自我・自己をめぐる考察5


ルツィフェル存在への理解など

自我と個という器

ニンジン主義からの自由な旅立ち

ルーミー語録から、など

魂の様態など

感受魂・悟性魂・意識魂

感情の質と量など

 

 

ルツィフェル存在への理解など


(96/07/22)

 

 今、ここで読書会をやってる「いか超」に書かれている最初のテーマである「内的平静」というのも、まずは自分だと思いこんでいるものをちゃんと観ていきながら、そのなかで高次の自我を顕現させていこうというものです。

 ですから、感情に溺れている自分、怒り狂っている自分・・・などなどをそれこそが自分だとしか思えないということは、「自己認識する」「自分」がどこにも見つけられないということになります。もちろん、それが存在しないというのではなくて、働いていないということですから、人生には、それを働かせるためにもさまざまな困難が襲いかかってきたりします(^^;)。

 でも、そのことで、よけいに高次の自我が機能不全になってしまうこともあるわけでま、悲惨というか、面白いというか、なんというか(^^;)。

 ぼくも、高次の自我はかなり機能不全ですから、いろんなことがあるわけですが(^^;)、

 少なくとも最近では、なにか大変なことがあっても、それを「何を自分に気づかせようとしているのか」という視点で、気を取り直して観てみる訓練をしようと思うことだけはできるようになりました。もちろん、右往左往していることのほうが、ずっと多いわけですが(^^;)。

 さて、ルシファー存在についてですが、ルシファーは本来「光をもたらす者」ですが、その存在のなかには、通常、悪の代表のようにいわれる「人間の誘惑者」である存在もあって、人間に自由の可能性を与えると同時に「悪」の可能性を注ぎ込みます。

 しかし、本来のルシファー存在は、キリストとの関係で理解する必要があります。それについては、なかなか説明しがたいところがあるのですが、とりあえずシュタイナーが「西洋の光の中の東洋」(創林社)で次のように述べているのをご紹介しておくことにします。 

かつて、宇宙的な神キリストと内的な神ルツィフェルが並んで存在していました。キリストは上位の領域に存し、ルツィフェルは下位の領域に存しました。そして時代が下ると、ディオニュソス、ルツィフェルについての知が消えてゆきました。キリストは地球に近づき、魂を貫いていきました。今、再びルツィフェルは可視的になり、認識できるようになりました。キリストとルツィフェルという二柱の神霊存在は、二つの異なった側から地球に近づいてきました。キリストと共に十字架にかかったとき、ルツィフェルは不可視の存在になりました。キリストの光とは違った光をルツィフェルは放ちました。かつてはキリストは宇宙存在であり、ルツィフェルは人間の内面の存在でした。二つの道が交差します。キリストは人間の魂の中に入っていきます。キリストは地球の霊となり、人間の魂の中で神秘的キリストとなります。この神秘的キリストを、人間は内的体験を通して、深め認識するのです。このことを通して、魂は、逆に内から外に向かっていった存在を見ることができるようになります。下方の世界へと導く秘儀の中で探求された人間の内面の神、純粋に地上的な存在ルツィフェルは、宇宙的な神になるのです。感覚界を通して見るとき、ルツィフェルは外界で輝いています。昔とは逆になったのです。昔は内的な魂の世界のヴェールの背後にルツィフェル、外的な感覚界の背後にキリストが見られました。これからは、自分の本質に沈潜することを通して、キリストを認識することができます。そして、まなざしを外なる宇宙領域に向けるとき、ルツィフェルが見いだされます。

人間の進化の過程の中で、人間の認識のあり方がまったく変わったのです。キリストは地上的な神から宇宙的な神になりました。感覚界のヴェールの背後に隠された霊界へと上昇してゆこうとするなら、感覚界の事物を貫いて霊界へと貫き入らねばなりません。「光を担う者」によって、光を担わせられねばなりません。ルツィフェルの国から流れてくる諸力からこの能力を形成しなければ、この能力は人間には生じません。ルツィフェル原理を通してインスピレーションへと上昇しなければ、人類は唯物論の中に沈んで、物質界がすべてであるという信仰にこり固まってしまいます。キリスト原理は私たちの内面を強いものにします。ルツィフェル原理は世界に突き進む能力を形成します。ルツィフェルは私たちの宇宙認識を強め、キリストは私たちの内面を強めます。(P131-132)

