自我・自己をめぐる考察6


一霊四魂

内なる恥と外なる恥など

恥を知る

「恥」は、耳の心

世間様は神様です、という日本^^;

いっしょに踊るネタ探しの不毛

反省できない人は権利だけを主張する

因果応報

 

 

一霊四魂


(96/10/06)

 

「感情の質と量の大切さ」ということは、「煩悩即菩提」ということです。煩悩が大きければ大きいほど悟りも大きなものとなる。

 これは、ふつう考えれば、馬鹿げたことのように思えますが、その煩悩というのを感情としてとらえれば、あらゆる感情を持ちうるような大きな器でなければ、そこに盛られるものも少ないわけです。

もちろん、その莫大なエネルギーはへたに使うと核爆弾のようになってしまいますからその「質」の面を兼ね備えてはじめて、それが豊かなものとなるのですから、エネルギーの大きさに応じた制御能力が必要となってきます。馬車の馬の数が多ければ多いほど、御者の能力がすぐれていなければならないように。

 古神道では、一霊四魂ということがいわれます。一霊というのは直霊(なおひ)、四魂というのは荒魂(あらみたま)、奇魂(くしみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)です。これは、言ってみれば、自我としての直霊(御者)が、心の働きとしての四つの魂(四頭の馬)をコントロールしているといえます。

 この四魂を簡単に説明しますと、荒魂は「勇」で「進展力」を表わし、奇魂は「智」で「観察力」を表わし、和魂は「親」で「親和力」を表わし、幸魂は「愛」で「生成化育」を表わします。

 で、このそれぞれの魂には、「恥じる」「覚る」「悔いる」「畏(おそ)る」という戒律が必要で、そうでなければ魂は正しく働かないといいます。直霊にも戒律があり、それは「省みる」ということで、「義」ということで表わされます。

 ちなみに、出口王仁三郎はこの四魂の戒律についてそれぞれ次のように述べています。 

●「荒魂−愛−恥じる」について

  恥づること知らずば人は争いて獣にちかき挙動すなり

●「奇魂−智−覚る」について

  もの学び智慧を研くはよけれども覚りなくば狂ひこそすれ

●「和魂−親−悔いる」について

  よし人に親しむとても悔いること知らずばつひに人に悪(にく)まる

●「幸魂−愛−畏れる」について

  人を愛でいつくしむとも天地に畏るるなくば道にさからふ

 このそれぞれの魂の働きを四頭の馬と見て、それぞれの馬がそれぞれに個性的な走り方をするとしましょう。馬はやはりパワーがあればあるほど、馬車は力強いものとなります。けれど、その四頭の馬のそれぞれの性質を正しくとらえ、それぞれをそれぞれに応じた仕方で制御できてこそ、馬車は正しく目的に向かって走ることができます。

 「感情の質と量の大切さ」というのは、そうした四魂のパワーが大きければ大きいほどいいけれど、それは「恥じる」「覚る」「悔いる」「畏(おそ)れる」ということによって正しく制御されて正しく働いていなければならないということです。

 そして、その四魂を操る自我には、「反省」という「省みる」能力が要求されます。その「省みる」能力というのが、まさに先日来お話している「意識魂」と深い関係にあるわけです。

 出口王仁三郎は「霊主体従」ということを強調していました。わかりやすくいえば、心が身体を従えてないといけないということです。けれど、だからといって、身体より心のほうを優位に置くということではありません。身体と心のどちからを優位に置くというのではなく、どちらも同じく大事だけれども、心が身体をきちと制御できるということでなければ正しい働き方とはいえないということです。

 先の一霊四魂でいえば、直霊が四つの魂を制御するということでしたが、だからといって、直霊だけが重要で魂のほうは添え物だというのではなく、どちらも大事な働きだけれども、そのあり方は逆ではないということです。四頭の馬が御者をひっぱっていくというのは、やはり余りに滑稽ですから。

