器はできません。たとえ形になっているようにみえても、それは別の器のなかでかろうじてその形をとどめているようにみえるだけで、別の器を取り去ったとしたら、器はふにゃふにゃになってしまいます。それはまさに生きてなくて、死んでる思考なわけです。

 

  

 

シンフォニー


(97/01/29)

 

 器のための土は、やはりなんでもいいというわけではなくて、つくりたいものが決まれば、自ずと必要な土が何であるかがわかってくるはずです。音楽を奏でるためにも、何を演奏するかということと同時に演奏する楽器も必要に応じ選択し吟味しなければならないのと同じです。

 また、“自己実現”や“自立”というのは、交響曲のようなもので、そのためには、それぞれの楽器の演奏が全体としてひとつの響きとなって展開していく必要があります。主題があって、その変奏があったりもします。

 ですから、「自分にある問題点や欲望」をまずは吟味する目をもつこと。つまり、自分がどんな「問題点や欲望」をもっているかを見据えながら、それが「自分はいったいどうしたいのか? どうありたいのか?」のなかでどのようなポジションをしめていくのかをコンポジションとして構築していかなければならないということです。

 「素材」となる自分の欲や問題点を直視し、同時に「こうありたい」という理想像を構築していくということは、自らを素材として交響曲を作曲するということになりますね(^^)。で、自分という交響曲を日々奏でながら生きているわけですから、その演奏のなかで何が課題かということは、指揮者として、常に耳を澄ませていないといけないということでもあります。たとえば、澄み切った静かな湖面に月が映っているようなシーンがあったとして、その最中に、ドラがじゃーんと鳴ってしまったら、やっぱりだめなわけです^^;。そういう美意識というのは必要なんじゃないかなと思います。ぼくがたまに無粋なのはいやだな、というのはそういう感じなんですよね。

 さて、人間は一個の楽器だともいわれるように、もっと大きな交響曲のなかの一部を構成しているともいえます。ミクロコスモスとしてのシンフォンニーとマクロコスモスとしてのシンフォニーがあってそれが照応しているということです(^^)。ですから、そういう意識もまた必要ではないかとも思います。

 今、「いか超」の読書会で、ちょうど「火の試練」「水の試練」「風の試練」というあたりをやっていますけど(「風の試練」は次回です(^^))、その「水の試練」という名前の由来はこうです。 

この試練は「水の試練」と呼ばれる。なぜなら底に足が届かぬ水中では、どこにも足場がないように、この試練の場においても行為する人間を支えてくれるものがどこにもないからである。

 さらに、「風の試練」になると、こうなります(^^)。 

この試練は神秘修行上「風の試練」と呼ばれる。なぜならそこでは外的誘因という確かな地盤や、準備と開悟の段階で認識した色、形などから生じる事柄を拠り所にすることができず、もっぱら自分自身以外に頼るものを持たないからである。(P89)

 なぜ人間が個としてこうして存在しているのかといえば、我−汝が区別されることによってしか創造できないものがあると考えられないでしょうか。

 もちろん、それは非常に孤独で、寄る辺ないのではあるけれど、まずはそこから出発しなければ、その創造は、模倣を越えられないと思うのです。教祖をまねようとしてみんな同じ顔になる話がありましたけど、それは、個であることの試練を通過することを避けているから、肝心なものを生み出すことができなくなっていることではないかと思います。

 

 

 

シンフォニー2


(97/02/03)

 

 compositionは、「組み立て」「構図」「作文」「作曲」といった意味で、全体の構図に基づいてその要素を組み立てていくこと、またその組み立てたものということになります。

 けれど、音楽のわからない人にいきなり作曲せよといっても無理なように、また英語のわからない人に英作文せよといっても無理なように、そうした組み立てが可能になるためには、それなりの勉強が必要になります。まずは、基本的なルールについて学ぶことから始める必要があるわけです。

 「自分はどうしたいのか」という問いかけがあったとしても、みずからの思考、感情、意志について自覚がなければ、それをどうこうしようとしてもどうにもなりません^^;。ですから、とりあえずは、自分のガイドとするものを決めて徹底的に学ぶ。徹底的に学んだうえで、その学んだことにさらに疑問を投げかけながら、自分はこうしたいんだけど・・・ちょっとそれとは違うみたいだ、とかをその学んだものをガイドとして模索していくようにする必要があるのだと思います。

 論語をガイドとする方、仏典をガイドとする方、聖書をガイドとする方などなど、ガイドとするものはたくさんありますし、今自分が意識するしないにかかわらず従っている「伝統」というものもあります。とにかく、そうしたガイドから学び、そこに疑問を投げかけながら、そうしたプロセスのなかではじめて、「自分はどうしたいのか」ということが次第に浮上してくるのではないでしょうか。

 けれど、現代日本というのは、そうしたガイドを半ば放棄してきていますから、何に従っていいかわからない状態に陥っているようです。「父の復権」とかいうことも最近ではいわれるようになってきてますけど、そういうのも、かつては、反発するにせよ、大きなガイドとなっていたわけです。もちろん、今更そういうことを言っても、手遅れですけどね^^;。

 ある意味では、かつての時代は楽だったといえます。ガイドはかなり限定されていましたから、辛くてもそれを通じて、魂を成形していくことが可能でした。けれど、現代は、もう誰も成形してくれやしません。自分で自分を成形していかなければらない時代だといえます。そういう意味で、時代状況そのものが「水の試練」「風の試練」を要求している時代だともいえるかもしれません。

 

 

 

何からでも学べる姿勢


(97/01/30)

 

 「一人で考えること」を、「他から学ぶ必要がない」というふうにすり替えるとこれはたんなる独善になりますから、気を付ける必要がありますね。「一人で考えること」は、同時に「何からでも貪欲に学ぶ」ことでもあります。

 学ぶけれども、それを鵜呑みにして主体的には考えないというのではなく、その食べ物がどういう種類のものでどういう栄養価をもっているか、また自分にとって必要な栄養は何かというあたりを自分なりに判断して、実際に食べて血肉にするということが必要なのだと思います。ですから、「じっくり見る」ことも必要ですけど、それを実際に食べないかぎり、血肉化することはできないわけです。もちろん、毒には十分気を付けないと命取りになりますけど^^;。

 

  

 

何からでも学べる姿勢2


(97/02/03)

 

 先ほどのコンポジションですけど、作曲をする、作文をするといっても、そのルールを無視したそれらは、ただの独善でしかないですよね。もちろん、ある段階になると、ルールを新しくつくるということも可能でしょうけど最初から「すべてのルールは自分だ」では話にならない^^;。

 「穴ぼこがあるよ」と指摘されて、「否定された」と思いこんむのではなく、「穴ぼこがあるよ」といわれたら、それに感情的な反応をするのではなく、「どこに穴ぼこがあるのか教えて」と問い返すのがいいのでしょうね。そして、その指摘が正当なものであれば、それをきちんと身につけていく。そうでなければ、「あなたが穴ぼこだと言っているのはほんとうのそうなの?」というふうにどんどん問い返せばいい。

 偉大な作曲家にしても、やはりそれまでに継承されてきたものを学びながら、それでは満足できずに自分なりのやり方を身につけていってはじめて素晴らしい音楽を生み出してきたのではないでしょうか。

 毒をくらおうが、それを避けようが、すべては自分の責任ですから、やはり、ちゃんとルールを理解したうえで、ただの無茶はしないことでしょうね。「自分の身は自分で守る」というのも、認識力の差が大きくなりますから。 


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