  つまり、人はみずからを観ることで、キリストを見いだす可能性を持ち、また、真に宇宙を観ることで、ルツィフェルを見いだす可能性を持ったわけです。しかし、内面を見つめるときには、誘惑者としてのルツィフェルが働き、いわゆる「執着」に応じた歪みによって混乱させられる可能性がありますし、また外界を見つめるときには、物質や感覚のマーヤによって、その真の霊性の認識が遮られる危険性とともにあります。

 ですから、人は真に自分を観ることと、真に外界を観ること、つまり、内なるキリストを見いだすとともに、光としてのルツィフェルを見いださなければならないということがいえます。

 さて、「思考と感情と意志」のつながりが切り離されて、それぞれが独立するというあたりのことが、容易に誤解されやすいのですが、魂の力を育てないままに、思考、意志、感情を切り放してしまうと、これは、操縦不能になった車のようになってしまうので、とても危険です。ですから、ともかくまず大事なのは、魂が思考、意志、感情を支配できるようにするということで、そのことで高次の自我に「確かさと均衡」を刻印し、「強さと内的な拠り所」を与えなくてはなりません。そのための基本的な魂の修行が求められるということです。

 シュタイナーによれば、次の5つの特性を、規則正しいやり方で自分のものにしなければならないといいます。 

・思考経過の支配

・意志衝動の支配

・快と苦に対する平静

・世界判断にあたっての積極性

・人生理解におけるとらわれのなさ

 ここらへんを説明すると長くなりますので今回は省略しますが^^;、ともかく、魂はこうした特性を身につけなければ、思考、感情、意志を暴走させてしまいかねない。つまり、暴れ馬を制御できる能力を身につけた上でしか、高次の自我を育てる次の段階に進めないということがいえるわけです。

 で、少しだけ言っておきますと、いわゆる人格の統合は、通常の物質的、感覚的世界では、思考、感情、意志の統一的な共同が自ずと成立する傾向にあるわけですが、そうした修行の過程において、そういう統一性が失われ、高次の自我によって、思考、感情、意志を結合させなければならなくなるのだといいます。だからこそ、そういう状態になるまでに、高次の自我を健全な形で、強く育てていなければとんでもないことになるというわけです。

 ここらへんのことは、ぼくとしても、あまり明確ではなく、理解はできるけれど、体験的にはよくわからないところなのですが、ともかく、高次の自我を目覚めさせそれを育てていくためには、いったいどういうプロセスが必要なのかを十分に理解しておく必要があるのだと思っているわけです。

 ですから、まずは、思考や感情や意志を暴走させないだけの魂の力をどうすれば強くすることができるかを理解し、それを確かなものにしていくことが必要だというわけです。

 そこらへんのことを、「いか超」の読書会で気長にやっていこうとしていますのでそちらも参考にしていただければと思います。

 

 

 

自我と個という器


(96/07/27)

 

 かつては自我が肉体のなかにまで浸透してなくて、鳥が編隊を組むように、魚が大群となって泳ぐように、民族全体の自我の原理として働いていたのに対して、現代では、自我が「個」として、肉体の中から働いているということだと思います。 

 しかし、そうした集合魂的なあり方が現在はなくなっているのではなくて、それはやはり高次のレベルにおいて働いているのも確かのようです。現代の課題としては、あくまでも「個」として地上に足を踏みしめながら、そのうえで、その集合魂としての民族魂の役割を認識することだと思います。

 また、そうした民族魂のレベルより高次なものとして、時代の精神の潮流をつくりだしていくような時代霊という存在もいるようで、そうした存在の役割についても意識化していくことが重要だともいえます。

 とはいっても、あくまでも現代は、個としてのあり方から出発したうえで、そうした高次の存在を認識する方向にいくべきであって、その逆ではないということを忘れないようにしたいですね。