 ついでにお話しておきますと、出口王仁三郎の有名な「霊界物語」では、世界は最初、国常立尊により「霊主体従」であったものが、反対勢力によって逆転し「体主霊従」となり、そのために世界には悪がはびこったので今度はその逆転した状況を打開すべく大自在天が働きかけ、素戔鳴尊による「霊体一致の霊主体従」が実現されるというストーリーがあります。

 ここで大事なのは、あくまで「霊体一致」ということで、心と身体がまったく「不二」として働いてはじめて、理想的な「霊主体従」になるということなのではないかと思います。

 かなり回りくどい説明になってしまいましたが(^^;、「自分の本意」と「感情・欲の求めるところ」は、あくまでも「自分の本意」が「感情・欲の求めるところ」をきちんと制御できてないといけないわけですが、だからといって、それを截然と分けてしまってはならないということです。

 けれど、もちろん、「感情・欲の求めるところ」が「自分の本意」を操ってそれがわけわからない状態になったときには、とりあえず、その逆転したあり方を元に戻す方法論が必要になるのですけど。で、最終的にはやはり、「自分の本意」と「感情・欲の求めるところ」は、「一致」したうえで、「自分の本意」が主で、「感情・欲の求めるところ」が従であることが求められるというわけです。

 さて、「全体を俯瞰して総合的な構造を把握する」、というのはだれにとっても大変な作業になります。たとえば、コンピューターグラフィックを作成するときの、2次元処理と3次元処理の難易度の違いをイメージされればわかります。ある物体を2次元の平面で描くのと3次元の立体で描くのとはそれに要する労力はまったく違ってきますよね。

 それと同じで、「全体を俯瞰して総合的な構造を把握する」ためには、アンチョコがあるのではなく、ただただ地道に根気よく、物体のあちらこちらからデータを集めながら、それをひとつの像として総合していく作業というのが必要なわけです。それには、近道というのはおそらく存在してないのです。富士山を立体的に映像化するためには、実際に四方八方に実際に行って、丹念にそれぞれの位置からの視点をデータとして集める必要があるのです。

 けれど、大事なのは、たくさんの視点から集めたデータから、視点に応じてたくさんの富士山を創造してしまうのではなく、すべての視点を満足させるような立体としての富士山を描くということです。視点は無限にあったとしても、富士山はあくまでもひとつなのですから。

 ぼくの理想とする神秘学というのも、それと同じです。できるだけ多くの視点を総合的に満足させることのできる、統一的な世界像を自分なりにとらえようとすることなわけです。もちろん、そんなことは不可能に近いわけですが、それだけに、無限の挑戦に満ちていて取り組みがいのあることです。実際、できているのは、ほんのわずかなことでしかないのですが、それでも、一つの視点だけから見るより、二つ三つと視点を増やしていきながら、それらすべての視点をばらばらにではなく、統合していくことによって、確実に何かが見えてくるということはあると思うのです。

 で、今ぼくが取り組んでみたいなと思っているのは、シュタイナーの人智学を基盤にしながら、仏教の視点や日本の神道の視点をともに統合していきたいということなわけです(^^)。もちろん、通常の哲学や科学の思想などの視点も大切にしながら…。そんなドン=キホーテのような試みが、ぼくにはとっても魅力的なのです(^^)。

 

 

 

内なる恥と外なる恥など


(96/11/07)

 

 「悟り」「菩提」については、悟ってないぼくにはよくわかりませんが^^;、魂を正しく発達させた状態だというふうにとらえればいいのではないかと思います。「正しく」というのは、仏教で「八正道」とあるような、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」「正しく行為する」「正しく生きる」「正しく念じる」「正しく精進する」「正しく定に入る」ということなのですが、そうした「正しく○○する」ということは魂を成長させるための方法論だということもできる。そして、その「正しく」の基準こそが「中道」ということなわけです。