 おそらく、仏教が伝来するまでの日本人というのは、まさに高次の自我に統べられていたような集団化したあり方だったのが、仏教によって、個の顕現を衝動づけられてきたのではないかと思います。しかし、その個の衝動というのは、低次の自我の暴走も招きますから、いわゆる「仏魔が渡ってきた」というようにもいわれるわけでしょう^^;。

 ぼくの印象からいうと、神道系の神々というのは、そういう仏教的なあり方が持ち込んだ自我衝動というのを決して快く受け容れたわけではなくて、むしろ拒否的なところがあるように思います。

 「私が、私が・・・」という「我」ということを穢れとして見ていたのだと。けれど、そういう衝動がなければ、未来を開くための衝動がそそぎ込めなくて、この日本はいつまでも古代的なあり方のままに保存されているような、高次の様態はとりながらも、逆行型のあり方を続けていたのだと思います。

 そういう意味で、かなり旗色の悪い藤原不比等だとかいう方々も、そうした自我の成長に大きな役割をもっていたのではないだろうか、とぼくはそういう視点で古代史をとらえていたりもします。実は、ぼくは、この藤原不比等ってけっこう好きだったりします(^^)。

 さて、かつては「一億総火の玉」でも、かなり高次の働きの顕現といったところがあったように思うのですが、今は集団化しやすいところだけが残って、そうした高次の働きかけがないというか、ボケててわからなくなったというか、そんな時代になってきているのではないかと思います。

 ですから、最初にお話したように、現代は自我を個として自覚するあり方からはじめて、そのうえで、民族魂や時代霊の語りかけに耳をすますことのできるようなそんな方向にいく必要があるのだと思うのです。

 「個の器」ということについてですが、低次の自我は素材の粘土で、それをしっかりこねて、適度な水分を加えながら、また適度な他の成分も混ぜながら、ろくろを回し器をつくりあげ、さらに、さまざまな試練の火で、しっかり焼き上げていって初めて、「器」が誕生するのだと思うのです。低い温度では、丈夫な硬質の器は焼上がりません。その意味でも、人生の中で出会う「試練の火」に立ち向かう勇気こそがその火を生かしていく剣なのではないでしょうか。

 日本人の「血」は、西欧において育まれた血とはまた違った「器」なんだと思います。しかし、その器は、個としての自立あっての器ですから、そうでなければ、その血を未来創造的に生かすことは難しいのではないでしょうか。

 

  

 

ニンジン主義からの自由な旅立ち


(96/07/29)

 

 「外的な規範」に従って生きることは、辛い側面もあるけれど、その「規範」を自分でつくりだすことに対しては怠惰でいられます。それは、結局、外的評価を自らの基準にして、それが満たされることを目標とすることであって、目の前にニンジンをぶら下げて駆けていく「ニンジン主義」なんですよね。

 その「ニンジン主義」は、通常の社会ではすごく有利にできていて、かなり有能でいることが保証されているともいえます。けれど、そうした共同幻想が崩れかけてくると、どこにも目標が見いだせないような悲惨な状態になってしまいます。だれかに「ぼくのニンジンをください」といってもだれもあげられなくなる^^;。

 そういえば、昨日、オリンピックで有森選手が銅メダルをとりましたが、有森選手はバルセロナで銀メダルをとった後、目標を失ってしまって、かなり苦しい状態が続いたそうですよね。一度目標を見失った後で、ああして立ち上がってくる強さというのは、まさに「自由」を獲得した強さなのではないかと感じました。もっとも、マスコミのあの過剰演出には辟易しましたけど^^;。

 さて、「私」「第二の自己」等に関してですが、「私」というのは、こうして日常的に「私」であると意識しているあり方の奥に、もっと高次の「私」という存在があり、またさらに、もっと奥には、さらにもっと高次の「私」という存在があるという感じです。そして、高次の私さえあればいいかというとそうではなくて、こうして低次の現われをである「私」があることが、こうして肉体をもって生まれてきている意味であるというわけです。ですから、そうした「私」の多次元的な現われをまるごととらえながら、それぞれの「私」の意味やその関係性を理解していくのが、「中道」であるといえます。