 で、このことを、たとえばパンを焼くことにたとえて表現しますと、大きく美味しいパンを焼き上げるためには、素材が豊富で良質なほうがいいですしあとそれをこねて焼き上げる技術が磨かれていればいるほどいいということです。いくら美味しいパンを焼こうとしても、素材が乏しかったら、大きくて美味しいパンを焼くことはできないわけなのです。

 その素材を「感情」だというふうにとらえれば、魂を成長させるためには、感情は豊かなほどいいですけど、それはちゃんとほどよく焼き上げないと、美味しい悟りというパンにはならないんです。

 「僕がよく陥ってしまいがちなのは、「自分に恥じる」のではなく「他人に恥じる」という感覚です」ということですけど、日本で普通「恥ずかしい」といっているのは、「世間様に顔向けができない」というように、自分のなかにある「世間」だともいえる、いわば、「集合的自我」であるように思います。

 「己に恥じよ!」とか叱咤される場合の多くも、おそらくは、「自分に恥じる」のではなく、自分が共有している「世間」に照らしてその基準から「恥を知れ」といっているのではないでしょうか。ちなみにその「世間」には「ご先祖」なんかも含まれていたりします。

 これは、「個がない」といわれる日本人独特のあり方のように思います。これがキリスト教やイスラム教のようになると、「神」に対してその契約を破ったかどうかという基準になるわけですが、日本人の場合は、そういう超越的な存在に対してではなく、あくまでも自分もそこに含まれている「世間」が「神」の代わりをしていることが多いわけです。

 実は、ここらへんのことは非常に重要な問題を含んでいるわけで、キリスト教もその本来は、「内なるキリスト」を自らが自覚することをそのテーマとしていたのが、その「内なるキリスト」が隠蔽され、外なる権威としての「教会」で置き換えてしまうようになっています。

 「自分を観る」ということも、おそらくは、そうした「内なるキリスト」の覚醒ということのための実践なのではないでしょうか。そのプロセスとして「煩悩」としての「虎」を「正しく」律することによって変容させられた「虎」ののふところに、「内なるキリスト」は生まれ、そして成長していくという感じでしょうか。

 で、「恥じる」ということは、そうした内的自発によって成長させられた「内なるキリスト」の基準からみずからを反省するということですから、外なる基準で反省するということはできません。人から何か言われて「反省します!」とかいうことは、多くの場合は、単に「外的基準を認め、それに従います!」というだけです。

 けれど、ここでむずかしいのは、「私は外的基準には従わない。自らに従うのみだ!」という人の多くもまた、その「自ら」が「虎」でしかないからです^^;。

 「僕がまず「総合的な構造を把握」したいモノは、やっぱり「自分自身」です」ということですが、そこらへんのことを理解するためには、ただその都度の体験だけに頼るのだとおそらくは無限に近い試行錯誤の時間が必要になってくるように思います。もちろん、検証するための体験というのは必要不可欠なのですが、何の地図も持たずに自分で一から測量しはじめようとしても無謀です^^;。

 ですから、そのための神秘学であり、霊学なわけです。ぼく自身でいうと、最初、心理学や精神分析、哲学、そして宗教思想などでかなり大ざっぱではありましたが、その「地図」の仮説を立てていきました。そして、その都度、体験的に検証しながら、仮説を作り替えていきました。その後で出会ったのが、シュタイナーの思想で、その思想によって、それまでかなりいい加減だったその地図が、一気に大きく広がり、そしてかなり精密になったように思います。そして、それを今、日々検証し続けているといってもいいように思います。

 できれば、どんな「地図」からでもいいですから、ある程度勉強されながらいくと、「自分自身」を総合的に把握するためのガイドにはなるのではないでしょうか。

 

 

 

恥を知る


(96/12/24)

 

 孟子にこんな言葉があります。

恥づること無きを之れ恥づれば、恥づること無し

 「恥知らず」というのは、恥を知らないからこそ、「恥知らず」なのであって恥を知れば、既にその人は「恥知らず」ではなくなっています。つまり、真に反省することが「恥を知る」ということなわけです。

 で、なぜ外的な基準に合わせることで、反省した気になって、いつまでも「恥」の何たるかが分からないのかというと、おっしゃるように、「他人の基準に合った「自分」のほうが、人から好かれやすい、という思い込みがあるため」なんですよね。

 「人から好かれたい」という基準というのは、「人間」が「人の間」と書くように、関係性の存在である人間にとっては、そこから脱することはとても難しいことで、悪くすると、カメレオンのようにころころとその色を変えることで自分という存在を安定させようとすることになるのですが、そういうことばかりしていると、自分がいったいどういう存在なのか、ほとんどわからなくなってきます。

 もっとも、多くの人は、最初に刷り込まれた外的な評価基準に染まってしまい一度染まった色を変えることはなかなかできないわけで、その色というか、強固に覆った鎧というかを、自分そのものだと思いこんでそれと一生つきあっていくことになります。

 で、環境の変化などが大きくあって、それにカメレオンできなくなると、その人は、いわば、分裂的なあり方を示すようになります。「人から好かれたい」にも関わらず、かつての「人から好かれる基準」に沿ってしか自分を表現できないので、その表現で外界に対処しようとして、新しい「人から好かれる基準」と矛盾を起こしてしまうわけです。つまり、「そういうものだ」は変化しているのに、自分のなかでつくりあげてしまった「そういうものだ」と相剋してしまう。

 こういうあり方においては、自分という存在は、外界と調和しようが不調和であろうが、外的な基準でできている自動機械のような存在であるといえます。

 しかし、自動機械から脱しようとしても、何が自分なのかわからなくなってしまうと、どうしようもなくなりますので、そのために、自分の中にある現在の外的基準や、かつてあって、今も自分の中に働いている外的基準について、チェックしていくことが必要でそのチェックというのは、すべてに「なぜ」をぶつけることでもあります。

 これは永遠の作業であるともいえますが、そういう「なぜ」を自分に問い続けていこうとする気概こそが、「恥を知る」ということになるのではないでしょうか。

 その「なぜ」を問うという姿勢があると、他の人に対しても、その人がなぜそうなのかを探求する姿勢となって現われます。頭から人のことを決めつけるということは、「なぜ」を問うことではないですからじっくりとその人の「なぜ」を洞察することが必要になります。もっとも、それはとても難しいことで、ついつい「あなたはこういう人だ」というふうに決めつけがちなのですが、それを押し止め、どれだけ相手の「なぜ」に迫っていけるか。そのことも、意識的に努力していかなければならない大きな課題です。

 偽物の自分を自分だと思いこんでしまう恥と偽物の人をその人だと思いこんでしまう恥とその「恥」をどれだけ知ることができるか。それこそが、遠回りではありますが、確実な道なのではないでしょうか。そういえば、こういう作業が「自分を観る」ということだといえそうですね。

 

 

 

「恥」は、耳の心


(96/12/24)

 補足です。

 「恥」は、「耳の心」と書きますね。ですから、やはり、耳を閉ざさずしっかりとひらいて、人の言葉に、自然の言葉に、耳を傾けるというのが大事なのだと思います。

 言葉を代えていえば、この「恥」ということは「虚心坦懐」ということでもありそうですね。

  

 

 

世間様は神様です、という日本^^;


(96/12/27)

 

 「人は僕にこうして欲しいと思っているだろう」と思っているどうしが互いに相手を基準にしようとしているところを想像したら面白いですね^^;。そこに基準がなければ、その基準をどこかからもってくることになるんでしょう。つまり、「世間」という基準を取り出してくるわけです。「世間様に申し訳がない」「世間様は許さない」ということになります。

 もちろん、相手の感じ、考えていること、そして「世間様」の基準についてある程度理解したうえでのことであるのはもちろんですが、やはり、「自分はどうなのか」ということがなければ、なんだか不毛ですよね。