 また、善と悪に関してですが、悪役がいるからこそ、善玉が引き立つわけですから、それはそれでその悪役の意味をちゃんと理解しないと、ただただ「どっちが正しいか」というだけの皮相な見方しかできなくなります。それだと、見方をただ逆転したがけという「賛成の反対」でしかありません。

 かつて征服された民族があって、征服民族が歴史をねじ曲げたということがあれこれと批判されることも最近はよくありますが、それも、ただ「本来の正当民族は○○だ」という議論に終始したところでそれはただ価値を逆転させた発想でしかないわけです。そうではなくて、その意味を深く見つめていくことのなかに、深いところにある「なぜ」が輝きだしてくるのではないでしょうか。

 

  

 

ルーミー語録から、など


(96/07/29)

 

 外界をとらえるためには、五感が必要です。その五感を使って、外界を真に呼吸する必要があるということです。そこに光の叡智が輝きだしているからです。

 ですから、その五感を欲などのフィルターで汚すことなく、外界をできるだけ純粋に受け取れるようにする必要があります。

 そのテーマのひとつが「四大霊の解放」です。外界にある「物」は、ただの「物」なのではなく、霊的存在たちの「供犠」によって現象している姿だといえます。ですから、その「物」の真の姿を深く認識しながら、それに感謝し、その「物」たちを「解放」していく必要があるということです。

 日本では、叡智の名残として、「物」を含めた森羅万象に対して、「○○供養」ということをする伝統がありますが、これもそのひとつです。茶道などで「器」を愛でるとか、花を愛でるなどというのも同じです。

 それに対して、内なるキリストを働かせるということは、早い話が「ニンジン主義」を去って、己の内なる自由を獲得するということです。「そういうものだからそうする」「外的評価がほしいからそうする」ではなくてみずからの自由意志によってそうするということです。そのために、「高次の自我」を顕現させる必要があるというわけです。そうでないと、低次の自我が「私はこうしたい」ということで、「虎」が騒いでるだけということになってしまいますから。

 ちゃんとしたセンターがないと、ただ人格が崩壊しているだけということになります。ですから、低次の自我であっても、ただただそれを滅するというのでは、百害あって一利なしということになります。オウムさんのようなああした修行の危険性ということはそこにあるわけです。しかし、中沢新一氏などのチベット密教派などはそこらへんがわからないままに、「修行すること」そのものをありがたがっているようなところがあります^^;。大事なのは、高次の自我をきちんと顕現させていくということなのですから。

 肉体をもってこうして生きている以上は、肉体のなかで顕現している自我のあり方を通じ、それが橋渡しする形で高次の自我の「確かさと均衡」や「強さと内的な拠り所」を育てていかなければならないということです。肉体をもっている状態では、あくまでも高次の自我は「種」のようなものです。その種を発芽させ花を咲かせ稔らせるのも、また腐らせるのも、それこそが自由だということです。

 そこらへんに関連したイスラム教のルーミーのこんな話があります。以下、ルーミー語録(井筒俊彦訳/岩波書店)からの引用です。 

外面的形式でも、それはそれなりの重要性を持つもの。ましてや、それが内面的な実質と深く結びついているものであってみれば、ただの形式などというものではありません。内核がなければ何事も成りませんが、しかし外殻がなくともまた事は成りません。種を地に播くに、外皮を剥ぎとって播けば芽を出しません。外皮をつけたままで地に埋めてこそ芽を出し、やがては見上げるばかりの大樹にもなります。

この点からすれば(我々にとって、精神だけでなく)肉体もまた大変に重要な、なくてはならぬ根元であって、肉体がなければ何事も成就せず、目的は到達されません。いやいや、(外面的な形)という根元は、精神のなんたるかを知り、自ら精神と化した人の目から見れば、これまた精神的実質を持ったものなのです。(P33)

  

 

 

魂の様態など


(96/08/29)

 

 日常的な意味での自我は、すべて、いわゆる「低次の自我」のようですね。ですから、暴走しているようなときだと、低次の自我というよりも、ほとんど感情に支配されている自我といったほうがいいのではないでしょうか。感情をどれだけ制御しているかで、その自我のあり方が違うということだと思います。

 そういうのを、魂のあり方というふうにとらえるのでもいいかなと思います。通常の自我の働きを、シュタイナーは、魂のあり方として、感受魂、悟性魂、意識魂というふうにわけてとらえているようです。

 ある対象を知覚し、その後で対象から離れたときに、その対象の表象をよみがえらせるというような魂を感受魂、また、さらに対象から離れたかたちで働く魂を悟性魂ということができます。それに対して、自我の本性に近いかたちで働く魂を意識魂といます。これについては、少しだけ、シュタイナーの「神秘学概論」(イザラ書房)から少し長くなりますが、参考までに引用紹介させていただくことにします。

意識魂のなかで、「自我」の真の本性ははじめてあらわになる。心魂が感受や悟性においてほかのものに夢中になっているときも、心魂は意識魂としてみずからの本質を把握している。だから、この「自我」は、内的活動にほかならない意識魂をとおして知覚されることができる。外的な対象の表象は、その対象がどのように現われ、消え去るかに応じて形成される。そして、この表象は悟性のなかで、みずからの力をとおしてさらに作用する。しかし、「自我」がみずからを知覚するべきなら、自我はたんになにかに没頭することはできない。自我についての意識を持つためには、内的な活動をとおしてその本質をみずからの深みから取り出してこなければならない。「自我」の知覚とともに、自省とともに、「自我」の内的活動がはじまる。この活動を通じて、意識魂のなかにおける自我の知覚は人間にとって、三つの体(肉体、エーテル体、アストラル体/KAZE注)やほかの二つの魂の構成要素をとおして観察されるものとは、まったく別の意味を持つ。意識魂のなかで自我が開示する力は、世界のなかに現われる力と同じものである。ただ、その力は身体のなかや低次の心魂の構成要素のなかには直接現われず、その作用の中に段階的に現われる。もっとも低次の現われは、物質体をとおしての現われである。ついで、段階的に上昇し、悟性魂を満たしているものにまでいたる。

一段上昇するごとに、隠されたものを覆っているヴェールが一枚づつ剥がれていく、ということができるだろう。意識魂を満たしているもののなかで、この隠されたものは、覆いなしに、もっとも内なる心魂の神殿のなかに歩み入る。とはいえ、そこで示されるのは、すべてを貫く霊性の海から取った一滴のしずくのようなものにすぎない。しかし、人間はまずここで、その霊性を認識しなければならない。そうすれば、人間はその霊性を、それが開示されているところにおいても見出すことができる。

一滴のしずくのように意識魂のなかに入ってくるものを、神秘学は精神(霊)と呼んでいる。(P71-72)

 大事なのは、自分の魂のそのつどの働きに対して、それを統御できるような自我の働きを強めていくということだと思います。「適材適所」ができるためには、それをディレクションできる存在が要りますから。でないと、パーツとパーツがバラバラ事件を起こしてしまいますよね。

 「低次の自我にしろ高次の自我にしろ、いずれか片っぽに肩入れしてそれでよしとするのではなく、また二つの価値観をごちゃ混ぜにするのでもなく、双方を知り、双方を実践することによって、その次のステージに進む道が見えてくる、という感じでしょうか」ということですが、それは、以前、「中道論」でもくわしくお話したことのある「空」「仮」「中」とその三つのあり方の「円融」ということでもあります。わかりやすくいえば、こういうことです。

 この世、つまり「此岸」に生きている以上、この「此岸」において、逃避的にならずそこにおいてせいいっぱい生きていかなければならないけれど、「此岸」はあくまで「此岸」であって、その世界だけに浸っていてはいけない。魂の故郷、本来の世界でもある「彼岸」のことを忘れてはならず、その世界についての認識を深めていかなければならない。けれど、本来の世界とはいいながら、肉体をもって「此岸」にいることの意味を決して等閑にすることがあってはならない。だから、その「空」なるものとしての「彼岸」にもとらわれず、また「仮」なるものとしての「此岸」にもとらわれず、それらを統合したあり方としての「中」に生きなければならない。つまり、生き方の姿勢として、「空」「仮」「中」という三つがあるわけだが、それらの姿勢を最大限に活用した生き方をする必要がある。