 戦時中のファシズムなんかも、終わってみれば、そういうのが外からやってきてそれに逆らえなかったかのように思うわけですが実の所、多くの方はそういうファシズムそのものの一部として機能してました。つまり、ファシズムという「世間様」にのっかって生きていて、自分をそうした別の働きの乗り物のひとつとして提供していたわけです。昨今は、フェミニズム的な運動のなかで「女性は平和を愛している」的なよくわからない主張なんかもありますが、戦時中は「愛国婦人会」と称して「なぜ戦わないのか」なんて主張していたのですから。今のPTAの集団なんかも、そういうのと似ているように思うんですけどね^^;。もちろん、いつの時代にも流されない方はいて、そういう方はけっこう辛い思いをしながら迫害を受けたりもするわけです。

 「外界と調和してれば、なんとなく「問題なし」みたいな気がしますが、実際には、そやって「外に基準を求める」という姿勢が基盤にある限り、それは一種の自働機械的反応であり、自分不在に変わりはない、ということですね。」ということですが、その通りで、「ファシズム」が外界にあればそれに調和し^^;、「デモクラシー」が外界にあれば調和し、ってことで、そういう方々が集団になって「世間様」を構成していくことになります。

 「なぜ」を問うことは、自分に耳を澄ませ、人に耳を澄ませることですから、自分のしたいことがわからないとかで人に迎合しないということであり、また、人のことがわからずに、エゴの塊にならないということです。でも、先の例のように、すぐに「世間様」に動かされていて、それで自分は責任をとらずにすむ状態にいると、そうではないですよね。そういう状態こそが「恥知らず」な状態なのではないでしょうか。戦時中は戦争を賛美し、戦後はそれが自分とは関係ないかのように、民主主義絶対、戦争放棄を賛美するような。

 「僕の場合、いちばんわかりやすい「自働機械」的行動として、「一人でいるときに何の自制もなくやりたいことやっちゃう」ことが挙げられます。まずは、そのあたりに対していちいち「なぜ」という問いかけをしていこうと思っています。」ということですが、そこで問題になるのは「やりたいことやっちゃう」ことではなくて、「何の自制もなく」ということですよね。つまりは、人が見ていないと、人の目を気にしてできないことをする、と^^;。ま、だれでもそういうところはあるわけですが、人が見ていないとしても、「神は見ている」ということで自制するのが宗教者の立場だといえます。

 けれど、そうではなくて、そこで問うべきは、「一人でいるときに本当にやりたいことをやっているか」なのでしょうね。

 そこに、「自由」ということが関わってきます。

 

 

 

 

いっしょに踊るネタ探しの不毛


(97/01/04)

 

 マスコミが「問題だ!」と言っていることのほとんどが、おっしゃるように、「周りのみんなが“あること”について怒りを表明するのを見ていると、自分もそうしなければいけないような、あるいはもっと自然に、まるで“自分も怒っている”かのような、気持ちになってしまう」とうようなそういう発想のもとに垂れ流されているものですよね。

 喉元過ぎれば熱さを忘れる、というのがありますが、それが喉元=話題の中心にあるときには、そんな気になっていっしょに踊り、それを過ぎて、マスコミがネタから外すとそれを簡単に忘れていきます。

 たとえば、公務員の空出張の問題なども、「空出張」という言葉が昔から使われてきたように、これは「公然の秘密」だったわけですが、これが喉元=話題の中心に来たものだから、大騒ぎを始める。「問題」は最初からあって、それが不正だということは誰でも知っているけど、それを「問題」として提示されないと、「そんなものだ」で処理されてしまっているわけです。で、そうしたことも、少し経てば、マスコミは新たなネタを探してハイエナのように嗅ぎ回り、新しいネタを見つけると、「大衆」は、そのネタに群がって踊り始めていきます。なんだか、そういうのの繰り返しなんですよね。

 何事にせよ、自分から切実に問い直していく姿勢なしでは、多かれ少なかれ、そうしたいっしょに踊るためのネタを探しているだけにすぎず、そうしたことの連鎖だけが人生を形成していくことになります。つまり、すべてが「暇つぶし」であり、その集積が自分だということ。