 本音が大事だとばかり、自分の感じたことや考えたことなどを、そのままぶちまけるようなことは、やはり、糞便を浄化しないままに、そのままぶちまけるようなものでしょう^^;。糞便は浄化して流すという発想も必要ですし、それを有機肥料として役立てるという発想もさらに必要です。

 そういう、言ってみれば、内的なあり方をどのように変容させる「関数」を自分のなかで育てられるかということが極めて重要だということがわかります。そうしてはじめて、形式と内容が発展的な調和をつくりだすことができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

感受魂・悟性魂・意識魂


(96/09/19)

 

 同じ刃物でも、その使い方によって凶器にもなり、便利なツールにもなる、というのと同じですよね。その刃物を正しく使うことは、「制御」であって、「抑圧」ではないということ。もし、刃物を持ってたらなんでもかでも目的を問わず使うのがそれを「抑圧」しないでいいということだったら、大変です^^;。

 なんでもそうなのですが、ちゃんと使い方を覚えて、危険な使い方などを避けることというのは、大前提だと思うんです。めちゃくちゃな使い方をすると、その使われた相手にとって迷惑ですし、また、使ったものそのものも、刃こぼれしたりしてこわれてしまいかねません。ですから、「感情」を「制御」しないということこそ、問題なわけです。

 もちろん、最初から感情をうまく制御できる人はまずいないですから、そのための試行錯誤というのはそれなりにでてくるわけですけど、その試行錯誤の方法については、やはりなんでもいいというわけではない^^;。どちらにせよ、少しずつでも、感情の使い方を学びながら、それを最大限に有効に活用できるように方向づけることが大切だと思います。

 「感受魂」「悟性魂」「意識魂」に関してですが、魂ですから、物質的なイメージはとりあえずなくしてくださればと思います。しかし、魂の働きというのは、なかなか理解されにくいようですね。わかりやすくイメージできるように、ごくごく単純化して説明してみます。

 たとえば、目の前に花が咲いていたとしましょうか。花を見ているというのは、直接的な「知覚」です。

 それに対して、目の前から花を取り去っても、ふつうはその花を思い描くことはできますね。それを「表象」というふうにいいます。きわめて単純化していうと、この表象能力というのが、「感受魂」です。もちろん、この「感受魂」は、「知覚」にともなっても働いています。

 さらに、その「花」というのを具体的な対象物としてではなく、「花」という概念としてとらえることのできる魂の働きを「悟性魂」といいます。通常いわれる知性とかいうのは、ほとんど、この「悟性魂」のことです。学校で勉強していることのほとんどというのは、この「悟性魂」で、いわゆる「頭のいい人」といわれるのは、この悟性魂的な方です。

 さらに、その「花」についての知覚、表象、概念化などの魂の働きそのものを反省する働きとしてあらわれるのが「意識魂」だということができます。「反省」というのは、意識の反射ということです。ですから、通常の魂のあり方そのものに対する働きということになります。もちろん、それだけではないのですが、わかりやすい部分をいうとこうなります。つまり、「自分はこう感じ、考えている」という魂の働きに対して「なぜ自分はそのように感じ、考えているのか」という意識的な魂の働きが「意識魂」ということがいえるのではないかと思います。

 大事なのは、自分の魂のそのつどの働きに対して、それを統御できるような自我の働きを強めていくということですから、「意識魂」が重要になります。「意識魂」を発達させないと、自分が「なぜ」そう感じ、考え、行動しているのかということをほとんど問わないですませてしまうわけです。

 さきの感情の制御という話とも関係してくるのですが、自分が「なぜそう感じるのか」という反省的な意識がないと、自分の「意志」や「意図」というのは、無意識的なところで、暴走したままになってしまいます。

 「ぼくはこの人がどうしても好きになれない。けれど、どうしてぼくはそう感じてしまうのだろう。この人との過去にあった何かが原因しているのだろうか。それとも、この人に似た人のことを思い出すからだろうか。」こうした意識で自らの感情や意志の根源にあるものを問いかけることで、はちゃめちゃに感情に溺れたり、わけのわからない行動に駆り立てられることなどはかなり制御されてくるのではないでしょうか。