 お正月でいうと、初詣なんていうのがありますよね。お賽銭を入れてお願いをしている方に、「神様を信じますか」なんて聞いてみてもまずはまともな答えなど返ってくることは稀でしょうし、信仰心を持っていると自称してる方にしても、「あなたは御利益主義者なのか」と問いかければ、悪くすれば怒りしか返ってこないのではないかと思います。

 「なぜ初詣に行くのか」といえば、「そういうものだから」とか「毎年そうしている」「願い事があるから」くらいの感覚で、極論をいえば、マスコミに踊っているのと現象的にはそう大差ないわけです。

 「僕はなんとなく「人の気持ちはわかるけど、自分の感じてること・考えてることがわからない」と思っていましたが、実際には自分のことも人のことも、わかってないんだろうなあ、と思いました。」ということですが、実際、そこらへんから常に出発する必要があるんでしょうね。「自分は自分がどうしたいのかほんとうにわかっているのか」「人のことをどれだけわかっているのだろうか」と。それを問い始めると、かなり途方に暮れてしまうわけですが^^;、そこらへんを避けて通ることはできないんですよね。分かった気になってホイホイやってしまっても、進歩がない。地盤のゆるいところに建物を建てるようなもので、揺れたらすぐに壊れてしまう。

 「自分はわかった気になってはいないだろうか」「自分はもうそこらへんは卒業した、なんていい気になってはいないだろうか」そうした自問は永遠に続いていくもののような気がします。親鸞の悪人正機説の「自らの悪の自覚」というテーマのように、「自分は何も分かっていないことだけはわかっている」という原点を忘れないようにしたいものですね。これはソクラテスの「無知の知」のテーマと同じように思います。

 「「本当にやりたいこと」ならば、やっちゃうこと自体に問題はないですよね。「やって後で後悔するようなこと」を「自制もなく」やっちゃうから、問題なんだなあ。」ということですが、問題は「責任」がとれるかとれないかということなんだと思います。「本当にやりたいこと」であれば、その結果がどうあろうと、自分で責任を負おうという気概はでてくるのだと思うのですが、わけわかんないうちにやってしまうと、それに責任を負うといっても、それに対応するものが自分のなかにないものだから、いくら後悔しても、それはまさにただの悔やみにしかならず、そこから何かを展開していく可能性は少ないのではないでしょうか。

 

 

 

 

反省できない人は権利だけを主張する


(97/01/08)

 

 「自分が本当にどうしたいのか」を知ることはほんとうに大変なことですけど、「自由」を獲得するには苦難が大きいわけです^^;。今回の「いか超から学ぶ18」も、がねっしゅさんの「シュタイナー教育論」も同じく、外的な規準を排し、自らが「由」を創造するということがテーマですが、「評価がほしい」「ほめてほしい」「認めてほしい」「安心したい」「居着きたい」とかいう状態からみずからを引き離すことが大前提になりますし、従って外にはどこにも頼るものなどないのですから、これは厳しいです。

 仏教なんかで、「無我」を説いたり、偽我を去るとかいうのも、本来は、自分が自分だと思いこんでいる偽我が「執着」に沿って、あれが欲しい、これが欲しくない、あれがしたい、これはしたくない・・・とかいっているような状態を脱するためのものなのだと思います。

 「虎」は、油断をするとすぐ「自分」になりすまして、外的ななんらかのものに依存したような状態の自分を肯定しようとします。その偽装はいわば何重にも巧妙に張り巡らされていますので、注意が必要です。肝心なのは、「虎」は利用すべき乗り物であって、運転手ではないことをきちんと認識し、その違いに注意深くあることなのだと思います。

 「自分がやろうとしていることが、「自分の本当の本意でやりたいこと」なのかどうかはわからないにしても、最低限「自分はこういう理由でこうしようと思う」という自己確認は、常にとっておくことって大切ですね。」ということですが、そうすることができてはじめて、自分のやっていることに対しての「責任」が明確になり、またそれに対して、正しく「反省」という行為ができるわけです。

 その反対に、自分が「なぜ」そういうことをしているのかわからず、ただその都度の衝動のままに流されてやってしまっているとしたら、そういう在り方では、「責任」をとれる人格が存在していませんから^^;、何を「反省」していいかわからないのです。けれど、そういう方にかぎって、「権利」を「主張」しようとするのだからまったくもって困ったものです^^;。

 「動機(原因)となるものがわからない限り、そしてそれを自ら書き換えない限り、問題行動のほうは、一つ抑えても、手を変え品を変えして、次々と表面化してしまいますものね」ということですが、その通りで、「反省」する主体が存在しないまま、「虎」が御者に居座っているのですから、それが気弱な虎ならば、「へい、こんどはこっちに行きましょうか」と言い気の荒い虎ならば、「やかましい、文句あるんだったら勝負しろ」となります^^;。

  

 

 

因果応報


(97/01/11)

 

 「因果応報」という言葉がありますけど、これは、プラス、マイナスに関係なくあるわけで、「自分が与えた分だけ返ってくる」ということです。つまり、自分で責任をとることのできた分だけ権利が発生することになります。権利だけほしいと思って、責任はないと思いこもうとしても、自分が行ったことに対してはかならず責任はついてまわるわけです。

 ですから、頼ったら、自分でやったことになりませんから、その人はいつまでも何もしないことになる、どころか、頼るという行動をしたぶんだけ、その反作用を受けることになります。つまり、依存的になればなるだけ、主体を奪われ、人格をなくしてしまうことになります。「人でなし」になってしまうわけです^^;。

 「「自分は誰かに頼りたいと思っているのか?」という自問よりも、「現実に人に頼るなんてことができるのかどうか?」という問いに対する答えを現実に見出すほうが大切なのかもしれない、とも思いました。」ということですが、「頼る」ということがどういうことなのか、またそれはいったいどういう結果を生じさせていくのか、ということのほうをきちんと見ていくということが大事なのだと思います。「頼るものがない現実は厳しいから、見たくない」ということの結果は、その人から「現実」がなくなってしまうということですから、その人は、妄想を生きることになり、やがて消滅してしまいます^^;。

 「「内省する自分」こそは、何者にも依存しない本来の自分だろう、と思っていると、そうでもないです。」ということですが、おっしゃるように、「外部に依存した内省」というのは多いですよね。誰かに何か言われて、「反省します」というのは、その典型です。そういうのは、それによって、依存心を高めているにすぎません。それは、単なるリアクションであって、意識がリフレクションしているわけでない。ベルをならしたら犬に餌をやることにしてそれを繰り返したら、ベルをならしただけで涎をたらすようになるという類の作用−反作用という条件付けの実験なんかがありますけど、そういうこと^^;。

 それが強固になると、「洗脳」といわれます。始末に負えないのが、それは自分で自分に暗示をかける洗脳ですから、自分がそれを解こうとしないかぎりは、決してとけはしません。そういうのを、「マーヤ」というわけです。

 意志というのは、いきなりつくものではなく、やだな、やだな・・・と思いながらも、それを超える決意から、毎日毎日繰り返してはじめて、育ってくるものであるといえそうです。「いか超」なんかであれこれ言ってるのも、気長にあきらめずにがんばるしか認識を高める方法はないんだ、ということなのですから。

 しかし、世の中では、「なぜ」を問いかけることに対して、冷たいどころか、敵意さえ返ってきますから、よけい辛いことです。悪くすると、魔女狩りの犠牲者のようになってしまいかねません^^;。「せっかく、みんななかよくやってるのに、それに水を差すようなことはやめろ!」というわけです。

 もちろん、大したことでなければ、穏便にするのが得策ですけど、ときには、決して譲れない部分というのはありますから、そこらへんがとてもつらいところですよね。ま、あとは時の運っていうことでしょうか^^;。


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