 世界はマーヤである、この肉体もマーヤである。そんなことがいわれたりもしますが、マーヤなのは、世界でも肉体でもなく、それに対する認識のあり方がマーヤであるということなのではないでしょうか。肉体だけが自分だというとらえ方は間違いのもとですけど、その肉体をただの道具のように見てしまうとらえ方もまた大きな錯誤ではないでしょうか。肉体は肉体として、叡智の結晶でもあります。そしてその叡智の結晶をどのように生かすのがいいのかをトータルな意味でみていくことが必要なのではないかと思います。

 

  

 

感情の質と量など


(96/09/25)

 

 感情を制御することについてですが、その場合、大事なことがあります。感情を抑圧することと制御することを混同しないというのはもちろんですが、それ以前に、感情の質と量とでもいうか、そこらへんが貧困にならないようにしていく必要があるのではないかと思うのです。感情を育てず貧困なままでそれを制御しても何にもならないからです。

 「煩悩即菩提」というのがありますが、煩悩のエネルギーが巨大であれば、それを制御することは困難ですが、だからこそそれを制御して有効に活用することができるわけです。自転車とバイクと自動車、飛行機、ロケットの違いのようなものでしょうか。

 このたとえでいきますと、量だけではなく質が大事ということについては、いくらロケットがパワーがあっていいといって、それを制御できたとしても、そこにはなかなか細やかさがないですから、ロケットのようなパワーをもちながらしかも、るんるんるん……と自転車のような速度でも歩めたりするような、そんな質の部分も必要だということがいえると思います。

 これは感情にだけいえるのではなくて、感覚や思考、意志などについても、その質と量、そしてその制御能力というのが重要になってきます。そして、それらのトータルな力として、「魂」の成長があるように思います。得意、不得意分野というのはあって、トータルな育成というのは非常に難しいと思いますが、あまりのアンバランスはやはりまずいと思うんです。

 「「自分の本意」と「感情」を切り分けて見ることが、「感情の使い方」を学ぶ第一歩なのかも」ということですが、そこらへんは難しいですね。「自分の本意」と「感情」は「離して客観的に見る」というのは、こうして肉体を持って個として生きている以上、ちょっと無理かもしれないからです。例えば、自分の右手を自分と「離して客観的に見る」ようなもので、ちょっと考えればできそうだとしても、右手に傷を付ければ傷みますし、その傷んだ状態で、自分の右手だけを切り離してとらえられるかということです。

 もちろん、だからといって、それを制御できないものだととらえるわけではなく、自分の右手になんらかのスキルを修得させるように、自分の重要な部分として有効活用していくという発想が必要なのではないでしょうか。

 ですから、「自分の本意」と「感情」とを「不二」としてとらえられるようにしていくという方向が望ましいように思うのです。それを「離して客観的に見る」ことができるとか思いこみすぎると、それはそれでまた別の問題がそこに浮かび上がってくるかもしれませんから。

 ちなみに、「自分の本意」と「感情」とを「不二」としてとらえるという方向性はシュタイナーでいえば、「道徳的ファンタジー」とでもいえると思います。それは、自らの自由意志によって内的倫理を育てるということです。それは決して、外から「〜しなさい」と押しつけるのではなく、内から「〜しよう」という意志がわき上がってくるということなわけです。

 「たぶん「好き、嫌い」「憎い、愛しい」「嬉しい、悲しい」「悔しい、誇らしい」という対になっている感情は、それぞれ同じ源から発しているんだと思います」ということですが、快と不快が同じライン上にあるようなもので、感情は常に両極をもっているように思います。それは磁石のS極とN極のようなもので、S極だけにしようと思って片方の端を切り捨てても、無意味なのといっしょです。

 そういう「切り捨てる」という発想ではなく、最初にお話した、感情の質量ともに充実させる方向でいくことが必要なのだと思います。

 「精神は精神として、感情は感情として、肉体は肉体として、それぞれきちんとメンテナンスしつつ、魂の向上に役立てていけるようになりたいと思います」ということですが、あとは、それらの関係性をきちんと組み立てるということだと思います。ひとつひとつのハードとソフトがきちんと動いても、全体としてわけのわからないなシステムになってしまうことも往々にしてありますから。


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